主日礼拝

HOME | 礼拝&集会案内 | 主日礼拝


主日礼拝

2024.04.14
「神は真実なお方です」創世記22章1~14節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 ★1節「アブラハムよ」という神の呼びかけと、アブラハムの「はい」という応答は、神とアブラハムとの関係の根底を探り、そこを確り整える、そんな物語の始まりを予告しています。私たちもここを読んで、「わたしと神さま」の関係の根底部分はどうなっているのか、探られます。そして、そこを神に確り整えていただきましょう。
 
 ★2節の神の命令は、念願の子イサクを与えられたアブラハムにとって、余りにも唐突で、何の準備もなく、予想外のことでした。私たちも、同じようなことを人生で体験します。その時に、悲しみ、苦しみ、悩み、嘆き、落胆が、アブラハムにも襲いました。しかし、聖書はその事に一切触れません。いきなり34節「次の朝早く、アブラハムは、ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた・・・」と、淡々と事を進めるアブラハムの姿を綴ります。
 
妻のサラ、二人の若者、イサク、彼らに対して今回の神の命令を、どのように話したのかも、分かりません。三日の道程の間、どんな会話をしたのかも、分かりません。丁度映画でカメラが、アブラハムの周りのものを全てぼやかせて、彼だけに焦点を合わせる、そのような表現となっています。
 
 ★さて神が命じる焼き尽くす献げ物とは、今までに一回だけ出て来ました。創世記820節で、ノアの家族が無事箱舟から出た時に献げられました。その時の焼肉の香りは主が嗅がれる宥めの香りの献げ物となりました。
 
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と以前言われた神と、こうして生き残った私たちとの関係の根底部分はどうなっているのだろうか。今、神はどう思われているのだろうか。
 
この献げ物には「神さま、これから再出発する人間を、これからも憐れみ顧みたまえ」との祈りが込められていました。そして、神からその答えが返って来ました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい・・・」。
 
 ★5節「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」8節「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。このアブラハムの言葉を繰り返し読むとき、彼が一つのことだけに注目しているのに気付かされます。「神は真実な方です。」という一点です。この神に集中しています。私達も試練を受けます。そのとき私たちも色々と心騒ぐと思います。しかし問題は何か。
 
 コリントの信徒への手紙一、1013節「神は真実なお方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」。全ては神の真実に懸かっているということです。
 
キリストが捕らえられ弟子たちが逃げる、それも予想外の事でした。しかし、最後の夕食の中でキリストは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。神を信じるとは、神が真実なお方で、最後まであなたを確り支えてくださるお方である、と信じることですね。
 
★当然アブラハムは息子イサクに神の命令が何であったのかを伝えられませんでした。しかし、イサクはなんか変だなと気付いていました。だから7節で献げ物の小羊について質問しました。そして、9節、縛られて祭壇のたきぎの上に載せられた時、彼は絶対に変だと思ったでしょう。しかし、イサクの抵抗について何も書かれていません。「これは絶対におかしい、しかし、お父さんは真実である。そしてお父さんの神様も真実なお方である。」このイサクの姿は、神の前のアブラハムの姿を鏡のように映しています。
 
子の親に対する信頼関係がなかったら、子も親が信じる神は真実なお方であると、思わなかったでしょう。家族との信頼関係を抜きにして、信仰の継承は、考えられない事ですね。
 
10節、アブラハムは刃物を執ってイサクを殺そうとします。神はなぜアブラハムにここまでさせたのでしょうか。12節、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と主は言われました。「神を畏れる」とは自分の今持っているものを支えとしないで、全く神の真実に任せることですね。
 
旧約聖書の箴言357節を思い出します。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」。
 
クリスチャン自身の信仰は弱く、小さい。しかし、確かな一点、「神は真実である」に私たちは支えられます。神はかつて神の民が試練の連続だった荒れ野の旅を終える時に、「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを(申命記79)」と、信仰の要を告げられました。
 
★焼き尽くす献げ物にする小羊と神の愛する独り子キリストが重なります。神は刃物を握ったアブラハムの手を止められたが、キリストの十字架は止められませんでした。「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでキリストは息を引き取り墓に葬られ陰府に下られました。神に敵対する罪は勝利宣言をしました。
それを神はお許しになられました。
なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。
 
神には私たちの思いを遥かに超えた計画がありました。
罪と死に支配されているという、人の最悪の状態に陥っているキリストを、死人の中から復活させ、『私たちの人生に何が起こっても、神は真実なお方となってくださる。信頼すべきお方である』と、私たちと神との関係がこのキリストによって、根底において確かなものとされている、という福音を神は示されました。
 
皆さん、あなたと神の関係は、イエス・キリストによって確かなものとされています。キリストが示された神は真実なお方である。だから、これからもこの神に信頼をおいて、この神と共に歩みましょう。この神との関係を大切にしましょう。深めましょう。そして、与えられた人生を最後まで希望を持って生抜かせていただきましょう。

2024.04.07
「完成を目指して」創世記2章18~24節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 昨年度同様、今年度も天地創造からこの世界の終末に至るまでの神の救いの流れの中を私たちが歩んでいる事を、この礼拝で確かめ、神から与えられた希望を持って、使命を担って、感謝して、それぞれが与えられた人生を歩ませていただきましょう。
 
 神がこの世界のあらゆるものをお造りなって、最後に人を御自分にかたどって御自分に似せて造られたのは、人と深い関係を持って、共に歩むためでした。丁度、神と人がキャッチボールするような関係です。相手のコンディションまでしっかり見て、相手の事を考えてキャッチしやすい所に投げると共に、自分のコンディションにも目を向けます。ただ投げるだけではありません。そこには関係が生まれ関係が築かれます。
 それで、神は人を丁度陶芸家が土をこね、そこにアートのいのちを吹き込んで作品をかたち作る様に、人を土の塵でかたち造り、命の息をその鼻に吹き入れて人を生きる者、すなわち神との深い関係によって生かされる者に造られました。神は既に人と共に生活する場所、エデンの園の準備もしておられました。アダムに一言、エデンでの生活で注意すべきことを伝えてスタートしたところで、突然何か忘れていたことに気付かれた様に言われました。それが今日読んでいただいた創世記218節の「人が独りでいるのは良くない」です。
 
しかし、神は何かを忘れていたのではありませんでした。神は初めから人を未完成に造られた、ということです。神は人に合う助ける者造って、それを人の所に連れて来られました。それと出会い、共に生きる中で、人は完成されて行きます。神が人の所に連れて来られたものは三つありました。それは①メンバー(仲間)、次に ②ヘルパー、最後に ③パートナーでした。それは人がどの様に完成して行くのかを表しています。
 
①メンバー(仲間)と共に生きる。メンバーになる
 19節、神は野の獣と空の鳥を、人と同じ材料「土」で造り、それを人の所に連れて来て、その全てにどんな名前を付けるのか見ておられました。名付けは仲間である印です。例えば、幼児にぬいぐるみを与えるのは、最初の仲間づくりですね。その時ママは「はい、これはあなたのぬいぐるみだよ」なんて言いませんね。ちゃんと名前を教えます。例えば新しい仲間が加わった時に、仲間のしるしとしてニックネーム(あだ名)を付けますね。人は仲間と共に生きることで完成を目指します。動物も植物も同じ土から造られた仲間です。この基本を忘れてしまうと、人は自然のバランスを乱す過ちを犯してしまいます。
 
②ヘルパーと共に生きる。ヘルパーになる
完成を目指す次の段階はヘルパーと共にヘルパーとして生きることです。19節で名前が付けられると20節で家畜という新しい存在が生れます。家畜は野生の動物と違って、同じ土で造られた仲間より関係の深い人のヘルパーに成ってくれましいた。鳥、豚、牛、羊は、私たちの食生活を大きくヘルプしてくれています。今度スーパーの肉売り場で彼らに会ったら、100gの値段や分量や消費期限を見ながら彼らがヘルパーであることを思い出して下さい。現代は家畜以上にヘルパーとして私たちを助けてくれているペットのことも忘れてはいけませんね。
③パートナーと共に生きる。パートナーとなる
 次の段階は20節です。人は仲間とヘルパーに囲まれましたが、自分に合う助ける者は見つけることが出来ませんでした。人は全く利害関係を越えて、対等に向かい合う、一方的でなく双方向的な関係を持つパートナーが必要です。それは野球のキャッチボールに似ています。自分と相手の両方に目を留めてボールを投げます。人生のキャッチボールは、仲間であるだけでは出来ません。ヘルパーにも限界があります。パートナーでないと続きません。神がアダムの心臓と肺を守る非常に大切なあばら骨の一つを取って女を造られたのは、この特別なパートナーと言う関係を表しています。
 
  23節のアダムの叫びは信頼と感動と決断を伴う決定的出会いを表現しています。そしてこの決定的出会いによる特別な関係の頂点として、2425節で徹底的にパートナーとして生涯歩み続け、キャッチボールをし続けることを目指す結婚生活の事を取り上げています。24節の「父母を離れる」は、このパートナーとしての夫婦関係が親子関係を凌駕する事を表しています。
 
 神は今も日々、私たちに人と人の出会いを起こされます。メンバー、ヘルパー、そしてパートナーへと関係を深め完成を目指しましょう。しかし、それはなかなか難しい面がありますね。聖書もその現実を真正面から綴っています。アダムとエバはエデンでお互いの責任のなすり合いをしました。長男カインが弟アベルを殺しました。創世記の最後ではヤコブの子どもたちの間での虐待事件も取り上げられます。人が完成を目指す時に大きな壁も立ちはだかります。聖書は最後までこの壁を前にする人間の歴史を綴ります。それは、神がその現実をご存じであることを伝えています。そして、神はその為にとうとう愛する独り子イエスを人として遣わすという行動をとられました。
 
人がイエスに対して投げたボールは最悪のボール、十字架でした。十字架というボールは神の裁きであり、受けると苦しんで死にます。しかし、イエスはそれをキャッチされました。「これでキャッチボールは終わった」と誰もが思いました。しかし、神はイエスを復活させ、キャチボールが続きました。イエスは弟子たちの所に来て「あなたがたに平和があるように」、と言って和解のボールを投げられました。この時、創世記223節でアダムが叫んだ様に、信頼と感動を持ってパートナーと成って投げて来られたイエスのボールを受け取り、イエスを信じイエスを模範として、自分もパートナーとしてキャッチボールし続け完成を目指して歩む者になる決断をいたしました。
 
 人は独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう。これは神の独り言ではありませんでした。これはあなたに語られている言葉です。創造の神はあなたが完成を目指して歩むことを願い、今も働いておられます。まずキリストからのボールを受取りましょう。キリストを模範として下さい。キリストこそあなたを罪(神のあなたに対する計画から的を外すこと)から救い、神があなたに計画されている完成を目指す者に造り変えて下さいます。
 
二つのキャチボールをしましょう。第一は神とのキャッチボールです。神はみ言葉というボールをあなたに投げて来られます。それを受けて今度は神に投げ返しましょう。どんなボールを投げ返しましょうか。祈り、賛美、献金、時間、能力、・・・これらは神に向かって捧げる事ですね。次に人とのキャチボールです。父母、兄弟、息子娘、孫、叔父叔母、従妹・・・順調な時も難しい時もキャッチボールし続けましょう。完成を目指して!

2023年4月~2024年3月

2024.03.31
「御言葉を信じる者に」ヨハネによる福音書20章19~29節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 「見ないで信じる者になりなさい」と主は言われます。しかし、週の初めの夕方、弟子達のところに来られた時、ご自分から手とわき腹の傷跡を見せられた。見ないで信じる者の方が幸いだと言われるのに、何故、主は傷跡を見せられたのでしょうか。何故、見ないで信じる信仰を求められなかったのでしょうか。弟子達は、主が十字架にかけられた後、ユダヤ人達を恐れ、家の戸に鍵をかけていた。ここ数年間自分達が追い求めてきた信仰、それが何だったのか弟子達は分からなくなっていた。集まっている者の中に、ペトロともう一人の弟子もいました。彼らは、主が葬られた墓が空になっていたのを見たのです。それなのに、主が復活されたなんて事は考えもしなかった。主が語られた言葉を、全く忘れてしまっていた。というよりも、本当は分かっていなかったと言った方がいいかもしれません。
9節に、「イエスは必ず死者の中から復活される事になっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とあります。また、18節で、マグダラのマリヤが「わたしは主を見ました」と言うのを聞いたのに、信じられなかった。自分達が追い求めてきたものは、只の自分の理想だった。信じていた方が殺されてしまうなんて、とんでもない信仰を追い求めてしまった。だから今、同胞のユダヤ人たちからさえ隠れていなければならなくなってしまった。彼らは自分の信仰に失望落胆し、その失望が体も心も覆い尽くしてしまったのです。そんな弟子達に「見ないで信じる信仰を持て」なんて主は言えなかった。今の彼らは、それを要求できるような状況に無い本当に憐れな状況だったのです。飼い主のいない羊と同じでした。
 
 そんな彼らに、主は手とわき腹をお見せになります。弟子達は今こそ見なければなりませんでした。それは、何でしょうか。主の肉体的な傷跡ではありません。見なければならないことは、二つありました。一つは、復活の主です。主は甦られた、そのことです。主は事実、甦られた、これを見なければなりませんでした。ここには書かれていませんが、主が手とわき腹をお見せになった時、十字架のもとにいたあの弟子が、叫んだのではないかと思うのです。弟子の中であの弟子だけが、主がわき腹を刺された事を知っているのです。彼は、主の手とわき腹を見て、「あの時、兵士が槍でついた傷だ」「この方は主だ。確かに主だ」と叫んだと思うのです。その叫びを聞いた弟子達は、十字架で死なれた主が、目の前に確かに復活されたことを見たのです。「イエスは必ず死者の中から復活される」と言う聖書の言葉が現実となっていることを、今、経験したのです。
 
復活の主を見た彼らは、目からうろこが落ちるように、我に帰ります。彼らの中に、主が復活された喜びが溢れます。その時、主から聞いたことが、一つ一つ甦ったのです。「わたしはあなたがたを孤児にはしておかない。あなた方のところに戻ってくる」と主は言われた。本当にそうなった。彼らは、復活の主を見る事によって、御言葉が彼らのうちに甦ってくる経験をしたのです。主の復活は、主が語られた事が必ず実現すると言う保証なのです。    
そしてもう一つの事を、その傷に見なければなりませんでした。それは、何故主が十字架で死ななければならなかったのか、今はっきりと見なければならなかった。彼らは神の愛は、主が死ななくても人々に伝えられると考えていた。彼らは主と共に生活したけれども、神のご計画が分かっていなかった。今彼らははっきりと見なければなりません。「主の死が、わたしのためだった」ことを。「神はその独り子をお与えになるほどにわたしを愛してくださった」ことを、その傷に見なければならなかったのです。この事を見たとき、喜びが満ち溢れたのです。その時、彼らは、一つの間違いに気付きます。自分達の信仰が、自分に根拠を置いた信仰であった事です。主から聞いた、「御言葉を信じる信仰」ではなかったことに気付かされるのです。
 
主は再び「平和があるように」と言われます。この言葉を聞いて、彼らは、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(16:20)と言われた主の言葉を思い出します。主が十字架にかかられる前に聞いた事が、今現実となっている。主のお言葉の確かさを重ねて経験したのです。主の言葉を信じる、主の言葉に依り頼む。それが、主が求められる信仰だと、気付かされます。復活の主によって、真実な信仰へと導かれたのです。御言葉を信じる信仰、そこにこそ主からの喜びがあるのです。その事に気付きなさいと、主は重ねて「あなた方に平和があるように」と、言われたのです。御言葉を信じるもの、その事を飛び越して「見ないで信じる者」にはなれないのです。
 
 さて、この時12弟子の一人であるトマスはいませんでした。彼は、主の群れから離れていたのです。他の弟子達とトマス。ここに一つの対比を見る事が出来ます。復活の主が、弟子達のもとにおいでになった時、そこにいた者と、いなかった者。こういう違いを表しているのかなと思います。
主の群れにいる者は、復活の主に出会っている。その群れから離れるなら、復活の主に会えない。その事を告げているのではないかと思うのです。復活の主との出会いの中にいなかったトマスは、「見なければ、わたしは決して信じない」と断言します。自分が納得しなければ信じないというのです。しかし、このトマスを、誰も、不信仰だと言えません。他の弟子達も、復活の主を見たから信じたのです。わたしたちも、自分が納得しなければ信じられない存在なのです。だからこそ、主は、信じる者となるために、傷跡を見せられたのです。
主は、八日の後、もう一度、弟子達のもとに入ってこられました。八日の後と言うのですから、次の週の初め、すなわち日曜日です。トマスは主の群れに戻っていました。教会の礼拝の交わりの中にいたのです。礼拝の場に、復活の主は、必ずいてくださる。八日の後というのは、そのことを言っているのだと思います。教会の礼拝の交わりにおいてこそ、復活の主はおられるのです。
トマスは主の群れに戻ってくる事によって、復活の主を見ます。トマスも自分の信仰に失望していたでしょう。このトマスに対する主の態度。憐れみに満ちています。「先週あなたは、何故この群れの中にいなかったのですか」なんておっしゃいません。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい」と静かに言われたのです。わたし達が信じられなくなるとき、弟子達の様に復活の主を見る事は出来ません。でも、御言葉を下さるのです。このトマスに語られた同じ言葉を持って、わたしたちにも言われます。「信じられないのですね。あなたの指をここに当てて、あなたの手をわたしの脇腹にいれなさい」。わたし達が信じられなくなるとき、この聖書の言葉を聞きましょう。そして、トマスの事を思い起こしましょう。その時、今のわたしはトマスになっている。いろいろな理由をつけて、主よ信じられませんと言っている、と気付かされるのです。わたしたちが、トマスである事を、主は良くご存じです。しかし、そんなわたしたちに、「信じる者になりなさい」と言われます。トマスは復活の主のお言葉を聞いて、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白しました。復活の主の言葉が、トマスを信じる者に造り変えたのです。それが、復活の主の御言葉の力です。人間として歩まれた主の言葉が、今や、復活の主の言葉となったのです。復活の主は、信じられないわたし達を、信じるものにして下さるのです。見ないで信じる信仰。御言葉を信じる信仰を下さるのです。
 
21節で、「あなたがたを遣わす」と、主は弟子達を伝道に派遣します。主はもう父のもとに帰られます。もう見えなくなります。弟子達は、見ないで信じる信仰が無ければ、伝道に出て行けません。ですから、御言葉を信じる信仰を持って、出かけていきなさい、と主は言われたのです。22節で、息を吹きかけられます。弟子達に、聖霊を与えられたのです。御言葉と聖霊は、見えません。信じるしかないのです。わたしたちに与えられているのは、御言葉と聖霊です。見ないで信じる信仰によらなければ、信仰生活も、伝道の業も進んで行かないのです。だから、見ないのに信じる人は、幸いなのです。わたしたちは、復活の主を心からお迎えしましょう。
 


2024.03.24
「成し遂げられた」ヨハネによる福音書19章16~30節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 主イエスは、ご自分から十字架を背負いゴルゴダへと向かって行かれます。他の福音書には、無理矢理主イエスの十字架を背負わされたキレネ人シモンという人が出てきます。でも、ここでは、シモンは出てきません。ヨハネ福音書は、ここでも十字架にご自分から進んでいかれる主の姿を、わたし達に伝えたいのです。それは、主イエスの十字架の死が、神様の御計画だからです。十字架は、神様が、神様の独り子である主イエスをこの地上に送られた目的の一つだからです。十字架は、主イエスが、この地上で神様の御計画を完成される最後の時だからです。ですから、自ら十字架を背負い、ゴルゴダという処刑場へ、ご自分から向かって行かれる主が、ここにおられるのです。
 
ゴルゴダの丘に、三本の十字架が立てられます。主イエスは、その真中の十字架につけられました。罪人の真中につけられました。その直ぐ側には四人の兵士がいます。祭司長たちがいます。イエスの母と他に三人の女性がいます。罪状書きを読んだという事ですから、十字架の周りに、多くのユダヤ人もそこにいたということでしょう。主イエスは、その真中におられます。そこには、主イエスを妬んだ者、嘲った者がいます。そういう者だけではなく、主を愛して悲しんでいる者もそこにいます。どこかで主イエスの言葉を喜んで聞いた人もいたでしょう。主に対して様々な立場の人々がそこにいます。主は、そのような人々の真中におられるのです。すなわち、主イエスを愛した者だけではなく、全ての人を愛するために、十字架の上におられるのです。
 
3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。主イエスは、その様に神様からお言葉を頂かれ、それを私たちに語られた。そして、神様は御自分の独り子の命とわたし達の命とを取り替えるほどに、わたし達を愛しておられる。この神様の愛を成し遂げるために、主イエスは、十字架に架かって下さっている。今、十字架の上で、神様の愛を実現しておられるのです。
 
主イエスは、兵士達に服を脱がされ、裸にされます。マタイでは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主イエスは叫ばれました。このヨハネでも、その主の姿が目に浮かんできます。ここは、無言のままですが、兵士達が「主イエスの衣服を分け合い、くじを引いた」という、彼らの行為の中で、詩編22編の聖書の言葉が実現した、と聖書は告げます。兵士達は自分の貪欲に我を忘れていたのでしょうけれど、そこで御言葉が実現されているというのです。これはどういうことでしょうか。ここでヨハネも、人に捨てられ、裸にされて、絶望の死の中に赴いていかれる主イエスの姿を見ていたのだと思います。この主イエスの死。それは、どのような死なのでしょうか。わたし達にとってどのようなものなのでしょうか。
 
十字架の上で、神は死なれた。なぜ死なれたのか。私たちが死ぬべきものだったからです。わたし達が死ぬからです。世界が闇に支配され死んでしまうからです。しかし、主イエスが死んでくださった今は、そうではありません。人間となられた神が死んでくださり、その死によって、死に勝利してくださったからです。
 
16章33節「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と主イエスは以前弟子たちに呼びかけました。「安心しなさい。わたしがこの世に打ち勝っているのだ。」と呼びかけられます。受難も屈辱的な十字架の死も、それは同時に主イエスの勝利なのです。そして、13章1節に「イエスはこの世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」とありますように、十字架の死は、神の下に帰る栄光の「時」を表わしています。
 
つまり、わたし達が死を迎える時、一人ぼっちではないのです。死に勝利された、神の栄光をいただかれた主イエス・キリストが、死に向かう時も一緒にいてくださるのです。
 
教会学校の生徒に、「地獄ってどんな所」という質問をさたことがあります。私は「神様がおられないところじゃないかな」と答えました。主イエスの死によって、わたし達は神のおられないところに行くことはありません。主イエスがわたし達の死に勝利してくださったからです。
 
兵士達が、詩編22編の聖書の言葉どおりにした後で、主イエスは十字架のもとにいる母と愛する弟子に声をかけられます。ここで、不思議に思うのは、「愛する弟子」とありますね。この「愛する」という言葉が「愛する」母ではなく、弟子の方に言われているところです。131節で、「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛しぬかれた」とありました。この弟子は、主イエスの愛を十字架の下においても、なお受け続けた。
 
つまり、最後の最後まで主の愛を受けた弟子です。この上なく愛しぬかれる主の愛を、最後まで受けた弟子です。主は、限りなく愛されたこの弟子に、御自分の母を委ねられたのです。主イエスの救いを信じて、ひたすら、従ってきた母。彼女を主イエスの愛を満ち溢れるほど受けた弟子に委ねられたのです。わたしの愛を知っているこの弟子、彼なら必ず母に愛を注いでくれるという主の思いだったのでしょう。この二人はどう言う関係だったのでしょうか。それは、はっきりしません。しかし、この世の関係よりも、主イエスの愛に支えられた関係の中に母が置かれる事の幸いをここで示しているのではないでしょうか。
 
ここには、主にある教会の神の家族という、主イエスの愛を受け継いでいる者の新しい関係を、どんなに信頼しておられるかが分かります。それは、主イエスが教会を最後まで愛し通されるからだとも言えます。今わたし達がつながっている教会。この教会の中での神の家族の交わり。そこで愛の交わりを築いて行く事。それが、主イエスが、この地上で行われた最後の仕事だったのです。
 
「わたしは教会を、わたしの者達を、最後まで愛し通している。だからあなた達はわたしの愛の中で、その交わりを育み続けて欲しい」そう、十字架の上から言われたのではないでしょうか。この弟子は、主イエスの母を連れて、立ち去ります。教会に、主イエスの愛の業が託されたのです。教会が2000年の歴史を歩みつづけていると言う事は、ヨハネのみ言葉が今も、実現しつづけていると言う事です。
 
主イエスは、すべてのことが今や「成し遂げられた」と言われます。この地上に来られ、まことの人間イエスとして、父なる神から委ねられた地上での任務が、十字架の死によって、今、完成した、と言われます。この福音書が、最初からここまで書きつづけてきた、主イエスの全てのみ業が、ここに完成したのです。
 


2024.03.17
「それでもなお主は愛される」ヨハネによる福音書18章12~27節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 主がこの世に来られて2000年の間、多くの人々は受難の御言葉をどのように聞いてきたのだろうかと思います。
 古代の神学者であるアウグスティヌスは、12節の「イエスを捕らえて縛り」という御言葉から、このように話しています。イエスを捕らえて縛る。それをした者は、今主イエスに近づいている。こんなに近づくことが出来ないと思うほど近くにいる。主を殺すためではなく、この方を心から受け入れるために近づくのであれば、どんなに良かったことであろうか。主を殺すために近づく者は、主から遥かに遠くにいる。この方によって、自分が解き放たれるべきであるのに、この方を縛り上げている。しかし、もしかすると、この人たちの中で、後になって主イエスに解き放たれる喜びにあずかった人がいるかもしれない。」
アウグスティヌスは、ここで、このように考えながら、自分自身のことを告白しているのです。今日の箇所の主イエスの歩みとお言葉は、わたしたちの心の中に、わたしたちの死と罪の現実の中に、踏み込んでくる御言葉です。
 
さて、聖書には四つの福音書がありますが、どの福音書も皆大変よく似た形で、主の御受難を伝えます。しかし、このヨハネ福音書の今日の箇所には一つの特長があります。それは、主イエスの裁判と並行して、ペトロの姿を描いているところです。もしこの箇所を、劇にするとするならば、舞台の半分で主イエスが尋問を受けられており、一方の半分で大祭司の中庭でのペトロの姿を同時に演じているというような感じに描かれています。
 このことを頭に入れて、もう一度皆さんの頭の中の舞台に、主イエスの場面と、ペトロの場面を、描いて見てください。皆さんの頭の中の舞台には、主イエスの姿とペトロの姿の違いが、はっきりと描かれているでしょうか。
 
 先週もお話しましたが、主イエスは捕らえに来た人々に対して、自ら進み出てご自分の命をお任せになりました。そして、まず、アンナスのところに連れて行かれます。このアンナスは、その年の大祭司カイアファのしゅうとだと書かれています。主イエスを裁くのは、カイアファであるのに、何故アンナスの事がここに書かれてあるのか。それは、その時のユダヤ社会においてしゅうとアンナスが大祭司カイアファ以上に権限を持っていたということなのです。そのアンナスのところにまず、連れてこられた。アンナスの存在は、この世の権力の象徴です。人々の心を凍らせるような権力を持つ存在。そのアンナスのところに、主イエスは連れてこられた。アンナスは、「おまえが、このわたしに勝てるのか」という目を主イエスに向けたのではないでしょうか。主イエスは、ご自身を神が遣わされたことを否定する、この世の権力の前に、立っておられます。ただそれだけではなく、神から遣わされた神の子として、立ち向かっておられるのです。
 
さて、ペトロはどうでしょうか。彼は、もう一人の弟子と一緒に、大祭司の屋敷の所までは、主イエスに従ってきました。しかし、もう一人の弟子は中に入ったけれども、ペトロは中に入ることが出来ません。16節門の外に立っています。もう一人の弟子が、もう一度出てきて、ペトロを呼び入れます。そして彼は、門番の女中の前に立たされることになります。ここで門番が何故女性なのだろうかと思わされるのですが、とにかく、彼女はただの女性ではありません。大祭司の権力の側にある女性です。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」
ペトロも、主イエスが神の子であることを否定する権力の前に、立たされているのです。屋敷の中庭までは恐る恐る入って来たけれども、しかし、彼は、立ち向かうことが出来ませんでした。主イエスを捕らえている権力が、恐ろしくなったのです。
ある方が、わたしたちの人生において、恐ろしさと戦うということは、もしかすると一番困難なことではないだろうか、と言っておられます。人生において、戦わなければならないことはいろいろあります。試験前の学生であれば、眠気と戦って勉強しなければなりません。また充実した人生を送ろうと思えば、自分の怠惰さと戦わなければならないでしょう。
しかし、わたしたちの力が、一番問われるのは、恐ろしさと戦うときではないでしょうか。恐ろしさと戦うことは、わたしたちの姿が明らさまにされることです。しかし、わたしたちは恐ろしさに勝てない者ではないでしょうか。そして、自分の情けなさに失望するものではないでしょうか。ペトロも「違う」と否定します。「あなたのためなら、命を捨てます。」と言った彼も、恐ろしさに勝てなかったのです。
このペトロの姿に対抗して、ヨハネ福音書は再び主イエスを描きます。大祭司の尋問に対して、「わたしは、世に向かって公然と話した。ひそかに話したことは何もない。」と、きっぱりとお答えになります。この主の言葉に対して、権力に従順でない態度だと、大祭司の下役が主を平手で打ちます。しかし、主はご自分の正しさを示され、「なぜわたしを打つのか。」と、権力の横暴さと卑劣さという罪に、正面から立ち向かっておられます。このように、主イエスは今裁かれているのですが、実は、主イエスの方が主動権を持って戦っておられるのです。
 
しかし、その主の姿を見ているはずのペトロは、それでも恐ろしさに勝つことが出来ず、再び弟子であることを打ち消すのです。更に、主を守ろうとしてゲッセマネの園で耳を切り落とした男の、身内の者の前に立たされるのです。もう一つ興味深いことに、25節でペトロが「違う」と言った言葉は、直訳しますと、「わたしではない」「I am not」となっています。主イエスは捕らえに来た人々に、「わたしである」と言われました。それに対して、ペトロは「わたしではない」と言ったのです。
主イエスの姿と、ペトロの姿は、全く対照的です。しかし、ペトロは自分の情けない姿を見せられると同時に、主の戦われる姿を見せられているのです。ペトロは、主の弟子であることを否定するという自分の罪を見せられると同時に、主がそんな罪深い自分のために、命をかけて戦っておられる姿をも見せられているのです。
このヨハネ福音書の受難物語は、栄光の主イエスが、弱く愚かで罪深いペトロを包み込むかのように描いています。詩編に「あなたの翼の陰に隠してください」(178)とうたわれているのを思い出します。
 
主の受難が語られる時に、必ずペトロの主を裏切った罪も語られます。しかし、そのことは同時に、主の恵みがペトロを覆い包んでくださったことをも示しているのです。わたしも弱く愚かで罪深いペトロです。自分を威圧してくる権力に負けそうになるものです。恐ろしさの前に、自分の素顔を暴かれてしまう者です。しかし、主はそのわたしのところで戦っていてくださる。勝利していてくださる。わたしたちがどんなに深い裏切りの罪を犯しても、それでもなお主でありつづけてくださる。なお愛しつづけてくださるのです。
 
初めに、アウグスティヌスの告白を紹介しました。彼は、主イエスの戦いが、わたしたちを死と罪から解放するものとして、そのような深い恵みとして受け取っていたのだと思います。


2024.03.10
「主イエスの力 栄光 権威」ヨハネによる福音書18章1~11節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
イエス様は、弟子たちすなわち教会のためのとりなしの祈りを捧げられた後、受難へと向かわれます。6節に「彼らは後ずさりして、地に倒れた」とあります。イエス様が逮捕される記事は、福音書全てに書かれておりますが、捕まえに来た人々の方が「後ずさりして、地に倒れた」と伝えているのは、ヨハネ福音書だけです。人々はイエス様と弟子たちのグループと対面した時、何故「後ずさりし、地に倒れ」てしまったのでしょうか。弟子たちの中に、旧約聖書のダビデ物語に出てくるゴリアトのような巨人でもいたのでしょうか。そんな人物はいません。
 
4節56節を注意深く見て見ますと、4節で、「進み出て」という言葉があります。イエス様は捕らえに来た人々の前に、ご自分の方から「進み出て」おられます。5節では、ユダが先に接吻したというようには告げられず、イエス様ご自身が人々の捜している本人であることを表明しておられます。そして6節では、イエス様が「わたしである」と語られた時、人々は「後ずさりし、地に倒れた」のです。「わたしである」という御言葉が、人々を圧倒し、人々を引き下がらせたのです。このように、ヨハネ福音書が示すイエス様の姿。それは、力ある、栄光の、権威ある姿です。
 
わたしが青年時代に、教会で読書会というのがありました。選ばれた一冊の同じ本を読んできた者が集まります。そこには青年も中年も高齢の者も一緒に集まって、お互いにディスカッションをします。その時は、遠藤周作の「おばかさん」という本が選ばれていました。「おばかさん」というイエス様は、弱弱しい、貧しくなられたイエス様の姿が印象付けられていたように思います。そこには確かにイエス様の一面が描かれています。またそれは、その本を書いたときの遠藤周作の好んだイエス様の姿であったのかもしれません。
 
しかし、わたしは、「おばかさん」がイエス様の全てを現していないと感じました。イエス様は、弱い者、貧しい者、虐げられている者、の側に立ってくださいます。しかし、それだけではないと青年時代のわたしは納得がいかなかったことを覚えています。確かに弱弱しく、貧しいイエス様は、本当にわたしの事を分かってくださる身近な存在になります。わたし自身が弱く、人間として物質的にではなく精神的にという意味で、とても貧しい者だからです。しかし、ヨハネ福音書は、イエス様がただ近くにいてくださる存在というだけのお方ではないと伝えます。
 
8節で、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言われて、弟子たちの身の安全を守っておられます。わたしたちを、肉体的、精神的弱さから守ってくださるお方でもあるのです。
 
イエス様が捕らえられる時、ゲッセマネの園には11人の弟子たち全員が一緒にいたはずです。弟子たちも、イエス様の仲間だということで、人々は捕らえることもできたのではないかと思うのです。3節を見ますと、ローマの一隊の兵士がユダと一緒にいます。その当時、祭りの時には治安維持のために、かなりの兵士がいたようです。一隊と言いますのは、600人或いは200人の部隊を意味したそうです。ローマ兵以外の者も武器を手にしていたとありますから、弟子たちを捕らえることは簡単にできたはずです。しかし、弟子たちは捕らえられなかった。イエス様が彼らを守っておられたのです。しかし、弟子たちはそこでイエス様に守られていたことに気付いていません。10節で、ペトロは大祭司の手下に打ってかかっています。相手は大勢、とてもペトロの手におえる人数ではありません。4節イエス様が「進み出て」弟子たちを守っておられることに、彼は気付いていないのです。
 
小さな群れは、大海の中の小舟です。大海には、しばしば嵐が起こります。小さな群れにとって、この世の力は嵐と同じほどの威力があります。ガリラヤ湖で弟子たちが乗り込んだ船が、嵐に会った記事を思い起こします。その時の弟子たちは、あまりの恐ろしさに舟が転覆し、溺れ死ぬのではないかと考えました。イエス様が一緒に乗っておられることすら、その瞬間、忘れてしまったのです。力と栄光と権威を持っておられる主に守られていることに気付かなかったのです。
 
この状況を思い浮かべながら、わたし自身もイエス様の守りを気付かずに、多くのことを通り過ごしてきた者であることを思わされました。今、イエス様の守りを信じなさいと、示されております。主イエスの力と、栄光と、権威に、全てを委ねなさいと、示されています。
 
ヨハネ福音書は、「イエス様は、十字架に向かわれる時、力ある、栄光の、権威あるお方であること」を伝えます。どうしてもこのことを、わたしたちに伝えたいのです。何故でしょうか。それが、ヨハネ教会の信仰告白だからです。弱くなる必要がない方が、弱くなってくださった。それがイエス様の十字架の苦しみです。わたしたちが弱いからです。弱いわたしたちのために、弱くなってくださったのです。わたしたちに恵みを示すために、弱くなる必要の無いお方が、弱くなられた。これは、哀れみ以外の何ものでもありません。パウロも「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」という主の言葉を聞いております。
 
あなたの主は、ただ弱弱しく、貧しくなれただけではない。あなたが到底立つことの出来ない、弱い所にまで立つことの出来る、「わたしである」と主は言われます。なぜなら、力ある、栄光の、権威ある「わたしだからである」と主は言われます。そのわたしの守りを信じなさいと示されています。
 
9節の御言葉は、イエス様の守りが確かなものであることを保証しています。「『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」この言葉は、イエス様を信じるものを、必ず守られると言う約束の御言葉です。
 
さて、ヨハネ福音書は、イエス様が息を引き取られる時、ゴルゴダの丘一帯が真っ暗になったことを伝えていません。他の三つの福音書は、そのことを伝えています。三つの福音書の伝える暗闇は、この世界の悪の支配を象徴していると考えられます。ヨハネ福音書では、イエス様が捕らえられる時に、この暗闇を伝えているように思います。それは、1節のキドロンの谷について告げているからです。キドロンとは、暗いと言う意味です。この谷は、地理的には、西にあるエルサレムの町と東にあるオリーブ山の間にある谷です。そのオリーブ山のふもとにゲッセマネの園があります。
 
ですから、イエス様は、とりなしの祈りをされた後、暗い谷を通って、向こうのゲッセマネの園へと「出て行かれた」とヨハネは告げていることになります。すなわち、ご自分から進んで悪の支配する所に向かって出て行かれた。ゲッセマネの園に向かって出て行かれた。イエス様は、園にはたびたび弟子たちと集まっておられました。イエス様を裏切ろうとしているユダが良く知っている場所に向かって、出て行かれたのです。
 
そして、ヨハネ福音書は、ゲッセマネの園で苦しみもだえて祈られるイエス様も告げていません。11節で、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と、ご自分の受難に対して大変積極的な姿が伝えられています。ここにも、力強さと栄光と権威ある主イエスの姿を見るのです。
このお方が、わたしたちの主なのです。わたしたちが信じるお方は、力ある栄光の、権威ある主なのです。


2024.03.03
「互いに愛し合いなさい」ヨハネによる福音書13章31~38節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 ヨハネの福音書を残した信仰共同体は、初めはパレスチナで活動していましたが、その後エフェソに活動を移したようです。使徒パウロの手紙が沢山ありますが、それらはキリストの教会が迫害の中に置かれていたことを伝えています。その手紙の中にエフェソ人への手紙もあります。つまりヨハネの教会もまた迫害の中にあったのです。この福音書はそういう社会背景の中で書かれまし。また、福音書の中で一番後に書かれたものです。ですので、この福音書はイエスの命令に対するとらえ方が他の三つの福音書とはちょっと違います。
 他の福音書はイエスの命令を「神を愛すること」と「自分を愛する様に隣人を愛すること」と受け取っています。しかしヨハネは「神を愛すること」と「信仰共同体の中で互いに愛し合うこと」これがイエスの新しい命令だと言います。ですからヨハネ福音書は明らかに教会というものを前提に書いています。
 
1コリントの手紙131節に「たとい、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」とあります。世界を驚かせる凄いことができたとしても、そこに愛がないなら無駄だといいます。教会をこのパウロ流で言うなら、イエス様の愛を知っていると告白する教会であるのに、集まるもの同士に愛が無ければ、その教会はやかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。それらは美しいハーモニーを生み出せません。教会の中に互いに愛し合うことが実現していることこそ福音を前進させる最も大きな力だと言います。
 何故、ヨハネは教会自身が互いに愛し合うことを最重要テーマとして掲げたのでしょうか。それには先ほどの教会を取り巻く迫害と言う巨大な壁があったからです。
私たちの教会の置かれている状況も良く似ています。日本ではクリスチャン人口は1パーセント未満という状況がずーと続いています。キリスト教は外国の宗教という認識がいつまでも根強いですね。
けれども、Ⅱテモテ4:2のみことばは「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」と勧めます。その時に、力になるのは教会の内にある互いに愛し合う力です。「愛は一つに結ぶ帯です」という御言葉もありますように、キリストの弟子のひとりひとりが一つに結ばれるときに、一人ひとりは小さく弱くても大きな力が発揮できるからです。
ヨハネ福音書はわたしと父とが一つであるように、あなたがたも一つと成れと何度も何度も語ります。愛の関係を確り結び一つと成れと言います。一つとなるところに主イエスの力が働くからです。
スポーツ界を考えるとこのことがよく解りますね。チームで戦うスポーツはもちろんお互いが気持ちを一つにしなければ力を発揮できません。けれども、現在は一人で行うスポーツもチームプレーが鍵となっています。コーチやトレーナーや食事の管理など多くのスタッフの協力のもとで練習する時、選手の力は飛躍的に伸びます。強い所はもちろん更に伸ばしますが、弱点をどう改善するのかどうカバーするのかはもっと重要です。一つひとつの積み重ねが選手に力を与え、メンタルが強くされ、練習どおりの力を本番で発揮できます。今年の卓球女子団体の世界選手権、惜しかったですね。実際に試合をしている選手と試合をしないベンチの選手の気持ちが一つになっていましたね。
 
教会生活もこれと同じです。一夜にして急に信仰が成長するということはありません。毎週毎週のみことばに一心に耳を傾ける、しかしそれだけでは、知識だけの信仰になります。まず教会生活の中で聞いたみことばにしっかり向き合う。そして自分の置かれた生活の場で御言葉に向き合う。この取り組みによって信仰の喜びが生まれます。その毎日毎日の積み重ねによって信仰の力が与えられます。折角聞いたのに、聞き捨てていたのではみことばは身に付きません。中年を過ぎると、食べたものが非常に良く身に付きますね。これは実感です。それぐらいみことばが身に付くといいなあと思います。けれども、みことばにマンネリになり、上手に聞き流してしまっているということはないでしょうか。そこには信仰の喜びも力も与えられません。
みなさん、ディズニーランドに行ってチケットを切ってもらい中に入りました。それからどうしますか。いろいろなアトラクションに行って実際に楽しみますね。みことばに向き合わないというのは、ディズニーに行ったけれど入口を入った所に立ったままで、実際にディズニーの楽しさを経験しないのと同じです。癒されると聞いた温泉に行って、温泉に入らないで帰ってくる人がいるでしょうか。
 
ヨハネはみことばの醍醐味をまず教会生活に於いて実践しましょうと言います。主イエスが弟子の足を洗われた関係を、教会員同士の関係において実践しましょうと勧めます。そこから、外に向かって行く力が与えられるからです。ヨハネの教会はその力で周囲の迫害に立ち向かい、主の福音を前進させて行きました。その実践があるからこそ、この福音書でそれを伝えています。
 
34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」。
主イエスの弟子であることを皆が知るようになるとは、教会員が愛し合っている所にこそ証しが立つのです。主の弟子だと自覚する者たちが集まる教会の中で愛し合うことが実践出来ずに、どうして家庭や地域で愛の実践ができるでしょうか。
教会員同士だからこそ、気を付けなければならないと思います。それぞれ置かれている所が違います。立場が異なる時、考え方や価値観は、皆が同じとは言えません。聖書は、人の見方に寛容であることを求めます。特に見劣りのするところにこそ寛容さを求められます。
コリントの手紙は教会を人の体に例えていますね。
1コリント1224節以下「しかし、神は劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだのなかに分裂が無く、各部分が互いにいたわり合うためです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」この先を読んでいきますと、これは奉仕においてそれぞれ一人ひとりがいたわり合うことを教えていることが分かります。
 
飯塚教会の見劣りのするところ、つまり以前と同じようにできない所を、マイナスと考える必要はないと今朝のみ言葉は示します。教会員同士が互いに愛し合い、互いのことを祈りあう、そこでは必ず福音は前進していくというのです。
最後に、今日の聖書の箇所で、ヨハネの教会が最も励まされた言葉を紹介します。それは、33節冒頭の「子たちよ」という言葉です。私はこの言葉にはっとさせられました。イエス様の子どもたちには元気な子、病弱な子、臆病な子、引っ込み思案な子、活発な子、のんびりやさん、といろいろです。でも、みんなイエス様の子どもです。個性が違って当たり前。出来ることが違って当たりまえ。でもみんなイエス様の子どもです。このことを喜びましょう。「わたしの子たちよ」と呼ばれている仲間です。
「スイミー」という絵本をご存知でしょうか。小さい魚のお話です。皆は赤い体をしているのですが、スイミーだけは黒色です。ある日、大マグロが来てみんな食べられてしまいます。スイミーは何とか助かりました。その後海の中を旅し、ある日赤い体の小さい魚たちに出会います。でも彼らは大きな魚を怖がって岩に隠れて出て来ません。スイミーは僕が目になるからみんなで固まって大きな魚になろう、そうすれば大マグロも怖くない、と励まします。スイミーに励まされて赤い小さな魚たちは岩から出て行くことができた、というストーリーです。教会が互いに愛し合い一つになる力は、主の福音のために出ていく力となるのです。

2024.02.25
「愛し抜かれる主」ヨハネによる福音書13章1~20節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 12章でベタニヤのマリヤが、イエス様の足に高価なナルドの香油を塗り、彼女は自分の髪の毛でその足をぬぐいました。すると家はいい香りでいっぱいになりました。その香りはマリヤのイエス様への愛でいっぱいの香りでした。救い主イエス様にふさわしい香りがその家いっぱいに広がりました。それはまるで、イエス様の愛で包まれているようでした。マリヤの行動は十字架を前にしているイエス様に対する、時に適った麗しいものです。ヨハネの福音書は女性たちのイエス様に対する信頼と愛をとても強調しますね。
 
さて、今朝の13章は12章とは逆にイエス様が弟子たちの足を洗う「洗足」の記事です。そして、13章は山に例えるならこの福音書の頂上になる箇所です。神さまの愛が最も現されているのが、今日の箇所です。
1節でイエス様は「御自分の時が来たことを悟り」とあります。イエス様の十字架の時が来たのです。それは過ぎ越しの祭りの前でした。
 
過ぎ越しの祭りとは、イスラエルの民が神さまによってエジプトを脱出させてくださった神の救いを忘れないために行なわれる祭りです。エジプトを出る時時間がないので、種入れぬパンと苦菜を食べて出発しました。ですからこの祭りの時はごちそうではなく膨らんでいないパンと苦い菜っ葉を食べるのです。その時、子どもたちが不思議に思って聞きます。「お父さん、お祭りなのにどうしてこんなおいしくない食事をするの?」それに答えて「それはね、私たちは昔むかし、エジプトの奴隷だったんだよ。・・」とエジプト脱出が神さまの愛の業であったことを子どもに教えます。つまり、過ぎ越しの祭りは、神さまがエジプトの奴隷であった者を解放されたという、神さまの愛の業を覚えるお祭りです。
このお祭りの時に、神さまはイエス様の十字架を計画されるのです。イエス様の十字架の死と復活は、神の愛そのものなのです。
       
他の福音書は過ぎ越しの祭りの前日の最後の晩餐だけを伝えていますが、この福音書は洗足の記事も記しています。
洗足は神さまの最高の愛を示す行為です。なぜなら、イエス様の死の準備だからです。神の子が死ぬ準備です。みなさん、神の子が死ぬことは神さまにとってどれ程の屈辱でしょうか。11章のラザロの復活はイエス様の死に対する勝利を現しています。
死に勝利する為に来られたイエス様が十字架の上で死に打ち負かされるのですから、それは耐え難い屈辱を受けられるということです。誰のためにその屈辱を受けて下さるのでしょうか。それは私たちのためです。神さまとの関係に背を向けて歩いてきた私たちのためです。
 
1節後半、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。他の聖書では「イエスはご自分の者たちを愛し抜かれた」と翻訳しています。
洗足は、謙遜を伝えているのではありません。神さまの最高の愛を伝えるのです。
イエス様は食事の席を立って、上着を脱ぎ、手拭いを取られます。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、手拭いで弟子の足を拭かれます。その順番は一番弟子のペトロからではありませんでした。このこともこの福音書の特徴です。弟子の中で一番頼りないと皆から見られていたものからイエス様に足を洗われたのかもしれません。その人にこそ、イエス様の沢山の愛が必要だからです。
 
旧約聖書を見ますと、ユダヤ社会には奴隷制度が存在したことが分かりますが、主人が奴隷に自分の足を洗わせることはなかったようです。奴隷であっても主人の足は洗わないのです。ところが、イエス様は弟子たちの足を洗われます。たらいに水を汲むことも自分でなさいました。カナの婚礼では瓶に水を汲んだのは僕たちでしたが、この洗足ではイエス様自ら水を汲んでおられます。ユダヤの奴隷でさえしないことを、どうして主はなさるのでしょうか。弟子たちを深く愛しておられるからです。僕の姿を取るほどに弟子たちを愛されます。この主の姿を1節は「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と伝えます。ここは「いとおしむ」という言い方もできるのではないでしょうか。
娘に男の子が生まれたときに、父親が言った言葉をわたしは思い出しました。退院の日に車で自宅まで連れて帰る時の気持ちを話してくれました。「あまりにも小さくて弱弱しくて、とてもいつもと同じ速度で運転できませんでした。車の振動で壊れるのではないかという気持ちで、ドキドキして運転して帰ってきた」というのです。それ程、息子をいとおしく思えたと。
イエスさまの弟子たちに対する思いはこのような思いだったのではないでしょうか。弟子たちは今はまだ赤子のような弱弱しい存在です。彼らの前には大きな権力が待ち構えています。弟子たちの存在は赤子の手をひねるごとく弱弱しいのです。
そんな彼らに、「おまえたちはこの先どんなに大変な事が起きても、私に愛されていることを決して忘れるなよ!私とおまえたちとの関係は何ものにも引き離されることの無い関係なんだよ!」との思いを込めて足を洗われたのです。
 
順番がペトロに回って来ました。彼はイエス様のされることの意味が分からなくて「私の足など、決して洗わないでください」と断ります。それはイエス様の権威に傷が付くことだ、と思ったのです。
「もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と主は答えられます。洗足を受けることは、主との関係を深めることです。この「かかわり」とは、「遺産」とか「分け前にあずかる」とか「パートナーとなる」という言葉です。つまり、イエス様と共にあることを、愛することをペトロは求められていたのです。
7節、「わたしがしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」と仰います。彼は主イエスの復活の後に洗足の意味を知ることになります。
また、「後で」とは、イエスの死と復活が差し迫っていることを示しています。洗足を受け入れることは、神の子であり、先生であるイエスの苦しみを受け入れることです。主イエスの十字架の出来事を受け入れることです。人の目にはもう負けだと思われるような仕方で、神さまは勝利を現されるのです。一粒の麦が落ちて死ななければ、神の愛は完成されないのです。洗足を受けるとは、その方法で示された神さまの愛を受け入れることです。イエス様は白馬に乗って英雄ナポレオンのようにエルサレムに入場されたのではありません。人の荷物を背負う、柔和な子ロバに乗って入場されました。神さまの愛は、このような仕方で現される愛です。白馬に乗ったイエス様には誰でも近づくことはできません。でも、子ロバに乗ったイエス様なら子どもも近づけます。
 
ペトロは主イエスの復活の後に洗足の意味を知りました。イエス様に「あなたはわたしを愛するか」と三度尋ねられたときです。あの洗足は、自分が主を裏切ることを知っておられたのに、主は自分を信頼し愛し抜いてくださった出来事だったと気づくのです。
 
今朝、わたしたちも主の洗足を受けましょう。そして主は私たちにも言われます。「わたしはあなたをこの上なく愛している」と。そして「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。主であり師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と。
15章12節にもこうあります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」


2024.02.18
「主の名によって来られる方」ヨハネによる福音書12章12~19節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
今年はイースター(復活祭)331日に迎えます。いつもより随分早いです。今日からイエスさまの受難に向かってみ言葉から聞き、復活祭へと向かいたいと思います。
ひとつ前の11章を見ますと、イエスさまがベタニヤ村でラザロを復活させたということで、大勢の群衆がやってきます。7章で、イエスさまは「わたしのとき」はまだ来ていない、と言われました。しかし、今や、イエスさまの時が来たのです。それは、過ぎ越しの祭りの始まろうとする時でした。
 この過ぎ越しの祭りというのは、出エジプト記が伝える出来事を記念して、神さまの救いの恵みを忘れないために行われる祭りです。
 
 さて、人々は祭りの始まる何日か前にエルサレムに来ていました。そこは、大勢の群衆でごった返しています。イエスさまが来られると聞いて、大歓声を上げて迎えました。「ホサナ、ホサナ」と叫んで迎えたのです。ここで、人々が叫んでいるのは、詩編1182526節の言葉です。
「ホサナ」これはヘブル語で、「どうぞ、お助けください」という意味です。何から助けてください、と言っているのでしょうか。当時イスラエルは、大帝国ローマの支配のもとにありました。彼らは、政治的な解放者として、イエスさまを迎えようとします。ラザロを復活させるほどの力ある方なら、自分たちを苦しめている外国の支配から救うことができると、考えたのです。
 
 「主の名によって来られる方」と人々が呼ぶイエスさまとは、どんなお方でしょうか。
14節、イエスさまは、ろばの子を見つけてお乗りに成ります。すると人々は、ゼカリヤ書の言葉を思い出します。ヨハネでは、大変短くされていますが、ゼカリヤ書の方を見ると、意味がよくわかると思いますので、開いてみましょう。ゼカリヤ99節です。p1489 
 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
  見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
  高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子である ろばに乗って。」
これは、とても美しい表現になっていますね。もう一つ、七十人訳という、旧約聖書をギリシャ語で書かれた聖書があります。こちらの訳の方が、更に分かりやすいと思いますので、紹介します。
 「大いに喜べ、娘シオンよ。大声で告げよ、娘イスラエルよ。
  見よ、おまえの王が来る。彼こそ、正義の救い主。
  柔和な方で、ろばに乗ってくる。若い子ろばに乗って。」
 この訳で分かりますように、イエスさまがろばの子に乗ってエルサレムに入られたということは、「自分は、人々の求めている王ではない」という事を示されたのです。ローマ帝国から解放するという、政治的な王ではなくて、あらゆる憎しみと争いを終わらせ、平和の国を創られる、平和の君であることを明らかにされたのです。
 
 詩編の詩人も、33篇でこのように言っています。
 「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。
  馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。
  見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
  彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。」
詩人の語る王というのは、主なる神さまのことです。主なる神さまの支配される国の平和は、兵や馬車によって守るのではないと言っています。軍隊や軍事兵器によっては、人々を死や飢えから守ることはできない。軍隊や軍事兵器が人々を苦しめています。武力によっては世界に本当の命を与えることはできないのです。
主イエスは、憎しみを燃やし争うための軍馬ではなく、人の荷物を背に負う、ろばの子に乗られたのです。人の荷物、それは様々なものが考えられますね。また、わたしたちを支配しようとする悪の力は、わたしたちの中に闇の部分をつくります。それはわたしたち自身の力ではどうにもできない暗い部分です。その全てを主イエスは、ご自分の背に負って十字架に向かわれたのです。神さまは、その悪を闇の部分をキリストと共に十字架につけられたのです。そしてその悪を、闇を滅ぼされたのです。
 
しかし、それなら何故今も世界に争いが止まず、わたしたちの内側にも闇の部分が起こってくるのでしょうか。ヨハネ福音書は、何度もわたしたちに言います。神さまとイエスさまが一つであるように、わたしたちもイエスさまとつながり一つであるようにと。イエスさまと離れる時、それは自分が自分の人生の主人になっています。全てのものは神さまから預かっているものであるのに、そのことを忘れてしまうのです。そこには人と人との間に憎しみや対立が生まれます。
また国という集団においても、エゴイズムが主人となって、その国だけの利益追求のみが生じてくるのです。イエスさまとわたしたちが一つであるならば、主は平和の支配者ですから、わたしたちの闇の部分を、柔和で憐れみ深いという、主ご自身の光に導いてくださいます。ナザレン教団の言う聖化とはこのことです。国という集団においても、相互の利益となる道を、お互いに長い時間をかけて話し合うという、忍耐の光に神さまは、導くことがおできになるのです。それが現実とならないのは、そのことが出来るという信頼を、神さまに対して持っていないからです。神さまの全能を信頼していないからです。
1950年代、アメリカのマルチン・ル-サ-・キングという牧師は、聖書の伝える福音は、どんなことがあったとしても非暴力主義だと考えました。南北戦争の後、アメリカでは黒人は奴隷ではなく自由人になりました。しかし、アメリカ社会は依然として白人が黒人を差別していたのです。一つの事件から、キングは非暴力という方法を黒人たちに訴え、彼らは381日間、非暴力で差別と戦いました。その間、彼らは暴力を受けました。それでも、非暴力という方法を貫いたのです。彼らのこの運動は、法律改正にまでつながりました。彼らは、イエスさまの平和の力が、必ず自分たちを導き忍耐を与え、支える力であると、その全能を信頼したのです。力は平和を生み出しません。かえって、争いを生み出すのです。神さまは弱いところに働かれるのです。
 
さて、16節を見ますと、弟子たちは、人々がゼカリヤ書の言葉を叫んだ意味を、「主が復活され天に帰られた後に、気付いた」と告げています。弟子たちは、主がおられなくなった後、会堂で聞いた預言者たちの言葉をひとつひとつ思い出していたのではないでしょうか。そして聖霊が与えられた後に、預言者たちが言っていた救い主とはイエスさまのことだったという事を、はっきりと知ることができたのです。弟子たちは、聖霊の働きによって、イエスさまが平和の君であることを、明確に知ることができたのです。
 
大群衆は、イエスさまに向かって、「お救いください、主の名によって来られる方」と叫んでエルサレムに迎えました。それを見て、イエスさまを殺そうと計画していたファリサイ派の人々も、何をしても無駄だと諦めてしまうほど、イエスさまは人々の人気を博していました。
しかし、神様はイエスの人気を利用して事を進められません。イエスさまの不思議な奇蹟によって神を信じることを求められません。自分が暗闇の中を歩んでいる者だという事に人々が気付き、イエスさまがその暗闇から救い出してくださるお方であることに気づくこと、それを求められるのです。主の名によって来られたイエスさまは、そのことに気づかせるために来られたのです。
わたしたちにも今、言われます。自分が直ぐに暗闇の中に迷い込んでしまう者であることを自覚し、いつも光であり平和である主イエスと共にあるようにと。お祈りいたしましょう。


2024.02.11
「良い牧者」ヨハネによる福音書10章1~18節

説教:末吉百合香 師(代読:上野美智子姉)

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
今朝のヨハネ10章は「善い牧者なるイエス様を知る」がキーワードです。
 
羊と羊飼いの関係を通して、イエス様とイエス様を信じる者との関係を話されます。1節の「羊の囲い」は皆さんの家と考えて下さい。自分の家に門から入らないで別の場所から入るのは、その家の住民ではありません。
2節に「門から入る者が羊飼い」とありますから、その家の主人です。つまり、イエス様は確かに自分が神さまのもとから来た、と言われます。
3節、門番と羊は主人の声を知っていてちゃんと聞き分けます。羊飼いが「自分の羊の名」を呼ぶというのは、自分のこどもの名を呼ぶと言う感じで、ファーストネームで呼びます。いとおしい関係ですね。また結婚前の男女が、ファーストネームで呼ぶような愛の関係です。夫婦はこどもができるとお父さんお母さんと呼び合いますが、ファーストネームで呼ぶ方が二人の愛が深まるそうですよ。年齢は関係ありません。是非ご夫妻おそろいの方はファーストネームで呼び合いましょう。羊と羊飼いの関係は、そのように深い関係であり愛の関係にあります。
 
羊を連れ出して、先頭に立って行かれるのは、羊を導く姿ですね。すると羊は、羊飼いの声を知っているので、羊飼いについて行きます。羊は羊飼いを疑いません。
羊飼いは一匹一匹の顔を見分けるとありますが、なかなか見分けられるものではありませんよ。六甲牧場に行ったときに、みんな同じに見えました。そして羊の餌の時間に遭遇しました。その時はお客さんが餌の合図の鐘を鳴らすというイベントになっていました。羊たちはその鐘の音を聞くと食事の時間と言うことを知っています。鐘がなると羊の群れが一斉に小屋の中になだれ込みました。それは凄い勢いでしたよ。羊たちは鐘の音で小屋に入れば、お腹いっぱい食べられると知っています。しかし、他の人には決してついて行きません。知らない声の人には決して付いて行かないのです。羊はそういう性質を持っているのです。羊飼いは自分の羊を、羊は自分の主人を良く知っているのです。
 
イエス様はもう一つ例えを話されます。
9節、ご自分の事を「羊の門です」と。ユダヤの町は周囲が高い塀で囲まれていました。町に入るには幾つかの門があってそこを通らなければ入れません。イエス様がここで話しておられる町とは、神の国です。その門であるとは、イエス様を通らなければ神の国に入れないのです。この門を通って入る者は神の国に入るのです。門であるイエス様を通る、つまりイエス様を信じる者は救われて神の国に入るのです。そして、安らかに出入りし、牧草を見つけます。主が共におられる人生は安らかです。これは、人生に困難が何一つないと言うことではありません。困難な時に、より頼むことのできる主がいてくださるので、安らかなのです。ある姉妹の口癖「みことばが無かったら、ただ毎日がぐちばかりの高齢者だったでしょう」と
牧草を見つける、とは、羊にとって牧草は無くてはならないものです。旅行をする時に地図なしで出発する人はいません。地図は旅行者が目的地を見つけるのに無くてならないものです。神を信じる者にはイエス様は無くてはならないお方です。イエス様は信仰の旅路を導き目的地を示すお方だからです。
 
11節、「わたしは、良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」羊飼いは自分の羊を守るために、クマやオオカミといのちをかけて戦います。旧約聖書のダビデ王の少年時代に、イスラエルに挑んで来るペリシテ人の大男を倒したときに使った石投げは家畜を猛獣から守る時に使う道具でした。そのように羊たちは毎日が危険と隣り合わせで自分では自分のいのちを守れない弱い生き物です。その羊を守るのが羊飼いです。つまり私たち人間は自分の罪から自分を救えない存在です。「わたしは、良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。」イエス様は罪人である私たちを救うために、十字架に架かっていのちを捨てることを予告しておられます。
また牧場をしている方は、ほとんどが家族経営ですね。家畜に毎日餌と水やりがあります。家畜に今日はちょっと外食に行って来て、とは言えません。乳搾りに、健康管理、衛生管理にと気を付けなければならないことがたくさんあります。
「わたしは良い羊飼いです」とご自分を羊飼いに例えられたのは、一時もあなたのことを忘れることはないと言うことです。
14節に「わたしは自分の羊を知っており」とあります。ここは優先順位が問題です。
まず先に、イエス様が私を知っていて下さる。それは父なる神様と子なるイエス様とが一つの関係であるのと同じようにです。これは本当にうれしいことですね。
父なる神様と子なるイエス様と私たちが一つの関係にある、つまり神の国の住民であり、神の家族です。家族とはお互いの事をいとおしく思う関係です。イエス様は信じる者をいとおしんで下さるお方です。と同様に私たちもまたイエス様をいとおしく思う者でありたいですね。
私たちもイエス様の思いを、与えられた限られた時間の中で「どんだけ」知ることが出来るか、これは信仰者のアドベンチャーです。スポーツ選手で言えば、伸びしろ。匠の技で言えば、醍醐味です。イエス様を知れば知るほど信仰の醍醐味を味わうのではないでしょうか。
 
私は今日の箇所から、ふと、おおかみと七匹の子山羊の童話を思い出しました。子山羊たちが偽お母さんに成りすましたオオカミを見破れなかった失敗のお話ですが、結末はおかあさんと末っ子の小山羊によって救い出されます。小さい子どもたちは観客席で、オオカミが「お母さんだよ」というセリフの時に、「ちがう、ちがう、そいつはオオカミだ!」と叫びます。観客席にいる子どもたちは偽物と知っているからですね。いつの時代も成りすましオオカミの存在があります。子山羊たちがオオカミを見抜けなかった失敗は、時代への警告でもあると思います。イエス様を確り知ることは、時代を見抜く力も養ってくれます。
 
また、イエス様はヨハネ福音書の中で、ご自分は父なる神様の願われている通りに行動していると何度も証しておられます。これは、イエス様と一つである私たちが、神さまの願われる生き方をするようにと招かれているということでもあります。主に招かれている教会の私たちに与えられている使命は、良い牧者であるイエスさまを家族に周囲の人々に伝えることです。16節「わたしにはまた、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」この使命は、今、教会に委ねられています。
 
ヨハネ福音書は2117節で、ペテロに対する使命をこう伝えています「わたしの羊を飼いなさい」と。彼は教会のカギを委ねられた弟子と言い伝えられています。ローマの教会には、どの教会でも彼がカギを持った像がありました。「わたしの羊を飼いなさい」教会は主の羊を飼う事、つまり、互いにいとおしんで愛し合う事、また、囲いにいない羊をも覚えて主を伝えることを委ねられています。役員会は今、2024年度の教会活動、また伝道をどう進めるのか話し合っています。どうぞ覚えてお祈りください。派手なことはできません。私たちの力に見合った方法で良いアイデアが主から与えられるようお祈りください。父と子がひとつであるように、というのは私たちが主から与えられた使命に一つになることでもあります。


2024.02.04
「神の豊かさ」ルカによる福音書15章11~32節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
  ★1547節は失われた羊の話、810節は失われた銀貨の話です。
そこで伝えられているのは、失われたものを取り戻すときの神さまの熱い思いです。
 
 今朝の11節以下は、ふたりの息子を失った父親の物語です。人生に迷った息子と父の下に留まった息子ですが、実は二人とも父の愛を理解できなかったのです。
前の二つの話と異なる点は、ふたりの息子は自分の意思で父と子の関係を拒んだことです。
 
 それでは、弟の方から見てみましょう。
弟息子の間違いは、相続した財産を浪費したことではありません。
彼は子どもとしての関係を断ち、父(神)から離れて生きることを選択します。
それが彼の行動の根っこのところに有るものです。★父親の意思から離れ、自分の思い通りにしようとした所です。
家庭や保護の力を必要のないもの、自分の自由に邪魔なものとしてそれらを払いのけ、自分の深い欲望に従ったことに、彼の間違いがあります。
 
創世記3章に、現代にまで続く物語があります。
★神に造られた人間が(5)へび(誘惑するもの)の言った「あなたがたは神のようになる」この言葉にそそのかされ、禁断の実を食べました。★コヘㇾトの書121節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(新改訳)とあります。人間は神に造られた者です。その人間が神になって立場を逆転させるとは、自分を造られた方を拒絶する行為です。
弟息子は自由になろうとして却って、欲望の奴隷となってしまいます。
彼は欠乏し、友達にも見放され、悲惨な状態となり、ユダヤ人が最も卑しいと考える仕事に着く他ありませんでした。
彼の間違いは、事業に失敗したことではありません。そのことよりも、造り主である神さまに背を向け、自分勝手に生きようとしたことです。
★コヘㇾトの書1213節には「神を恐れ、神の命令を守れ。これが人間にとって全てである」とあります。
 
父親は、失われた羊の飼い主や、銀貨の持ち主である女性と同じように、失った息子を熱心に探しました。
★コヘㇾトの書3章に「全ての事に時があり」とあります。
彼が見出された時は、17節彼が「我に返ったとき」です。そして18節「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」この罪の告白は、21節でもう一度繰り返されています。
★これは、自分の意思で神さまと共に歩きますという、彼の決意です。
父は彼を見出し、抱き寄せ、口づけをします。★最上の着物を着せ、指輪をはめ、くつを履かせます。これは関係が回復したしるしです。彼は雇人ではなく、父の子どもとして迎えられます。
 
★さて、兄は父の所に留まっていました。しかし、本心はどうだったのでしょうか。弟が帰って来たことも、父と弟の関係が回復したことも喜べません。弟の行動は兄の行動基準と大きく隔たっていたからです。兄の基準は愛にではなく、自分よがりな正しさにありました。兄の心は父と遠く離れていたのです。兄と父との関係にも回復が必要でした。
31節、父は「子よ。」と呼び掛けます。「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえのものだ」と語り掛けます。
12章に主人の全財産を与えられた忠実な僕がいますね。
父は兄を否定していません。彼が父に忠実だったことを認めています。
この後、兄の態度がどうなったかは語られません。
兄はパリサイ人を代表しているとも言われます。
パリサイ人は神さまとの関係を、人間の考えた宗教規範に基準を置くからです。
★コヘㇾトの書311節に「神のなさることは、時にかなって美しい」とあります。
父が「おまえの弟は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだ」と喜ぶの姿を、兄も共に喜ぶ時がやがて来るでしょう。
 
★二人の息子は神さまに見いだされた幸いな人たちです。二人の失われた息子が見出された物語は神の豊かさを表すものです。
この幸いは、イエスさまの十字架と復活によって完全な形で実現します。
そのイエスさまを信じて父なる神さまと関係を回復された私たちは、幸いな者の中にいるのです。
 
しかし、皆さんの中にはイエスさまによって神の国が到来しているのに、地上では何故次々と困難な出来事が起こるのか、という疑問を持たれる方もあるのではないでしょうか。  私たちはイエスさまが来られた時と、再臨の時の間である、中間時代に生きています。イエスさまがもう一度来られた時に、この世界は完全に回復され、神の国は完成します。私たちの生きる中間の時代は、神の国がもう始まっているのですが、まだ完成していない時代です。ですから、コロナや地震津波という危機も起こります。しかし、神の豊かさは何によっても揺るぎません。この恵み豊かな神さまに見いだされている幸いを、何が起ころうとも、忘れず歩ませていただきましょう。
最後にヨハネの御言葉を紹介します。
★ヨハネ福音書1633節「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

2024.01.28
「心を楽にせよ」マタイによる福音書6章19~21節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon


2024.01.21
「隣人になろう」ルカによる福音書10章25~37節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 皆から『知恵ある先生、賢い先生』と呼ばれていた一人の律法の専門家が、イエスと弟子たち一行をスパイではありませんが伺っていた様です。彼らが注目されていたという事です。ただし注意人物としてですが。そしたら、彼の頭にカチンと来たんです。二つあります。
 ①17節七十二人と21節イエスの大喜びです。眉間にしわを寄せてたかどうかは分かりませんが、人のあら捜しと自分の落ち度無さに眼を奪われていた彼にとって、喜ぶ者と共に喜べと聖書にありますが、彼はその反対でした。
 ②「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子の様な者にお示しになりました」と言うイエスの言葉です。イエスはありのままの現実をほめたたえられたのですが、彼には自分に対する批判に聞こえました。
 
 それで彼はイエスを試みて困らせてやろうと思い25節の質問をしました。するとイエスはその答えを彼に振りました。その答えは律法の専門家である、あなたこそがその解答をなさるべきではありませんか。そしたら彼はイエスを困らせることを忘れ、律法学者のスイッチが入った様に、正確な回答をしました。皆さん、人というのは、まず受け入れられる事が大切なんです。そして、次にイエスは彼の心が開きかけたのを見て、彼自身が問われることになる28節の言葉を掛けられました。それは彼を困らせるためではなくて、彼が自分の誤りに気付き、彼自身が永遠の命を受け継ぐためでした。これは私たちも興味深いですね。
 
 彼の誤りは彼の弁解の言葉に示されています。29節「わたしの隣人とはだれですか」の『私の隣人』という言葉に現れていました。私が隣人になるのに、この人は相応しいかどうか。私がこの人の隣人になることで、どんな価値が生まれるのか。どんなに評価を受けるのか。これらを総合的に検討して私の隣人を私が決める、そういう隣人を『私の隣人』と言います。30節以下のたとえ話に出てくる、祭司とレビ人も追いはぎに襲われた人を見て、素早く自分の隣人とした場合のことを検討し、その結果この人は私の隣人としては不適当だと決定して、向こう側を通って行きました。
 
 皆さん、隣人とは自分で決めるものではありません。隣人とはただ『隣の人』と書きますね。これは、人は一人でいるのは良くない、と言われた神があなたの隣に、あなたの隣人として置かれた人のことです。ですから、29節の律法の専門家の「私の隣人とは誰か」という言い方は、「この人は私の隣人ではない、と私は見ます。隣人は私が決めます。神さまは関係ありません」ということになります。
 
 皆さん、世の中はそんな甘いものではなく厳しい、とよく言います。何が厳しいのでしょうか。これじゃないでしょうか。世の中では自分の立場や利益から隣人を見ます。世の中では自分自身もそのようにしか他人からは見られていません。そんなことが一番身近な家庭の中でも起こっています。ですから、私たちはこの追いはぎに襲われた人に自分を見ることができます。そして、この世の中に真実に自分の隣人となってくれる人がいるのだろうか、と言う重要な問題を思い起こします。
 
 今日の説教題は「隣人になりましょう」ですが、皆さん、私たちには自分が誰かの隣人になる前に、自分の隣人になってくれる人がいないという問題があります。だから、イエスはこのサマリヤ人の話をされました。
 
 サマリヤ人はこの追いはぎに襲われた人ユダヤ人から日ごろ苦しめられていました。だのに彼が隣人になりました。そんな人がいるのでしょうか。いるのです。実はこのサマリヤ人のたとえでイエスはご自分のことを話されています。
 
 神の子イエスも旅の途中でした。その旅とは天から始まりました。そこから人となってこの地に来られました。目的は真に人の隣人になるためでした。しかし、反対に人から苦しみを受け、十字架につけられ、殺され、葬られました。神はそのイエスを死人の中から甦らせました。甦ったイエスはまず自分を見捨てて逃げた弟子たちの所へ行かれました。文句を言う為ではありません。失望の中にいる彼らの隣人になるために。それからイエスは聖霊に一つのことを頼んで天に帰られました。「私がもう一度帰るまで、あなたが彼らの隣人になって、彼らを助け導いて下さい。費用はいくらかかっても良いです。最善を尽くしてください。足りない分は帰ってきた時に払いますから」。
 
 皆さん、永遠の命とは、どんなときにもいつまでも私たちの隣人になってくださるイエスさまを、心にお迎えすることから始まります。人はいつまでもその人の隣人になれません。限界があります。最終的には死という限界があります。しかし、十字架の苦しみを受けてまで「父よ,彼らをお赦しください」と祈って、徹底的に人の隣人となられたイエス、死人の中から甦って生きておられるイエスには限界はありません。
 
 神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛されました。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
 皆さん、私たちも傷を追っているのではないでしょうか。
イエスにあなたの傷をお見せて祈りましょう。
『私の傷にも油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてください。』
弱り果てているところをお見せて祈りましょう。『介抱してください。』

イエスがいつまでもどこまでもあなたの隣人です。死を前にした時もイエスがあなたの隣りにいます。その為にイエスは来られました。
 
 さて最後に、弟子たちも、この律法の専門家も、生涯忘れられない言葉があります。それが37節の「行って、あなたも同じようにしなさい。」です。わたしはできるのであろうか?難しいですね。しかし、イエスがあなたの隣人になられたのなら、事態は変わります。イエスには人を新しく造り変える力があります。
 
 イエスはもう一度来られる時の事を語られた時に、永遠の命に与る人たちの話を為さいました。最も小さい人たちの一人で飢えていた人に食べさせ、喉が渇いていた人に飲ませ、旅をしていた人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢に入れられた人を尋ねた、人たちが永遠の命にあずかりました。そして、その一人がご自分だった、その行為はイエスに行なったのと同じだ、と言われました。隣人になりましょう。それは自分の評価、価値、利益によってではなくて、あるいは、その点でガンバッテ行なうのではありません。ただただイエスから受けた恵みに応えるという行為です。これがあなたの隣人にまずなられたイエスのあなたへのメッセージです。
 
世界中の一人ひとりに隣人を置かれる神は今叫んでおられます。「この人の隣人は誰れですか」「どこに行ったのですか」。お祈りしましょう。


2024.01.14
「空の鳥と野の花を見なさい」マタイによる福音書6章25~34節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
★イエスさまは、2024年と言う新しい一年を歩み始めた皆さんに伝えたいことは皆さんが如何なる時と状況にありましても平安の内を歩む事です。「空の鳥と野の花を見なさい」もキーワードですが、一番のキーワードは33節の「何よりもまず」です。イエスは何を第一にしたら良いのかを伝えておられます。
★さて、「何を食べようか、飲もうか」と言われるのは、レストランでメニューのどれを選ぼうか、という事ではありません。「何を着ようか」と言われるのは、ファッション売り場で色やデザインやサイズをどれにしようかと迷う事でもありません。 
★そこで紹介したいのが新聖歌99番です。この歌はイエスの生涯を歌います。その一番は、『馬槽(まぶね)の中に、産声(うぶごえ)あげ、大工(たくみ)の家に、人となりて、貧しき憂い、生きる悩み、つぶさになめし、この人を見よ』です。
★イエスは生きる悩みを知っておられました。食べる為に種を蒔き、耕し、刈り取ります。家畜の世話をします。飲む為に井戸を掘り、水を汲み、家畜の乳を、栽培したブドウの果汁を搾ります。着るために糸を紡ぎ、布を織ります。これらが聖書の時代の生活の全てでした。つまり、何を食べようか、飲もうか。何を着ようかとは、生きる悩み苦労のことです。現代の私たちにも内容は様々ですが生きる悩みがあります。今日朗読された聖書の最後の34節で、イエスは、その日その日の生きる悩み労苦だけに集中する事を勧めるのであって、その悩み労苦を取り除く、とは言われませんでした。
★また、教会の看板にもよく引用されるイエスの言葉にマタイ11章28節があります。それは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」です。『疲れた者、重荷を負う者』という言葉から生きる悩みと労苦を連想します。しかし、その続き29節には、今負う重荷の代わりにイエスの軛を負うことを命じています。今度は独りで負うのではなくてイエスと一緒に負うわけですが、30節、そのイエスの軛によって依然重荷を負うことになります。しかし、その荷は軽いのです。いつか、この聖句から詳しくお話ししたいと思います。 今は、明らかになる一つのことだけを取り上げたいと思います。
★それは、イエスの後に着いて行っても、クリスチャンになっても、生きる悩み労苦は無くならない、という事です。この世で生きる事には悩みと労苦は付きものなのです。しかし、イエスは思い悩むな心配するなとおっしゃり、一つ問い掛けを為さいます。25節の最後、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。命が無かったら幾ら美味しい食べ物が沢山あってもしょうがないですね。体が無かったら幾ら綺麗な衣服があってもしょうがないですね。だから命と体の方が大切である。確かにその通りです。しかし、そんなことは分かり切ったことです。なぜイエスはこの様な問い掛けを為さるのでしょうか。私たちの間で、命と体があるというのが当たり前になっているからです。
★実はこの『大切』と翻訳されている言葉ですが、イエスは「より大い」と言う言葉を使われています。イエスが言いたいのはこう言うことです。『皆さん、あなたのその命があなたに与えられている事、あなたのその体があなたに与えられている事、その事の大きさがどんなに大きいか、奇跡と言っていい程の大いなることであるのを知っていますか』。『あなたのその命と、あなたのその体のために、神がどんなに関わって下さっているか分かっていますか。愛する独り子の命を犠牲にしても良い程に関わって下さっています。その大きさは、あなたが心奪われている生きる悩みと労苦と比べて、全く比べ物にならない程に圧倒的に大きいのです。この大きさのゆえに、生きるや闇と労苦に対する思いが変わります。人生が変わる、と言っても良い程にです。それ程に大きいのです』。教会はその大きさを伝えて来ました。ローマ837節「これら全てのことにおいて、私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」改訳。
★牧師夫婦は毎晩飯塚の町中をウォーキングしていましたが、寒い冬は場所を夕方の遠賀川のサイクリングロードに変更しています。サギ、カモ、セキレイ、トンビ、カラス、沢山の空の鳥と出会います。出会う野の花は土手で小さな黄色い花を咲かせている雑草です。彼らの生きる環境はわたしたち以上に過酷です。しかし、神の養いを信じて食べる事と飲むことに関して思い悩まない空の鳥や、神が装ってくださることを信じて着る事に関して思い悩まない野の花は、神が関わられる大きさがどんなに大きいかを証しています。神は彼ら以上にもっともっと大きく私たち人間と関わられます。ですから、32節、神はあなたに必要なものを全て知っておられます。この神を愛する者には「万事が益となるように共に働く」ローマ828ことを教会は見て来ました。
★33節の『神の国と神の義』はイエスによって起こる最大の神のあなたに対する関りのことです。イエスは十字架で死に葬られ三日目に死人の中から甦る事によって、あなたを神の国の国籍を持つ者にし、いつどこに居ようとも神は守り導かれます。また、あなたと神の関りを邪魔する全てのものを取り除き、その関係を義すなわち正しく保って下さいます。イエスによって実現している神の国と神の義と言う神の最大の関りを、まず第一に求め、その大きさを確認して一日をスタートしましょう。これが今日イエスが皆さんにおっしゃりたいことです。
お祈りしましょう。 


2024.01.07
「イエスさまの後に着いて行こう」マタイによる福音書3章16節~4章11節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 神の子であったのに生まれる場所が与えられず、飼い葉桶に寝かされた幼子イエスは、マリアとヨセフによって育てられ成人し、父ヨセフの大工仕事を手伝いながら、時を伺いっていました。それはキリストとして世の中に出て行く時でした。ヨハネが荒れ野で洗礼活動を始めた時、イエスは決めました。『今だ!あの荒れ野でヨハネから洗礼を受けてスタートとする、それがキリストに相応しい』と。
 
 イエスはヨハネから洗礼を受けてキリストとしてスタートされました。それから約三年間、弟子達と共に歩まれた後、イエスは十字架で苦しみを受けて死に、墓に葬られました。しかし、三日目にイエスは神によって死人の中から甦らされ、キリストとしての救いの業を終えられました。そして、天に昇り、父なる神の右の座に就かれ、正真正銘の父なる神から遣わされた神の子、私たちの救い主イエス・キリストであることを明らかにされました。
 
 さて、天に昇られる前にキリストは、残された11人の弟子に近付き、彼らに二つの指示を与えられました。第一は、天に帰った後、残された弟子たちでキリストの事を伝え、その結果「わたしもキリストの後に着いて行きます」、と告白した人をキリストの弟子にすることでした。弟子たちはその指示に従い、新らしく弟子になる人が起こされ、教会が生まれました。
 
 第二の指示は、新しく弟子になった人たちを、キリストと同じ様に洗礼によって弟子としての歩みをスタートさせなさい、という内容でした。エルサレムで最後の晩餐をした夜に、イエスは弟子たちに「わたしは道である」と言われたことがありました。また、ガリラヤで「わたしの後に着いて来たいと思う人は、自分の十字架を背負って着いて来なさい」と言われたこともありました。
 
ですから、もう一つの指示とは、12弟子のように実際にキリストの後に着いて行く事ができない新しい弟子・キリスト者・クリスチャンは、キリストが歩まれた道やその足跡を模範とすることで、キリストの後についてきなさい、ということだったのでした。
 
 それで12弟子のひとり、ペテロがアジアの各地で信仰生活に励んでいる弟子たちを励ます為に書いた手紙の221でも、次のように書いています。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。
 
 教会はキリストの指示に従って伝えます。「わたしについてきなさい。そして、わたしの弟子になりなさい。そしてわたしの弟子としてスタートしませんか」。
 
これは難しいことはありません。習字に似ています。習字教室は今3歳から入会できるそうです。習字はお手本(下書き)を上からなどることの繰り返しです。最初は当然お手本から外れます。字に癖がある人もいるでしょう。なかなかお手本通りには行きません。それでいいのです。しかし、繰り返すことが大切です。少しづつ整えられて行きます。
 
 キリストが私たちの進むべき道を示しておられます。模範であり、お手本です。でもキリストと全く同じになりなさい、というのではありません。
 
先程習字の話しをしました。習字の次があります。書道です。習字の目的はお手本で訓練を受けた自分が、今度は自分の字を書きます。自分の心とか思いを込めて他の人では書けない自分の字を書きます。それが書道です。
 
 キリストの弟子もキリストと全く同じになるのではありません。実際そんな事はできませんが。そうではなくてキリストに訓練され導かれた自分として自分の道を進むのです。それは不自由ではなく冒険です。アドベンチャーです。
洗礼を受けた後、キリストはどうなったのでしょうか。キリストの後について行く人も、今はまだの人も注目しましょう。
 
洗礼を受けられた後、天から声が聞こえました。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」。この声は、キリストの後に着いて行って弟子になる事を決心して、洗礼を受けてスタートした人に対して、いつの時代においても与えられている天からの声です。「これは私の愛する子」。この言い方は神があなたのことを紹介する言い方ですね。神は正式に私たちのことを「わたしの愛する子なんですよ」、と紹介して下さいます。今日、私たちは改めてこの言葉を神のラブコールとして受け止めましょう。でも皆さんが気になるのは、「わたしの心に適う者」という言葉ではないでしょうか。この箇所の翻訳は新改訳の方が原語に近いので紹介します。「わたしはこれを喜ぶ(期待する喜び)」。これもラブコールですね。
 
 今日もキリストは招かれます。「わたしに着いて来なさい」。皆さん、応えて下さい。「こんな私でもついて行っていいんですか」「こんな私でも着いて行けるのでしょうか」という、神への問い掛けでも良いです。「私も着いて行きたいと思います」「着いて行くと思います」というハッキリしない返事でも良いです。この礼拝の中で祈って神に伝えて下さい。
 
 さて、この様に天からの声を受けてイエスのキリストとしての公の生涯が始まりました。この後どうなったのでしょうか。4章に進みましょう。ここを読んで、皆さん疑問に思われたのではないでしょうか。神はラブコールを送ったイエスを荒れ野へ連れて行かれました。そこは人間が生活するのには余りにも厳しい環境でした。そしてわざわざ40日間、何も食べさせないで、お腹がペコペコになった時に、神は誘惑する者をイエスに遣わされました。なぜ神はイエスにこの様な事をなさるのでしょうか?
 
 皆さん、神は愛する子を鍛えられる父なる神です。もし鍛えられなかったら、実の子ではありません。40日間とは「神様もう限界です」、「どうしてこんな目にわたしを合わせるのですか」と、神の愛を受け取っているのかどうかが試される時です。キリストの後に着いて行く時、私たちも日常生活でこの事を経験します。そんな時に神への不満を感じ、神の愛への疑いも起こって来ます。この様な時に大切なことは、私たちの進むべき道であり、私たちの模範であり、お手本であるイエスを思い出す事です。
 
 悪魔は三つの誘惑をしました。誘惑と言うのは神の愛を受け取るのを邪魔することです。イエスが受けられた誘惑を、簡単に言い換えるとだいたいこんな内容です。
『神に愛されている神の子なのに何故食べ物が無いんだ。』
『神に愛されている神の子だったら、困った時に天使が助けてくれるのではないか。』
『神はお前のことを愛していない。それよりも私を神としないか。ご利益があるよ。』
皆さん、この三つの誘惑を聞いて改めて思いますね、この誘惑は私たちの現実によくある事です。
 
この誘惑に対してイエスは申命記と言う旧約聖書から神の言葉に耳を傾け、そこから神の愛のメッセージを聞き、それを受け止めて対抗されました。マタイ46で悪魔も申命記の聖書の言葉を持ち出して来ました。しかし、悪魔はそこから神の愛のメッセージを聞き、それを受け止めませんでした。結局11節で悪魔は離れ去って、天使たちが来てイエスに仕えました。
 
私達も今、申命記77829から神からの愛のメッセージを聞きましょう。
 
あなたがたがどの民よりも数が多かったから、主があなたがたに心引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたは、どの民よりも少なかった。ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに、
 
 
お気づきでしょうか。聖書の言葉の中に神の愛が溢れています。キリストはそこから神の愛を受け取りました。私たちもこの2024年、聖書のみ言葉から神の愛を受け続けましょう。2024年も毎週の礼拝で、あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯、と皆さんで声を合わせましょう。この光と灯は神の愛のことです。キリストに倣って模範としてキリストの後に着いて行きましょう。

2023.12.31
「主は私の羊飼い」詩篇23篇

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 皆さん、人間はエデンの園に大切なものを置いて来ました。忘れて来ました。その大切なものとは神との深い関係と、その中で与えられる本当の自由と幸せです。ヘビが唆した、禁断の実を食べても良い自由は、人間に自由と幸せの反対をもたらせ、洪水による絶滅寸前まで行き着き、神の憐れみによって洪水が止められ、人間の再出発と言う結果になりました。神はそんな人間に「ちょっと、そこのあなた。そう、あなたです。大切なものを忘れていませんか」と追い掛け続けて来られました。
 
2024年も神は追い掛け続けられます。今日、その声に耳を傾けて、立ち止まり、神の方に目を向けましょう。既に神からその大切なものを受け取られた皆さんは、それを今も確り握っておられることを、今日確認いたしましょう。
 
 神は人間追跡大計画を立てられました。それは具体的に一人の人を選び、その人から一つの民族を生み出し、彼らを神の民とし、彼らと共に歩まれ、彼らを通して全人類を追い掛ける、とい計画です。神はその神の民を結成する時に特別の方法を取られました。神はまず彼らを当時最強の国であったエジプトの奴隷にして苦しむ経験をさせられました。それからそのエジプト王の支配から彼らを救い、自由になる経験をさせられました。『ああ、もう強制労働に就かなくていい、自由だ』と彼らは喜びました。しかし、その自由だけで終わっていたら、彼らはエジプトの追っ手に捕まるか、荒れ野で飢え死にするかのどちらかでした。
 
 神は自由になった彼らに御自身のことを示し、シナイ山の麓で、今までエジプトの支配の中で奴隷として歩んで来た彼らに、神の支配の中を歩む神の民になるよう招かれました。それは口だけのことではなくて、契約を伴う正式な招きでした。彼らはそれに応え、神と共に荒れ野の旅に出発しました。彼らはその旅で、神の支配の中を歩む時に与えられる本当の自由と幸せを経験しました。その様にして彼らは神の民として育てられました。
 荒れ野の旅が終わり、神は約束していた土地に彼らを住まわせ祝福し、王を立て、神の民の国を築かせられました。今日朗読された詩編23編はその国の王ダビデが作った詩で、人間が忘れている大切なもの、神が下さる本当の自由と幸いを歌っています。 
 
 1節、神は天国にいてこの地上を眺めている方ではありません。ダビデは歌います「主はわたしの羊飼い」。実は原文では「わたし」という言葉が付いています。クリスマスの夜、寝ずの番をして羊を見守っていたのは羊飼いでした。羊飼いは羊から決して離れません。イエスは神を、一匹の迷子の羊を見つけるまで探す羊飼いに譬えられました。「わたしの羊飼い」、とあります。皆さん一人ひとりと関わられる羊飼いです。
   「あれもこれも手に入る自由」は欲望の支配下にあるのであって、いつも「これでは足りないのではないか」、と不安が付きまとい自由ではありません。「わたしには何も欠けることがない」。「わたしは豊かに与えられている」のではありません。必要なものは必ず与えられる。だから欠けることがない。ここには手に入れるものの内容に左右されない本当の自由がありますね。そして、そこには、安心がありますね。来年もこの安心を頂いて歩みましょう。
 
 2節は歌います。その安心は羊飼いに対する信頼から来ます。青草の原は栄養ある牧草です。そこで休むとはお腹いっぱいになって安心して居眠りをすることです。羊飼いに信頼し切っているから出来ることです。特に水を飲む所には他の動物も来ます。ですから周りを警戒しなければなりません。しかし、そこが憩いの水のほとりになるという事は、見守る羊飼いに信頼し切っている、という事になります。神はこの信頼関係を通して、安心を与え、その安心によって人には出来ない魂の生き返り、すなわち人間の回復と再生をして下さいます。
 
 3節羊を正しい道に導かれる羊飼いは、丁度パラリンピックのランナーの伴走者に似ています。ランナーはコースに関しては全面的に伴走者に委ね、ただ一歩一歩のランニングに専念します。神は私たちの伴走者ですから、私たちは明日のことはお任せして、一日一日の歩みに集中しましょう。
 
 4節では、そのものずばり「あなたがわたしと共にいてくださる」とありますが、そのことに疑問を待たざるを得ない現実、例えば災いや死に瀕する場に立たされる時があります。たといそうであっても、神が私と共におられるから恐れる必要はありません。神の民とダビデはそれを経験しました。そして、私たちもそれが約束されています。
 神は王ダビデに預言者を遣わして進む方向を示しました。時には色々な試練や懲らしめを与えて、進む方向を正しました。ダビデは王になる前、羊飼いをしていましたから、『ああ神は私の羊飼いでわたしは神の羊なんだなあ』と思いこの詩を作りました。羊は羊飼いが側にいることを、羊飼いがいつも持っている鞭と杖で確認します。羊飼いが鞭や杖を使って、羊が進む方向を示し正しました。今、私たちは御言葉によって、何をしたら良いのか示され、どの様に進むべきか正されます。それが神が共におられるしるしです。
 
 4節の終わりに「力づける」とある言葉は「慰める」という言葉です。今から約450年前、ドイツのハイデルベルグという町で、教会の皆さんの為に信仰問答集が作られました。129問あります。その第一問は「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」でした。そして、その答えは「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることです」。羊のために命を捨てて下さる、99匹を置いても一匹を捜し続けて下さる良い羊飼い、イエス・キリストの羊であるところに慰めがあります。キリストのものとして、私たちは来年も歩ませていただきましょう。
 
 5節「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」。ある有名な料理家が言っておられます。「食卓に用意される料理が追求するのは、グルメでも美食でもなく、愛の表現です」。食卓に着く人の頭に良い匂いのする油を注ぐのは、その食卓への正式な招待のしるしです。杯は歓迎と喜びを表します。皆さん、私たちの人生の中で苦しみを受ける時があります。どのような時にも共におられる神の僕は幸せです。苦しみの只中にあるのにまるで整えられた食卓に招かれ、その席に着いているがごとくに、神は私たちを取り扱ってくださるからです。杯は人の人生をも表します。新しい年、苦しめる者を前にする時、羊飼いである主、良い羊飼いであるイエス・キリストは、如何なる時、如何なる状況においても、わたしたちの人生を溢れさせて下さるお方です。皆さん人生の杯で大切なのは、その大きさでも、美しさでもありません。その盃を溢れさせられることです。神はそれをして下さるお方です。
 
 6節人自らが神さまから離れようとしても、神の方が追い掛けて来られます。命のあるかぎり、終わりの日までです。そして、最後に行きつく所は主の家です。明日から始まる2024年、「主はわたしの羊飼い」と、私たちは歌って進みます。この後新聖歌255番を選びました。これは今年亡くなられた英国の女王の愛唱賛美歌で、葬儀の中だ歌われた三曲の真ん中で歌われ世界中に響きました。それを歌いましょう。お祈りします。


2023.12.24
「深い深い喜び」ルカによる福音書2章1~11節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 メリークリスマス、そして、神さま、教会を代表いたしまして、あなたの独り子、主イエス・キリストの誕生を、この2023年も思い起こし、遅ればせながらですが心からの歓迎とお喜びを申し上げます。
 
 世の中ではメリークリスマス、と賑やかに言われています。しかし教会は、メリークリスマスだけでは不十分であることを知っています。その賑やかさではまだまだクリスマスの喜びが十分に表されていない、という事です。もっと騒げと言うのではありません。
 
 皆さん、喜びはプラスで悲しみや苦しみはマイナス、としましょう。大学入試の合格発表掲示板の前で喜びに溢れている人達がいます。彼らは同じプラス10の喜びを受けました。しかし、その中に他の人とどこか違う喜び方をしている人がいました。その人は他の人よりもさらにマイナス10の悲しみとか苦しみを経験しての合格でした。併せて20という深さのある喜びだったのでした。皆さん、クリスマスの喜びは、これなんです。
 
 今日読んでいただきました聖書の中心は6-7節です。1-5節は6-7節に至った理由が書いてあります。6-7節をもう一度読みます。
 『ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである』。
 ここにクリスマスのマイナスの部分が綴られています。皆さん、私たちは今日、ここを通ってからクリスマスを喜びましょう。
 
 神は世界の初めの時から人間に寄り添って来られました。神は世界が出来上がる前、一番最初に何と言われたと思いますか。開口一番に言われたのは「光あれ」でした。これは太陽の光でも月や星の光でもありません。この世界でこれから生きるあらゆる生きもの、そして人間に対して、「あなたがたには失望に終わらない希望がある!それを私が与える!」という宣言でした。旧約聖書は神が人間に寄り添い続けられたことと、その神を拒み続けた人間の物語です。人間はしょうがないですね。でも神は諦めませんでした。
 とうとう神はご自分の身分を捨てて人間になるという、一大決心を為さいました。それもご自分ではなくて、愛する独り子イエス・キリストを代わりに遣わされました。父なる神の子に対する心配や心の葛藤は如何ばかりかです。
 神が選ばれた時は、皇帝アウグストォスの住民登録の勅令が出る時でした。住民登録とは、自分が獲得した領土の人口は何人なのかを調べ、それによってその領土から幾らの収入が見込め、ローマ帝国の経済を支えることが出来るか、それが目的でした。住民に対する考慮等は一切ありませんでした。それでお腹の大きいマリアはナザレからベツレヘムまでの約150キロの危険な旅を強制させられました。やっとの思いでベツレヘムに到着しましたが、出産という緊急優先の状態であるのにも関わらず、誰もその場所を提供できませんでした。小さな村に人が溢れて混乱していたのでしょう。家畜が休む場所でマリアは出産しました。ですから、ベビーベッドは飼い葉桶でした。
 
 彼らを歓迎する者も、目を留める者さえいませんでした。出産を喜び祝う人もいませんでした。今でいうなら戦禍の中や難民キャンプの混乱の中で、キリストがお生まれになられた様なものです。ウクライナやガザの状況を思い出してください。神はキリストをその様な所に生まれさせられました。こんなことはあってはならない、そう言うことが私たちの社会の中で起こりますね。ニュースでも取り上げられています。そんな時に皆さん、思い出してください。イエス・キリストはその様な所に生まれて下さいました。それはその様な暗闇をなくすため、そこに光を照らす為です。ですから、私たちもそのような所に無関心であってはなりません。主がそこに関わられたのですから。このお方は後に不当な裁判にかけられ、当時の極刑であった十字架につけられ、苦しんで絶望の死を遂げ、葬られます。人間の暗闇をなくすため、そこに光を照らす為です。
 
皆さん、もし、わたしたちが2000年前のベツレヘムにいたら、どうしたでしょうか。私たちも自分のことで頭が一杯で、聖家族に目を留めることはなかったでしょう。キリストの誕生でさえ気付かなかったでしょう。このクリスマスのマイナスの部分を私たちは忘れてはなりません。
 
 この悲しい出来事を通った後で、神はクリスマスの喜び、プラスの部分を宣言するように天使に命じられました。1011節はその時にベツレヘムの町外れにいた羊飼いに語られた言葉です。彼らは距離的にベツレヘムから離れていただけではありません。皇帝の住民登録という事から全く外されていた人たちでした。この羊飼いたちと私たちは重なる所があります。ですから10-11節の言葉は、ベツレヘムで起こっている事や、皇帝の住民登録勅令と、時間においても空間においても、この羊飼いたちよりもズーッとズーッと外れにいる私たちへのことばでもあります。聞いて下さい。「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。あなたがたにはあなたが含まれています。
 
 本来なら、恐れなければなりません。神の子に居場所を与えず、歓迎せず、目も止めない、気付きもしない、それが私たちの現実なのですから。しかし、神は宣言されます。恐れるな。大きな喜びをあなたにも告げる。あなたのために救い主、主イエス・キリストがお生まれになったのだ。これはあなたにとって大きな喜びです。それは「メリークリスマス」だけでは言い足りない、深い深い、本当に深い喜びなのです。お祈りしましょう。


2023.12.17
「神と共に第一歩」マタイによる福音書1章18~25節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 19節で言われている様に、ヨセフは正しい人としての行動をとりました。しかし、皆さん、この正しい人とは、どういう人のことでしょうか。
ヨセフは将来の夫として、婚約中のマリアと始める結婚生活の準備をしていました。新居、生活費、・・・その他にも色々ありました。その頃は当然結納金持参金のこともあったでしょうね。そんな彼がマリアから聖霊によって身ごもっていることを聞いて、どう思ったでしょうか。もしそれが本当だとしたら、その結婚生活は自分の思いとは違う、問題のある関わりたくない大変な結婚生活になるだろうな、と思えたのではないでしょうか。
 
 しかし、ヨセフはそれ以前に聖霊による妊娠自体を信じることが出来なかったでしょう。『マリアはそんなことを言っているが、私以外の男性と関係を持ったとしか考えられない。どんな事情があるにせよ、マリアは過ちを犯した、が私は正しい、何の落ち度もない』。もし、ヨセフが、自分の正しさをもって相手を裁く、そう言う正しい人だったら、彼はマリアのことを表ざたにして、訴えたに違いありません。しかし、ヨセフはその様な正しい人ではありませんでした。
 
 彼はマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切る決心をする、という人でした。マリアを本当に愛していたんですね。ですから、その時ヨセフは本当の意味でマリアとの結婚の準備が出来ていたんですね。ヨセフはいい人ですね!
 
 神にはその様な愛がベースにある正しさを持ったヨセフに対して、もう一つの大切なものを持たせる計画がありました。皆さん、皆さんにもこのもう一つ大切なものをもって頂きたいのです。20節、神は天使を遣わして「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。天使が告げる神に従うのか、それとも従わないか。ここが大切ですね。神の存在を信じるだけではありません。今日の説教題「神と共に、第一歩」には、神の存在を信じるだけで終わらず、もう一歩進む、という意味が込められています。神に従うとは、神を主とし自分は僕となるという事です。どうする、ヨセフ! 24節でヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎え入れました。
 
 どうして、彼はそうしたのでしょうか。ヨセフはマリアと違って終始無言でした。22-23節の解説にそのヒントが隠されています。預言者イザヤが既に預言していました。マリアが生む子によって「神が共におられる」という事が本当である、確かであることが明らかになります。預言者イザヤは、巨大な帝国、エジプトとアッシリアとバビロニアとペルシャの支配下で、大海の中の小舟のごとく翻弄された人々に、神が共にいます故に、恐れず最後まで神に従え、とのメッセージを語った預言者でした。
 ヨセフには自信がありませんでした。そうです皆さん、神に従う自信がある人は一人もいません。神が共におられる、それは苦しい時の神頼みではありません。天使が伝えた21節の言葉の最後に注目してください。「この子は自分の民を罪から救うからである」。罪というのは神と人の間にある壁の様なものです。神が共におられるとは、神との間にもはやじゃまするものは何もなく、神が寄り添い、神が確り繋がることです。
 
この関係をキリストはぶどうの木に譬えられました「私はぶどうの木あなたがたはその枝である。私とつながっていなさい。そうすれば私はあなたがたとつながっていよう。その人は実を豊かに結ぶようになる。ヨハネ15章」。ぶどうの木の幹と枝は繋がっているから養分が枝に届き実を結びます。もし、その間に邪魔するものが入るなら実は結びません。
しかし、私たち人間と神との接点が神以外のものによって覆われています。身分、能力、財産等色々な物がそこを覆います。敵意、争い、嫉妬、高慢、分裂分派等の思いがそこを覆います。この接点の覆いの全てを操って、何とか神が人間と繋がらない様に邪魔しているのが罪です。
 
この神と人の接点の覆いを取り除かなければ、「神、共にいます」は実現いたしません。神がイエス・キリストをマリアから生まれさせた目的は、この神と人間との接点にある覆いを取り除いて、接点の明け渡しを受けることです。接点を罪から買い取る為に、神は明け渡し代金としてキリストの命を支払われます。イエス・キリストを信じるとは、キリストが私を罪から買い取られた、という内容の領収書を受け取ることです。その領収書の宛名には、あなたの名前が記されます。金額欄には神の子イエス・キリストの命、と記されます。但し書きには、神と人の接点買取代金、と記されます。そして、日付欄には、このイエス・キリストの救いを信じて神に従う事を決心した日が記されます。一番下に罪本人の住所と署名と印。
 
 ヨセフは22-23節に記されている説明を受けたのではありません。しかし、彼は天使から確かに聞きました。マリアから生まれる子は罪から救うお方になる。正しいヨセフは罪に支配されている人間の現実を知る人でもありました。彼は罪からの救いを求め、神を信じてマリアを妻に迎え、イエスの父親になる第一歩を踏み出しました。
 皆さんはどうでしょうか。私たちも罪からの救いが必要です。神はあなたとの接点を取り戻してくださいます。そして神と共に今日、第一歩を踏み出しませんか。すでに踏み出されている方々、神との接点を点検しましょう。そして新たな一歩を踏み出しましょう。主と共に一歩踏み出す方々と主は共にいて下さいます。身分、能力、財産、敵意、争い、嫉妬、高慢、分裂分派が大きな顔をして、今もこの世界の隅々まで横行しています。その覆いからその支配から解放してくださるイエス・キリストを迎えましょう。そして、イエス・キリストの喜ばれる平和の実を、それぞれの遣わされた所で結ぶために歩ませて頂きましょう。教会は神と共に第一歩を世界中の人が踏み出すことを祈ります。


2023.12.10
「わたしは主のはしため」ルカによる福音書1章26~38節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
★広い視野からクリスマスを眺めよう
 クリスマスとは何なのか、それは、この世界の始まりから終わりまでを見渡す程の、広い視野に立たなければ分かりません。アドベント待降節という期間は、一年の中で特にその広い視野に立つ期間です。
★世界の初め
 神はこの世界を造り、そして人間を造った時に、人間と共に生活する場所を用意されました。エデンの園です。神は人間と共に歩む形でこの世界をスタートさせました。「アダム―」「はーい」。「エバー」「はーい」。アダムとエバが呼べば「何だい」と神は答えて下さる。エデンの園は、親子の関係の様、決して見捨てない、という深い関係を育むための場所でした。この様にして人間は始まった、先週はそれが人間の原点だと聞きました。
★洪水
 しかし、人間は神からどんどん離れて行きました。それで神は心を痛め、とうとう人間を造ったことを後悔し、洪水でこの地上から人間もろとも生き物をぬぐい去られました。しかし、最後に思い止まり、箱舟の中のノアと生き物たちが生き残りました。再出発です。その時に神はもうこの様な事は二度としないと誓われ、神は人間との関係回復のために新たな計画を立てられたのでありました。
★召命
 今度は召命という形で神の方から人間に近付かれました。神の方から具体的に人を選び、招き、神の計画に加わる使命を与える、それが召命です。アブラハム・イサク・ヤコブ・そしてヤコブの子どもから生まれた12部族と共に神は歩まれ、エジブトの奴隷の中から贖う形で彼らを神の民に召されます。そして、彼らの中に住まい、彼らに国土を与え、彼らを通して他の人間を祝福して関係を深める、と言う計画を神は進められました。ところが富と権力を手にした彼らは、だんだん神から離れて行きました。エデンの園の時のようになってはいけないので、神は沢山の預言者を立てて、彼らの歩みを正そうとされましたが、とうとう彼らは神の神殿に他の神を持ち込むようになりました。それで神自身彼らの中に住めなくなり離れて行かざるを得なくなりました。
★崩壊
 その結果、国は滅び神殿は破壊され彼らは流浪の民となりました。しかし憐れみ深い神は彼らを帰還させますが、彼らと神との関係は回復できませんでした。神はそれでも彼らと寄り添い続け、第三の計画、最後の計画をお立てになり、それを実行する機会を伺っておられました。
★神は最後の計画
 その計画とは神が神の身分を捨てて人間と同じになり、神と人間の関係を完全に回復させる計画でした。神の独り子イエス・キリストがそれを実行されました。このような流れでクリスマスが起こりました。クリスマスは神が人間との関係を回復させるために実行に移された最後の計画の最初の出来事であることが分かりました。最後の計画ですから、イエス・キリストの誕生において世界は終末期に入ったとも言うことができます。イエスが公に活動を開始した時、一番最初に「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのは、この終末期に入ったからでした。この神の最後の計画に、あなたも招かれています。この招きを受けて下さい。受入れ応じて下さい。だからクリスマスを祝うんです。喜ぶんです。どの様に受入ればよいのでしょうか。それを世界で最初に経験したマリアに注目して下さい。
★聖霊が降る
 35節で天使がマリアに告げました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。神がマリアに大接近されます。「だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。神は神の子イエス・キリストをマリアの体の中に置かれます。この後、胎盤とへその緒でマリアとイエスが繋がります。そして何が起こるのでしょうか。調べました。小川クリニック委員長、小川博康先生のホームページを参考にして紹介します。五つの事が起こっているそうです。
 ①赤ちゃんへ酸素を送る②栄養を送る③赤ちゃんから二酸化炭素を受け取る④老廃物を受け取る⑤最近の研究で分かったことで、母の胎盤と赤ちゃんの間をメッセージ物質が行き来している。
 これを読んで思いましたね、母子は一体である。神の人間の関係回復のために実行に移された最後の手段とは、この様に人間と一体になる事でした。旧約聖書で神は、契約を結び、律法を与え、テントや神殿の至聖所に臨在し、力強い御手を伸べて助け、預言者を遣わして諭し、神の民と具体的に関わられましたが、この様な事は未だかつてありませんでしたし、これからもありません。
★主のはしため、主の下僕
 その頃、マリアは婚約者ヨセフと今後の結婚生活について色々と計画していたに違いありません。自分の思い通りに人生を進める、と言うのは一見良いように見えますが、その結果が良いか悪いかは分かりません。明日はどうなるか分からない。非常に不安定ですね。それで占いをしたりおみくじを引いたり厄除けをしたりするんですね。自分の思い通りにするのか、それとも・・・・。どうするマリア!。
その時にガブリエルがマリアの背中を押す言葉を掛けてくれました。「神に出来ない事は何一つない」。聖書を読むとこう言うことが他にも出てきます。旧約聖書でイサクを出産する90歳のサラの背中を押した天使の言葉「主に不可能なことがあろうか」。自分の救いを疑った人々にイエスは言われた「人には出来ないが神には出来る」。
マリアは全能の神に任せました。神に任せるとは、神のはしため、神の僕になることです。マリアは主のはしためとなりお腹の中に主を迎えました。私たちの場合、生活の具体的な場面にキリストを主人として迎え、自分をそのはしため僕として、主と共に一体となって生活しましょう。イエスさまならどうなさるだろうか?神さまはどう思われるだろうか?すると不思議ですが必ず神が確かに共にいて下さる事を体験します。神の使いガブリエルは今日の皆さんにも伝えます。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとも共におられます。」


2023.12.03
「闇の中で輝く光」ヨハネによる福音書1章1~5節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 アイススケートのジャンプで必要なのは回転軸が振れないことです。私達の人生も振れない軸が必要です。今から約2000年前、誕生したばかりの教会はローマ帝国とユダヤ人から猛烈な迫害を受けていました。その様な非常に厳しい状況の中で、何があっても何が起こっても、振れない軸を持って生き抜く為に、このヨハネ福音書は綴られました。
 
ヨハネは筆を取って祈りました。「神さま、これから福音書を書いて行きますが、どうか私を導いてください」。そして、『初めに』と筆を進めました。聖書で、この言葉で始まる書がもう一つだけあります。1頁を開けて下さい。創世記11節「初めに、神は天地を創造された」。この創世記はヨハネ福音書より約600年以上前、同様に神に祈って書かれました。その時の状況は、神の民がこれまで築いて来た、国家、神殿、国土、家族、財産、全てのものが壊され、全く希望の光が見えない暗闇の状況でした。その中で内があっても何が起こっても振れない軸を持って生き抜く為に、この創世記も綴られました。
 
 皆さん、物事に行き詰まった時に「原点に返れ」とよく言われますね。ヨハネ福音書も創世記も『初めに…』と綴り出したのは、原点に返るためでした。創世記は伝えます。人間もこの世界も神から始まった。それが原点だ。だから、この世には神と無関係のものは何一つない。讃美歌集である詩編46は歌います。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」。たとい天地がひっくり返ろうとも、この神を信じて進もう。
 
 ヨハネもその神を信じて進むのですが、あまりにも厳しい状況の中、どうしても希望が見えなくなって、神にもう一度尋ねました。『神さま、原点を教えてください。それが私たちの軸になります』。神からの答えがありました。12節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。この『言』とは私たちの救い主イエス・キリストのことです。「初めにイエスがあった。イエスは神と共にあった。イエスは神であった。イエスは、初めに神と共にあった」。この方が分かりやすいです。なぜ神は『言』とわざわざ言い換え、分かりにくくされたのでしょうか。不思議です。二つ理由があります。
 
①使徒パウロは訪問した教会に沢山の手紙を出しました。新約聖書に13もあります。その手紙中でパウロは、イエス・キリストのことを、繰り返し同じ言葉で説明しています。『イエスのことは神の秘密の計画です』。神の秘密、それはミステリー、奥義、という特別の言葉が使われています。本当に重要なことは簡単に話すものではありません。ですから神はヨハネに対して、イエス・キリストという言葉を17節まで使いませんでした。
②『言』が人間特有のコミュニケーションそのものだからです。『言』は話し言葉だけではありません。ローア部の兄弟姉妹方が使われる手話も『言』です。視力に不自由さを持つ方が使う点字も『言』です。その他のコミュニケーションツールもこの『言』に含まれます。神が初めに願われたことは、人間とのコミュニケーションを、深い深い関係を持つことでした。その為に神は少々誤解が生じても良いから大胆な行動をとられました。神はただお一人なのですが、人間との深い深い関係を持つために、もう一人の神、『言』という神となられました。それで天地創造の神が『言』である神でもあることを、3節は伝えています。それ程に神は、人間と深い深い関係を持つことを第一とされるお方です。それで神をイエス・キリストを『言』と表現しました。
神はイエス・キリストを通してあなたと非常に深い深い関係を持つことを願っておられます。それはあなたにとって非常に重要なことです。なぜなら神とあなたとの関係が、人間としての軸を、生活の軸を、信仰の軸を、何があっても何が起こっても振れない軸をうみだすからです。
 
 4節「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。イエス自身がご自分のことを命だと言っておられます。例えば、死んだ友人ラザロを訪問して復活させた時に『わたしは復活であり、命である』とおっしゃいました。過越し祭の前日、その夜が最後の夜になるのを知らない弟子たちに『わたしは道であり、真理であり、命である』とおっしゃいました。その命であるキリストが人間を照らす光なのです。例えば皆さん、月はそれ自体光りません。だから月は死んでいます。しかし、太陽の光を受けて月は生きるのです。それと似ています。イエス・キリストは人間を照らす光、人間を生かすお方です。
 
イエス自身が「わたしは世の光である」と言われた時がありました。それは不倫の罪を犯した女性をイエスの前に引っ張って来た人々が、「先生、モーセは律法の中でこういう罪人は石で打ち殺せと命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と質問した時でした。イエスは答えられました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉は、真っ暗な部屋で電気をパッとつけた様に、赦さない、赦せないと言う思いを持って集った人全員を照らす光の様でした。このイエスの言葉で『私は罪を犯したことがある』と全員思い出しました。それから『今自分が生かされているのは、赦されているからだ』という事にも気付かされました。それで石を投げる者は一人もいませんでした。今、ミサイルや大砲や空爆を支持する人にこのイエスの言葉を聞いて欲しい。この言葉を思い出して欲しい、皆さん、そんな思い湧いてきますね。
 
5節「光は暗闇の中で輝いている」。光は今も輝いています。このイエス・キリストの光は、人間の中にある『赦せない』『赦さない』という思いを照らすために、『そう思う前に自分自身が赦されている』ということに気付かせるために、今も輝いています。私たち、そして世界中の人がこのイエスの光によって暗闇を照らされる必要があります。5節の続きの言葉「暗闇は光を理解しなかった」は伝えます。私たちの中にある暗闇は私たちに光を避けさせよう、光から遠ざけようとします。しかし、皆さん勇気を出して光に向かいましょう。暗闇がいかに大きく深く強くとも、イエス・キリストという光は決して消えません。世界中で輝き続けます。『赦せない赦さないとする以前に赦されていることに気付かせて下さい』と祈りつつイエス・キリストの光に向かいましょう。そこで皆さん、祈りには二種類あります。ご存知でしょうか。鯛と鱒です。「神さま、わたしはイエス・キリストの光に向かい鯛(たい)、ではなくて、光に向かい鱒(ます)、導いて下さい、と祈りましょう。
 

2023.11.19
「父の祝福」マタイによる福音書25章31~46節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」31節のこの御言葉は私たちにとって希望の言葉ですね。地上の悪しき力が全て滅ぼされ、キリストが神の栄光の座におられます。柔和で平和を実現されるキリストが全てのことを決定される日です。それは最後の審判の日です。ウクライナ戦争の終息は見えず、イスラエルとパレスチナの戦争も始まり、地上はいつまで神さまを悲しませているのでしょうか。私たちは、主の来られるその日を待ちわびます。最後の審判と聞くと恐ろしい日のように思いますが、実はその日は父なる神さまの憐みの日です。今朝はそのことを聞きましょう。
 
 32節、イエス様は全世界の人々を羊と山羊に例えて話されます。聖書の舞台イスラエルでは羊や山羊が飼われることは日常の事でした。もし、その時代に雑誌があったとしたら、「あなたの羊が美味しくなる情報誌」「コクの深いミルクを出す山羊の育て方」なんてタイトルの本が出版されたら、買う人が殺到したことでしょう。羊と山羊の価値が上がりますからね。羊と山羊はそれぐらい身近な動物でした。羊飼いは、昼間は羊と山羊を一緒に放牧し、夜になると別々に眠らせました。イエス様は、人々がもっとも情景が良く浮かぶ事柄を通して最後の審判を語られます。33節「羊を自分の右に、山羊を左に置きます」と言う風にです。
 
王は右にいる者たちに言います。34節「さあ、わたしの父に祝福された人たち。天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」
そして、その理由として35節の言葉が続きます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、・・牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」
しかし、王に褒められた人々は、3839節で「何時、私たちはそんなことをして差し上げたのでしょうか」と王の指摘に、自分は何も知らなかったと告白します。この人たちは自分の行動を王が言うようには自覚していませんでした。きっと、自分が特別な事をしたというのではなくて、そういう状況に置かれたから、ごく自然にそうしただけ、という事だったのでしょう。ことさらそれは特別なことをしたとは思っていなかったのです。自然にしていることですから、わざわざ他の人にそれを言いもしませんし、王が何時の事を言っているのか、自覚さえないと答えます。私たちはなかなかこうはなれませんね。
 
次に王にお叱りを受けた人々が答えます。「何時、わたしたちがそんな態度をとったのでしょうか」と、何も気付かなかったと告白します。
自分はどちらに属するのかと心に手を当ててみれば、何もしなかったという4243節の言葉は自分の姿に他ならないことを思います。
私たちはここで、自分の怠慢や弱さや限界を示されます。しかし、イエス様はあなたのハードルを一つ上げなさいと言われているのでしょうか。そうではありません。自然体できない自分の足りなさを覚えると共に、今朝の御言葉がイエス様の憐みであることを覚えたいのです。
 
41節と46節を読みますと神の審判の判断が、人の行いによるように聞こえます。しかし、ロマ3:28にはこうあります「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのです。」
王に褒められた人とは、イエス様ご自身のことではないでしょうか。
飢え、渇き、裸、病、獄にある(犯罪ではなく迫害で投獄された人)人とは、困窮の中にある人々です。その立場の人々を、イエス様は深く心に留められます。心に留めるだけではなく、困窮にある人とご自分を同じ所に置かれます。ここの「最も小さい者とは実は私です」とおっしゃるのです。飢え、渇き、裸、病、獄にある人とは私ですとおっしゃるのです。困窮の中にある人と自分を同じ所に置かれます。イエス様は最も小さい者となられたのです。
 
皆さん、最後の審判の日に右に置かれるのは、飢え、渇き、裸、病、獄にある人(犯罪ではなく迫害で投獄された人)なのです。イエス様はその人と共に歩まれます。イエス様の憐みは、私たちが他者を憐れむのと全く異なります。これは、人間の常識を超えています。私たちの内にある同情や親切とは異質のものです。私たちは、「最も小さい者のひとりにしたのは、私にしたのです」と聞くときに、自分を「親切ないい人だ」などと、とてもうぬぼれられるものではありません。私たちの出来る愛の業は、本当に多少なのです。
 
今朝、私たちが聞くべきことは、神様の前にあっては自分が飢えており、渇いており、裸であり、病人であり、獄にある者(犯罪ではなく迫害で投獄された人)、みじめな者だと言う事です。神さまの憐みが無ければ救われない者、自分をそういう者だと認める時、イエス様は宣言してくださいます。
34節「さあ、わたしの父に祝福された人たち。天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と宣言してくださいます。
 
マタイ53節の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」との宣言を思い出しますね。20章の二人の盲人の叫びが聞こえます。「主よ、わたしたちを憐れんでください」。
「人の子」であるイエス様は、困窮の中にある、周囲が気にもかけないひとりひとりに深い愛を注がれます。実は、私たちこそが深い困窮の中にある者のひとりなのです。
このことを深く覚えることこそ、父の祝福に与っていると言えます。にぶく、高慢な私たちですが、そのように造り変えていただきましょう。


2023.11.12
「予想外の恵み」マタイによる福音書20章1~16節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
先週、日曜日の午後から貞雄牧師の機構委員会の出張に合わせて、二人で孫の所に行って来ました。5日は三連休の最終日とあって全ての羽田便が満席でした。息子がキャンセル便に「トライしてみて」というので、最終便まで待つのを覚悟でトライしました。最初のトライは夕方の5時の便でした。キャンセルカウンターに行くとすでに8人の人が待っていました。これは難しいなあと諦め気分でした。ところが、名前が呼ばれたのです。「普通席は1席だけ空いてます。もう一人はファーストクラスに1万円追加で乗れます。どうされますか。」ということでした。それで別々の便で行くことにしました。すると次に待っている最後の二人がファーストクラスに乗って下さったんです。それで普通席が2席空き、二人一緒にファーストトライで飛ぶことができました。最終便まで待っても乗れないかもしれないとの覚悟でいたので、これは、予想外の展開でした。神さま感謝します!と祈って搭乗しました。
 
皆さん、イエス・キリストが伝える救いは、私たちの予想外の恵みです。
今日の聖書を聞いて『おかしいな』と思いますよね。普通、賃金は朝一番から働いた人に「ご苦労さまでした」と言って支払い始めるものです。どうしてこの主人は夕方5時頃、最後にぶどう園に来た人から支払ったのでしょうか。早朝から働いた人が12節で言っている不平に、わたし達も同情しますね。アルバイトは時給、正社員は月給が支払われます。どれだけの時間働いたかによって賃金が決まります。セールスマンは販売成績によって給料が決まります。学校では、試験の点数で評価されます。偏差値と言う数字でその人の可能性が判断され、受験大学が決まります。人間の価値は何が出来るか能力で全てが決まる能力主義という大変な社会に私達はいます。
 
 また、能力主義は人間に対して偏った見方だと批判していたにもかかわらず、その人の口から「わたしは、年を取って役に立たない、人に世話ばかり掛けるダメな人間です」と言う声を聞いたりします。老人になるとはダメな人間になる事なのでしょうか。点数が低いということだけで、ダメな人間なのでしょうか。実はこの箇所は、前の章の最後の節である30節にも「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」とあります。なぜ今日の話は19章30節と20章16節の「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」という、不思議な言葉でサンドウィッチされているのです。何故でしょうか。私は後にいると思っていたら先にいたり、先にいると思っていたら後にいたりする。キリストの救いの予想外な所に気付く為です。
 
 ぶどう園の主人はキリストの事です。14節「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」キリストの皆さんに対する関心は、能力があるかどうかにあるのではありません。「わたしのぶどう園に来なさい」と言う主人の招きに従うかどうかにあるのです。朝の人は「よし、今日も頑張るぞ」と希望をもって主人の招きに従いました。しかし、夕方5時の人は違います。彼らは能力が無いと見られたのでしょうか。この夕方の5時とは希望の無さを表しています。5時から働いてどれだけの収入になるでしょうか。それなのに彼らは招きに従いました。その夕方5時の人に対して、主人は心から感激したのです。皆さん、キリストの関心は、私たちが招きに従う事です。
 
 この例えを話されるに至ったきっかけは、1913節以下で親たちがイエス様のところに子どもたちを連れて来た事でした。子どもとありますが、実は赤ん坊のことです。赤ん坊こそは従う人です。皆さん、今日私達も神様から招きを受けています。「あなたもわたしのぶどう園に行きなさい。」ただ、幼子の様にその招きに従う事が信仰です。
一般に「キリスト教は難しい」と言う人は、自分で難しくしているのです。「先生、幼子の様に成るのが難しいんです。」と言われた方がいました。その通りです。わたし達には成れません。このぶどう園の労働者のたとえは、キリストが招き続けて下さる愛を伝えています。キリストの愛が注がれる時、幼子が親に全てを任せるのと同じ様に私たちも変えられていくのです。
 
その事を頭に入れて、もう一度今日の聖書を読んで行くと、ぶどう園の主人は、今日も夜明けに出かけて行った、わたし達の所へ出かけて行った、と聞こえて来ます。「主人は一日につき1デナリオンの約束で」とあります。皆さん、これは日雇いであるということです。明日キリストは夜明けにまた出かけます。信仰は終身雇用ではなくて日雇いの様なものです。日々神様は招かれます。これはあなたの予想外の事ではないでしょうか。
 
  予想外の恵みはキリストの十字架と復活において、神と人の関係が回復され、復活の命をいただくことにおいて頂点に達しました。神の独り子のいのちを人のために与えてもいい、というような愛の神が他にいるでしょうか。そんな神さまはこの神さまだけです。このようにしてイエス・キリストを通して予想外の恵みが示されました。『それを今日も受け取りなさい』これがあなたへのメッセージです。すると変わります。何が変わるのでしょうか。わたしたちは自分の周りが変わることを求めやすいです。しかし神様はあなた自身が変わる事を求めておられます。神様の愛があなたを新らしくします。あなたが今日ここに来たのは新らしくされるためです。大事なのはこの事です(2コリ517)
 
神様の視点で物事を見るようになって来ます。神様の目は、学校や会社や社会や国が見る目と違います。偉い人、善人、立派な人が見る目とも違います。神様はその様な目が見逃している所、その様な目が注がれない所こそ見られます。例えば弱い立場にある者、役に立たない落伍者と見られている者に目を注がれます。私たちの視点がその様に変わる時に、私たち自身も変わり新らしくされます。この視点が世界に広がって行くとき、世界は変わります。地上では順番が重視されますが、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」この法則は、神の国のしるしなのです。神の愛は予想外の恵みなのです。


2023.11.05
「天に通じる道」ヨハネによる福音書14章1~6節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
人生は、よく道に譬えられます。スタートがあり、ゴールがあります。私は引退されたマラソンランナーの高橋直子さんのことを素晴らしいランナーだったなあと思っています。彼女は約42.7キロの距離を走り抜きます。選手というのは、コースによって状況や、他の選手の事などいろいろと気になるものですね。しかし彼女はそれらに一切左右されず、迷わず自分のイメージどおりに走り抜きます。その姿は、まさにマラソンを楽しんでいる姿です。勝ち負けの事も、他の一切のことにも捕らわれないで、ただひたすら、ゴールを目指して自分のマラソンを走り抜きます。そんな彼女の姿は、見ている者にすがすがしさを与えます。彼女にははっきりとしたゴールが見えていたからです。
 
 聖書は、人生にもはっきりとしたゴールがあるといいます。
皆さんは、はっきりとしたゴールをもっておられるでしょうか。私たちは、今、聖書を通してこのゴールがあることを聞くことができます。それは、「父の家に迎えられる」ということです。すなわち、天の父の住まい、天国の住まいに迎えられるのです。これは、全ての人に備えられている住まいです。父の家には住まいが沢山あるからです。これで、ゴールははっきりしました。
 
 さて、問題はゴールまでの道のりです。
人生には二つの道があります。
聖書にコヘㇾトという人物の書物があります。彼は一本目の道を突き進みました。自分の人生がこうありたいと考える事全てを経験しました。良い事も悪い事も、全ての道の極意を歩み極めてみたのです。とてもうらやましいですよね。しかし、その結果はどうだったのでしょうか。「空の空。すべては空」でした。地上での事柄はすべて空しかったのです。
その経験を経て、彼は二本目の道を歩み出します。「神を恐れ神の命令を守る。」という道です。それは、人生の全てのところで神さまを認めて歩む生き方です。初めに高橋選手のことを紹介しましたが、彼女は自分のイメージした走りが自分を導いてくれると確信して走りました。神さまを認めて歩む人生も良く似ています。人生はマラソンのように山あり谷ありです。そこを進む中で、神さまが共におられることを覚えるのです。神さまが共におられますから、山にある時は高ぶらず、谷にある時も失望しないのです。神さまが自分の人生を導いていてくださるという確信があるからです。
でも、皆さんは思われるのではないでしょうか。自分の人生を神さまが導いておられるなんて、どうやって知ることができるのでしょうかと。教会には仏像やご神体のようなものは無いですよね。
それで、神さまはイエス・キリストという姿を取って来てくださったのです。私たちに見える姿を取って、私たちと同じ体をもって来てくださったのです。それが、約二千年前のクリスマスの出来事です。でも、折角来てくださったのに何故十字架の上で死んでしまったのでしょうか。それには二つの理由があります。聖書は私たちを罪人呼ばわりします。そこが、日本人の私たちには最も理解できないところです。しかし、聖書の言う罪というのは、神さまに背を向けて歩んでいる人生のことです。その人生は、神さまを最も悲しませる行為です。神さまは共に歩むために私たちを造ってくださったからです。その罪から救うためにキリストを身代わりにしてくださったのです。これが一つ目の理由です。
キリストは三日目に復活されました。死は私たちにとって最大の恐怖です。キリストの復活は死に勝利されたということです。復活は死で終わってしまう「空の空である」私たちの人生に、死は終わりではないという希望を与えるものです。これが二つ目の理由です。ですから、キリストの十字架は、神さまの愛そのものです。
そして、キリストは復活されましたから、今も生きて私たちを愛してくださっています。
 
そのキリストが言われます。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」キリストの十字架と復活を信じる者に、神さまはイエス・キリストを「天に通じる道」として、与えてくださいました。
 
キリストは真理・いのち
 このキリストを信じて歩む人生は、全く新しい人生です。なぜなら、キリストが真理だからです。「真理」とは何でしょうか。「愛」と言い換えると良く分かると思います。高橋選手はただひたすら、ゴールを目指して走りました。その姿は、人々にすがすがしさを与えましたね。キリストはただひたすら私たちを愛して下さるのです。聖書には福音書というのがありますね。これは、ひたすら私たちを愛してくださるキリストを示しています。
 皆さん、魚はどこで生きていますか。水の中ですね。生きた水、命の水の中にいなければ魚は生きる事はできません。それと同じように、私たちは神さまの愛の中に生きています。何故ならこの世界は神が創られたからです。天に通じる道となってくださったキリストは、神の愛に通じる道でもあります。このキリストを信じて生きる日々は、神の愛の中を生かされているという真理を知って歩む素晴らしい人生なのです。
 
 先に天国に召された方がたは、キリストを信じて素晴らしい人生を走りぬかれた方々です。私たちは先輩方の信仰の足跡の後について行きましょう。まだ、キリストをご存じない方は、是非教会につながってくださって、キリストが通してくださった真理の道を、天に通じる道をご一緒に歩んでくださることを切望いたします。キリストを信じて召された方がたの切なる願いは、ご家族がこの道を歩んでくださることです。
 
ご遺族の皆さんも、キリストの道をわたしたちと一緒に歩み出しませんか。是非、神さまの愛に通じる道を歩んでいただきたいと願って止みません。
 

2023.10.29
「しっかりつながっていなさい」イザヤ書5章1~2節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
 詩編808「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、これを植えられました」とあります。エジプトで奴隷として苦しい生活をしていたイスラエルの人たちを、神さまはモーセによって救い出されました。このように神さまは「イスラエルの人たち」を「ぶどうの木」と言っています。また、イザヤ書512にも、ぶどう畑の歌があります。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石をのぞき良いぶどうを植えた。」そして「良いぶどうが実るのを待った」。神さまは、畑を良く耕して、そこに、良いぶどうを植えられたんです。この「良いぶどう」も神さまが愛された「イスラエルの人たち」のことです。パレスチナのぶどうの木は直径が40センチにもなって、とても大きな実をつけるそうです。皆さん、ぶどうというのは昔から「神さまの祝福」をあらわすものであり、「命」を表す言葉なんです。神さまは、イスラエルの人たちが「祝福」を受けて、「神さまの命」を受け継ぐ者となってほしいと「良いぶどう」と呼ばれました。
 さて、良いぶどうは、良い実をつけたでしょうか。イザヤ書の続きをみますと、「実ったのは酸っぱいぶどう」でした。甘い実をつけられなかったんですね。酸っぱいぶどうなんて、食べられませんね。ところで、聖書の言う酸っぱいぶどうって、何のことでしょうか。神さまは人に、嬉しい時にも悲しい時にも、苦しい時にも普通の時にも、自分につながり続けて欲しいんです。ところが、人は神さまから離れてしまった。申6章59節参照。心を尽くして神様を愛することよりも、自分の思い通りに生きたい。時には悪いこともしてみたい。そんな時に神様がいるとちょっと困る。この世界はそんな思いでいっぱいの世界です。それを毎日ニュースで見ますね。わたし達の心の中にもそんな思いがあります。そのことを「酸っぱいぶどう」と言っているんです。
 
次に、ヨハネ福音書に注目しましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。今度は、イエス様が「ぶどうの木」だと言われます。神さまは、人が良い実を結べない、酸っぱい実を結んでしまう者だということに気がつかれました。人は木になれない。人には木が必要なんだ。それで、イエス様を送ってくださったのです。神さまは、人がいつも神さまとつながっていることができるように、イエス様を送ってくださったのです。そのことを4節で言っています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」。
 木と枝は元々離れているものでしょうか。つながっているものですね。今日の聖書の段落には、「つながって」という言葉が9回も、出てきます。また、「とどまる」という言葉も原文では同じ言葉が使われています。どうしてイエス様は「つながって」と何度も言われるのでしょうか。 
一つは自分が枝だと思わない人がいるからです。枝だと考えている人は、木から一生懸命栄養をもらおうとしますね。しかし、枝だと気付いていないので木からの栄養が必要だと思わないのです。
二つ目は1節に書かれています。「わたしはまことのぶどうの木」。この木は「普通のぶどうの木」ではありません。「まことのぶどうの木」です。「まことのぶどうの木」につながらないで、「普通のぶどうの木」につながる人がいるからです。ですから、何度も「つながっていなさい」といわれるのです。確かに、普通の木も枝にいろんな栄養を与えることができます。頑張る力、親切にする心、正しさを追い求める心、イエス様につながっていなくても、立派な実を結ぶ人は沢山います。それなら、普通の木でもいいのでしょうか。そうではありません。それでは、どうして「まことのぶどうの木」につながるようにいわれるのでしょうか。「まことの木」は「普通の木」と違う栄養を与えるからです。人に命を与える栄養だからです。神さまにつながる栄養です。その栄養とは「み言葉」です。
この世の価値観は時代と共に変化します。しかし「み言葉」は変わることはありません。1ペテロ125、イザヤ408に「主の言葉は永遠に変わることがない。」とあります。
そして、イエス様は「み言葉」と言う栄養を与える働きを教会に委ねられました。ですから、イエス様にしっかりつながるとは、教会にしっかりつながることです。
 
神さまがこの世界を造られた最終目的は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことです。群れとは、一人で聖書を読んで自分で信仰するのではなく、教会に集まって共にみ言葉を聞き、恵みを分かち合い、共に祈り、共に賛美し、共に感謝を献げる。そのようにして信仰を養う群れです。また、群れの中で、共に励ましあい、祈りあい、仕えあうこと(奉仕ですね)、み言葉はそういう交わりを生み出すものです。この群れの中で神さまは「枝」に栄養を与えられるのです。一人でイエス様を信じている。それでは、その枝は栄養失調になってしまいます。だから「しっかりつながっていなさい」と言われるのです。
この栄養をもらう枝は、豊かな実を結びます。立派な実を結べとは言ってないですね。豊かな実です。イエス様の愛がいっぱい詰まった実です。イエス様の喜びがいっぱい詰まった実です。つまり、イエス様が愛と喜びを、あなたの結ぶ実の中にいっぱい詰めてくださるというんです。愛というのは十字架の愛ですね。喜びとは復活の喜びです。ですからあなたが努力して、苦労して、作る実ではないのです。ただ、イエス様にしっかりつながっていなさいと言われます。イエス様は気前がいいですよ。詰め放題に入れてくださいます。
わたしはもう年寄りだから大した実は結べません、という人がありますか。そう言える人は一人もいませんよ。実はこの「枝」という言葉、調べてみますと「若枝」となっています。神さまより長生きしている方、いらっしゃいますか。いませんね。神さまから御覧になると、つながっている枝は、みんな若枝なんです。
 
さて、もう一度、1節に注目して下さい。「わたしの父は農夫である」。これは、ぶどう園には農夫の神さまがおられるということです。実は、この農夫は、大きな剪定バサミを持っておられます。2節に、「豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とありますね。神さまは、わたしたちの手入れまでしてくださいます。皆さんの家はお庭があるでしょうか。木が植わっているところでは、これから庭木を手入れするシ-ズンになります。大きな剪定バサミで、ぱちぱちと庭木が綺麗にされていくのを見かけると思います。剪定された後の庭木は、まるで見違えるように、芸術作品のように美しいものになります。大きな剪定バサミを(持った農夫を)見たときにはドキッとしましたけれども、これは、神さまの愛のハサミなんですね。神様は農夫となって、イエス様の愛を発見することを邪魔するものを取り除き、手入れしてくださいます。そして、いよいよ豊かな実を結ぶものにしてくださるのです。


2023.10.22
「開かれた門」ヨハネ黙示録3章7~8節

説教:鈴木龍生 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 


2023.10.15
「見失った羊」ルカによる福音書15章1~7節

説教:末吉貞雄 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
百匹の羊を飼うなんてことは、私も、皆さんも経験のないことですし、話しを聞いたこともありません。しかし、イエスさまの時代はそれがどういう事なのか、誰もが知っていました。羊飼いは毎朝、羊の群れを連れて、広い広い野原をあちらことら歩き回り、夕方に帰って来ます。羊飼いの仕事は大体三つあります。
①朝、出発前にまず百匹いるか数えます。一匹一匹には名前があります。メーコ、大郎、花子、正夫、秋子、一郎・・・・・・。みんな揃ってるね、さあ出発だ・・・
②お腹が空く頃には美味しい草が生えている所に連れて行きます。喉が渇く頃には水の飲める所に連れて行きます。羊が草を食べたり水を飲んだりしている間も、羊飼いは羊が百匹いるか数えます。
③太陽が沈んで寒くなる前に帰ります。帰ったらまた、百匹いるか数えます。そして、寝
る前に一匹一匹の首を抱いておでことおでこをくっつけて羊の状態を確認します。「メーコ、今日は楽しかったね」「調子はどう?」「さあ、おやすみ」まるで家族みたいです。
 
 さてある日、羊が一匹足りませんでした。メーコです。迷子になったんです。見つかる可能性は小さいです。名前を呼んでももう返事が返って来ません。首を抱いて顔をくっつけて、お話しも出来ません。一緒に朝まで寝ることも出来ません。あなたなら、どうしますか?。百匹もいるから一匹ぐらい、いなくなっても平気ですか。そうじゃないですね。もう一匹代わりにどこかで買ってきたら百匹になります。そんなことしませんね。他のどんな羊であってもメーコの代わりは出来ません。掛け替えのない存在だからです。羊飼いは九十九匹を残して、メーコを見つけるまで捜し続け、見つけて「見つかって良かった」と大喜びして、メーコを思い切り抱きしめ、担いで帰って来ました。羊飼いは友達や近所の人を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言う程に、その喜びは大きかった。
 
 羊はその様子を見て思いました。本当は羊飼いが見失ったのではなくて、わたしが迷子になったのに、『見失ったんだ』と言って羊飼いは一切の責任を負い、その代わりに私を喜んで抱きしめてくれる。羊の心がだんだん熱くなりました。羊飼いの愛に気付いたからです。迷子になるとか、ならないとかに関係なく、羊飼いの一番の願いは羊が自分の愛に気付くことでした。
 
  さて、皆さん、どうしてイエスさまは、こんな話しをされるのでしょうか。・・・イエスさまには皆さんにも気付いて欲しいことがあります。皆さん一人ひとりも神さまにとってイエスさまにとって、かけがえのない、大切な一人ひとりである、ということを。7節に「悔い改める」というチョト難しい言葉がありますね。悔い改めるは、愛に気付く、と言い換えても良いです。神とイエスさまが一番願っておられる事は、皆さんが「こんな自分でも神に愛されているんだ」、と気付くことです。
 十字架に向かわれらイエスさまは、たとえ、苦しみを受けても、命をささげる事になっても、皆さんの正しさとか真面目さとか、そんな条件は一切関係なく、皆さん一人ひとりが大切な、掛け替えのない一人ひとりであるとされる、神の愛のしるしです。嬉しいですね。
 死人の中から復活したイエスさまは、皆さん一人ひとりに対する愛だけではなくて、希望がある、たとえ死んでも希望があるしるしです。嬉しいですね。
 
 5節を見て下さい。「見つけたら、喜んでその羊を担いで」とあります。次の「無くした銀貨のたとえ」では9節に「見つけたら」とあります。そこには書いてないのですが、きっと見つけた銀貨をしっかりと手の中に握ったことでしょう。次の「放蕩息子のたとえ」では、20節を読んで行くと、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。
  「担いだ」「握った」「抱いた」この三つは、私達にも必要なんです。イエス・キリストに担いでいただきましょう、叱り握って頂きましょう、抱きしめていただきましょう。
 
 これは本当に嬉しいことなんです。裸の自分を愛してもらう程に嬉しいことはないのです。色々なものでカバーしている、罪深い自分を、しかし、それが本当の自分。それを愛して下さる、家族の様に受け止めて下さる、これが大きな喜びです。ですから、クリスチャンは、父よ、と祈り、神の子と呼ばれのを喜びます。
 
 掛替えの無さとは、この喜びから来ています。この喜びには人を造り変える力があります。人を悔い改めへと導きます。この喜びがクリスチャンを聖化して行くのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、この喜びを忘れていたのです。
 
  人間に生きる権利、人権があるから、人は掛替えが無いのでしょうか。十字架のキリストは生きる権利が無いとされる死刑囚の一人に成られてそのことも問われたのです。そして、人が死刑囚と言うレッテルを貼ったキリストを神は復活させて、その問いに答えられたのです。人は人権と言う様なヒューマニズムの故に掛替えの無い一人なのではない、神の独り子の命を献げる神の愛のゆえに、羊飼いが羊を担ぎ、失った銀貨一枚を握りしめる様に、父が子を抱きしめる様なその深い深い愛の絆の故に、人は掛替えの無い一人一人なのです。
 
 イエス・キリストの十字架と復活はその確かさです。7節、このイエス・キリストによって失われた人間の一人にこの確かさが伝わる時に、大きな喜びが天にあるのです。この様に天に大きな喜びがあると記されているのは、聖書に於て、ここしかないと思います。どうして、一人のために喜ばれるのでしょうか。あなたも、そしてあなたの隣人も、神にとって確かに掛替えの無い一人だ、と言うことです。


2023.10.08
「招きに応えて」ルカによる福音書5章27~32節

説教:末吉百合香 師

 
礼拝メッセージ(Youtube) LinkIcon
 
主の言葉の内にある偉大な神の力
 27節、今朝は徴税人のレビに目を留められます。直ぐに声をかけられたように聖書にはありますが、声を掛けられるまでに暫くの時間があったのではないでしょうか。イエス様はレビの生い立ち、子ども時代、青年時代、そして今に至るまでの彼の生涯に目を留めておられたのです。
 
レビは徴税人です。税金を取り立てる仕事です。30節で「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」とファリサイ派や律法学者たちがイエス様の弟子たちを非難しています。
 
つまり、徴税人はユダヤ社会の中では正しい市民として受け入れられていない人々でした。現代の税務署の職員とは違って、ここの徴税人とはユダヤ社会を支配しているローマ帝国から仕事をもらうという立場にありました。ですから、同胞からは敵に媚を売って生きているというように見られたのです。そんな仕事ですから決して自分で望んだ仕事ではなかったでしょう。彼らにはこのような仕事に就く他はない事情があったのです。イエスさまは、そんなレビの人生を心に留めて言われました。「わたしに従いなさい」と。
 
彼はイエス様の言葉に立ち上がります。この「立ち上がる」という言葉は、前の記事で中風の人が癒されたときに、その人がみんなの前で立ち上がった、とあるのと同じ言葉です。このギリシャ語には、他に「復活させる」という意味があります。
 
 レビは立ち上がり従います。ユダヤ人の生活の規範となっている律法の下では、彼はまともな人間として扱われず、社会の隅っこに追いやられており、人として死んでいたような状態でした。しかし、イエス様に出会って生き返り、イエス様に従ったのです。
 
方向転換をしたレビ
彼は何もかも捨ててイエス様に従いました。彼は何を捨てたのでしょうか。自分の過去を全て捨ててイエスさまに従ったのです。29節以下は彼の変身振りを示しています。自分の家でイエスさまのために盛大な宴会を催します。彼が誰かの為に宴会を開くなんて初めてのことです。彼は社会の隅っこに追いやられていましたから、必ずしも人として正しい生活をしていなかったかもしれません。それどころか、やけっぱちの人生だったかも知れません。
 
ルカの福音書にはザアカイの話(19)があります。そこではザアカイのことを「徴税人の頭、罪人」と言っています。ザアカイも周囲から冷たい目で見られていたのです。それでその憂さ晴らしに大酒を飲み、贅沢三昧をしていました。レビも彼と同じだったのではないでしょうか。レビはその過去を全部捨てたのです。そして、今はイエスさまのために盛大な宴会を開いています。自分を受け止め受け入れてくださったイエス様は、彼にはかけがえのない存在となりました。ㇾビは喜びのあまり大通りに出てこう叫んだのではないでしょうか。
 
「みんな、私は生まれ変ったぞ。イエスさまはこんな私を弟子にしてくれたんだ。神の子どもと呼んでくれたんだ。私なんか神の子にしてもらえるはずはないのに。あなたは生まれ変わったのだから神の子ですと言ってくださった。だから、俺は大酒を飲んだり、やけになったり、人を困らせるようなことはもうしない。これからは誰かのために自分のできることをするよ。俺は生まれ変わったんだ。さあ、皆もイエスさまのところに来て生まれ変わっておくれよ。おいしいぶどう酒とご馳走で一緒にお祝いしよう!」こう言って、招いたのではないでしょうか。 レビの生き方はすっかり変えられました。彼はイエス様によって過去をすべて捨てて、招きに応えたのです。彼に起こった大きな変化は何でしょうか。「ただ憐れみによって弟子にしてくださった」という感謝の思いが与えられたことです。
 
このレビとは誰のことでしょうか。私たちの事です。
 
長くクリスチャンをしていると、知らず知らずの間にクリスチャンにしていただいたことが当たり前になり、初めから自分はこんな自分だったと、感謝を忘れてしまうことがあります。
 
イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。
 
そうです。私たちも以前は、神なんか要らない、イエス様なんてどうでもいいと言って、神さまに背を向けて、暗闇の中を歩んでいたのです。暗闇を歩いていることにすら気づいていなかった。それが、今は神の子、光の子とされています。本当に不思議ですね。ですから、わたしたちは「こんなわたしをイエスさまは招いてくださり、神の子にしてくださった。」この感謝の思いを忘れてはなりませんね。
 
エフェソの手紙58節「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は、主に結ばれて光となっています。光の子どもとして歩みなさい」とあります。医者であるイエスさまがいてくださること、毎日を光の子として歩めることを感謝したいですね。ㇾビのように光の子として招かれていることに応えて行きたいですね。
 
まだ光の子となっておられない方は、是非、主の招きに応えて、光の子としてスタートしてください。
 
最後にもう一つのことをお話します。イエス様は招いた者を「悔い改めさせるために来た」と言っています。マタイ9章とマルコ2章にも同じ記事がありますが、この言葉は、ルカだけがここに付け加えています。「悔い改める」という言葉は、「後で」という言葉と「考えを変える」という二つの言葉がつながってできている言葉です。
 
つまり、心からイエスさまの招きに従おうとする者は、その後に必ず考えを変えるという事が起こってくるのです。生活の方向転換が起こるのです。生き方が変わるということが起こるのです。それが、従うということです。そのためにイエスさまはわたしたちを招かれたのです。生き方の方向転換は、自分でするのではありません。自分ですると高慢になります。そうではなく、神さまにしていただくのです。つまり、自分を神さまに造り変えていただくのです。
 
2コリント318「私たちはみな、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられて行きます。これは主の働きによることです」とあります。説教を聞く、聖書を読むというのはこのためです。また、「わたしの間違っているところ、変えるべきところを今日も教えてください。そこを改めます」と主の前に祈り求めて行きましょう。
 
そして、この悔い改めるという言葉は現在形です。つまり、ギリシャ語では現在形は現在進行形です。ですから、悔い改めは日々行うことです。
 
内なる人を日々新たにしていただきましょう。わたしたちが造り変えられていくならば、そこには必ず福音が前進していきます。そこにこそ、神さまの栄光が表されていくからです。
 
説教要旨
イエス様は徴税人レビに目を留められます。彼の孤独でみじめな人生を深く憐れまれるのです。主の愛の深さは、言葉に偉大な力を発揮させます。「わたしに従いなさい」この主の言葉に過去の自分を捨てて従ったレビ。深く愛してくださる主との出会いは、それまで経験したことのない喜びの瞬間となりました。過去のつらい経験は全て拭い去られました。主の言葉は彼を立ち上がらせ、悔い改めに導かれます。暗闇の子から光の子へと。彼は感謝に溢れて人々を愛し、多くの人々に主の愛を伝える人に変えられたのです。今朝、主は言われます。「あなたはレビだ、私の招きに応えよ」と。


2023.10.01
「福音の始め」マルコによる福音書1章1~13節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
本には題が付けられますね。題というのは、本の内容を一言で表すものです。
1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とありますのは、実は、この福音書の表題なんです。この表題には二つの意味があります。一つは「イエス・キリストが神の子だ」ということ。11節の「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声がそのことを伝えています。二つ目は「マルコ福音書が伝える全ての内容が『福音の初め』だ」ということです。
 
原語の聖書では、「初め」という言葉で書き始められています。「初め」と聞きますと、皆さんは聖書の別の言葉も思い出されると思います。
「初めに、言があった。」「初めに、神は天地を創造された」ヨハネ福音書と創世記の11節のみ言葉ですね。この二つは、歴史の始まる以前から神さま、すなわちイエス・キリストがおられたこと、世界の歴史がこの方によって始められたことを伝えるものです。
マルコは「福音の初め」と、福音という言葉を付けます。「福音」とは何ですか。「悪い知らせ」を福音とは言いません。「良い知らせ」「喜ばしい知らせ」です。「知らせ」というのは、実際に起こったことについて語るものです。そして、「良い・喜ばしい知らせ」というのは、その出来事がその人に途方もない程の、大きな変化をもたらす知らせです。これが福音です。使徒パウロはこの福音のことを、ローマ116で「わたしは福音を恥じとしない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言っています。このように福音は「救いをもたら」します。この神さまの救いは、信じる者に途方もない程の、大きな良い変化をもたらすのです。この福音を実現してくださったのが、イエス・キリストです。
 
そして、イザヤ書61章はキリストの実現してくださった福音がどういうものかを次のように言います。「打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させる。」これがキリストの実現してくださった福音だと言います。
「捕われ人、つながれている人」とは誰でしょうか。私のことであり、皆さんのことです。「えっ、私のことですか」と思われるかもしれません。しかし、聖書は「福音はすべての人のためのものだ」と言います。ですから、捕われ人、つながれている人とは私のことであり、皆さんのことなのです。
いったい何に捕われ、つながれているのでしょうか。
マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、イエスさまが宣教活動に入られる前に、荒れ野での誘惑を受けられたことを伝えています。イエス・キリストは神の子です。神の子であるイエスさまが、受ける誘惑、それは何でしょうか。先ほど紹介しましたパウロの言葉に「福音には、神の義が啓示されています」と続けられています。イエスさまが荒れ野で受けられた誘惑とは、神さまの正義に対して受けられる誘惑です。何があっても信頼できる、永遠に変わらない約束である神さまの正義・まこと・慈しみ、それを捨てて、悪の支配、悪の力に従えと誘惑されたのです。そうすれば、お前は十字架に架けられなくて済む、と誘惑されたのです。それは、神さまの義しい支配に身を任せるのではなく、悪の支配に身を任せよ、というものです。つまり、神の恵みを必要としないようにさせようとする誘惑です。それが、イザヤ書のいう、私や皆さんを捕えるもの、つなぐものです。イエスさまは、まず最初に、私や皆さんを捕えるものに立ち向かってくださったのです。
 
しかし、現代社会は矛盾に満ちています。定規を置いて、まっすぐに線を引けば、こちらは神の正義で、こちらは悪の支配と簡単に判断できない、そんな中に私たちは生きています。私たちが良く祈って、神さまの判断の方を選んだと思ったのに、振り返ればそうではなかったということもあります。マルコ福音書は他の福音書のように、イエスさまが誘惑とどのようにして戦われたのかを伝えません。それよりも、ただ、誘惑を受けられる間、野獣と一緒におられたとあります。野獣とは動物のことです。この地上の生き物です。そして、それと同時に天使たちが仕えていたのです。天使は天国の存在です。地上と天国が、イエス様によってつながっているのです。誘惑が続きながら、そこに野獣と天使が共にいるのです。これは、矛盾の現実の中で、イエスさまがそこで戦っておられるということです。私たちは難しい時代の中を生きています。生きていかなければなりません。北朝鮮の核拉致問題、イランとアメリカの対立、イスラエル情勢、ウクライナ戦争、アフリカ諸国の紛争などなど。世界は対話と寄り添うことがより一層必要な時代であるにも関わらず、自国中心の歩みを強行しています。キリストは、矛盾の多い世界であっても、地上と天国がつながって行くように、今も戦っていてくださいます。私たちも、諦めてはなりません。次の世代に平和を残せるように、私たちも日々祈り努力しなければなりません。
イザヤ書は、主の恵みを求める人のことを貧しい人と言います。この世のもので満足している人は主の恵みを求めないからです。主の恵みを求める人に神さまはどう応えてくださるでしょうか。「灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる。」と約束されます。イスラエルでは悲しい事が起こると灰を被る習慣がありました。イザヤ書の約束は、嘆きや暗い心が、喜びと賛美に代えられるという約束です。
そしてイザヤは「彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」といいます。神さまの栄光を現すものとされるというのです。どんなに貧弱に見える木に見えても、「あなたは私が植えた木だ」と宣言してくださるのです。これはなんと幸いなことではないでしょうか。
このことは、イエスさまを信じる信仰によって確かに実現されます。
パウロも言っています「それは、初めから終りまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」と。
 
ユダヤの全地方とエルサレムの全ての人々が、洗礼者ヨハネの所に来て、悔い改めの洗礼を受けます。それ程に彼の預言者としての評判は良かったのです。しかし、そのヨハネが、イエスさまのことを「自分はイエスさまの履物の紐を解く値打ちもないものだ」といいます。8節でヨハネが「わたしは水で洗礼を授けたが、イエスさまは聖霊で洗礼をお授けになる」と言います。この洗礼という言葉が、ヨハネの洗礼は過去形で書かれ、イエスさまの洗礼は未来形で書かれています。これは、イエスさまこそ、まことの救いをお与えになる方だということです。イエスさまこそ、「救いをもたらす神の力」なのです、とヨハネも宣言しているのです。イエスさまこそ、福音そのものなんです。
 
 初めに、この福音書全体が「福音の初めです」と言いました。マルコ福音書は16章まであります。ちょっと16章を開けてみましょう(p97)。「結び」と太字で書かれていますが、この結び以下は、後になって加えられたと考えられる部分です。ということは、6節に、キリストの復活を告げる若者は出てきますが、「復活のキリスト」が出てきません。そして、それを聞いた婦人たちは8節で、恐ろしさのあまり、誰にも何も言わなかったとあります。キリストの復活は、彼女たちにとって思いも及ばないことであり、信じられない程の、途方もない出来事だったのです。私たちはあまりに驚いた時に、「腰を抜かす」という言い方をします。しかし、キリストの復活は、そんなものではないのです。表現できない程に、途方もない信じられない出来事だったのです。神さまの救いとは、私たちの知識や知恵で認識できるものではないのです。
 マルコ福音書は、こんな途方もない、信じがたいこと、しかし、確かにそのことが実現しました。確かに「神さまの福音」がキリストによってもたらされた、これが、福音の初めですと、11節で宣言いたします。
 
 皆さんの中で、神さまの救いが「大いなる知らせ、大きな喜びをもたらすもの」と成っていますでしょうか。マルコ福音書を書いた人たちも、直ぐにそのことを認識できませんでした。しかし、後に復活のキリストを書きしるし、このキリストを宣べ伝えました。私たちも、キリストが大いなる喜びをもたらしてくださる方であることを信じて、秋の伝道の時、共に進んで行きましょう。この福音を一人でも多くの人々に証しして行きましょう。

2023.09.24
「飼い葉桶に眠る王」ルカによる福音書2章1~7節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
天地の初めから人と寄り添って来られた神の業の完成者イエス
 自分が愛されている、このことを知った時、人は幸せになります。わたしは外出中に出会う、見知らぬ初対面の赤ん坊に最高の笑顔を見せることにしています。最高の笑顔とは、赤ん坊が『自分は愛されているんだ』と分かる様な笑顔の事です。そしたら必ず笑顔が帰って来ます。『幸せを感じとるんやなー』と自己満足しています。しかし、以前赤ん坊だった皆さんに対しては、同じようなわけにはいきませんね。皆さんは、赤ん坊の時から無数の色々なもので覆い続けて、大きく成って今に至っていますから、『せんせい、どうしたんですか。大丈夫ですか』なんて言われるでしょう。しかし、皆さん私たちのその覆いの一番奥、一番芯のところは赤ん坊なんです。
 
老いるとは覆って来たものがはがれて行く事と言えましょう。例えば体力が一枚はがれたり、記憶力が一枚はがれたり、と言う様にはがれて行く事にたとえられますね。私たちも全員赤ん坊でした。今違うのは、その上を色々なもので覆っている、と言うことです。イエスさまが言われましたね。「誰でも、幼な子の様にならなければ、新たに生まれなければ、神の国(神の愛と言ってもいいでしょう)を見ることはできない」。神は私たちの覆いを通り越して、私たちの一番奥、一番芯に、最高の笑顔を、愛を届け、『ああ、自分は愛されているんだ』と言うことに気付かせて、私たちを幸せにする働きをなさるお方です。
 
 聖書は伝えています。この神の愛は教理や思想ではなく具体的な態度で示された愛です。今年の五月から旧約聖書を通してその愛を語ってまいりました。先週からは新約聖書に入りました。今から約2000年前に神はイエスの誕生において、それまでとは比べられない程に徹底的な態度でご自分の私たちに対する愛を示されました。
 
 先週をお話ししましたが、キリスト教の神は外国の神ではありません。外国から伝わった全ての人の神です。神は天国や極楽で眺めているのではなくて、人と寄り添い続けると言う具体的な態度でご自分の愛を示して来られました。ですから、神は漠然と人を愛するのではなくて、具体的に独りの人を選ばれました。それが日本人でも韓国人でも中国人でもないユダヤ人でした。しかし折角選ばれたのに、彼らは神に背を向けて離れて行きました。しかし、神は彼らに寄り添い続けられました。
 
例えば、神は彼らにとっては王でした。しかし、彼らが他の国の様に王を立てて欲しいと願った時がありました。それは王である神を退けることです。預言者サムエルは彼らを叱ります。しかし、神は御自分の怒りを抑えて、彼らの願いを聞き入れ、彼らと寄り添う道を選ばれました。しかし、歴代の王はだんだん神に背を向け神から離れて行きました。
 また、神はユダヤ人を選んだ時に、神との人の関係をいつも良好にして、神が人と寄り添い続けられる様にするために、神と人の間に立つ役目をする祭司を立てました。初代の祭司はアロンでした。しかし、彼の子孫は結局その役目を果たせませんでした。
 
その時の神の様子を預言者ホセアは書き記しました。神は「ああ、お前を見捨てることが出来ようか。お前を引き渡すことが出来ようか」と叫ばれ、心動かされ、憐れみに胸が焼かれました。しかし、神に背を向ける彼らに対して神は遠くで見守るしかありませんでした。国も王も滅ぼされて行きました。そして、神の沈黙が続きました。神はどうされたのでしょうか。時至って夫ヨセフと妻マリアの長男として、神の子イエスが誕生し、神は寄り添い続けておられた事を明らかにされました。
 
 ヨセフは王の家系子孫。マリアは祭司の家系と親戚関係。ここには、神に背を向けた王の歴史と、役目を果たせなかった祭司の歴史を、神が切り捨てたのではなくて、神の人と寄り添い続ける歴史が途切れず続いている事を表わしています。神は本当の王として、本当の祭司として、イエスを遣わし、その愛を究極的な態度で示されました。
この世界の支配者としてのイエス
 先週お話ししました、イエスの誕生場所を尋ねにエルサレムにやって来た占星術の学者は、今から約2000年前の当時において、最先端の科学者の様な立場でしたので、各国の王は彼らに星の観測を依頼しました。諸国の支配関係の動向が星の異常によって分かると信じていたからです。現代の天文学者によって、イエスが誕生する頃に土星と金星、木星と金星の大接近が起こった事が分かっています。きっと当時の占星術の学者たちもそれを観察していたでしょう。それをどう解釈するかは学者たちに委ねられていた。多くの学者はローマ帝国皇帝アウグストォスの星だと予測しました。そして、当時の諸国の王もそう考えていました。実際に初代皇帝アウグストォスによって、ローマ帝国はアフリカ、中東、ヨーロッパを支配する大帝国が始まりました。しかし、その星はユダヤ人の王の星だと予測して、黄金乳香没薬を持ってエルサレムに向かった学者たちがいました。もし当時、占星術学者組合なるものがあれば、彼らの事は組合員の誰からも注目されなかったでしょうね。
 
 ここで皆さんに注目して頂きたいのは、ローマ皇帝アウグストォスが世界の支配者として歩み出した、ちょうどその頃に、まるで世界の支配者はどちらであるかを比較させる様なかたちで、神がイエスをユダヤ人の王として誕生させられた、と言うことです。それは、ユダヤ人と深く具体的に関わって来られた神が、実はこの世界の始めから終わりまでを支配するお方である事を、公に明らかにする出来事でありました。
 
 さて、皆さん、この二人の支配者は非常に対照的立場ですね。皇帝アウグストゥスは最強最大です。それに対して皇帝の勅令ゆえに、ベツレヘムで誰からも手を差し伸べてもらえない中で生まれて、布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされましたイエスは、最弱で最小です。神は御自分よりも大切な愛する独り子イエスに、最弱で最小の人間として、最後はその日同じく十字架に磔にされた強盗からも罵られ、この私たちの生きる場で生き抜かせられました。全ての人と寄り添うためです。その為にイエスは全ての人の罪を一身に引き受けて「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。全く神に見捨てられると言う完全な滅びという罰を受けて、息を引き取られました。この十字架の死に神の愛が究極の形で現されました。
 
 このイエス・キリストによって私は今日も宣言します。みなさん、今、そのままの皆さんは、神に愛されています。皆さんは色々な覆いで覆っておられます。しかし、神はその内容は今はどうでもいい、そのお覆いを越えて、私はあなたの一番奥、あなたの芯、あなたの本質、あなたの存在、何と言いましょうか、あなたの深く深くに、十字架で死んだイエス・キリストを通して、愛を届けられます。お祈りしましょう。


2023.09.17
「ユダヤ人の王イエス」マタイによる福音書2章1~12節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来ました」。
「ユダヤ人の王」のユダヤ人とはアブラハムの子孫のことです。教会が伝えている神は祀られたり、安置して拝まれたりする神仏ではありません。人と寄り添う神です。それも具体的に寄り添われる神です。それで神は具体的にアブラハムというひとりの人を選びました。皆さん、教会が伝えている神は外国の神ではありません。神は誰か一人を選ばなくてはなりませんでした。それが日本人でも韓国人でも中国人でもなかった、と言うことです。神はすべての人の神です。神は具体的にアブラハムの子孫からユダヤ人という民族を生み出し、ユダヤ人の国を築かせ、彼らを通して全ての国民を祝福するという、壮大な救いの計画をお立てになりました。
神がユダヤ人に国を築くための土地を与えられた時に、彼らが一つの事を願い出ました。「周りの国と同じ様に、自分たちにも王を立てて欲しい」。その頃、神の預言者として立てられ、彼らに指導的な働きをしていたサムエルが最初にそれを聞いて、それは悪だと判断しました。サムエルは神にその件を相談しました。神は答えられました『彼らが周りの国と同じ様に、自分たちにも王を立てて欲しいと願うのは、彼らの上にわたしが王として君臨することを拒否しているからだ』。
つまり、皆さん!ユダヤ人の王とは神ご自身のことなのです。しかし、神はユダヤ人に寄り添いその願いを聞くことにし、初代サウル王、二代目ダビデ王を直接選ばれました。しかし、サムエルは気がかりでした。それで彼は全ユダヤ人に対する告別の言葉の最後を次のように締めくくりました。「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。・・・悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」。
ところがサウル王もダビデ王も悪に負けて神に背を向けてしまいました。彼の子どもたちは王位継承の争いを始めました。次の王位に就いたソロモンの子どもたちも互いに争い国を北と南に分裂させました。そしてその後の王たちも神に背を向け、それぞれの道を進みました。結果サムエルが最後に言い残した様に、ユダヤ人の国も王も滅ぼし去られました。そして、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ローマと、巨大帝国に占領され続けました。しかし、神は人と、すなわち罪人と寄り添い続けられます。
占星術の学者たちが知らせた、ユダヤ人の王の誕生、すなわちイエス・キリストの誕生は、神ご自身がとうとう人となってお生まれになった、究極の寄り添う形を取られた、神の救いの計画が再開した、と言うグッドニュースでした。しかし、それを聞いたヘロデもエルサレムの人々も不安を抱きました。それには理由がありました。
ヘロデの場合、遠い遠い東の国から、それも占星術の学者が、現代で言うなら最先端の研究をする学者たちがやって来て、わざわざ皇帝からユダヤ人の王に任命されていたヘロデの所に尋ねに来たのですから、驚きました。
『ユダヤ人の王はこのヘロデだ。しかし、遠方からわざわざ偉い学者が新しい王の誕生とその証拠となる星も発見した、と言っている。わしもユダヤ人の王になるのだからユダヤ人に関する知識を蓄えている。うわさにはきいていたがまさかメシアが生まれているとは。メシアであろうが何であろうが、わしの地位を狙うものは生かしては置けない』。ヘロデの不安は自分の地位を失う不安でした。調査させると、メシアはベツレヘムに生まれることが分かりました。 
ヘロデは不安な自分を隠すため密かに学者たちを呼びました。「ユダヤ人の王はベツレヘムに生まれる。ところで、その星はいつ頃から現れたのか?」「ヘロデ王様、それは二年程前でございました」と答えが返って来ました。それを聞いてヘロデはホッとしたのではないでしょうか。『なんだ、まだ赤ん坊じゃないか。それなら殺せばいい』。ヘロデは学者たちに言いました。「行って、その子の事を詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ、わしも行って拝もう」。神は夢で学者たちにヘロデの所へ戻らないよう指示し、イエス家族にはエジプトへ避難するよう指示しました。それを知らないヘロデは自分の地位を失う不安を解消する為に、ベツレヘム周辺の二歳以下の男子を一人残らず殺させました。
さて、エルサレムのユダヤ人も不安を抱きました。彼らの不安は何だったのでしょうか。ヘロデの不安とは違います。彼らは神の救いの計画を受けて来たユダヤ人の子孫でしたが、もはや神に対する期待はなく、神の事は横に置いて今のローマ帝国の支配の中で生きる事にだけ目を注いでいました。ですから、彼らも驚きました。『もしこの学者たちの言うことが本当なら、神の事を横に置いて生活している私たちはどうなるのだろうか?』 神と自分たちとの関係が非常に悪い、それゆえの不安を彼らは抱きました。
約30年後、エルサレムのゴルゴダの丘でイエスは十字架に磔にされました。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしりました。彼らは見物に来たエルサレムの住民だったと思います。また、エルサレムにいた祭司長たちと律法学者たちと長老たちも、イエスを侮辱してののしりました。イエスはそれまで彼等に対して、その信仰や神との関りや生き方を問い続けて来ましたから、彼らにとって目の上のたん瘤、邪魔な存在でした。彼らはイエスを十字架に磔にすることを願いました。そしてイエスが十字架の上で弱く小さくなったのを見て、今まで口に出して来なかったののしりの言葉をイエスにあびせました。彼らを救うために神は愛する独り子イエスを、ユダヤ人の王としてお遣わしになったのに、取り返しのつかない事を彼らはしてしまいました。
聖書は伝えています。神は徹底的に人と寄り添おうとされる、しかし、人は背を向け続ける。皆さん、ヘロデとエルサレムの人々が行った事は他人事ではありません。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」聖書は今の私たちにも問い掛けます。私たちも含めて人と神との関係は、これ程に最悪の状態なのです。しかし私たちは不安を抱く必要はありません。
イエスには十字架に付ける罪は見当たらない、それが裁判長のポンテオピラトの結論でした。しかし、この最悪の状態に対する神の怒りと裁きの全てをイエスは背負って十字架という極刑を受けられました。それは単なる極刑ではなくて、神に完全に見捨てられるという永遠の滅びでした。神はイエスが苦しんで死に墓に葬られるまで沈黙しておられましたが、三日目にそのイエスを死人の中から甦らせて、再び人間にイエスを遣わされました。不安の中にあった弟子たちにイエスは「平安あれ」と言って、神と人の関係回復の道、和解の道が一本通された事を告げられました。皆さんに対しても神はイエスを通して宣言なさいます。平安あれ! 神との和解から真の平安が生まれます。
今は天にある神の右の座、世界の審判者の座、最高の座からイエスは、神との和解の道を進むクリスチャン一人ひとりを導いておられます。だから信者の皆さん、希望を持って進みましょう。今日、イエスが通された神との和解の道に、私も立とう、そして私も皆さんと一緒にその道を進んでみたい、そう思われる方はいますか。共に進んでまいりましょう。


2023.09.10
「憐みに胸を焼く神」ホセア書11章

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
今から約2000年前に、私たちを救うために、神がイエスを遣わされました。先週はそのイエスの十字架と復活によって、『神の究極の愛と希望』という土台の上に、私たちの人生が既に乗っかっている、と聞きました。『確りした土台は私たちの努力や熱心な信仰によって築くものであって、私なんかはまだまだ・・・』なんて思いがちな私たちにとって予想外のグッドニュースでした。確りした土台の上に今のわたしがある、これに気付くと人生観や価値観や生き方が変わります(コリント第一310節以下参照)。この気付きと、この変化をひっくるめてが、神の人間に対する救いの計画です。
 
 さて、この救いの計画はイエスにおいて突然起こったことではありませんでした。神はそれ以前の大昔から私たち人間と関わり、その救いの計画を進め続けて来られました。その救いの歴史の流れを知る時に、私たちが受けている救いがどんなに高価なものであるかに気付かされます。このことを念頭において、創世記から本日のホセア書まで19回説教してまいりました。
 
 皆さん、聖書が伝えている神は決心する神です。第一の書創世記は、その11章までで、人間のゆえに心を痛める神の姿を伝えています。神は人間を造ったことを後悔し洪水を起こして滅ぼそうとされましたが、途中で中止され、決心して言われました。「わたしは、このたびしたように、生き物をことごとく打つことは二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」(821)。その後、洪水から生き延びた僅かな人間や動物を祝福されました。そしてそれを見守りながら、神は新たな決心をされていました。『この増えて行く人間の中から具体的に関わる一人を選び、その一人から一つの民族を生み、その者たちと共に歩み、もっと具体的に人間と関わり何が起こっても永久に関わり続けて行くんだ』、という一大決心でした。
 
さて、今日読んでいただきましたホセア書は大変な時代に書かれた書です。神が一大決心によって生んだ神の民イスラエルが今や滅ぼされる、という時代にホセアは預言者として立てられました。神は滅ぼされようとしている彼らへの言葉をホセアに託しました。その内容は神が彼らを神の民とされた思い出から始まりました。
 
神はアブラハムというひとりの人間を選び、その子孫を祝福し、順調に民族を形成させ、神の民イスラエルとされたのではありませんでした。神は彼の子孫をエジプトへ連れて行き、そこでその子孫を祝福し人口を増やされました。その結果、エジプトは彼らの勢いを恐れ、彼らを奴隷にして苦しめました。神はあえてそうさせました。そして、その苦しみの中から救い出してから、彼らを神の民イスラエルとなさいました。
 
1節、まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。3節、ここでエフライムという名が出てくるので説明します。神の民イスラエルは北と南に国が分裂しました。北王国を別名エフライムと呼びました。預言者ホセアはその北王国が滅ぼされそうになる時に神から遣わされました。「エフライムの腕を支え、歩くことを教えたのは、わたしだ」。4節「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」。幼かった、歩くことを教えた、愛のきづなで導き、彼らを悩ます軛を取り去り、身をかがめて食べさせた、これらの言葉からも分かる様に、神は親が子を育てる様にイスラエルを育て養って来られた事を思い出されます。しかし、彼らはこの神の愛を無視し、背を向けて2節、去って行き、他のものを神とし、3節、彼らは神の愛に気付きませんでした。
結果5節、彼らは以前奴隷だったエジプトへ助けを求めましたが、アッシリアという大国が彼らを支配し、6節、剣に悩まされます。7節、神に背を向けたままでは天からの助けを起こそうと思っても起こせません。8節、天から彼らを見守っておられた神が、恥も外聞も無く、ご自分の心の呻きを大胆に吐き出されました。前代未聞です。
 
8節のアドマの様にツボイムの様にとは、どういう意味でしょうか。昔神が彼らの先祖をエジプトから救い出し、40年の荒れ野の旅を終え、彼らが後に国を築くことになる土地に導き入れる直前、モアブという所で神はモーセにご自分の今の思いを伝えられました。『これからヨルダン川を渡って約束の土地に入るが、私はあなたがたの神としてこれからもあなたがたを必ず祝福する。だから、あなたがたは安心しなさい。私から離れないでわたしに従って共に進みなさい。これはお互いの約束だ。シナイ山で契約を結んだが、ここでもう一回みんなと契約を結んで、この約束を堅くしたい(申命記29)』。それで神は『もしこの契約を破ったら、ソドムやゴモラやアドマやツェボイムの様に滅ぼす』とまでおっしゃいました。
 
ところが、イスラエルの民はこの約束を破りました。しかし、神は約束通りにイスラエルを見捨て、敵に引き渡し、アドマやツェボイムのようにはどうしてもできない、と葛藤され、この様な前代未聞な叫び声をあげられました。8節の叫びは、この大地に響いたのではないかと、思う程に私たち大地に住むものにとって重大な叫びだと思います。。この時から約600年後にエルサレムのゴルゴダの丘でなされた、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、人間の叫びを自分の叫びとされた神の独り子イエスの前代未聞の叫び、全ての人が聞き逃してはならない叫びが、私には重なって聞こえるからです。ホセア118節も、全ての人が聞き逃してはならない神の叫びです。
 
9節以下の言葉は神の新たな決心を表わしています。先程紹介しました「わたしは、このたびしたように、生き物をことごとく打つことは二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」という神の決心の言葉と似ています。もはや怒りに燃えることなく、再び滅ぼすことはしない、怒りを持って臨みはしない。
そして、神は10-11節で未来の事を語られます。その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。小鳥の様に鳩の様に恐れつつ飛んで来る。『わたしは彼らが立ち返る日を待つ。彼らを住まわせる家を用意して待つ』。ここにも神の新たな決意が現れています。後にイエスは、この神の決意が今も変わらないことを、帰って来る放蕩息子を待ち続け、彼との新たな生活を始める計画を立てている父親の例え話をされました。皆さん、神は皆さん一人ひとりに対しても、応答を待っておられます。皆さんとの計画を立てて待っておられます。それはどんな計画なのでしょうか。それは平和の計画で会って、将来と希望を与える計画です(エレミヤ2911)。イエス・キリストの恵みがどんなに高価なものであるか。今、心に確り刻み、この人生で精一杯この神に応え続けましょう。


2023.09.03
「人生の土台」イザヤ書43章4節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
人生は積木に例えられます。どんな積木を積むのか、どの様に積むのか、どれだけ積むのか、私たちには色々考えなければならない事があります。しかし、これらの積木を積んで行く自分の人生の土台がどうなっているのかを、考える人は少ないです。その大きな理由は、忙しいということです。
 
 『それでは今から、わたくし、末吉貞雄の人生を始めます』と言う様に、始めた人は一人もいません。私たちが気付いた時には既に人生は始まっていました。もうその時の事は忘れています。最初にしたことは泣く事ですね、それからお乳を飲む事、眠る事、見つめられたら笑顔での応答、手足を動かし、ハイハイ・・・、この様に私たちは赤ん坊の時からやることが一杯ありました。まるでベルトコンベアーの様に次から次に、今日に至るまで、そしてこれからも積み続けるわけですが、ここで一つ大切なことがあります。
 
最初の積木はどこに据えたのでしょうか。私たちが最初にしたことは?泣くことでしたね。つまり肺呼吸を始める事でした。しかしそんな時に自分で『わたしの人生の最初の積木は、どこに据えようかな』なんて考えたり選んだりできるはずがありません。ではどうだったのでしょうか。もう既に最初の積木は積んでありました。私たちはその上に積んで来ましたし、今もそしてこれからも積みます。だから人生の土台の事はベールに包まれています。
 
時間は一刻一刻と刻み続けられます。周りの環境も動き変わります。地球は自転し、月は地球を回り、地球は太陽の周りを回ります。全てが動いています。止まらない、その様な中に私たちはいます。最初の積木はどこに据えたのでしょうか。つまり、私たちの人生の土台はどうなっているのでしょうか。それは棚上げにして日々忙しくしています。忙しくない人も動いています。
 
 ですから、まず思い切って立ち止まる事が大切ですね。立ち止まる場所は沢山あります。山や海など自然の中に身を置いたり、旅行に行って日常生活から解放されたりする時に、立ち止まる機会が与えられます。スポーツマンだってシーズンオフが定められています。ストレスの多い現代社会では休暇を取る事が義務付けられています。しかし、これらの立ち止まりは次の積木を積む為のものであって、人生の土台がどうなっているのか考える為のものではありません。教会の礼拝は、人生の土台がどうなっているのかを確かめる為に立ち止まる唯一の場所です。今回と次回10/15の礼拝は、信者以外の方々にも立ち止まって頂く機会になればとの願いをもって計画しました。
 
 さて、今日の聖書「わたしの目には、あなたは高価で尊い」。短いでしょ。ですから、是非覚えて帰って下さい。ちょっと声を合わせて言ってみましょう。・・・
 これは神が預言者イザヤを通して語られた言葉です。皆さん、神はこの言葉を誰に伝えたのでしょうか。人の目で見たら、内容からしてこの言葉は、神を信じて、神に従って、神を畏れて、人から愛され信頼されている人に言われたのだ、ときっと見るでしょう。しかし、そうではありませんでした。神は、この言葉を神を信じない人、神に従がわない人、神を畏れない人、人から良く思われてない人、信頼を失っている人、つまり神の前に出られない、また自分そう思っている人に言われたんです。驚きです。予想外ですね!
 
 『わたしの目には』。この言葉は非常に重要です。この言葉は私たちの人生の土台を指さしています。神は皆さん一人ひとりに宣言されます。
 あなたの目と他の人の目、全ての人の目がどの様に見て評価しようが、わたしの目は違います。わたしの目は、あなたが人生で積んで来た積木の内容や大きさや数に拘りません。わたしの目は、あなたの人生がスタートする前からあなたのことを見ていた。あなたの人生の最初の積木を据えたのは、この私だ。それをどこに据えたのか、その土台を知っているのは私だけである。
 たといあなたが人生の積木を一枚も積めないと言うはかないものであっても、また、たとえあなたが積み上げたものがどんどん崩れていって、世の中から最悪の人生だと評価され様とも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とわたしは宣言し続ける。このわたしのあなたに対する絶大な愛が、あなたの人生の土台である。
 
しかし、人はこの神の事を知らず、あるいは聞いてはいるが横に置いて、あるいは無視して、人生の積木を積み上げることに忙しくしています。皆さんの人生は最高の土台の上に積み上げられています。それは神の絶大な愛です。だから希望を持って欲しい。それに何とか気付いて欲しい為に、神は昔々から人間と実際に寄り添って来られました。聖書はその記録です。そして、神は一大決心をされ、御自分の愛する独り子イエスに、神の身分を捨てさせ、私たちと同じ肉体を持つ人間として遣わし、十字架でその命を私たちのために犠牲とさせて、その絶大な愛を究極的に表して下さいました。また、神は死人の中からそのイエスを復活させて、確かな生きる希望を表わして下さいました。
 
 皆さんの人生の土台は神の絶大な愛です。だから、心配はいりません。どんなに辛い積み木を積むことになりましても生きる希望があります。今はその愛に応える貴重な期間です。いつか皆さんの積まれたものが全て取り去られる時がやってまいります。それは全員免れられない死ですね。死んだ後どうなりますか。色々想像されていますが、死んだ後、一人ひとりの人生の土台がなんであったのかが、一人ひとりの前に明らかにされます。もし、それが初体験であるなら、それは丁度最高に素晴らしい方からラブレターを頂いていたが、一回も返事を出さなかった時に似ています。残念ですね。皆さん、今は神の愛に応答する貴重な期間です。
 
神は今日皆さん一人ひとりに言われます。『わたしの目には、あなたは高価で尊い』。今はこの神の愛に応答する貴重な期間です。お祈りしましょう。

2023.08.27
「神が造る神殿」Ⅱサムエル記7章1~8節,イザヤ66章1~2節,Ⅰコリント6章19~20節(新306)

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★ただ、神の恵みによっている
 ダビデ王が神のために神殿を造りたい思いを預言者ナタンに伝えたところ、神からの返事は良い返事ではありませんでした。57節参照。神はなぜこの様な返事をされたのでしょうか。ダビデが神との関係において、忘れてはならない重要なことを忘れていたからでした。それは私たちにとっても、神との関係において忘れてはならない重要なことです。
 神は8節でこの忘れてはならない事が何なのかを示しておられます。8節に注目して下さい。「わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした」。これはどういうことなのでしょうか。まずお話しします。
 
 先週聞きました少年ダビデが巨人ゴリアトと一対一で戦った事件が起こる前、野原で父エッサイの羊の世話をしていたある日、神が預言者サムエルに命じました。「お前はベツレヘムへ行って、いけにえの会食を開き、そこにエッサイとその息子たちを招待しなさい。その息子たちの中から私が指名する者を、サウル王の次の王としなさい」。サムエルに言われてエッサイは七人の息子たちを連れて来ました。しかし、神は「人はうわべを見るが、主は心を見る(167)」、と言って誰も選ばれませんでした。それでサムエルは「エッサイ、お前の息子はこれで全員か?」と聞いてみると、「サムエル様、まだ末っ子のダビデがおりますが、あれはまだ少年に過ぎません。今は野原で羊の番をしております」と答えが返って来ました。「彼を連れて来なさい」。ダビデが連れて来られた時、「この子だ」と、神はサムエルに告げられました。 8節が伝えているのは、ダビデが王に選ばれた時のこのエピソードの事で、ダビデが忘れていた重要な事とは『彼が自分の力で王になったのではない』という事でした。
 
 また7章1節に「王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎを与えられた」とあります。最高級の材料レバノン杉で造られた王宮に住み、そこでのんびり外を眺める安らぎの時間を過ごせていたのも、ただ主なる神の恵みによりました。「今あるは、ただ神の恵みによる」、このことをダビデは忘れていました。人はこの事を忘れてしまいやすいので、神は既に注意されていました。それは彼らがエジプトの奴隷の中から救われ、神が用意しておられた土地に到着する前でした。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、金や銀が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。・・・あなたは『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主である・・・」申命記813-18節。皆さん、神は私たちにも注意されます。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」新約聖書エフェソ28節。私たちもこの事を忘れてはなりません。
★神を神とせよ
 さて皆さん、次にサムエル記下72節のダビデの言葉に注目して下さい。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」。自分は豪華な宮殿に住んでいるのに、神の家は未だにテントだ、これでは神に申し訳ない、とダビデは思ったのでしょう。あるいは、神へのお礼感謝のつもりで豪華な神の家、神殿を建てる事を申し出たのでしょう。しかし、ここには気付かない間違いがありました。
 神はそれに気付かせるために、一つの質問をされました。5節「あなたがわたしのために住むべき家を建てようと言うのか」。人が礼拝堂を建てたり、教会を建てるのは問題ありません。しかし、人が神の住むべき家を建てるのは間違いです。それは神が建てるべきものです。それは人が越えてはならない越境行為です。それは神を神としない行為です。エジプトから救って神の民とした彼らにそんなことがあっては、人と共に歩むと言う神の計画が台無しになってしまいます。それで神は5節後半から7節にかけて、熱情の神らしく非常に感情を露にされました。しかし、愛に溢れる神は怒らずダビデを諭されました。ダビデが神の家を建てるのではなくて、11節「主があなたのために家を興す」とナタンに告げさせました。これは、あなたは主のために家を建てる立場にはない。わたしがあなたのために家を建てるのである、というメッセージであり、また、あなたの子孫が代々王位継承し王国が続く約束でもありました。ダビデはそれに応えて祈りました。27節「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。」結局神はダビデに神殿を建てさせませんでした。しかし彼が準備した建築材料で息子のソロモン王が建てました。「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか」。これは人が行ってはならない神に対する越境行為、神を神としない行為に対する警告でした。
 
 ここで一つ押さえておきたいことがあります。現代の私たちも人として神に対して越えてはならない一線があります。生命に関して核に関して、そしてまだ出会っていない事柄に関して、越えてはならない一線があることを忘れてはなりません。
 
 さて、ダビデは二代目の王でした。サウルが最初の王になった時、同じような越境行為が指摘されました。サムエル記上849節参照。他の国と同じように王を立てて欲しいと言う民全員の願いを、長老たちがサムエルに伝えた時、サムエルの目に、それは悪と見えました。なぜなら、民の上に王として君臨する方は、エジプトから彼らを救ってくださった主なる神だからです。だのに別に王を立てるというのですから、これも神に対する越権行為でした。サムエルは最後まで反対でした。しかし、神は彼らの声に従い王を立てさせました。サムエルは国民も王も、もし神に従わないなら滅ぼされる事を彼らに言い渡しました。彼は王を立てて欲しいと言った民たちの背後にある彼らの神に対する高慢な思いを見抜いました。私たちも高ぶらないよう要注意です。
★神が造る神殿
 サムエルが見抜いた通り、王も国民も神に従わなくなり、ソロモンの子どもは国を南北に分裂させ、北では19の王が立てられ、南は20の王がたてられましたが、それぞれ異国の侵略によって滅ぼされました。ソロモンが建てた神殿は約370年後に破壊されました。そして神は預言者イザヤを通して、人が神のために神殿を建てることを改めて問われました。イザヤ661-2参照。370年間わたしはあなたたちと寄り添って来たが、あなたがたはまだ分からないのか?私が顧みて注目するのは、荘厳な神殿ではない。苦しんでいる人、霊が砕かれ謙った人、御言葉におののく神を畏れる人と寄り添い続けることだ。現代社会の中で私たちクリスチャンは、この神が顧み注目されるこれらの人々と共に歩むことが求められている。
さてこの時から、神は神が造る神殿の計画を進められました。皆さん、この神がその独り子イエスを私たちに遣わされました。その目的は私たちがイエスによって神と和解し、聖なる霊の形で、目に見えない形で私たち一人一人の体に神が宿り、徹底的に寄り添ためです。そして、私たちにある高慢を謙りに、不安を平安に、私たち自身を造り変えるためです。何千年も前から神が目指して来られた計画がこの事で実現しました。私たちクリスチャンの体が聖なる霊として神が宿り住まわれる神殿である事に対して、私たちはもっと驚かなければならない。そして、畏れを覚えなければならない。そして、何よりも私たちは、この聖霊が宿る神殿である体を生き抜くという希望、すなわち、外なる人は衰えて行くとも、日なる人は日々新たにされていく、という希望を見ます。
 


2023.08.20
「石投げ紐と石一つという信仰」Ⅰサムエル記17章31~50節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 全ての人がゴリヤテを前にして落胆していた時に、32節「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。この僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」と言ってゴリヤテに向って行ったダビデには、勇気があったのではなくて、神に対する深い信仰(信頼と言った方が良いでしょう)がありました。
 
 私たちも主イエスから「心を騒がしてはならない。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい(ヨハネ141)、と勧められています。私たちの場合は信頼できるお方として、ダビデには与えられなかった主イエスさまも与えられています。この恵みに感謝しましょう。
 
 使徒パウロもその信仰を受継ぎ、2コリント41節と16節で、この信頼できるお方のゆえに落胆しない、と二回繰り返しています。そして、この二つの「落胆しない」の間の89節で、自分の体験からでしょう、四方から苦しめられても行き詰らない。途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない、と書いて信頼すべきお方の事を証しています。そして、5章では私たちにもう一人の信頼すべきお方、聖霊の事を伝えて、6節と8節で「わたしたちは心強い」と二回繰り返しています。ダビデにとって信頼すべき方はシングルでしたが、私たちは神、イエス、聖霊のトリプリです。ですから、私たちは尚更、これらのお方に対して信頼を深くいたしましょう。
 
 さて、4-11節サウル王とイスラエルの全軍が非常に恐れた理由はゴリヤテの大きさ強さです。身長6キュビト半とは約2メートル90センチです。全身青銅で覆われた完全装備です。その装備の重さは5000シェケル、約57キロです。投げやりの刃の重さが600シェケル、約6.8キロです。棒は1キロ以上あるでしょう。だから投げ槍の重さは7.8キロです。陸上の砲丸投げは7.3キロだそうです。ゴリヤテの怪力が分かります。
 
 その格好を見るだけで恐れおののきます。さらに彼が一対一で戦うのを求めましたから、イスラエルの陣営は恐れおののき出しました。誰がゴリヤテと戦うのか。イスラエルは千人以上います。誰かが戦うだろう。最初はみなそう思っていました。ゴリアテは40日間朝夕やって来ては「誰が一対一で戦うのか、出て来い」と言い続けていました。結局「私が戦います」と言う人は一人もいませんでした。
 
 みなさん私達は日頃ひとりぼっちではありませんね。家族や友人や近所の人、誰かが一緒にいます。しかし、一対一の挑戦を受ける時があります。例えば病気がそれです。戦うのはその人自身です。医療や看病は戦うための準備を提供してくれます。この薬でこの手術で勝てる、それを使って病気と戦うわけですが、いつもそうとは限りません。ゴリヤテを前にしたイスラエルとは、丁度医者から「この薬でもこの手術でも勝てる希望はわずかです」と言われて落胆することに例えられます。
 
 ダビデも同じ状況の中にいました。しかし、彼は32節で「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。この僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」と言いました。勝てる希望はありません。勇気が湧く状況でもありません。ではなぜそう言えたのでしょうか。ここでちょっと注目して欲しいことがあります。ゴリヤテは一対一の対決を挑戦して来ました。そして、サウル王さまと、イスラエルの全員は自分に対する挑戦として受け止めました。自分とゴリヤテを比較すれば当然落胆します。王は何とか誰かに勇気を出させて出て行かそうとして、褒美を約束します。その褒美とゴリヤテと比較させようとしたのです。25節、それはお金と王女と、特別な地位でした。しかし、その褒美によって勇気を出す者は誰もいませんでした。ここで注目しなければならない事は、全員基本的にゴリヤテの挑戦を自分に対する、つまり人に対する挑戦、と捉えていることです。
 
 しかし、ダビデはゴリヤテの挑戦を人に対する挑戦として捉えていませんでした。26節「生ける神の戦列に挑戦する」事と捉えています。人に対する挑戦ではなくて神に対する挑戦と捉えたから32節の言葉が言えました。ゴリヤテ自身はイスラエル人に対して挑戦しているつもりだったでしょうが、ダビデはそれをイスラエルと共におられる神に対する挑戦と見ました。これはただ神がイスラエルの味方であるということではありません。イスラエルにすることは神にすることである、という神とイスラエルの緊密な一体性を信じていたから、その様に捉えました。このダビデの信仰が彼を落胆させず、心強くしました。
 
 神が戦われる聖戦と言って、現代でも戦争がなされていますが、それは大きな誤りです。このダビデが戦った聖戦のかたちと比較するなら、その誤りがはっきりします。37節サウルはダビデに「行くがよい。主があなたと共におられるように。」と言います。聖戦は神が一緒にいて助けてくださる戦いのことだという認識で、サウルは王の武具を身に付けてゴリヤテと戦うように指示します。しかし、それは誤りでした。40節ダビデは滑らかな石5つと石投げ紐という、戦争の武器ではなくて日常仕事で使う道具を持って向かって行きました。そして、50節、聖戦は羊飼いの少年の投げた一つの石で終了します。神の戦い、聖戦は剣や槍という武器による強さによらず、弱さという形で行われました。47節、機関銃や戦車やミサイルや化学兵器や核開発は聖戦では必要ありません。石ころ一つで神は勝利されます。これは武器ではなくて生活用具です。人は戦争に神を持ち出す過ちをしてきた歴史を持っています。イスラム教の神、キリスト教の神、78年前に終わった日本の戦争でも。
 
 神と人が一つである、ダビデと同じようにこの信仰に私たちも招かれています。神はかつてイエス・キリストによって人間になられました。人間と深い関係を築くためです。最後の夜にキリストは神・キリスト・私達が一つになる事を祈られました(ヨハネ1711節、21-23節参照)。しかし、それに反対する働きが起こりました。人は悪と罪と死に支配されています。だから、神に来られては困ると思います。悪と罪と死は人を神から遠ざけ自分の支配下に置き続けようとします。しかしイエス・キリストは最後まで、十字架の死と墓の中に至るまで、人として歩まれました。私達人間と一つになるためです。
 
 死、それは人間を一番強く支配しているものです。人間は死と鎖で繋がれています。神は最後にイエス・キリストを死人の中から復活させてこの死の鎖を切断してくださいました。そして、今度は神がイエスの十字架でお示しになった愛の帯で、人としっかりと繋がって下さることになりました。このイエス・キリストの十字架と復活によって、神と人が一つになる道が開かれました。クリスチャンとはこの道を信じて進む者のことです。神と一つになろうとする時に戦いを挑む者はもはや私に挑むのではなくて、むしろ私と愛の帯で繋がって一つになっている神に戦いを挑むことになります。ですから、恐れおののかず、落胆せず、挑戦してくる者に向かいましょう。これが『石投げ紐と石一つ、という信仰』です。神に対する戦い、神の戦いには剣や槍という世の武器はいりません。詩篇3316-19も歌います。
 
 神が戦われるなら私達は何をすればよいのでしょうか。そこで新約聖書エフェソ613-18節はそんな私たちに大変興味あることをつたえています。それは神の武具のことです。真理、正義、平和の福音、信仰、神の言葉、祈り。これらは神との関係が前提となっています。石投げ紐と石一つの信仰とは、これらの神の武具を身に着けることです。神はイエス・キリストにおいて、あなたと死との間にある鎖をちぎり、その代わりに十字架で示した愛の帯であなたをご自分と繋いで一つにして下さいました。神が戦われます。それを信じる私たちは、神の武具を着けて、ダビデの『石投げ紐と石一つ、という信仰』の道を歩みましょう。


2023.08.13
「私たちの現実に神が関わられる」Ⅰサムエル記3章1~4章1節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 私たちは先週神からの大きな励ましを受けてそれぞれの生活の場へ出発しました。そして、またここに帰って来ました。生活の場は良いことばかりではありません。不満や不安が起こってまいります。少年サムエルの生活の場『エリのもと』も同じでした。
ここでサムエルの生活の場についてお話しします。彼は祭司という仕事をするために、シロにある神殿に住んで、引退していたベテラン祭司エリがサムエルの先生になって、色々と教わりながら、神殿での仕事をしていました。ですから、仕事場と生活の場が同じでした。しかし、その職場の環境は最悪でした。父エリの後を引き継いで神殿のトップの地位に就いた、二人の息子ホフニとピネハスは「トップである私の言うことを聞きなさい。さもないと大変なことになるぞ」と、脅してパワハラとセクハラと横領をしていました。特にこの横領とは神さまのものを自分のものにするという、非常に悪いことでした。
 父エリが二人に注意するのですが、二人はその注意を無視していました。エリは引退していましたが祭司の中で一番年上で一番経験のある、最長老でしたのでこの二人を最悪、神殿から追い出すことも出来ました。しかし、エリは親であるがゆえに二人の息子に対してその最悪の対応を取れませんでした。神殿を追い出されたら二人は住む家も収入も無くなります。きっと二人には妻も子供もいたでしょう。それで聖書には登場しませんが、エリは妻から「あなた、何とかそれだけは赦してやってください」とでも言われていたのかも知れません。神はそんなエリに遣いを送って伝えました。「あなたはなぜ、自分の息子をわたしよりも大事にするのか?」。
 
 この様な最悪の生活の場を選んだのは、サムエル自身ではなくて、お母さんハンナです。だから、『自分が悪いんじゃない、お母さんがこんな所に連れて来たのが悪い』と、 サムエルは不平と不満を言っても良いわけです。ところが、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていました。サムエルは我慢強い子なんでしょうか。いいえ。では、なぜそんな悪い現実の中で彼は主に仕えていたのでしょう?。お母さんハンナの信仰が影響しています。
 聖書は2章にハンナの祈りを載せています。これは祈りというよりも賛美に近い内容です。ちょっと見て下さい。ハンナは3-8節で、自分の生活の場がどんな場なのかを伝えています。驕り高ぶり、思い上がった言葉が聞こえ、人の行いが正されず、勇士の弓と言う戦争のための武器が無くならない。食料が一方では不足しているのに、他方では有り余って捨てられるという矛盾があり、弱い者と貧しい者が顧みられず、生きる価値が認められていません。
 皆さん、これは今の私たちの生活の場でも起こっている現実ですね。ハンナはそれに対して不満や不安を口にするのではなくて、この現実にこの世界の全ての支配者、審判者である主なる神が関わっておられると信じ、期待してこの賛美を歌いました。このハンナさんの信仰は誰から受け継いだのか分かりません。しかし、夫エルカナが毎年主が定めた所であるシロで礼拝を捧げているので、ハンナも礼拝者の家庭で育ったのでしょう。かつてモーセは、約束の地に着いて土地を与えられて生活が始まったら、主が定められた方法で礼拝を捧げなさい、決して自分の目に正しいとすること、すなわち他の神を礼拝してはならない事を告げていました。しかし、約束の地での生活が始まると、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた、と士師記の最後は伝えています。しかし、士師記の次ぎの書、ルツ記のナオミや、このハンナの様に主なる神を礼拝する女性たちが登場します。
聖書が記した時代は男性中心の社会でした。しかし、主なる神に対する礼拝が小さき女性たちによって続けられたことを聖書は伝えます。神ご自身が小さき者の神であることは喜びだ、と思われたからです。イエス・キリストも、そして、私たちキリストの教会も同じ思いです。 
 
さて、サムエルはお母ちゃんハンナのお乳を飲み、抱かれ、見つめられ、彼女から言葉を覚え、遊びを覚え、歩き方食べ方を教わり、大きな影響を受けて育てられました。ハンナは、少年サムエルの生涯を主にゆだねるために、シロにある主なる神の家に連れて行き、祭司エリの手にその子を渡して帰って行きました。彼女は年一回主なる神の家に礼拝に来た時に必ず縫い上げた祭服をエリに手渡して帰りました。成長するサムエルの体を想像しながら縫い上げた母の愛とそれを喜ぶ子の姿。
 
 お母ちゃんハンナの賛美と、ラブラブの親子を天から見ていた主なる神は、もう居ても立ってもおれなくなったでしょうね。天地創造の時、アダムとエバがエデンから出て行って以来、人を見守り、人と寄り添い続けて来られた神は、ここで大きな行動を起こされました。神が人の名前を呼ばれます。かつて神はアブラハムとモーセの名を呼ばれました。サムエルは三人目です。今回神がサムエルを呼ばれた目的は19-21節に示されています。それは彼に主の御言葉を預けることでした。預けるの『預』と、主の言葉の『言』を合わせて、サムエルが初めて預言者と呼ばれます。主の御言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。地に落ちて役に立たない、当てにならない、だから踏まれて忘れられてしまう、そんな言葉は一つもなかった。御言葉をもって主は御自身を示された。すなわち、預言者を生み、彼をこの世界に遣わす目的は、そこに主が共におられる、関わっておられる事を示すことでした。
 
サムエルの後ナタン、エリア、エリシャ、そして16人の預言者が続きます。彼らは現在で言うなら政治経済福祉の現場へ遣わされ、神から預かった御言葉を伝え、そこに主なる神が共におられる、その問題にかかわっておられる、主と無関係な事柄はこの世界には無いことを伝えました。しかし、彼らは迫害を受け拒絶されました。そんな歴史があって神は大きな決断を今から2000年前にされました。御言葉ではなくて、愛する独りごイエスを肉体を持って、肉体を生きて、肉体の死にまで至らせ、復活させて天に帰らせて、本当に神はこの世界と関わられる事を証されました。また、イエスの十字架の死は私達のための死でした。神から離れて神と無関係に生きるという罪の支配下にある私たちを神の支配に移し、神と共に歩む道を神は開いてくださいました。
神は、皆さんの全ての現実と関わるお方です。皆さんとその生涯を共に歩むことを心から願って手を差し伸べておられます。皆さん、神を信じるとは、その神の手に皆さんの手を差し伸べ、確り握りるようなものです。イエス・キリストの父なる神はあなたのすべてのことと関わられます。だから大丈夫です。あなたの生活の場全てと関わっておられます。だから神を神として歩みましょう。その歩みを勧めている聖句を最後に読みます。箴言3章。


2023.08.06
「あなたの神、主は共にいる」ヨシュア記1章1~9節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 神を信じてこの人生を歩むというのは、冒険の様なものです。アドベンチャーです。ただ何とかなる、と思ってするのは向こう見ずとか無鉄砲とか無謀です。『大丈夫だよ』とか『わたしが一緒だよ、共にいるよ』と、一言語ってくれる信頼する存在に頼って行うのが冒険です。
 
 私も『大丈夫』と語る存在によって冒険をしたことがあります。京都の有名な観光地の嵐山にある教会に赴任した34歳の時、月曜日に4歳の次男と3歳の長女の二人の子どもを連れて、私たちは嵐山に流れ着く保津川の上流にある保津峡と言う渓谷へハイキングに行きました。JR山陰本線の保津峡駅を降りたら一軒の古い茶店があり、その前の吊り橋を渡って、川向こうの道を歩いて嵐山迄戻るコースでした。ところが、その日の吊り橋は床板の取り換え工事中でした。他の道はありませんでしたので、次の電車が来るまで待って、引き返してハイキングを断念するしかありません。諦めて電車が来るまで茶店の椅子に座らせてもらっていると、工事している人が手招きしながら叫びました。渓谷に『大丈夫、大丈夫』という声が響きました。
 
 今読んでいただきました聖書の2節に「立ってヨルダン川を渡り」とありました。私たちも、茶店の椅子から立ち上がって、保津川を渡りました。川面まで20mはあったと思います。橋の中央に床板が無い所がありました。子どもたちは作業員に抱かれてそこを通過、無事渡ることができました。私たちは『大丈夫』と言われる作業員をじっと見て、彼らを信じて渡りました。しかし、もしもの事が起こったらどうするのか。などと考えたら、きっと渡れなかったでしょう。あの時、作業員も私たちも冒険をしました。ヨルダン川を渡ることを決断したヨシュアも、その時冒険をしました。
 
 今、神を信じてこの人生を歩む私たちとヨシュアは重なります。ヨルダン川を渡る前にモアブという所で、人口調査が行われました。兵役に就くことのできる20歳以上の男子が601730人でした(民数記2651)。女性や子どもや老人等の数えられなかった人々を合わせると百万人を超える大集団でした。立って彼らを率いてヨルダン川を渡れと神が言われた時、川の水は堤防を越えんばかりに満ちていました(315)
 
 しかし、神は言われます(313)。先頭を行く祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は壁のように立つ。だから『大丈夫だよ』。この神の言葉も川の岸で響きました。ヨシュアは水が堤防を越えんばかりに満ちていた川に向かって行きました。『大丈夫だよ』と言ってくださる方によって、冒険をしました。アドベンチャーです。アド:向かって、ベェンチャー:行く、または来る。と言う語源通り。
 
 ここでイエスの言葉を思い出します。従いたいが、この問題やあの問題があると、考えて躊躇している人にイエスは言われました。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない(ルカ962)」。神に導かれてイエスに従いたいという思いが与えられ信仰という鋤に手をかけたんだから、もう心配はいらない、わたしがついているから、アドベンチャーしなさい、と。
 
 使徒パウロはフィリピの信徒に奨めました。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです(フィリピ313-14)」。アドベンチャーしなさい。
皆さんの信仰生活もアドベンチャーの様なものです。その土台は『大丈夫、わたしがついている、わたしに任せなない』と言ってくださる方です。もう少しヨシュアのことを詳しく見て、今日そのお方のことを確認して私たちも信仰と言うアドベンチャーへ出発いたしましょう。
 
1ページ前の申命記34章でモーセが死にました。30日間喪に服し、代わりにヨシュアが民のリーダーとなりました。モーセは生前ヨシュアの上に手を置いて、公に彼が後継者であることを示し、民もヨシュアに従う事を約束しました。モーセの助手として常に身近にいたヨシュアは、100万もの民を指揮する術を学んできました。また、神から預言する霊の賜物も与えられていました。この様に引き継ぎは順調に行われましたが、申命記3410は記しています。
 
イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。ヨシュアはモーセのようにはなれません。ここに不安がありました。自分には約束の土地を目指して行けるだろうか、そしてその土地を受継げるだろうか。無理ではないか。考えれば考えるほど不安になりました。神はそんなヨシュアのことを知っておられ、五つもの励ましの言葉を繰り返し語られました。こんなにも神に励まされた人は聖書の中に他にいませんでした。この激励の言葉は、同じくキリストがもう一度来られ天に備えられている約束の家を目指しそれを受継ごうとする、私たちに対する激励の言葉でもあります。しっかり聞いて心に刻んでおきましょう。
①行く手に立ちはだかるものはない。
②共にいる。特にモーセと共にいた様にと言われたのは神がヨシュ
    アの気持ちを良く知っていたからですね。
③見放つことも見捨てることもない。
④従うものはどこへ行っても、行く先々で栄え成功する。
⑤どこへ行っても共にいる。
 
それからもう一つ三回繰り返されている言葉「強く、雄々しくあれ」も私たちへの言葉として聞きましょう。この「強く」とは「固く」という言葉に近いです。信仰は大きさではありません。海辺の岩にフジツボが固くくっついていますね。あれは少々たたいても取れません。それと同じく小さくても神に確り固くくっつく、その様な信頼が大切です。「雄々しくあれ」とは勇敢であることですが、大胆であるという意味に近いです。信仰とは石橋をたたいて渡ることではないが、目暗めっぽうではなくて、石橋をしっかり見据えて、神を信頼してまず神の御心に目を向けることです。イエスさまもおっしゃいました、まず神の国と神の義を求めよ。
 
神の御心とか神の国と神の義、皆さん、これを説明せよと言われても難しいですね。私たちの信仰は手探りです。言葉ではなかなか説明できないけど、手探りで分かっています。私たちが神に固くくっついていたら、神の御心とか、神の国と神の義の方向は分かるんです。その方向に自分の向きを合わせること、それはできます。方向さえ正しければ、あとは神さまに任せたらいいのです。それが信仰の大胆さです。今、世界各国の指導者にこの大胆さを、主が与えられることを切に祈ります。核兵器による抑止力依存という川を乗り越えて、新しい共存の世界という地を目指す大胆さを。その為にどうかあらゆる不安を乗り越えさせてください。そのために教会に与えられている主にある平安が用いられるように、助けて下さい。
 
皆さん、神のヨシュアに与えた激励の言葉の背後には、愛がありますね。その愛を神は私たちに対して、イエス・キリストの体とそこから流された血によって現されました。神に対する罪は全て背負う為に、キリストの体は裂かれ血が流されました。神との和解、神がわたしたちの内に住んでくださるという恵みに私たちが預かる為です。この恵みはヨシュアに注がれた恵みを遥かに超えて大きいものです。だから感謝し、神に対する信頼をフジツボのように固くし、手さぐりでいいから確り方向を確かめ大胆に進みましょう。私たちも一番身近な所でまず平和を作らせていただきましょう。そのためにアドベンチャーさせていただきましょう。 お祈りします。

2023.07.30
「あなたの心を知りたい」申命記8章2~18節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
昔「神さまはイスラエルを地の面にいるすべての民の中から選ばれて宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、主の愛のゆえだった」と、7章6節以下にあります。エジプトの奴隷から解放して、主は彼らの神となり、彼らは主の民となりました。シナイ山での契約はそのような関係を結ぶ契約でした。それはちょうど結婚式をして夫婦の関係を結ぶのに似ています。厳粛な時でした。それから荒れ野に出発します。これはちょうど結婚生活を始めるのに似ています。お互いは本当の意味でまだ知らない部分が多くある中で結婚生活は始まります。ですから結婚の本質は「相手を信じる」ということです。
 
神さまとイスラエルもこれとよく似ています。エジプトとの関係の中にいたイスラエルは、そこから離れて神さまとの関係に入りました。これからお互いに関係を深めてゆくのです。そこで神さまは荒れ野の旅を共にすることにしました。2節「こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあることを、知ろうとされた」と、モーセは40年の荒れ野の旅を振り返って語っています。それは苦しい旅となります。しかし、そこがお互いに深く知り合える場所だったのです。この旅とは、信仰の旅ですね。
神さまがまず自分の心を打ち明けました。荒れ野ですから何もありません。しかし、パンと水と着物のこと、健康のこと、安全のことなど、神さまはすべて必要な物を与えて、御自分が父の様に信頼できる方であることを示されました。
 
 それに対してイスラエルの心もこの荒れ野で明らかになりました。イスラエルは心から神さまを信頼できませんでした。何度も不平不満を言いました。反抗しました。「もう別れたい」何てことまで言い出した時もありました。これは、私たち自身ではないでしょうか。神さまはとても悲しかったと思います。しかし、神さまはイスラエルの心にあることが分ったのでそれで良しとされました。裏切られても神さまの愛は変わらなかったのです。反抗するイスラエルのためにこそ愛を注ぐべきだ、と思われたのです。
 
 40年間で荒れ野の旅は終わりました。しかし、神とイスラエルの旅は続きます。神さまはイスラエルに愛を注ぎ続けられました。申命記という書はこの最初の旅が終わった所で語られています。この最初の旅の失敗を思い出して、これからの旅を進めて欲しいという意図があります。神は共に旅する者に御自分の心を表し、それと同時に人の心にあることをも知りたいのです。ですから、この書は、今神と共に旅をする者のためにも書かれたと言えます。神はイスラエルだけではなくて、今も人を選び、その人の神となり、その人は神の民となる。そういう関係を結ばれる方なのです。クリスチャンとはその関係を結ぶ者と言えます。そして、神は互いに深く知り合うことを求められます。
 
8章11節以下は、もはや荒れ野の旅ではありません。12節「あなたがたは食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が増え、銀や金が増し、財産が豊になって」とあります。17節「自分の力と手の働きで、この富を築いた。」とあります。これは現在私たちが営んでいる人生と同じですね。この人生という旅にも、あの40年間の荒れ野の旅と同じく神の愛は注がれています。現在、必要な物が備えられているのは神さまのお陰なのです。そして、わたしに信頼しなさいと御自分のことを今も表しておられる神なのです。
それと共に神は私たちの心にあることを知ろうとされます。私たちの心にあるのは何でしょうか。14節の「心おごり」とは、神に対して無関心、わたしの人生は神とは無関係だと考えることです。17節の「自分の力と手の働きで、この富を築いた」というのもそのことを表しています。私たちの心にあるのは何でしょうか。神は私たちを裁いて罰したいのではなくて、私たちの本当の心を知りたいのです。
神さまがイエスさまを遣わされた目的もそのためでした。イエスさまのお宮参りの日、神殿にいたシメオンが赤ん坊のイエスさまを抱いて預言をしました。「この子は、多くの人の心にある思いをあらわにされるために定められた子です。」イエスさまが十字架につけられたのは、多くの人の心にある思いの表れだったのです。みなさん、わたしたちの心にあるのは何でしょうか。イエスさまの十字架はそれを問うています。
イエスさまが十字架につけられた丘は、エルサレムの城壁の外でした。現代の私たちの生活の場は世界中に広がっていますが、昔は城壁の中がそれでした。イエスさまは生活の場から追い出されて十字架につけられたのです。神から遣わされたイエスさま、神さまの代わりに来られたイエスさまです。そのイエスさまを十字架につけるということは、「そんな神さまは私たちの生活の場に必要無い」という意味でもあります。神殿を壊して三日で建てると言った方を祭司達は必要としませんでした。すなわち復活して信じる者の内に住む者となる方を必要としなかったのです。
 
また、教えのことではいつも頭が上がらず、自分たちの上辺の信仰を指摘され、民に人気のあった方を律法学者は邪魔でしょうがありませんでした。祭司や律法学者やローマ帝国など、威張っているみんなをやっつけて革命を起こして、自分たち貧しい者が大切にされる国を建設してくれる方と期待していたのに、なにやらそうじゃなさそうで自ら苦しみを受けようとなさる、そんな方は期待外れ、そんな思いが弟子たちの心にも芽生え始めていました。十字架につけたポンテオピラトは、自分の立場から見て、イエスの側に着く事には利益を見いだせず、かえって害を被る恐れがあると判断し、処刑執行の兵隊の手に渡しました。群集は時の権力者の声に従う者でした。これらの思いは今紹介した人々だけではなくて、多くの人の心にある思いなのです。
 
これは神さまにとって悲しいことです。神さまはきっと昔イスラエルと共にした40年間の荒れ野の旅のことを思い出されたでしょう。十字架で多くの人の心の中の本当のことが分りました。でもそれで良かったのです。そんな心を持っている者にこそ、ご自分の愛が必要なんだと神さまはお考えになったのです。神は愛し続けるために、イエスさまを死人の中から復活させられました。ローマ7章16節「あなたがたは罪に従って死に至るか、神に従順に従って義に至るか、どちらかなのです。」とあります。「わたしは神とは無関係、神は必要無い」そう言う者は死に至ります。しかし、神はその人に愛の力を溢れるばかりに注ぎ続けてくださるのです。イエスさまを死人の中から復活させた神は、死に至るしかない者に、その力をもって働いてくださいます。
 
みなさん、神は私たちに何を望んでおられるでしょうか。あなたの心にあることをお知りになりたいのです。私たちの心にあるのはなんでしょうか。イエスさまを十字架につけたことは私たちにも関係があるのではないでしょうか。神は人の心を見られます。
神に本当のところをお知らせしましょう。わたしは神がどうしても必要かどうかはっきりしません。わたしは神と関係を持たなくても生活はできると考えています。わたしはわたしの益になるならと思って神を信仰しています。しかし、神を信じることによって、わたしが損をしたり苦しむならやめるかもしれません。色々とわたしたちの心の中にはあると思います。今、このような思いのある方は、そのありのままを神に知らせましょう。
神さまはおっしゃいます。『そんなあなただからこそ、わたしは愛を注ぎつづけます。あなたの内に私への信頼を確かなものにするために、わたしは愛を注ぎつづけます。』と。
また、過去にそういう思いの時もありました。しかし、今は神さまが深く関係をもってくださったので、あなたを深く愛し、深く感謝しています、という方もあるでしょう。そのことをお伝えしましょう。
みなさん、私たちは「私の神への信頼を確かなものにしてください。そして私の内に愛を育んでください」と祈り続けましょう。


2023.07.23
「私たちは神の住まい」出エジプト25章8節、40章34~38節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 皆さんはどんな家に住んでおられるでしょうか。先週、聖地旅行中に宿泊したアパートホテルを紹介しました。洗濯乾燥機や食洗器と便利なものが整っていましたが、靴を脱ぐという習慣の日本人としては、素足になれないのでちょっとストレスがありました。今朝は「私たちは神の住まい」という説教題ですが、初めに「神の住まい」のことを考えてみたいと思います。
 
 8節で「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。」と、モーセに要求された神の住まいは幕屋でした。言い換えると、持ち運び可能な豪華なテントという感じのものです。その材料は、3節以下にあります。金、銀、青銅、青・紫・緋色の毛糸、亜麻糸などとラピス・ラズリやその他の宝石類、というように大変高価な材料です。惜しまない心で神の住まいをつくりなさい、ということでしょうか。
 
 20章でモーセの率いるイスラエルの人々がシナイ山まで来ると、契約を結びましたね。十の命令、十戒です。それを具体的にどのように守るべきかと言うことが、24章まで書かれています。その後に、神様は、モーセに幕屋の建設を命じられます。幕屋の作り方について、25章から出エジプト記の最後の章である40章まで、何と15章も長々と書かれています。どうして、こんなに沢山のページを使っているのでしょうか。それは、民が神の指示に忠実に従うかどうかを見たいからです。このことは神さまにとって大変、重要だったのです。そして、8節で「わたしは彼らの中に住むであろう。」「わたしは彼らの中に住む」と神様が言われたことは、驚くべきことなのです。
 
モーセの時代の人々にとって、神様はどんな存在だったのでしょうか。3320節にこうあります。「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」。人は神を見ると死ぬと考えられていたのです。ですから、人々の只中に、幕屋を建てさせて、そこに住まわれるということは、日常生活のまん中に来られるということで、驚くべき事なのです。そこまでして、神様は人と共に生きることを、望まれるのです。
 
シナイ山までの荒野の旅はどんな旅だったでしょうか。苦い水を甘くし、メリバでは岩から水を出し、天からマナを降らせ、夕方にはウズラを飛んでこさせ、食糧も飲み水も、足りなくなることも余ることもなく、神の「至れり、つくせり」と言えるほどの心配りの中で、守られて来たのでした。それは、神様が本当に信頼できる方だという事を、生活の中で体験させられたのです。このことは、私たちにも生活の只中で神を信頼することを学べと伝えています。私たちにも必要なものを備えてくださる神です。「空の鳥、野の花を見なさい。神は小さな彼らさえちゃんと養われている」というマタイの御言葉を思い出しますね。
 
しかし、神様は、それだけでは無く、「あなた方の中に住む」と言われるのです。
ところが、このような熱い思いで、モーセに幕屋建設の細かい指示を与えている間に、山のふもとでモーセの帰りを待つ人々は、彼の帰りを待てません。32章を見てください。1節、「あのモーセがどうなってしまったのか分からない」と言って、金の子牛の像をアロンが作り、その像を自分たちの神としたのです。何と言うことでしょうか。彼らは、243節で「神様との約束を守ります」と皆で声を一つにして約束しています。また、モーセは今神様の所にいます。そこでいったいどんな悪いこと起こるというのでしょうか。
しかし、民は不安で心が支配されてしまいます。そして、金の子牛を神とするという大失敗をしたのです。こんな失敗にも関わらず、神様は幕屋建設を中止されませんでした。出エジプト記最終章の40章を見ますと、「主が命じられたとおり」に、幕屋は完成され、モーセはその仕事を終えた、とあります。4038節で、「イスラエルの家のすべての人に見えた」とありますのは、主が共におられるしるしを、全ての人が見た、ということです。
ただ見たのではなく主が共におられることを経験した、ということです。彼らは、幕屋と共に、シナイ山を出て、約束の地へと再出発したのです。
 
今日のキーワード、「彼らの中に住む」、この神様の言葉は、わたしたちにクリスマスの出来事を思い起こさせます。ヨハネ114節、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」。イスラエルの人々には、幕屋の中に住まわれる方として、神様は天から降られました。二千年前のクリスマスの出来事は、神様が人間の肉体を持って、イエスという人となって、わたしたちのところに降られました。そして、イエス・キリストを信じる者に、聖霊をお与えになり、私たちと共にいてくださいます。
 
コリントの信徒への手紙619節を見てみましょう。(p306)「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」。このように、わたしたち自身の中に、直接、神様が住んでくださるのです。わたしたちは神の住まいなのです。この約束は、神様が聖霊という神様として、いつも皆さんと一緒にいて、導いておられるという約束です。自分で聖霊を感じようが、感じなかろうが、神様の約束なのです。キリストを信じるわたしたちへの、神様の確かな約束です。
 
この確かな約束を信じて書かれた詩があります。有名な詩です。
 
 足あと
ある夜 わたしは 夢を見た  神さまと二人並んで わたしは砂浜を歩いていた
砂の上に 二組の足あとが見えていた
一つは神さまの そして一つは わたしのだった
しかし最後に わたしが振り返って見たとき
ところどころで 足あとが 一組だけしか見えなかった
「わたしの愛する子どもよ わたしは けっして お前のそばを 離れたことは
ない お前が もっとも苦しんでいたとき 砂の上に一組の足あとしかなかったのは わたしがお前を抱いていたからなんだよ」
                   M.パワーズ
私たちは神の住まいです。その聖霊なる神さまが一番いごこちのいい住まいとは、どんな住まいでしょうか。最新式の便利さを追求した住まいでしょうか。
私たちが最も苦しい時に、抱き上げてくださるこの神さまを信頼する心をもった住民の住む住まいではないでしょうか。神さまのいごこちのいい住まいとしていただけるよう願いつつ今週も前進して行きましょう。


2023.07.16
「幸あれ」出エジプト20章1節~21節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 神様が「わたしは主、あなたの神。あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。」とそこまで私たちに要求されるのは、私たちに「幸あれ」と願われてのことです。丁度、結婚の決心をする様に、全てを捧げる用意をして私たちの前に立ってくださるのです。十戒は、神様の愛の告白なのです。
みなさん、神様はなぜ私たちに愛を告白されるのでしょうか。それは、愛が、人を生かすからです。神様が望まれるのは、十戒を守って信仰深そうになることではなく、生きることです。どのような状況にあっても未来に向かって希望をもって生きることです。
未来に生きる
今朝、読んでもらいました十戒の後ろ半分はこのことを私たちに伝えています。そして、十の戒めの真ん中はおへそです。よく聖書を見てください。おへそのマークがついています。いえいえそれは嘘です()。前の5つの戒めと後ろの5つの戒めの間が丁度真ん中、だからおへそなのです。それは12節にある第5の戒めの「あなたの父と母を敬え」の次の言葉です。「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」この言葉が十戒のおへそです。
みなさんのおへそは、今は何の役目もないものに見えます。しかし、みなさんが生まれるまで、お母さんのお腹にいる時、おへそはみなさんの中心でした。その時、生きるのに必要なもの全てがおへそから入って来ました。今日お風呂に入った時におへそを眺めて今日のメッセージを思い出して下さい。昔の昔のことを、自分が生まれた時のことを頭に浮かべて眺めて見て下さい。
以前、沖縄を訪れた時、平和資料館を見学した後、アメリカ軍との激戦地跡に立ちました。その場所は、戦争を放棄しなければならないこと、平和を造り出さなければならないことを訪れる者に伝えています。それと同じくおへそは「命」とか「生きる」と言うことを私たちに伝えてくれます。十戒の第五戒は「命」また「生きる」ことを伝えています。今夜、そのことを思っておへそを訪れて見てください。
未来に押し出す約束
さて、十戒のおへそである「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」この戒めは何を伝えているのでしょうか。
使徒パウロはエフェソ6章2節でこう言っています。「これは約束を伴う、最初の掟です。」つまり、神様の命令には約束が伴っているのです。「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と言う約束は、わたし達にとってどんな約束なのでしょうか。約束は英語でプロミスと言います。プロとは「前に」、ミスとは「押し出す」と言う語源があります。つまり約束とは私たちを未来に押し出すものです。約束を伴う神様の掟である十戒は、私たちに「未来に向かって生きよ」と言っているのです。
 十戒はシナイ山でいただいたのですが、もう一度聖書に出てきます。それはヨルダン川を渡る前でした。「この川を渡ったら神様が与えると約束された土地に入る」と言われたその時に、モーセはこの十戒をもう一度語りました。「約束された土地」とは何でしょうか。小学校に入学する子どもには学校生活です。新社会人成る人には職場でしょう。新婚さんであれば新家庭。定年を迎える人には第二の人生。一日を終えたときは、次の日ということです。「約束された土地」に困難も予想されます。しかし、神さまは私たちが未来に向かって進むために希望の約束として十戒を与えられました。
神を信頼せよ
さて、おへその前の「父と母を敬う。」これはお世話になったから御礼をするのではありません。ただ「父と母」とあります。どんな父でも、どんな母でもと言うことです。それから「あなたの」父と母とあります。すなわち、父と母とは自分の命と直接関わっている父母のことです。父も母も完璧ではありません。欠点や不足があります。しかし、世界でただこの父と母だけが、自分の命と直接関わっている者であると言うことに比べたら欠点や不足は小さなことだ、と神様は言われます。「あなたの父と母を敬え」とは、単なる一般的な命ではなくて、この父と母の子供としてこの命があると言う認識をしっかりと持つ事です。この、「人の命」と言う掛け替えの無さを尊ぶようにと十戒は強く勧めます。
何があっても、人が未来に向かってこの命を生きる事を軽んじられては成りません。なぜなら、神様がそれを重んじられるからです。ですから、差別や偏見を無くそうという働きは、社会派というようなものではなく、神さまを信じる者として出て来た働きです。神様は言われます。イザヤ4334節「わたしが、あなたの神、主、・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」あなたも、あなたの父と母も、神さまはこのようにご覧になっています。
 
ですから、十戒は次に「殺してはならない」と続いて行きます。次の姦淫とは、人を物の様に扱って軽んじることです。盗みと偽証は、神様が他者に与えたものを奪うことです。つまり、神さまのものを奪うことになります。物を奪うのが盗みで、相手の立場を奪うのが偽証です。これらの行為の背後には、自分は軽んじられていると言う思いがあります。それで重んじられている他人を見て、それを奪いたくなるのです。他人の幸せを見て、不幸になる事を願う思いが起こるのです。これは大変悲しい事です。
しかし、神様は誰をも決して軽んじられません。「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。だから、どんなに貧しくても盗んではならないのです。また、どんなに悪い立場に立たされても偽証してはならないのです。
 隣人のものを欲しがるとは、むさぼりとも言われます。この行為の背後には、神様から自分に与えられていることに対して、満足できないと言う思いがあります。あの人は2タラントン、あの人には5タラントン,しかし私には1タラントンしか下さらない、そう思って人生を希望なく後ろ向きに生きた人の話が新約聖書にあります。「神様、私にはこれだけしか下さらないのですか、こんなんじゃ、私の未来には希望がありません。」と私たちも神様に不信を持つことがあります。十戒は伝えています。心配するな、与えられているもので満足しなさい。他人と比較してはならない。神様はあなたにとって必要なものを、最善なものをお与えになっています。だから、殺さず、姦淫せず、盗まず、偽証せず、隣人のものを欲せず、神様に信頼を置きましょう。
 
モーセがこの十戒を、ヨルダン川を渡る前にどうしても語りたかったのは、神様に信頼を置いて、川の向こうへ、未来に向かって進むためでした。私たちもヨルダン川を渡りましょう。ヨルダン川とは何でしょうか。それは洗礼を象徴しています。それは罪に死にキリストと共に生きる事を象徴しています。モーセは十戒を伝えた後(申命記5章―8)こう言いました。「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、彼を恐れなさい。あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。」 私たちの神さまは、みなさんを良い土地に導き入れようとしておられます。ヨルダン川とは私たちにとって死の川であるとも言われています。しかし、その川も主と共にあるなら平気です。その向こう岸は約束の地です。私たちに対する、未来の約束を主イエス・キリストが、十字架の苦しみと死からの復活を通して、示してくださいました。日常生活の中にこの主がいてくださいます。また、良い地とは私たちに与えられる復活の命です。この命には、もはや死も病もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。全く新しい命です。
京都の教会でキャンプをした時に、野外でのゲームをしました。そのゲームは5つの指令を行うというゲームです。大変な暑さの中にも関わらず、子どもたちは大人を置き去りにして、その指令を一番に達成しようと走り出しました。上り下りのきつい道を、全員指令を達成しました。子どもたちは達成感に満足していました。一方、大人たちは子どもたちを追いかけるだけで精一杯でした()。景品も何もないのですが、「何々せよ!」という指令にはそんな力があるのですね。5つの指令を達成すると、「かみはあい」という5つの言葉になりました。子どもたち全員、神の愛を受け取りました。
6節、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と主は約束されます。十戒は私たちに対する「幸あれ」という神様の指令の十の言葉です。


2023.07.09
「神を畏れる」出エジプト1章8節~2章10節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
アブラハム、イサク、ヤコブの神様は、ご自分の民であるイスラエルをヨセフによってエジプトへと導かれました。ナイル川下流のゴシェンという所で、彼らは神様の祝福の中おびただしく増えました。エジプトで過ごした年月は430年だったと「出エジプト1240」にあります。しかし、今朝8節を読んでいただきましたように、時の経過と共にエジプトに対するヨセフの貢献は忘れられ、強大になったイスラエル人たちは今やエジプトの脅威となっていました。そのために、虐待が起こります。
ここを読む時に、現代も同じことが行われていることを思います。世界で難民となっている人々は9000万人に上るそうです。出エジプトの出来事は昔の事ではなく、現代の私たちにも大きなメッセージを送っていると言えます。
 
イスラエルはエジプトの国と敵対するつもりは全くありません。国を乗っ取ること等、毛頭考えていません。ただ、神様が彼らをエジプト人よりも祝福されたということです。これには悪はありません。
 
悪の発端は「不安」です。エジプトの王を見ると良く分かります。彼は国民に警告しました。イスラエル人に注意せよ。もし戦争が起こって敵側に付いたら大変なことになる。
みなさん、現在のロシアの指導者達も同様です。彼らは国際社会で優位に立てないことへの不安と不満に駆り立てられているのです。ですから、国際社会は正しい知恵を働かせ、諦めずに何度も何度も和解に向かうようにアプローチが必要です。
 
イスラエルの代表者とエジプトの王が会談をして、不安の解消に努力していたら事態は変わっていたでしょう。しかし、それは行われませんでした。  
悪はどんどん連鎖反応を起こして膨らんで行きます。強制労働による虐待が始まり、労働内容が重くなり、男児殺害、男子撲滅。不安は、とうとう殺人へと連鎖して行きます。
「神を畏れる」とは、神を信じてこの悪の連鎖をストップさせることです。
エジプトにいるヘブライ人の助産婦はシフラとプアと言う名前です。祈り会で学びました。この二人の助産婦を日本名にするなら美子と光子。つまり、この二人は普通の平凡な女性です。最近はもっとおしゃれな字が使われますが・・。エジプトの王という強大な権力者の前では、本当に小さな存在です。その彼女達が悪の連鎖をストップしたのです。蛇の様に賢く、鳩の様に素直な善をもって悪に勝ったのです。このことは、彼女たちがすごく勇敢であったというよりも、神様が彼女たちに働いて、知恵を授けたのです。
しかし同時に、彼女たちには悪を否定するという確かな意思が働いていました。17節に、「助産婦たちは神を畏れていた」とありますから、神様の意思に従います、という信仰をもっていたので、神様からの知恵に気づかされたのです。
彼女たちが、男の子を生かしておいたので、王は問い詰めます。美子と光子は、「へブライ人の女は、エジプト人の女と違います。私たちが行く前に生まれているのです」と言って、王に賢く答えます。この二人は神様へのアンテナの周波数をいつも合わせていたのです。神様の心にアンテナを合わせていたのです。自分がどんな行動をすることが神様に従うことなのか、そこにアンテナを合わせていたのです。二人は、NHKの大河ドラマの主役になれない、それどころか画面の端っこのただ通り過ぎるエキストラの一人というような、平凡な小さな存在が、神を畏れて歩むなら悪をストップさせる存在になりうることを私たちに証しています。自分が何者であるかよりも、神様の心をどれ程知っているか、それが重要だということを教えてくれます。小さな私には、何だか元気が湧いてきます。
 
さて、2章に出て来ます赤ん坊を3ヶ月間隠していた母親もこの善をもって悪と戦います。彼女も神様を信じて悪と戦いました。最後まで諦めないで戦い続けました。防水を施した籠に赤ん坊を入れてナイルに浮かべたのです。命を最後まで大切にしたのです。
よく考えますと、この時生まれて来る子どもは、苦しむために生まれて来る様なものです。この子は生まれない方が良いと言う考えも、出て来て当然の状況だったと思います。ここにも悪が連鎖する機会がありました。しかし、どんな命も生きることを大切にしたのです。これが神を畏れることです。
現代は医学が進歩して、受精卵が着床して数か月でしょうか、赤ん坊に異常がある場合発見できます。お医者さまは親にそのことを告げ、出産するかどうか尋ねるそうです。異常を持って誕生することは困難や差別が予想できます。しかし、その命を親が決定していいのでしょうか。この赤ん坊の母の取った行動は、神を畏れるとは、困難に立ち向かう力も神様が備えて下さるという信仰であることを感じます。
さて、私たちはナイルに浮かべられた赤ん坊の姉にも注目しましょう。この子は、神を畏れる大人の後姿を見て育ちました。とうとう親の手では守りきれなくなった弟を、彼女は最後まで諦めませんでした。王女がふびんに思った時、つかさず「その子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んでまいりましょうか」と申し出ます。悪の連鎖はぎりぎりの所でこの姉によってストップしました。
詩篇33:18(新改訳)に「見よ、主の目は、主を畏れる者に注がれる」とあります。
 
神様は後にエジプトの王女の子になったモーセを、イスラエルの指導者として立て、神の民イスラエルを生み出します。神様は、悪の連鎖をストップさせるだけではなく、更に積極的に「善の連鎖」を作り出す人として、この民を選ばれます。
私たちキリスト教会は、この神の民の流れに属する集団です。キリストがもう一度来られる時、世界にある全ての悪を完全に消滅させられます。ですから、私たちはキリストが地上での最後の夜に、弟子たちに伝えた言葉を忘れないようにしましょう。「あなたがたは、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。ヨハネ1633節」また、使徒パウロがローマ教会信徒に伝えた「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。ローマ1221節」とあります。
 今、求められているのは、神様を畏れて行動することです。そして、悪は連鎖するものであることを、私たちは覚えなければなりません。旧約聖書の知恵は伝えます。「主を畏れることは、悪を憎むこと。箴言813節」と。人を憎むのではなくて、神様を信じて悪を憎むのです。人を憎む時、悪の望み通り悪は連鎖するからです。キリストこそ悪の連鎖をストップされた方です。私たちには出来ない十字架によって完全に悪をストップされました。敵を愛し迫害する者のために祈られます。悪が最高潮に達し、もう止めることの出来ない勢いとなって、罪のないイエスに向かって、人々は「殺せ、殺せ」と叫びました。しかし、キリストはその全てをご自分の身に引き受けて悪をストップされたのです。
また、このキリストの十字架は、その愛の力によって「善の連鎖」を作り出す力を持っています。キリストによって人は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と言う善の連鎖を作る者とされます。私たちもこれを願い求めましょう。
 
最近のニュースは暗いものが多いです。そして、同じ様な事件が次々と起こっています。このような状況の中で私たちの使命は大です。それは、それぞれの置かれた立場で、悪の連鎖をストップさせる終点になり、善の連鎖をスタートさせる起点となることです。それぞれの立場によってその点の大きさは違います。政治の指導者は世界に直接影響を与える大きな点に立っています。私たちはこの世界の中で小さな一点です。しかし、家庭の中では重要な一点ではないでしょうか。この事は全ての人に与えられている神様からの使命です。悪が連鎖しています。その発端は不安でした。神様を知らない所から不安が生じます。神様を畏れ、神様を深く知りましょう。


2023.07.02
「新しき事をなさる主」創世記45章1~15節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
「見よ、新しい事をわたしは行う」イザヤ4319節にこうあります。
先週は兄エサウの怒りを買って、叔父ラバンのもとに逃げたヤコブでした。20年後、二人の妻と二人の側めと11人の子どもを連れて叔父さんのもとを出ます。33章で兄弟の和解が語られます。しかし、エサウとヤコブの和解はお互いがハグできるところまでの和解とはなりませんでした。今回のヨセフと兄たちとの和解はそれとは比較にならないほど感動的です。ですからここは「和解、第二弾」という感じです。
ヤコブにはカナンの地に来て12人目の子ベニヤミンが生まれます。11番目がヨセフです。父ヤコブは彼を猫かわいがりし、ヨセフは10人の兄たちから憎まれます。父ヤコブ自身もお兄さんとの関係で大変な人生となりました。にも拘わらず、どうしてこんな子育てになるのでしょうねー。人間って本当に未熟です。お父さんの特別扱いが原因で、ヨセフはエジプトに売り飛ばされる羽目になりました。
ヨセフと兄たちの変化
 ところが、神さまのなさることは不思議です。ヨセフはエジプトの権力者となったのです。家庭を持ち二人の子が与えられ、苦しみの二十代のことも癒されていく日々でした。そんな中、ヨセフの前に伏し拝んだのはヨセフのその後を知らない10人の兄たちです。飢饉が起こり食料を求めてエジプトに来たのです。ヨセフは一目見て直に兄たちだと分かりました。彼はかつて見た夢を思い出します。(429)その夢とは「太陽と月、11の星が自分にひれ伏す」ものでした。神様はどういう意図があってこの夢をヨセフに見せたのでしょうか?
ヨセフの心の中は怒りが爆発します。「あなたがたはスパイだ!」と叫びます。兄たちは自分を穴につき落とし、その後どうなったのか不明となった事態を父ヤコブにどのように弁明し、長い年月その事をどう思いながらこれまで過ごしてきたのか・・との思いがこみ上げ、怒りが爆発したのです。
これは人として当然の怒りです。また、兄たちの犯した大罪は見過ごされてはならないものです。妬みから弟の命を奪おうとしたのですから。スパイ扱いされ驚いた兄たちは、自分たちは正直者だと弁明するために家族構成を伝えます。「末の弟は父と一緒にいますが、もうひとりはいなくなりました」と。いなくなったのではなく、自分たちがあの日、深い穴に突き落とし、ヨセフをどうしようかと相談している間に、行方不明になったのです。
ヨセフは、スパイ容疑を晴らしたいのなら、兄たちの一人が故郷に帰り、末の弟を連れてくるようにと言って、三日間全員を監禁します。三日後、ヨセフの要求が変わります。一人を残して九人で故郷に帰り、末の弟を連れてくるようにと言います。
神様はまずヨセフに「新しき事」を行われました。九人で帰らせる事にしたのは、故郷の家族に沢山の食料を持って行かせるためです。三日間という時間は、ヨセフの怒りを静め、しみじみ故郷の家族の事に思いを馳せる時となりました。
 
一方兄たちはどうだったでしょうか。「私たちは弟のことで罰を受けているのだ。あれが穴の中から『ここから出して!助けて!兄さん』と叫んだのに、われわれは聞き入れなかった」と互いに悔います。神様は兄たちにも「新しき事」を行なわれました。兄たちは新しい人に変えられていました。その様子を見ていたヨセフはもうすっかり赦しています。
神様は、ヨセフの内に燃え上がった怒りに愛の注ぎを与えて静め、兄たちには自分の罪と真っ直ぐに向き合うための愛を注がれました。彼らは、主の愛によって新しき人とされます。しかし、ヨセフはまだ自分の身を兄たちに明かしません。
神様には更なるご計画があるからです。
神の更なる計画
九人の兄たちが父ヤコブのもとに帰りました。事の経緯を父に報告した彼らは、ベニヤミンを連れてエジプトに引き返す事を父に願いますが父は許しません。しかし、飢饉はますますひどくなり、もう一度食料を買いに行かなければならない事態となります。4314節、父ヤコブは「私も失う時には、失うのだ」と全能の神に子どもたちを委ねます。ヨセフを失ったとき、兄たちではなく何故最愛のヨセフなのだ!と思ったでしょう。自分がヨセフを使いに出した事をどれほど悔やんだことでしょう。お前たちが仲良くしてくれていたらヨセフを使いに出さなかったのにと自分の偏愛を棚に上げ、兄たちを責め、心しおれていました。神様はそんな父ヤコブにも「新しき事」を行われたのです。「私も失う時には、失うのだ」と、一切を神に委ねます。父ヤコブも新しい人に変えられます。彼は兄たちと共に最愛のベニヤミンをエジプトへと送り出します。
 
 ベニヤミンと共にエジプトに再びやってきた兄たちは、ヨセフの屋敷に招き入れられ、食卓に着きます。その時、兄弟の順番に座らされたものですから、兄たちはいかなる面持ちだったでしょうか。そして、ヨセフの弟のベニヤミンには他の兄弟の五倍のご馳走が置かれました。
 さて、彼らが父のもとに帰る時に、ヨセフはもう一つ確かめたい事がありました。それは、自分が兄弟の中からいなくなった後、兄たちと弟ベニヤミンとの関係はどうだったのかということです。自分が兄弟と一緒にいたときには、妬まれていました。自分の弟であるベニヤミンです。父ヤコブの偏愛に端を発している兄弟関係の悪さ、自分がいなくなった後父が尚更ベニヤミンを大切にした事が予想されます。兄たちとベニヤミンの関係はどうなのか、それを確かめたかったのです。ヨセフは自分の杯をベニヤミンの袋に入れ、帰路に着かせ、あなたがたはそれを盗んだと言って試し、ベニヤミンが残るようにと言います。441634節。すると、三男のユダが必死に懇願します。33節、「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください」。彼の懇願は、父への愛と弟ベニヤミンへの優しさに溢れていました。
 
 ヨセフは確認したかった全てを確かめる事が出来ました。兄たちがすっかり新しい人になったことです。ヨセフの兄たちに行った策略の背後に、神さまの働きを感じます。
自分の身を明かした時、ヨセフの兄弟たちへの思いが堰切って溢れます。
和解の喜びは、今日読んでいただいた箇所にあるとおりです。
45章15節「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」
 
ヨセフにあの夢を見せられた神さまの意図、それは、彼らの内に新しい事をなさんため!それは、私たちの内に新しいことを行うため。一羽のすずめのごときヨセフ。そのヨセフをめぐって神様は新しきことを行われました。それは和解の喜びが与えられた事です。私たちにはどうでしょうか。神様は主イエスによって、私たちの中に新しいことを起こしてくださいます。それは十字架の血による私たちと神様との和解です。また、洗礼によって神様との和解の喜びが生まれます。ヨセフの和解の喜びが感動的であったのと同様に、神様との和解の喜びは、それは素晴らしいものです。この喜びは感情ではなく、理性で深く受け取りたいですね。
 
「見よ、新しい事をわたしは行う」神さまは私たちを新しい人に造り変えてくださいます。私たちもそのことを願いつつ歩みましょう。そして、私たちの日常において、互いの愛の輪が広がって行くことを祈り求めて行きましょう。

2023.06.25
「天の門」創世記28章10~17節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
ヤコブとは誰なのでしょうか。先週はアブラハムが一人息子イサクを神に捧げた箇所から聞きましたね。そのイサクには、双子が生まれます。兄がエサウといい弟がヤコブです。
10節はヤコブがベエル・シェバからハランへの旅の途中だということを伝えています。危険な長旅に出なければならなくなった原因は、ヤコブが兄の受けるはずだった祝福を奪ったからです。ヤコブはお母さんの言われた通りに従うママ大好きっ子でした。兄が受けるはずの祝福を受ける事が出来たのもママの作戦のお陰です。けれどもその結果はというと、兄のエサウから恨みを買うことになり、家を出なければならなくなりました。「ラバン叔父さんの所へ逃げなさい」27:43。ママの言う通りに旅立ちました。ヤコブはどんな思いで家を出たのでしょうか。
「神様の計画ってどうなってんのかなー。」「ラバン叔父さんってどんな人なんかなー」「そこでの生活どうなるんやろ?」ママから離れて初めて「ひとり」に成ったヤコブでした。ひとりになる事は重要ですね。ひとりになれないと本当の意味で他者と共に歩めない、と言われた方があります。含蓄のある言葉ですね。
 ヤコブはボヤキ・心配し・不安で・悩みながらハランへ旅立ったに違いありません。これが私たちの日常の姿ですね。私たちは日常を軽視して、特別な事を重要視します。しかし、この日常が人生の99%以上です。私たちは日常に注目しましょう。そこが変わったら人生も変わります。
 
 11節、「とある場所」に着きました。そこは地名がありません。特別の場所ではない、日常のありふれた場所です。時間も特別に決めたものではありません。たまたま丁度その場所に着いた時に日が沈んだのです。
 お腹が減ったらご飯を食べるのと同じで、日が沈んだら一日の活動の終わり、旅の足を止めて休む。これは自然な成り行きです。私たちの日常もこの連続ですね。
 ヤコブはその所にあった石一つを取って枕にしました。たまたま足元にあった石の中から枕に成りそうなのを一つ選んだのです。ヤコブがしたのもそれと同じで、特別な事ではありませんでした。平凡な事なのです。イスラエルを訪れて、その地質が全く異なることに気づきました。起伏の非常に多い、緑ではなく石がゴロゴロした土地です。
 12節今日も一日疲れました。横になりそのうちに眠りに入り、夢を見ます。これも、私たちがしていることですね。そこは、いつもの特別でない本当に日常生活の場なんです。聖なる、恐れ多い、厳粛な、神聖な、そう言う場ではなくて、私たちの日常生活の場が天と繫がっている。すなわち、そこに主がおられるのです。
 これから未来に向かって出発するヤコブに。そして今日のあなたにも、この礼拝で神様はこの事を話しておきたいのです。
 
 そして、16節の御言葉をあなたの心に刻んでください。「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」。日常の一つひとつの場面、そこも天と繋がっています。時にはボヤク事もあります。心配することもあるでしょう。でも、思い出しましょう。心に刻んだものを。「そうだ、ここも天と繫がっている、ここにも主がおられる。」その主が約束されます15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、・・・決して見捨てない。」この神の言葉があるので何の問題もありません。何の心配もいりません。皆さんこの15節の御言葉も心に刻んで下さい。讃美歌90番「ここも神の御国なれば」は、悪魔の力が世に満ちても、ここも天と繋がっているんだから、主こそがこの世を治められるのですから、我が心には迷い無しと、元気を出してクリスチャンライフを進めようではありませんか、と歌います。この賛美歌が新聖歌に載っていないのが残念です。
 
 船に乗って向こう岸へ渡る途中、激しい風の為に波をかぶって船が沈みかけ、弟子たちが死にそうになった時がありましたね。その時、この船にイエス様が一緒におられる事を弟子たちは思い出して「イエス様、起きて下さい。助けて下さい。溺れそうです。」「おぼれ死んでも何とも思われないのですか」と言いました。するとイエス様が「なぜ怖がるのか」と言われました。わたしがいるじゃないか。この沈みそうな船、ここも天と繫がっているよ、怖がる必要はないんだよ。
 
生粋のユダヤ人と言っていたナタナエルは、今日のヤコブ物語を子どもの頃から聞いていました。そんな彼を弟子にする時、イエス様は「神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見る事になります」と言われました。イエス様は天と地を繋ぐ生きた梯子となられたのです。
「イエス様、こんな汚い穢れた所と天とを繋げるのですか。」「そうだ、繋ぐんだ。神様、そうする事に問題があるなら、その問題を全て私が背負います。」十字架は天と地を繋ぐ梯子です。イエス様はその為に命を捧げて下さいました。天との繋がりの可能性の無い所、それは不幸な死を遂げる事です。犯罪人の一人として死刑になる事は最も救いようがありません。イエス様はその死を受けられました。しかし、そこに神様が働かれ、最悪の所も天と繋がったのです。イエス様が復活して弟子たちに現れたのは、単なる生き返りではありません。天と繋がらない所はもはやどこにも無い、と言う宣言です。教会は今日まで約2000年に渡って、この事を代わりに宣言して来ましたし、これからも宣言していく使命を持っています。
 
私達がイエス様と繋がるなら、そこは天と繋がっています。先月のイスラエル旅行はツアーではなくて、フリートラベルでしたので二つの問題がありました。それは言葉と移動手段です。でも次男が一緒に行きましたので、通訳兼ナビを彼が担当してくれました。ですから路線バスで旅行ができました。彼はスマホのナビをフル活用して、どの路線のバスに乗るのか、発車時間や乗り継ぎ路線等すべて調べてくれました。聖書に出てくる場所には、だいたいバス路線が繋がっていました。ナビのおかげで、毎日ちゃんとホテルまで帰ることができ、無事旅行を終えました。皆さん、今日は、イエス様のナビを是非受け取って帰って下さい。どんなナビなのでしょうね。天国ボタンが付いているナビなのです。それを押してください。そうしたら、皆さんと天が繋がります。
 
17節でヤコブは「ここは天の門だ」と言っています。ヨハネ10章9節には「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」と主は語られました。天と地が繋がりましたが、入口はただ一つ、イエス・キリストを信じるという門です。この門をくぐる者には、豊かないのちをお与えになります。イエス・キリストと共に歩む人生だからです。


2023.06.18
「神の小羊」創世記22章1~18節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 我が家の長男は私の父にとって初孫でした。実家で出産をしましたので、その喜びようは半端ではありませんでした。爺バカそのものです。笑えば「いい顔してる」と言って喜び、初めてのしぐさを見ると今日はこんな事をしたと言って喜びました。長男はお風呂が大好きで本当に気持ちよさそうにするので、父がその役割を買って出ました。その様子を横で見ていましたら、またまた爺バカで「友ちゃんのこの顔この顔ほら見て、まるで王子様だよ。」と言うのです。鼻が高いとか頭のかたちがいいとか、かわいくて仕方がないのが分かります。34歳の時に、父と自動車で出かけようとした時です。父がエンジンをかけました。すると「おじいちゃん、まだお祈りしてないよ」と言ったというのです。父はいつもお祈りをしてからエンジンをかけていたからです。この事は耳にタコができるぐらい父から聞かされました。よほどそれが嬉しかったのでしょう。
 アブラハムにイサクが生まれたのは100歳でした。祝福の源となると神の召しを受けた時から、イサク誕生まで25年も待ったのです。老夫婦にとって待望の独り子でした。私の父に初孫ができたのは57歳ですが、あれほどかわいかったのですから、アブラハムにとって年寄子のイサクはどんなにか、かわいいことでしょう。
 
 そんな親子の日々に神様はイサクを捧げるようにと求められます。
2節「あなたの息子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。あなたの愛するひとり子イサク、と言われていますので、アブラハムがどんなにイサクをいとおしく思っているかを神はよくよくご存じです。それなのに、どうしてこんな事を要求されるのでしょうか。
イサクはこれまで神さまに捧げ物をするために、何度もお父さんと一緒に出掛けたでしょうね。彼は何が必要か良く分かっています。ですから、家を出る時から今日はどうして献げ物の羊がいないんだろう、と思っていました。
山を登る父は険しい顔つきです。いつもは、鼻歌と言いますか、讃美が自然に出て来て、アブラハム親子には本当に喜びの日なのです。何故なら焼き尽くす献げ物と言うのは、神様との関係を回復するために行われるものだからです。前回献げ物をした日から次の献げ物の日まで、神さまを悲しませることを私たちはしてしまいますね。それをゆるしてもらうために焼き尽くす献げ物をするのです。しかし今日は何時もと様子が違います。一言も話さず、父の顔から血の気が引いています。アブラハムは一足一足踏みしめながら、神様に問うていました。「あなたは全ての時をお定めになるお方だと、私は信じております。そして全てを委ねております。しかし私たち老夫婦から、かけがえのない、いとおしいこの子を取り上げられるのですか」と。アブラハムの足は重く、できることなら麓に引き返したい思いでいっぱいでした。
しかし、神様の返答はありません。祭壇を築く頂上は目の前に迫って来ます。7節「火と薪はありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊は、どこにいるのですか」イサクも父の様子に決死の覚悟で尋ねます。8節「わたしの子よ、小羊はきっと神が備えてくださる」。父と子は共に全てを神様にお任せすることを決意します。父と子は信仰によってお互いの信頼を与えられました。神様への信頼は、親子の間に信頼関係を築くものなんですね。
 
この出来事の約2000年後、神様はご自分の独り子イエスを人類全てのための一回限りの、最後のいけにえとして十字架に架けることを計画されます。しかし、その計画はたんたんとなされたのではありません。
 
「父の涙」という賛美歌があります。父なる神の胸の内を歌っています。
こころに迫る 父の悲しみ 愛する独り子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう 愛を知らずに今日も過ぎて行く
父がしずかに見つめていたのは 愛する独り子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い 父よ彼らを赦して欲しいと
十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛
 
アブラハムがイサクを捧げる時の胸の内は、そのまま父なる神さまが独り子イエス様を十字架に架けるとお決めになった時と重なります。神様はアブラハム親子の覚悟をご覧になった時、ご自分も将来のキリストの時を覚悟されたのではないでしょうか。
イエス様は十字架に架かられる夜ゲッセマネの園で、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」と祈られました。イエス様ご自身もアブラハムが告白した「小羊はきっと神が備えてくださる」、この信頼に力づけられておられたのではないでしょうか。私の信頼する父なる神は、私のいのちを父のご計画のために最善に使ってくださる、とお任せになったのです。
 
アブラハムの時と違うのは、イエス様は実際にいのちを捨ててくださったことです。神様はご自分がお造りになった者たちが、滅んでいくことを何としても食い止めたいとお考えになりました。そのために独り子イエス様を人の罪を取り除く「神の小羊」となさったのです。まだ洗礼を受けておられない方は、是非この神様の御愛を受け取ってください。それによって神さまがどんなに恵み豊かな方であるかを知ってください。
ヨハネ福音書316節にこうあります。
「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
私たちはこの恵みによって何時も支えられ生かされています。


2023.06.11
「祝福の源となる」創世記11章27~12章4節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 創世記12章からアブラハムの物語が始まります。1節にはアブラムとありますが、17章でアブラハ(ハモーン、多いの意、この語をほのめかしている)ムに名前を変えるように神から支持されます。それは、一家族の父アブラムが諸国民の父へと高められ、神の祝福の源となるとの約束の確かさを表わすものです。
 
 この物語は25章まで続いて行きます。神さまが初めに彼に語り掛けられたのは75歳(4節)の時です。彼の生涯は175歳(25章)ですので、彼は生涯の内100年間神さまに導かれる道を歩んだことになります。
 
 まず、1127から32節を注目して下さい。これはアブラムの家族の紹介です。それも、かなり詳しく紹介されています。
アブラムはテラの息子です。男三人兄弟の長男。カルデア人のウル(現在のイラク)という場所で三人とも家庭を持ちます。お父さんのテラは三人の息子に子どもが与えられ、大家族になることを楽しみにしていたと思うのですね。
ところが一番下の弟ハランがお父さんより先にウルで亡くなります。ハランにはロトと言う男の子がいました。アブラムはサライという女性と結婚しますが子どもがいません。31節、お父さんのテラは何か理由があって、ウルではなく他の場所で暮らそうとします。その時に連れて行くのは孫のロトと長男アブラムとその妻サライです。
ロトのお母さんはどうしたのでしょうか。アブラムのお母さんもいませんね。この家族は沢山の悲しい出来事に希望を失っていたんですね。
ですからこの紹介は、アブラム家族の単なる紹介ではないのです。でも、テラは何とか前を向いて生きようとしました。しかし、目的地のカナンにはたどり着けずに、ハランに住み着きます。32節、父テラはハランで死んでしまいます。長男アブラムはどれ程寂しく、心細かったでしょうか。弟ナホルのいるウルにもう一度帰ろうと考えたかもしれません。
しかし、この家族紹介は、決して特別不運な家族ということではなく、私たちの日常を現しているのだと思います。何も問題のない家庭というのは、稀なことではないでしょうか。
 
さてもう少し戻って、11章前半でバベルの塔の物語があります。ノアの家族に「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と言う祝福によって、神様の計画は人間が地上に増え広がることでした。でも、114節人間は「全地に散らされないようにしよう」と考えました。バベルの塔の物語は人間が神さまの計画を阻止しようとした、神さまのとの関係が再び壊される事件でした。その結果、異なる言葉を使うようになったことも伝えます。
この神への反抗の出来事の後に生まれたテラとアブラムたちです。出身地であるカルデアのウルというのは、メソポタミヤ文明で栄えたユーフラテス川の下流の町で、現在のイラクであり、異教の神々を信仰する町です。ですから、テラ家族もそういう神々を信仰していたことでしょう。しかし、異教の神を信仰していたアブラムを神さまは召されたのです。神さまの恵みは、いつも神さまの方から与えられます。ノアの洪水の後の虹も、人間を戒めるためではなく、神さまが人間を再び滅ぼさないと決意された、ご自分を戒めるもので、私たちは神さまの憐みを知りましたね。
 
12章1節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように』」
「生まれ故郷、父の家」とは、その人が今まで頼りにしてきたものです。「わたしが示す地へ行く」とは、それを手放して、神の祝福を頼りにする人生へ歩み出すことです。「あなたは、新しい道を歩め、つまり、神に敵対する道ではなく、神と共に歩む道に一歩踏み出せ。アブラムよ、あなたの一歩から全人類への神の祝福が広がるのだ。」と言われています。神さまと共に歩む、これが神の祝福です。
 
 失意の中にあるアブラムに、「祝福の源となる」という大きなミッション(使命)を聞いた時、聖書には書かれていませんが、この新しい出発に、目の前の霧が晴れていくような感覚を経験したのではないでしょうか。4節「アブラムは主の言葉に従って旅立った」。「私は、くよくよしている場合じゃない」と、神さまを信頼し踏み出します。失意の中のアブラムに、大きな希望が与えられたのです。先週、福岡教会の矢野先生の就任式に行きまして、幸いな召命の証を聞いてきました。先生は心臓の病気をもっておられます。別府ナザレン教会に導かれたことによって牧師から献身を勧められたのですが、病気のゆえにそれは無理だと断ってこられたそうです。しかし、ある日、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」2コリ12:9の御言葉が迫り、今のあなたのままで踏み出しなさい、という声を聞いて決心されたそうです。矢野先生も困難を神にお任せして、アブラムのように出発されました。聞きながら、自分の献身の時を思い起こし、新たな思いにさせて頂きました。
「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて信じた」とロマ4:18にもあります。
祝福の根拠はあなたにあるのではありません。(ヨハネ15:16、ロマ3:23.24)神さまがあなたの一歩を祝福されます。私たちは神さまの祝福を唯信頼いたしましょう。
 「祝福の源となる」との神の約束をお聞きになった皆さん、アブラハムに与えられたミッションを、今朝、皆さんが受け継いでくださいと神さまは言われます。あなたを通して祝福を増え広がらせると言われます。私たちの人生も時にはつらい経験や悲しい現実に遭遇します。アブラハムと同じように困難があります。この出発の後も彼はさまざまな困難に遭遇します。是非25章まで創世記を読んでください。でも、神さまはそこに祝福を用意しておられます。私たちはこのことを疑わないで信じましょう。神さまの祝福は目には見えない時もあります。でも、信頼することによって気付かせてくださいます。
キリストは十字架と復活において、神さまが全面的に信頼できるお方であり、全ての人に祝福を約束できるお方であることを証明されました。
祝福の約束は、今、キリストを信頼して一歩を踏み出す一人ひとりに、信仰の旅立ちに出発する者に引き渡されます。アブラハムに約束された祝福は、今、キリスト者に引き継がれています。この素晴らしい神の祝福を持ち運ぶミッションに加えられていることを喜び応えて行きましょう。


2023.06.04
「神の契約の虹」創世記9章1~17節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ノアの家族と箱舟に残った生き物たちは、再び現れた大地の上に立って新しい歩みが始まりました。821節で「人は心に思う事が幼いときから悪いのだ」と言われた神は、そんな罪あるままの人間を再び祝福してくださるのでしょうか。これはとても気がかりなところですが、神は1章と同様に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言って祝福して下さいました。
 
神が造られた地と空と海の生き物たちは「あなたたちの前に恐れおののく」と、神は最初の様な人と生き物の間の信頼関係が失われたことを指摘されます。しかし、命ある生き物を全て人の手に委ね、引き続き神は人に対する信頼を示しておられます。
そして、神は被造物全体の食の秩序を変更されます。以前は血を流さない草や木の実を食糧としていました。しかし今度は命の犠牲が伴う肉食が許されます。しかし、神が動物の命の主であることには変わりはありません。
6節の「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」という、殺人禁止の理由は、法律や倫理や生命の畏敬にあるのではありません。「人が神にかたどって造られたからだ」とありますように、人間が神にかたどって造られた、神と共に生きるパートナーであるという理由です。神は罪ある人の命を、洪水以前よりも更に心に留め、尊厳あるものだと宣言し、もう一度7節で祝福を宣言されます。「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と。
 
8節以下、神は世界の基として人間と全ての生き物との間に、契約を立てられます。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。二度と洪水によってことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。世々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわちわたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」と。
皆さん、この契約の注目すべき点は、神からの一方的な約束、つまり神が今後世界を滅ぼすことは決してないと保障する契約です。そのしるしである虹は、人間にこの契約を思い出せと言われているしるしではありません。そうではなくて、神の方が、虹を見て、この契約を思い出す、そういうしるしなのです。16節「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」と、神ご自身がその約束を思い起こすと言われているからです。
そして、神は自分が創ったものが生きることを永遠に願われます。
 
この「神の契約の虹」に関するエッセイを紹介します。
父の遺言、という題です。「聖書が好きだ。聖書といっても小説とか漫画とかじゃなくて、聖書を読むのが好きだ。朝から聖書を読んでいると『なんだ、試験勉強じゃないのか』ガックリと肩を落とす母の残念そうな顔が好きだ。途中トイレに行けば「門をたたきなさい。そうすれば開かれる」と兄がマタイによる福音書の一節を引用する。そんなお茶目なところも好きだ。メイク中の姉に「今日も目がキレイだね」と言うと「人の長所ばかり見ているからね。目が澄んでいれば全身が明るいんだよ」と聖書の一節を引用しつつ、アイラインをグッと引く。あの得意顔も好きだ。そんな我が家も十一年前、震災ですべてを失った。家は津波で流され、大切な父も流された。いくら探したかもわからない。いくら泣き叫んだかも。あの時の津波のしょっぱさは、きっと、涙の味だった。だけど、奇跡は起きた。震災から二週間後、瓦礫の中から父の聖書が見つかった。これは父が生前良く読んでいたもの。何だか父の里帰りみたいで胸が熱くなった。「ノアの洪水の後、もうしないよって約束のしるしに神さまが虹をかけたんだよ」父は私によく聖書の話をした。私が「じゃあ虹は笑顔のしるし何だね」と言うと、優しく微笑んだ。いま、懐かしい思い出を胸に、どうしても父を奪った津波が「ノアの洪水と重なってしまう。怒りや哀しみ。どうしようもない気持ち。もちろん、ある。それでもここに父の聖書が残る意味は、きっと、ある。これは父の遺言であり、愛のメッセージ。「何かあったら聖書を読んでごらん。きっとチカラが湧いてくるよ」天国からささやく父の声が聴こえた気がした。
 
6章から始まった洪水物語ですが、人の悪が増大するのをご覧になった神は、ご自分が人間を造ったことを後悔し、心を痛められ、全てを滅ぼそうと決意されました。ところが、この物語は、今後は世界を滅ぼさないという神の決意で終結します。「この地のある限り」虹によって示された「神の契約」はすべてのいのちに向けられた神の肯定であり、世界の歴史のうちに起こるどのような破局も、人間の腐敗や反抗も、この神の肯定をいささかも揺るがすことはできません。洪水と「神の契約の虹」の出来事は、キリスト・イエスの十字架と復活によって表された、神の義(裁き)と愛の究極の出来事を指し示しています。この素晴らしい神様と今週も共に生きて行きましょう。

2023.05.28
「心を痛める神」創世記6章5~8節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 今日の聖書を読んで新聖歌の230番の歌詞が浮かびました。「十字架のもとぞ、いと安けき、神の義と愛の会えるところ」という歌詞です。今朝のノアの洪水物語は69節から917節までです。その内容は「神の義と愛の会えるところ」と言うことができます。
 この物語は、神さまが天から地上の様子をご覧になり、大雨を四十日間降らせ、大洪水を起こされ、「悪いことはしてはいけない」という教訓を後世に伝えることでも良いのです。しかし、聖書のメッセージは教訓ではありません。6節、神は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。神さまは自分の心の内を伝えておられるのです。悔み、心を痛め、残念に思う事は、私たちが日ごろ体験していることですね。それをここで神様が体験しておられます。つまり、神さまがここで私たち人間に非常に近づいておられるのです。
 
 最初の人アダムとエバを造った時も非常に近づかれました。創世記26節土をこね、人を形作り、鼻に口をつけて命の息を吹き込まれました。これは、アーティストが素材に触れ、素材と一つになって作品を作るのに似ています。また、エデンの園では、まるで家族のように暮らされました。しかし、6章では触れたり、声を掛けたりする外面的なことから、内面的なことに変わっています。
 
 7節「主は言われた」とあります。神は誰に告げようとしておられるのでしょうか。
1章3節の「光あれ」も同じでした。太陽や月は後でつくられますから、この光は光線ではなくて、この世界に対する神さまの祝福の思いが爆発した言葉でした。今回も同じなんです。「わたしは人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも、空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」。神の心の内の思いです。    
創世記は伝えますね。人間は、神との契約を破って禁断の実を食べ、カインの弟殺しという殺人事件があり、4章では復讐心を燃やすㇾメクがいます。神との関係が壊れたことから人間の罪は雪だるまが転がってどんどん大きくなるように増大して行きました。世界の現実はひどい状態です。しかし、神さまは世界を滅ぼしたいのではありません。
この世界を造られるとき、大きな決心をされ、燃える思いで創造された世界です。神はなお祝福したいのです。しかし、それを妨げる現実のゆえに、神は悔み、心を痛め、残念に思われるのです。神の祝福を妨げる悪に対する怒り、これらすべての思いを、私はねたむ神である、と聖書は伝えます。その神の思いが爆発しました。その結果が大洪水なのです。
 
 神は初めに「ことば」で天地を創造されました。第二の創造である洪水では、そうではありません。667節の後半にもう一度注目してください。後悔し、心を痛める、とあります。神さまは言葉ではなくて「思い」を注いで二度目の創造をされました。洪水は、自分を造ってくださった神を神としない人間に対する怒りの現れです。ここに、不正を見逃せない義なる神がおられます。人はこの怒りを忘れて神を畏れない者になってはなりませんね。
 私たちの神さまは義なる方であると同時に、忘れてならないのは、人を我が子として見ておられることです。我が子の為に、悔み、心を痛め、残念に思う神さまです。ホセア118節にこうあります。「ああ、エフライム(イスラエルの民、神の民のこと)よ。お前を見捨てることができようか」と嘆き悲しんでご自分の愛を示される神さまです。ですから、この洪水は、神の義と愛が出会うところなのです。
 
 8節で新しい人間ノアが登場します。「ノアは主の好意を得た」となっています。ここは原文では「ノアは神の目に恵みを見つけた」という言葉に成っています。みなさん、ノアはどんな恵みを見つけたのでしょうか。
ルカ230節のクリスマスの記事の中で、シメオンがこう言っています。「わたしはこの目であなたの救いを見た」シメオンは赤ん坊のキリストに救いを見ました。ノアもまた、創造者である神による救いを見たのではないでしょうか。悪に満ちた世界から救われ、神の祝福の中を歩むという恵みを見つけたのではないでしょうか。シメオンが見た救いは、人の罪によって神と人との壊れた関係をキリストが修復してくださるという救いです。キリストの十字架と復活は、神の義と愛の究極の形です。
神の救いを見つけたノアは神の指示通り働きます。洪水に備えて箱舟を造りましたね。神に従順であることの幸いを彼は知ったのです。このように、神は人を造り変えることのできるお方です。
皆さん家が汚くなったり傷んできたら、リホームして綺麗にしますね。すると見違えるように良くなります。しかし、第二の天地創造といわれる洪水の後、人が完全な人とはなりませんでした。最初の人とは見違えるような人間にならなかったのです。今の社会の現実を見れば良く分かりますね。821節「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。」とあるように、相変わらず人は悪いままでした。にもかかわらず、二度と洪水を起こさないと神は約束されたのです。世界を滅ぼそうとされた神は、決して滅ぼさないと決心する神となってくださったのです。『私は人間を丸ごと受け入れよう』と決心する神となられました。
こころを痛められる神は、ご自分の決心さえも変えてくださる神なのです。
 
 ノアのように私たちが神に出会う時、神の創造の業が起こります。新たに造り変えられるのです。ノアのように神の目に恵みを見つける時、私たちの場合はキリストの十字架と復活に恵みを見つける時、他者を愛する人へと造り変えてくださいます。2コリント517にこうあります。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」。この恵みの中を今週も歩ませていただきましょう。


2023.05.21
「命の木」黙示録22章14節

説教:鈴木龍生 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(音声のみ)はこちら
 
「命の木」
黙示録2214
 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
 
創世記29
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらす、あらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
 
神は愛の対象として人を創造されました。彼らが生きていく上で必要一切が備えられたエデンの園は楽園そのものであったのです。命の木」は人間が神と共にあって、神の命に満ち溢れた自由の中にあることを象徴しています。天地万物を創造された偉大な神は、大自然の中で得られる安らぎに私たちは「神」の臨在を覚えることが出来きるのではないでしょうか。
 
創世記322節
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
禁断の木の実を食べた人間、さらにエスカレートする反逆に対する危惧。神の苦しみと悲しみが表現されています。
 
人がそれ(命の木の実)を取って食べることは、罪を負った人間がそのまま永遠に生きることを意味しています。罪をはらんだままに永遠に生きることは決して幸いではありません。
そこで、神は命の木に至る道を守るためケルビム(智天使)と炎の剣を置かれたのであります。
 
アダムとエバは、「命の木の実」を食べませんでした。
命の木の実を食べることは、おそらく永遠に生きることを意味することになったかもしれません。
罪の性質をはらんだままに永遠に生きることは、彼ら人間にとって決して幸いなことではなく、大変不幸なことであり神の心を痛めることであります。
 
この命の木の近くにいる。その意味は、神の臨在の近くにいると言う事であります。
「命の木」は人間が神と共にあって、神の命に満ち溢れた自由の中にあることを表しています。
しかし、命の木から離れさせられたことは、人間と神との関係が壊れ、神と永遠に生きられなくなったことを意味しています。
しかし、新約聖書には、神が人々に新しい命及び命の木の実を与えることが言明されています。
「裁きの神」は「救いの神」でもある。愛する人間に対する神の壮大な誰も思いつかない計画が実行されていくのであります。エデンにあった命の木とは別に、聖書の中には「命の木」という表現が他にも何度か出ており、常に比喩的もしくは象徴的な意味で用いられています。
 
 
箴言318
彼女をとらえる人には、命の木となり保つ人は幸いを得る
「命の木」は神が与えてくださる霊的生命と祝福の象徴的表現であります。
もともとこの命の木は善悪の知識の木と共にエデンの園の中央にありました。
また黙示22章2節に見られるように都の川の両側にこの木があります。
このことから、これは救いによって与えられる「永遠の生命」の象徴と考えることができます。
 
箴言1130
神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。
箴言1312
待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。
箴言15章4節
癒しをもたらす舌は命の木。
 
このように、神が与えてくださる「霊的な生命」「祝福」すなわち「永遠の命」を「命の木」と表現している訳です。
 
黙示録27
耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。
 
創世記324節によれば、アダムの堕落以後、命の木はケルビムと炎の剣にとによって、人間が近づけないようにされました。しかし、勝利を得る者は、(これはキリスト者を表しています。)再びその木の実を取って食べることが許されると宣言されています。いのちの木の実を食べさせていただく時、罪の結果、人の内に入ってきた死の力は無力なものとなるのであります。
 
ヨハネ155
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 
その新しいイスラエル(教会)は、霊的な命を神からのみ受けていく贖われた人々の群れなのです。
 
主イエスを信じる者たちは、主イエスの体(木)につながれた器官(枝)であり、主イエスの体が十字架上に犠牲としてささげられることによって与えられる「真の命」にあずかっているのです。
 
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」ということばは、656節で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と語られたことばであります。
 
実を結ばないぶどうの枝は、切り落され、乾燥させた後に燃やされた。(156
このように投げ捨てられないために、わたしたちは主イエスに堅く結びつき続けましょう。
 
黙示録2214
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
 
新しいエルサレム(教会)では、罪の呪いが永遠に取り去られているので、神の民は命の木の実を食べることが出来きます。「衣を洗う」との表現は、キリストによる罪の赦しを意味しています。
これは小羊の血で、自分の衣を洗って白くする者(7:24)と解釈することができます。
「幸いである」と言われる者は、命の木に対する権利を与えられている者であり、門を通って都に入れる者であります。
 
私たち教会は、私たちが主イエスに心を向け、主イエスの助けを求める時、主イエスが私たちに「命の実」を結ばせてくださることを信じます。
 
「命の実」とは?→「愛の実」であります。
ガラテヤ52223
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 05:23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 
キリスト者としての確信
ヨハネ514
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
 
「命の木」すなわち神の臨在がこの時代、この瞬間、この場所におられるキリスト者お一人ひとりと共にあることを確認し確信し、不穏な状況の中でも平安と感謝をもって共に歩んでまいりましょう。


2023.05.14
「あなたはどこにいるのか」創世記3章8~10節、20~24節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 この世界の全てを造られた神が、木の間に隠れているアダムとエバを見つけることが出来ないはずがありません。神の目はどこに注がれているのでしょうか?コリントの教会の信徒の間で幾つかの合言葉があったと思います。『あなたは何に目を注ぎますか?』きっとこの合言葉があったと思います。『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます』。神が目に見えるものではなくて、見えないものに目を注がれるから、教会もそうしました。目に見えないものとは、何でしょうか?。例えば人間同士なら『心と心の繋がり』ですね。神もアダムたちとの繋がりに目を注いでおられました。
 神は人との繋がりを深くするために、人を神のかたちに、神に似せて造られました。しかし、その繋がりが無くなっているのに気付いたので、「あなたはどこにいるのか」と呼ばれました。
 
 除菌・抗菌・殺菌、という言葉が今、世の中で流行っていますが、神はエデンの園をその様な無菌で無害の環境とはなさいませんでした。その反対でした。食べはいけない実のなる木を、神はわざわざ一番目立つ所に植えられました。誘惑するヘビを造ったのは神です。ですからエデンの園は誘惑に囲まれていました。その様な中でこそ、神と人の繋がりが深められます。『わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい』というキャッチフレーズで、昔、ハムの宣伝が行われていました。親が子を鍛え、子は親を信頼して鍛えられる。母の日の今日、皆さんが思い出す母はいつも優しい母でしょうか。違いますね。優しい言葉であっても間違いを指摘してくれました。その様にして親と子の繋がりが深められて行きます。エデンもそういう関係が深まる所でした。ところがヘビがそれを壊そうと誘惑します。神の人に対する特別さを妬んだのかも知れませんね。
 
ヘビは人に対して自信たっぷりに言い切りました。「決して死ぬことはない」。それは、『食べても大した問題にはならないよ』という誘惑でした。ヘビの最後の殺し文句「目が開け、神の様に善悪を知るものとなることを神は御存じなのだ」は、『神はあなたに対して隠しごとをしている。それでも神を信頼するの』という誘惑でした。アダムとエバの神に対する信頼がぐらつきました。彼らは初めて神との繋がりを失いました。すると、裸の発見と恥じるという体験をしました。何が起こったのか彼らは分かりませんでした。彼らはとりあえずイチジクの葉を綴り合わせて裸を覆い、恥をしのぎましたが、神の声を聞いて初めて現実を知らされました。人にとって最も大切な神との繋がり、信頼関係を失っていたのです。
 
そして、全てが狂い出しました。①かつて神は人を助ける者として野のあらゆる獣と、空のあらゆる鳥を造って人の所に連れて来られました。ところが今回、蛇と人は敵対関係に変わり、動物と人の関係が変わりました。②男性に相応しい助け手として造られた女性でしたが、男女の間に不理解やすれ違いという矛盾が起こりました。例えば、出産の苦しみは男性には理解してもらえません。女性は男性の愛を求めるのに、男性は女性に支配を下します。人と人の関係もこのように変化しました。③人が土を耕し守り、土がそれに答える、そう言う良い関係も変わります。人は汗を流して苦労しますが、土はそれに報いてくれなくなりました。
この三つの変化は禁断の実を食べた罰ではありません。罰とは食べて死ぬことです。この三つの変化は私たち人間の現実を表わしています。その原因に気付かずアダムたちがイチジクの葉で取りあえず繕った様に、私達もその原因に気付かないで、人生を歩んできました。信仰を持つとは、それに気付かされることですね。
 
朗読されなかった11-19節で、弁解の余地は無いアダムとエバに対して、神は言い訳をする機会を与えられました。ところが、彼らは弁解ではなくて神を批判しました。しかし神は忍耐して聞かれました。禁断の実を食べたら結果は死です。ところが結果はエデン追放でした。蛇と今回の事件には直接関係のない大地は呪われましたが、アダムとエバだけは呪われませんでした。
4章1-2節を読むと、神はエバに子を産んだ後の喜びを与えられました。アダムに対して神は、労苦が永遠に続くのではなくて、死でもって終わることを告げられました。神は裸の二人に皮の衣をプレゼントされました。命の木の実を食べて永遠に生きるとは、永遠に誘惑と矛盾の中を労苦して生きて行くことになります。ですから命の木に至る道を閉鎖されました。これらは全て神の配慮でした。
 
この様に、人は一番大切な神との繋がり、信頼関係を失いましたが、神はそんな人と何とか関わって行こうとされました。ここに神の愛が示されています。旧約聖書を読むと、この神の愛が貫かれていることが分かります。人の一番大切なものを回復する方法はただ一つしかありませんでした。神の愛です。神は後に神の独り子の私たちの主イエス・キリストを、神の子という身分を捨てさせ、ナザレのイエスとして、徹底的に人とならせ、それも神との繋がり、信頼関係を失った人と同じにならせ、十字架で苦しい空しい悲しい人生を閉じさせ、死なせられました。愛する独り子イエスの死によって、かみは人に対する愛の極みを示されました。そして、神は見捨てられたとしか言いようがなかったイエスを三日目に死人の中から甦らせて、目には見えないが神が人となられたこのイエスと共におられた。神はわたしたち人間の真ん中に来て下さった。それが明らかになりました。
 
このイエスが私たちのキリストとして言われます。「神はあなたに言われます。あなたはどこにいるのか」「わたしを信じなさい。神は私と共におられるように、あなたとも共におられます。まずわたしをあなたの主、救い主、キリストとして、迎えて、私と繋がりましょう。わたしに繋がるということは神と繋がるということです。」キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものが過ぎ、新しいものが生じる。何が生じるのでしょうか。それを為さるのは天地を造られた全能の父なる神です。期待しましょう。出発前に、祈りましょう。まず、イエスによって、皆さんで叫びましょう「わたしは、ここにおります」。神は言われます「あなたがいるそこは、どんな所なんだ?」それぞれ神に打ち明けましょう。「わたしがいる所は、神さま、この様な所です。」そして願いや思いを伝えましょう。その様にして、それぞれ祈りましょう。
 
皆さんの上に、神のお導きとお守りがありますように。


2023.05.07
「神・人間・世界」創世記1章26~31節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
  
 アンパンマンで有名になった、漫画作家のヤナセタカシさんは、有名になる前、思うように仕事が進まず落ち込んでいた中で、童謡『手のひらを太陽に』を作詞したそうです。『僕らはみんな生きている、生きているから、楽しいんだ、悲しいんだ、歌うんだ』をそれぞれ二回繰り返し、他の生き物、『ミミズだって、オケラ、アメンボ、トンボ、カエル、ミツバチ、スズメ、イナゴ、カゲロウだって、みんなみんな生きているんだ、友達なんだ』、と歌います。これは人が世界中の生き物の中の頂点にいるとか、人が高等(複雑)で、ミミズは下等(単純)だとか、そういう考え方に反対する歌です。いい歌です。その通りです。人は他の生きものと共に生きています。『しかし、人はそれだけではない、』それにプラスアルファーして欲しいことがある』と、神は皆さんに言われます。
★神の人に対する燃える思い
神は特別に人だけ他の生きものと違うものに造られました。神は人を造る前に26節「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と言われました。他の翻訳の聖書はこの26節の頭に「さあ、」を付けています。これは誰に言っているのでしょうか。独り言でしょうか。他の生きものを造る時に、こんな事をおっしゃったことがありませんでした。考えて、考えて『よし、そうしよう』と何か大きな決心をされた、神の人に対する燃える思いがここに現れています。この事を知って綴った歌が詩篇8編です。4-5節を紹介します。は「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何者なのでしょう。人の子とは何者なのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。神の燃える思いが人に注がれています。その人にあなたも含まれています。
★私たちは神と深い関係を結び、人と人の関係を育むように造られている。
神は人を神にかたどり、神に似せて造られました。これは神に向かい合える存
在に、コミュニケーション出来る存在に、神が語り人が聞き、そして応える存在
に、神と人格的な深い関係を持つように造られた、ということです。また、神は
この基本的な神との関係から、人と人の関係も深められて行くようにされました。しかし、今この関係がおかしくなっている現実がありますね。私たちの救い主
イエス・キリストが来られたのは、この神と人、人と人の関係を回復させる為で
す。イエスはそれを父と二人の息子のたとえで話しておられます。それは勤勉
でまじめな兄が、父に赦され関係を回復してもらった弟を、どうしても受け入れ
られなかった、という話しです。父が二人の息子に求めたのは、まじめに勤
勉に父に仕える事よりも、まず父との関係と、その関係がベースになって生
まれる兄弟同士の関係が深められる事でした。
★私たちは全ての生きものとその住みかの地球という星のお世話係です。 
それから神はもう一つの決心をなさいました。「そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。この支配するという言葉は特別な言葉で、神に油注がれて選ばれた王様が行う支配の事です。神はこの王様のことを牧者、羊飼いと呼ばれました。ですから、この支配とは頂点に立つ支配のことではありません。羊飼いが羊にする様に、お世話をすることです。神は人の生き甲斐のことも考えて人を造られました。『そうだ、わたしが造った全ての生きものの、この地球という星のお世話係をしてもらおう。これはやり甲斐があるぞー』。しかし、今この地球という星は病気になりかけています。
 私たちの救い主イエス・キリストが来られたのは、人だけではなくて全ての生きものも(皆さんのペットも含まれます)、共に解放されて、神の子どもの栄光に輝く自由にあずかるためです。ですから、地球というこの星にいる全ての生きもののお世話係は、何とやり甲斐のある務めでしょうか。音楽グループ『いきものがかり』の名前はメンバー結成時の男子二人が同級生で、クラスの生きものの係をしていた事に由来するそうです。私たちはこの地球という星の「生きもの係」です。キリストは人も含めてすべての生きものの救いの為に来られました。
★私たちは違いを受け入れ認め合って共に生きるように造られている
 さて、神は27節で人を「男と女に創造された」。男か女かのどちらかに限定するなら「男か女に創造された」となるでしょう。『男と女』これは違いを表現しています。違う者が集まり、その違いを受け入れ合い、すれ違いを赦し合い、感じ方考え方の違いを忍耐し合い、謙遜、寛容、柔和、節制が育まれる、神は人を共に生きるように創造されました。ですから、キリストが来られ、天に帰られた後、聖霊がこの地上に遣わされ、教会が生まれました。神はこの教会に属する者に、聖霊を通して働き、今言いました、忍耐、謙遜、寛容、柔和、節制という実を結ばせて下さっています。
★神は被造物の私たちと丸ごとの受容、関わり続ける覚悟を最後に示された。
31節「神はお造りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。皆さん、私たちはそうは思えない現実の中で生きています。しかし、神は極めて良かった、と言われる。なぜでしょうか。人間を含めてすべての生きものに対して、そしてその住みかであるこの世界に対して、心から受け止め、関わり続ける覚悟を、つまり愛とはこの覚悟で進むことですね、神は最後にそれを示されました。後にイエスはニコデモにこの神の覚悟を「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と伝えました。今この神との関係を確り結ばせていただきましょう。洗礼をまだ受けていない人は是非、洗礼を受けてこの神と正式に結ばれましょう。では、ここからそれぞれの世界に出てまいりましょう。皆さんの上に神のお導きがありますように。
 
説教後の祈り、
天地を造り、私たち人間を特別に造って下さった神さま。イエス・キリストによってご自分の事を、天の父と呼んで良い、とまでおっしゃって下さった神さま。この礼拝を感謝します。
あなたとの特別な関係を、今日もう一度結び直します。
全ての生き物と、その住みかであるこの地球という星のお世話係という甲斐ある務めを、忠実に果たさせて下さい。
違いを認め合い、尊重しつつ、一致点も見つけ、共に生きる幸いを味わう者として下さい。
今日、私たちに対するあなたの決意と覚悟の真実に出会いました。私たちもそんなあなたに応答して歩みます。どうか私たちの信仰の歩みを導いて下さい。

2023.04.30
「光あれ!」創世記1章3節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 神は言われた。「光あれ。」 皆さん、この光は何でしょうか。今、外に出たら太陽の光がありますね。夜に外に出たら真っ暗な空で光る月や星が見えます。神はそれらの光を放つ太陽や月や星を、この「光あれ」と言われたズーと後に造られました。ですから、この「光あれ」と言われた光は、太陽の光でも、月の光でも、星の光でもありません。では、この光とは何でしょうか。
 その答えは創世記がどの様にして生まれたかを知った時に分かります。
 旧約聖書の内容の中心は、私たちの救い主イエス・キリストが来られる前に、神が神の民イスラエルと共にこの地上で、どのように働いて下さったのかにあります。神の民のスタートは、エジプトで奴隷として苦しんでいた人たちを、神が脱出させて神の民とされたことです。そして、その最後は築いた国が滅ぼされ、神の民が散々ばらばらになってしまったことです。ですから、出エジプト記がスタートです。
 国が滅ぼされ、神の民が散々ばらばらになった時、彼らの指導的立場にあった人たちがバビロニア帝国へ奴隷の様に連れて行かれました。「お前たちの神は何をしているのだ」と笑われ、バビロンの神を拝むように命じられました。帰る国はありませんし、いつ帰れるのかもわかりません。家は壊されたのではないでしょうか。その内に信仰の拠り所だったエルサレムの神殿も破壊されたという知らせが伝わって来ました。
 この様な希望が全く見えない時 に、神は創世記から始まって、続いて出エジプト記・・・と聖書を整える作業ができるように、導いて下さいました。ですから、創世記1章は、地球がどの様にして誕生したのかを皆さんに伝えたいのではありません。そうではなくて、皆さんに神さまからのメッセージを伝えたいのです。
 神は言われた「光あれ」。この光とは「希望がある」と言う光です。
 すると、今日読んでもらいました創世記1:3の前の2節も何のことなのかが分かって来ます。混沌とか闇とか深淵とか、非常に暗い言葉を使って、希望が見えない、予想が全くつかない、非常に不安な状態のことを表わしています。これは神の民が味わった希望が全く見えない現実を表わしています。そして、私たちが今住んでいるこの地球も、私たち自身の人生も、希望が見えず、予想も全くつかないことがありますね。皆さんも、思い当たるでしょう。
 そのような暗い現実の中で、神が一番におっしゃった言葉、それが「光あれ」です。これは結婚披露宴で結婚生活をスタートされた新郎新婦に掛ける激励と祝福の言葉「幸あれ」と似ています。今、教会に帰って来た私たちも礼拝後にそれぞれの生活の場へとスタートします。そこに希望が見えなくても、そこは3節の「光あれ」と言う神の力ある言葉が響き渡る場です。そして、それは夢ではありません。「こうして、光があった。」のです。私たちの生活の場は本当に神が関わっておられる、ということです。希望を持つとは期待することです。神に期待しましょう。礼拝後の総会で教会は新たなスタートをします。そこにも「光あれ」が響きます。
イエス・キリストは十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、叫ばれたのは詩編22編の1節でした。この詩編は苦難の中でもなお神に期待する、という歌ですから、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げて下さった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」と結んでいます。十字架のキリストは「神に期待しても無駄だ」と言う現実に見えました。しかし、神はキリストを死人の中から甦らせ「それでもなお期待するように」とのメッセージを発信されました。「十字架のキリストが復活した」。これは創世記の「光あれ」と同じ力強い言葉です。これは人間に対するだけではありません。全ての肉体を持つ生けるものへの希望の言葉です。
 
信仰とは『それでもなお神に期待することです』。今日一日に期待する。結果が期待通りでなかっても次を期待する。新約聖書ヘブライ11章13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住いの者であることを公に言い表したのです」。創世記と同時代に記されたと言われているイザヤ40章31節も同じ信仰に立っています。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。私たちも神に期待して進みましょう。


2023.04.23
「αでありωである神」ヨハネ黙示録21章3~7節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
「わたしはαでありωであり、はじめであり、終わりである」。これは神の力強い宣言です。すなわち、あなたのはじめから終わりまで、あなたの愛する人のはじめから終わりまで、この世界のはじめから終わりまで、わたしが神である、心配いらない、全てをわたしに任せなさい。昔、ローマ兵の百人隊長が、自分の大切な部下が病気で苦しんでいた時に、イエスに「ただ一言おっしゃって下さい」と言いました。その時のイエスの一言と、この神に宣言は同じです。それ程に力強い言葉です。
 
神が聖書を通して一番伝えたいことは、神が皆さん一人ひとりを愛しておられる、という事です。聖書の最後にこの黙示録がある、という事もその愛を示しています。旧約聖書にまだ預言者がいない時に神は士師という人物をお立てになりました。その一人のサムソンが愛するデリラに自分の秘密を明かしました。秘密を明かすことは愛の証明でした。黙示と翻訳されていますが、原文の意味は『隠されたことを明かす』です。黙示録が書かれた時代は、『クリスチャンになるという事は、苦しみに会う事と言うことだよ』と言われる程に迫害の激しい時代でした。それで神は迫害下のクリスチャンに隠して来られたことを明らかにして、御自分の愛の本気度を示し、クリスチャンが希望を持って生きるようにして下さいました。ヨハネがそれを神から聞いて書き残したのが、このヨハネの黙示録です。この黙示録の1章1節を見て下さい。「イエス・キリストの黙示」とあります。イエス・キリストに関してまだ明らかになっていない、もう一度この地上に戻って来られた後のことがヨハネの黙示録に記録されています。
 先週、私たちはイエスが最後の夜に弟子たちに話された言葉を聞きました。思い出しましょう。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」。それから言われましたね。「行ってあなたがたの場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。これは、イエスが戻って来て、私たちは天国に迎え入れられる、という約束の言葉でした。
しかし、もう2000年以上も経ちましたが、未だに戻って来られません。最初は数年で戻って来られると思い、弟子たちはその日を待ち望んでおりました。ところが、いくら待っても戻って来られません。それで教会は自らの今後の歩みについて決断が求められました。ペトロもパウロも亡くなりました。迫害がより激しくなって来ました。それで祈りの内に示されたのが新約聖書をつくることでした。キリストによって明らかになった救いとは何か、キリストによって救われたクリスチャンの目指すべきものは何か、それを次の世代へ正しく伝えなければなりません。その結果私たちの手元にあるこの聖書が生まれました。
パウロがマケドニアにあるフィリピの教会に宛てた手紙が新約聖書に入れられました。その手紙の3章20節を紹介します。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。皆さん、私たち現代のクリスチャンにとりましても、キリストが再び戻られる事に希望があります。これが新約聖書のメッセージです。
さて、神はイエスを復活させただけではなくて、天に帰らせ、神の右の座、審判者の座、メシア、キリストの座に就かせられました。ですから、そのキリストが再び戻られるときは裁きの時になります。アメリカの映画の「地獄の黙示録」が日本で話題になり、その影響もあると思うのですが、日本の多くの人は黙示録がこの世が終わる、人類が滅びる日の事を預言する書であるかのように誤解しています。黙示録は、私たちクリスチャンに今を生きる希望を伝える書です。イエスは裁く方として戻って来られますが、私たちのために十字架で命を犠牲にして愛を示されたお方でもある、と私たちは信じます。今日読んでいただきました黙示録21章は、イエスが戻られた後の秘密を明かしています。すなわち、天国の事です。最初の天と最初の地は去って行き、新しい天と新しい地が現れ、神の住まわれる新しい都エルサレムも現れます。そして、何が起こるのか3節-4節が告げます。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
皆さん、天国を場所の事としてだけで捉えていませんでしょうか。ヨハネは明かします。天国とは、神と人が一緒に生活する、そのような時代の始まりのことです。これらの言葉が玉座の方から聞こえた、とヨハネは言っていますが、5節では、更にその玉座に座っておられる方がヨハネに直接語られました。「見よ、わたしは万物を新しくする」「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」。神は嘘をつきません。神の言葉はひと言で十分です。ところが神は尚言われました。21世紀の科学的な思考で物事を判断する様に教育された、疑い深い私たちのために神は言われます。「これらの言葉は信頼でき、また真実である」。
そして、もう一言6節以下の言葉を付け加えられました。「事は成就した」。神は更にダメ押しの言葉を付け加えられて、このことが空想でも作り話でもない事を強調されました。英語の聖書はこの言葉をIt is done!と、翻訳しています。丁度ドミノの最初の一枚が倒されたのと同じです。皆さん、私たちはこの新しい時代に向かってといます。何ものもそれを止められません。だから、私たちのライフプランもおのずとかわります。死で終わるプランになっていませんでしょうか。人の命や人権はいつまでも問われる事柄です。だのにそれを無視して戦争をしたり虐待をしたりするのは、死んだら終わりという考えから来ています。人類最初の殺人を聖書は創世記4章で伝えています。誰もいない所で弟を殺したカインに神さまが言われました。「お前に弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。これは、人の命が死で終わるライフプランに対する警告ですね。
私たちのゴールは死ではありません。私たちは十字架にかかって死んだイエスに自分自身を重ね、イエスが私たちに代わって私たちの罪のために裁きを受けられた、と気付かされ、私たちの罪を赦す神の愛に触れます。しかし、神の計画は続きます。実はイエスを十字架につけられた最終目的がもう一つありました。息を引き取って三日経って完全に死んだイエスの肉体に、人を支配し、人に死をもたす罪の頭が登場し、我が物顔で勝利宣言をしたその時でした。神は天からその罪の頭目がけて大きな力注ぎ、我が物顔でいる罪の頭を処断し致命傷を与えました。その結果、死んでいたイエスの肉体が罪から解き放たれ甦えりました。私たちは死にます。しかし、それで終わりではありません。神はイエスを死人の中から甦らせ、私たちをも罪の支配から解放し、私たちが死を乗り越えて前に進む道を通してくださいました。私たちのゴールはその先にある、神と共に生活する時代です。
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」。これは永遠の昔から永遠の未来に至るまでの、神の支配の時の流れを表わしています。何が起こりましょうとも、どんな結果になりましょうとも、どんな状態でありましょうとも、たとえ神を否定しようとも、他宗教に属していようとも、死刑囚でありましても、この神の支配の中から逃れ得る人間は一人もいません。教会の象徴となっているαとωは、そういう神の支配の流れの中に私たちがいることを象徴しています。天地が始まった時から、次の新しい天地の時代に至るまで、そういう超ロングな神が支配される時の流れの中に私たちはいます。教会は十字架と共にこのαとωの文字も象徴として大切にして来ました。二つの教会を紹介します。一つはドイツのシュパイアーにある大聖堂の祭壇上に吊られている大きな十字架です。もう一つは私たちの教会に近い、北九州にある日本基督教団八幡西教会のマークです。
私たち人間は高慢になりやすいです。戦争をして神をたたえるのはいかがなものでしょうか。神を畏れて今を生きなければなりません。そして、私たちは、神を畏れるだけではありません。イエス・キリストのゆえに、神の愛の支配の中にあることに感謝します。
ローマ8章38節「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主、キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
今日もわたしたちは礼拝後、それぞれの生活に戻りますが、そこはαでありωである神の支配、イエス・キリストによって示されたその愛の支配の中です。だから、それに相応しく歩みましょう。神を畏れ、その戒めを守りましょう。特に隣人を、共に神の愛の中に置かれている一人ひとりとして、自分自身の様に愛しましょう。高ぶってはなりません、謙って、この神の支配と神の愛の中に置かれていることに、先に気付かされた者として、この神を伝えましょう。


2023.04.16
「父の家・・あなたは独りじゃない」ヨハネによる福音書14章1~3節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 心を騒がせるな、と言われるイエスの言葉を聞く前に、もう一つ注目して頂きたい箇所があります。ヨハネ13章の33節です。「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」。弟子達にとりましても、また、私達にとりましてもこの言葉は大変ショッキングな言葉だと思います。この言葉は私達一人一人が身近な者から必ず聞くことになる言葉ですし、私達一人一人もいつかは必ず語らねばならない言葉でもあります。人間は独りなんですね。私たちは一人じゃないですね。家族や友人や、そして教会に来たら皆さんと会えます。しかし、事が起こった時に独りであることに気付かされます。
 
 多くの人が同感するから何年たっても歌い続けられている美空ひばりの、ひとり酒場で飲む酒は・・・と歌う演歌は、人間が独りである事の悲しみ、はかなさ、そして最後は怨みへと変わる思いを歌うところで終わっています。しかし、聖書はそれだけで終わらないで、もっと人間が独りであることを掘り下げて見つめます。
 
 明日十字架でイエスは死ぬのですから、死を越えてペトロはもはやイエスに着いて行けません。しかし、その前に、彼はイエスの事を知らないと三度否定して、自らイエスを独り残して捨てて逃げ去ることになります。死ではなくて、人自身が人を独りへと追いやる、という現実が、私たちの周りでも起こりますね。ですから皆さん、「心を騒がせてはならない」と弟子たちに言われ言葉は、私たちに言われている言葉なのです。。
 
さて神は当初「人は一人でいるのは良くない」ともおっしゃって人間を独りではない者として造られました。神は人間を神にかたどって神と向かい合う者、コミュニケーションする者、神と共に歩む者として造られました。また男と女に、すなわち人間同志も独りではなくて互いに支え合い寄り添いあって生きる者に造られました。
 
私たち人間の最初の人アダムに神が最初に語られた言葉があります。これは私たちが忘れてはならない言葉ですね。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪を知る知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。神は単に命じたのではありません。神の命令、神の戒め、そこには神の思いが込められています。「あなたは絶対に死んではならない」。
 
しかし、蛇は誘惑します。「神の言うことなんか大した問題ではない」。誘惑ってこれなんですね「大した問題ではない」。禁断の実を食べて以来、二人は互いに自分自身を蔽って隠すようになりました。お互いが裸だから恥ずかしいから隠したのですが、もう一つの事がここで起こっています。それは、共にいた二人の間に覆いを置くことで、お互いが独りになる方向へと向かい出した、ということです。そして、彼らは神からも自分自身を隠して、自分から独りになる道をも進んで行きました。そして最終的に独りであることが明確になる、死へと向かって行く事になりました。あのエデンで起こった事件は、私たち人間が、死によって誰もついて来れない、全くの独りという闇の中に追いやられ、また、生きていてもこの死の働きによって病気や障害や老い等の中で、独りである事を味わわされ心騒がせられるようになった事を伝えています。
 
それで人間は色々な宗教を作ってまいりました。悟りを開いたり、優れた教えを確立したり、神秘的な境地に自分を置いたりしました。しかし、どんなに立派な偉人や聖人であっても、死はやって来ます。そして死は最後に宣言します「神なんかいない。仏もいない。救いもない。そんな教えは全く役立たない。お前は独りだ、誰もついて来れない、全く希望が無いんだ」。死の影響は全ての人生に及び、全ての人の心を騒がせます。皆さん!これが私達の日常の現実です。しかし、そこに救いをもたらす為に私達のイエス・キリストは来て下さいました。特に、イエスが私たちと同じになられた、すなわち、人間は独りであるという重大問題をイエスも担われたから、私たちに救いをもたらすことが出来ました。
 
イエスが弟子たちと共にエルサレムに着いた時に、大勢の群衆がホサナホサナと言って歓迎しました。しかし、このエルサレムで十字架につけられて殺されるイエスは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください。』と言おうか。ヨハネ1227」とおっしゃいました。神の子なのに本当に私達と同じ人間になられ、私達の問題を担っておられるからイエスは「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。
 
4月2日に聞きました。イエスが十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたことも、十字架のイエスが全く私達と同じ人間になられた、独りになられたという事を証ししています。
 
ヨハネ141「心を騒がせるな。神を信じ、またわたしを信じなさい」。信じるとは、イエス・キリストが私達に代わって十字架で死んで下さって、私たちと同じく独りになられたことと、神がそのイエスを復活させて、イエスが独りではない、私達も独りじゃない、神にかたどって、神に向かい合い、神と共に歩む、神との関係を回復させて頂いた者である、そして、その神によって私たち人間もたがいに寄り添い、共に生きる様に造られている。このことを信じて、今を生きる。それが神を信じ、イエス・キリストを信じることですね。
 
2-3節でイエスは父の家にある住まいの事を話されました。『父の家にあなたがたのための場所の用意ができたら私は戻って来る。今度は私と一緒に父の家へ行こう』。天にある父の家に私達の住む場所があるとは、そこに私たちの実家がある、故郷がある、今は離れているが、私達がこの世界を創造された神の家族である、独りじゃないということです。これが福音です。だから全世界に出て行って全ての造られたものに宣べ伝えます。戦争は人を独りにすることですね。私たちは戦争反対です。あなたは独りじゃない、それを私たちは伝えましょう。まず、近くにいる人に。どうすればいいのでしょうか。声を掛けるんです。手を差し出すんです。傍に寄り添うんです。言葉でも態度でも伝えられますね。こでも、私たちには限界があります。それでいいんです。その時に伝えるんです。ここから先は私は着いて行けませんが、最後まで共におられる方がおられます。主です。これが福音ですね。お祈りしましょう。
父なる神さま、御言葉をありがとうございます。主が共におられ、こうして主にある兄弟姉妹とも共に礼拝しています。感謝します。福音を携えて、これからそれぞれの生活の場へ遣わされる私たちを助けて下さい。イエス・キリストのみ名によって、祈ります。


2023.04.09
「空の墓」マルコによる福音書16章1~8節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 私たちが愛する者と最後のお別れをする様に、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメも最後のお別れに墓を訪れました。三人が買った香料は、液体か粉なのかはっきりしませんが、いい匂いのする非常に高価なものでした。それと混ぜる油も、ゴミや不純物を取り除いた高価な油だったと思います。私の想像では、きっと母マリアが彼女たちに頼んだのでしょう。「最高の香料と最高の油で最高の香油を作って、せめて最後に、私の息子に塗ってやっておくれ」。
 
昔、赤ちゃんイエスを抱いて神殿に行った時に、年寄りのシメオンが近づいて来てマリアにイエスの十字架の預言を言った時に「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とも預言をしました。その通りに、息子イエスの処刑という余りにも大きなショックのため、母マリアは立ち上がれなかったようです。三人の女性たちは母マリアの代わりにそれを持って、朝ごく早くに墓に向かいました。これが、今から2000年前、先日地震の被害を受けたシリア近辺にある、イエスが生まれた地方での、葬りの習慣でした。しかし、それが叶わず、三人は香油を持って帰って来ました。
 
 手元に戻って来た香油を見て母マリアは、思い巡らしたでしょうね。少女の頃に天使から受け取ったイエス誕生のお告げ。「この子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」。それから、東の国から変わった来客があったことも思い出したでしょうね。あの時、今手元にある香油の材料となる乳香と没薬を彼らから受け取りました。今生まれた子に、葬りの時に遺体に塗る香油の原料となる乳香や没薬は必要ありません。不思議でした。今その子が十字架にかかって死に、墓に納められたのにその香油が塗れません。それで彼らは乳香と没薬を葬りの先駆けとしてイエスに捧げて帰って行ったのでしょうか。マリアは知っていたでしょうか。数日前にベタニア村でイエスが食事の席に着いておられた時に、一人の女性が葬りの準備として、ナルドの香油をイエスに注いだことを。この戻って来た香油は何なんだろう?
 
 三人の女性たちが正気を取り戻してその疑問が明かされました。「実は、墓は空っぽだったんです。誰かが盗んだのでも隠したのでもありません。天使が私たちに告げました。『十字架につけられたナザレのイエスは復活なさって、ここにはおられない』。私たちは空っぽになった墓の中を確認してきました。そして天使は言いました『このことを弟子たちとペトロに告げなさい』」。マリアは驚いたでしょうね。そして、イエス誕生の予告を天使から聞いて信じた時の様に、信じたでしょう。「あなたたち、急いで弟子たちとペトロに知らせてきなさい」。
 
 「空の墓」という説教題を予告しましたが、「戻って来た香油」という題でも良かったかなと、今は思っています。十字架につけられたナザレのイエスが復活したということは、その墓が空っぽだったということは、最後に塗る予定だった香油が不要になったということは、私たちの人生の最終ゴールである死に大変化が起ったということです。そして、それ向かって進んでいる私たちの歩みにも変化が起こるということです。
 
 この大変化とは何でしょうか。人間しか行わない『葬る』という行為は、人間とは何かを示しています。人間とは一人になることに(特にその究極の死において)非常に不安を持つ生き物です。だから葬るという行為をします。飯塚、嘉麻、田川、宮若、各市に点在する古墳から、身に着ける装飾品や生活用品が墓から出土されるのは、死者が死後も不安なく過ごして欲しいという願いが込められています。日本の仏教が進めて来た供養も、この不安から来ています。今、社会問題になっている先祖の霊をこの不安から解放する為に、献金を強制する宗教は、まさにこの不安を利用する悪質な宗教です。生きている人が死んだ人のために何を行っても、死んだ本人に届くわけがありません。
 
 詩編903節に「あなたは人を塵に返し『人の子よ、帰れ』と仰せになります」とあります。あなたに命を授けて下さった方が、あなたの命を取られます。だから、人間の不安はこのお方との関係に原因があります。権力ある王様は、金や宝石の装飾品や生活用具等を墓の中に入れて葬むられました。決して裕福でないマリアたちであったが、最後に非常に高価な香油を塗ってイエスを葬ろうとしました。何とか死後の不安から逃れられるように、出来る限りのことを尽くして葬ります。理由はこのお方との関係が正常ではないからそうするのです。
 
 しかし、十字架にかかって死んだナザレのイエスは、復活してこの人間の現実に大変化をもたらしました。その大変化とは、命を授けて下さった神と、命を授かった人間との関係の回復です。その方を天の父と呼んで良い、その様な非常に親しい関係になった、それがこの大変化です。それは心や精神や魂との単なる関係だけではありません。イエスが取られた私たちと同じ肉体に、病んだり、老いたり、弱さを持つ、この肉体に神が関わられているということです。イエスの復活において起こったこの大変化は、私たちにおいても起こっています。
 
 皆さん、信仰するとはイエスの復活によって、私たちの人生のゴールにもこの大変化が起こった、と信じることです。結果、ゴールに向かって進む私たちの歩みも変わります。皆さんがこの聖堂を出られ、生活の場へ戻れば、そこには家族がいて、友がいて、隣人がいます。そして、そこに神が加わります。あなたの心や精神や魂だけではなく、あなたの肉体にも神が関わって下さいます。だから、私たちの生活も変わるのです。もはや、死後の不安はありません。私たちの教会の墓は栄光の家と命名されました。そこは供養やお参りをする所ではなく、眠りに就いた人たちと共に、この大変化を起こしてくださった神に、栄光を帰して讃える所です。今日の礼拝は栄光の家で神に栄光を帰し讃えることでフルコースとなっております。体調の整ったお方は是非フルコースに与って下さい。


2023.04.02
「イエスの叫びは人間の叫び」マタイによる福音書27章41~46節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 復活祭の驚きと喜びは、十字架で苦しまれたイエス・キリストを通して、自分の姿に目が開かれる時に生まれます。新聖歌103番は、イエスさまは私のために傷を負われた、私のために十字架で死なれた、私のために墓に葬られた、その結果わたしは、こうなった。すなわち私の目が開かれて自分の本当の姿に気付かされた、という歌です。エルサレムでの十字架に向かってイエスが進まれる途中、エリコという町を通った時に、目が不自由なバルテマイという名の人がイエスに向かって叫びました。「ダビデの子、イエスよ、憐れんでください」。イエスが彼を呼んで「何をして欲しいのか」と尋ねると、彼は「主よ、見えるようになりたいのです」と答えました。今週の金曜日に受難日を迎える私たちにもイエスは尋ねられます。『これからわたしは十字架に向かうが、皆さんは何をして欲しいのか』。私たちも答えましょう『主よ、見えるようになりたいのです。十字架のあなたを通して、私の本当の姿を見させてください』。今日、もう一曲歌います新聖歌119も『十字架のイエスを通して私の本当の姿に気付かせて下さい』という歌です。
 
 さて、イエスの十字架は数えきれない彫刻や絵画で表現されていますが、最も究極に表現しているのは、十字架の上からイエスが大声で叫ばれた言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この叫びは昔ダビデ王が歌った詩編22編の冒頭の言葉と一致します。詩編は神に対する歌(讃美歌)です。歌と言うよりも神に対する人間の叫びです。イエスは十字架で、私たち人間の叫びを、代わりに、私たちを代表して叫んで下さいました。
 
 この詩編22編を作詞したダビデにソロモンが生まれました。彼は父ダビデの遺志を継いでエルサレムに神殿を建てました。記念セレモニーの最後に彼が民を代表して祈った祈りの中にも、その叫びが入れられています。「わたしたちの神、主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように」列王記上857節。しかし、約400年弱の年月を経て、バビロニア帝国によって国も神殿も破壊され、捕虜としてバビロンへ連行され、約40年間神殿での礼拝ができない生活をしました。その時、彼らを支えたのは書き写されたみ言葉と、心に記憶されたみ言葉でした。そして、それをまとめる作業、旧約聖書作りが本格的に始まりました。その内容は神の物語であると共に、人間の神への声なき叫びも含められています。2022年度は『聖書は語る、一年12回で聖書を読む』というテキストをベースにして礼拝後に、聖書全体の流れを学び始め、創世記から預言書まで進みました。ちょっと思い出しながら聞いて下さい。
 
 彼らは綴りました。神と共に生活していたエデンを去るアダムとエバを。それから、住んでいたエデンの東から去って行く彼らの息子カインのこと。水の勢いが治まらず風前の灯火状態の箱舟の中のノアの家族のこと。子宝を与えられないまま人生を終えようとするアブラハムとサラのこと。兄エサウから命を狙われたヤコブのこと。エジプトに売られたヨセフのこと。ナイルに流されたモーセのこと。エジプト王の軍隊に追い着かれ絶対絶命に追い込まれた民のこと。荒れ野で反抗した民のこと。彼らが綴った神の物語の中に、「神さま、見捨てないで下さい。見放さないで下さい」という人間の叫びが常に上がりました。そして、神も彼らを見て「どうしてお前を見捨てることができようか、わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸が焼かれる」と叫びながら、寄り添い続けて下さいました。
 
 しかし、バビロニア帝国の後は、ペルシャ帝国、アレキサンダー大王、エジプト帝国の、プトレマイオス王朝、シリアのセレウコス王朝、ローマ帝国と、彼らは幾多の大国に支配されました。そして、彼らの心にメシア救い主を求める思いが高まり、神はそれに答えて、メシア、イエス・キリストを今から約2000年前にお遣わしになりました。これらの話は、中東地域で起こったことであって、この東アジアの日本人には関係ない、そう思われる方が多いでしょう。また、こんな小さな私には関係ないと思われるかもしれません。しかし、皆さん私たちもこの同じ人間の叫びを叫んでいるのではありませんか。
 
 私の父は長男で、五人の弟の内4人は同じ稼業ののれん分けをして製めん所、うどんの玉を作る仕事をしました。その為に叔父さんたちは同居して仕事を覚え結婚し、順番に独立して行きました。私は叔母さんたちから『貞雄ちゃん貞雄ちゃん』と呼ばれて可愛がられていました。三男だった叔父さんの妻、すなわち私の叔母さんが子どもを残して若くしてガンで亡くなる前に、最後のお見舞いに病院に連れてもらい、やせ細って顔が変わってしまった叔母を見て、私は生まれて初めて心で祈りました。「神さま、助けて下さい、見捨てないで下さい」。
 
この叫びは誰もがその人生の中で経験しているはずです。そして、世界中の人もそうです。日々のニュースでその叫びが伝えられていますね。「神さま、見捨てないで下さい。見放さないで下さい」。この人間の叫びに答えて神はその独り子イエスを人間として遣わし、私たちの叫びを、御自分の叫びとなさいました。
 
もし、絶望に度合いがあるなら、その落差の大きさで絶望の大小が決まります。確かに人間が経験する絶望には、私たちの予想を超えた絶望があります。しかし、イエスは神の子という最高の位置から人間が辿る最低の所へと落ちて行かれます。ですから、イエスの十字架での叫びは究極の絶望から来る叫びです。私たちはこの世界で人間の絶望を目の当たりにします。また、私たち自身も絶望します。しかし、天におられる私たちの父なる神は、この十字架で叫ばれ、死んで、埋葬されたイエスを、死人の中から甦らせて、宣言されます。
 
『皆さん、あなたがたと同じになった、十字架の私の愛する独り子イエスを見よ!彼は見捨てられたのではない。だから、あなたも決して見捨てられるのではない。あなたの絶望はどんな絶望ですか。どんな絶望であっても大丈夫です。究極の最高の絶望の中にある、完全に神に見捨てられた状態のイエスを、私は死人の中から甦らせました。それは私がイエスの味わった究極の絶望に希望を与える者であることをあなたに見せるためである。だから、希望の見えない時、希望を失った時、どんな絶望にあなたが陥った時でも、まったく大丈夫です。罪に支配される人間であるが、私は決して見捨てない者である。この私を信じなさい、この私が差し出す手に、言っておくが私は最後の最後まであなたに手を差し伸べます。あなたもあなたの手を差し出しなさい。もう大丈夫、私がついている。わたしと共に行きましょう。そして、このことをあなたの愛する人に伝えて欲しい。あなたに平安があるように!』

2022年4月~2023年3月

2023.03.26
「私たちの近き神」ルカによる福音書11章14~32節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 20節、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とあります。救いの業を「神の指」によって行っていると信じる者には、神の国はあなたがたに来ている、神は近くにおられるといわれます。しかし、悪霊の頭によって行っていると言う人には、あなたがたは悪霊の頭によって裁かれことになる、とイエス様を受け入れず、自分の立場をはっきりさせない人々に、警告されます。
 
24節以下、救いの業が神の指によって行われていると信じた人というのは、イエス様を自分の救い主と信じる人のことです。その人に、信仰を持ち続ける秘訣を教えられます。25節「家は、掃除をして整えられていた」とあります。救いを信じた人の魂は、きちんと掃除をした家のように綺麗になります。イエス様がその人の罪を十字架の上で全部引き受けてくださったからです。ところが、出て行ったはずの汚れた霊が戻って来てしまいました。これはどういうことでしょうか。綺麗になった家に、主人がいなかったからです。主を信じた後、この人は礼拝生活や祈りの生活をしなかったのでしょうか。28節「むしろ、幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人です」とあります。綺麗になった家に聖霊なる神さまを主人として迎えることがとても重要です。信仰者は聖霊の住まいになるのです。聖霊は、イエス様が私たちの救い主でおられるだけでなく、どんな時にも共に生きてくださる方であることを教えてくださる方だからです。
 汚れた霊の働きというのは、神から私たちを引き離そうとする力ですね。生活の中でその力は何度も働いてきます。また信仰者同士の間でも起こります。意見の違いとか、感じ方の違いとか、それによる相手との溝ができてしまったりするようなことがありますね。しかし、私たちの内に聖霊が住んでおられるなら、そこでふさわしい対処の仕方を示してくださいます。けれども、礼拝生活や祈りの生活をおろそかにして、私の信仰は大丈夫と過信している人に「その人の後の状態は、前よりもさらに悪くなる」と警告しておられます。ですから28節「幸いなのは、神の言葉を聞いてその言葉に従う人」なのです。3節で「私たちに必要な糧を毎日与えてください」と祈りなさいと、主は教えられました。これは、健康を保つための食事と、もう一つ、信仰の養いのことです。信仰の養いは何でしょうか。み言葉ですね。信仰の日毎の糧であるみ言葉を聖日ごとに、また毎日、頂くのです。それによって、主との結びつきが強くされます。結びつきが強くされると、そこから私たちに喜びがやってきます。この生活が聖霊の住まいになることです。ガラテヤ522節以下にこうあります。「しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちの内に次のような実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。キリストに属する者は、生まれながらの自分が持つ肉の欲望を十字架につけてしまったのです。もし私たちが聖霊の力を受けて生きているなら、すべてにわたって、その導きに従おうではありませんか。そうすれば、互いに妬みあったり、いがみ合ったりすることはないでしょう」
 
 つぎに、29節以下は、「天からのしるし」についてです。
ヨナは、神様にニネベという町に神の救いを伝えに行けと命じられます。ところが、これまで神を無視し、好き勝手をしていたニネベの人が救われる事に納得がいきません。それで、ニネベ行ではなく、行き先の違う船に乗ります。しかし、神さまはその船を暴風に会わせ、再びヨナをニネベに向かわせられます。彼は気持ちを入れ替えてニネベに向かい、人々に神に立ち返るよう伝えます。しかし心の中では、ニネベの人たちは決して神を信じないだろうと考えていました。その思いに反してニネベの人々が神に立返ったのです。ユダヤ人が救いに最も必要だと考える律法を、守ろうとしたことも守ったことも一度もない人々が神の救いに入れられました。その時、ニネベは大変熱い季節でした。神の気前の良さに納得のいかないヨナに、猛暑をしのぐためのトウゴマの木を神は与えられ、次にその木を枯らされます。ヨナはトウゴマによってあんなに涼しかったのにと、その木が枯らされたことに怒ります。すると「お前は植物のトウゴマをそんなに惜しむのなら、私がニネベの人々の命を惜しむのは当然のことではないのか」と神さまは諭されました。彼の思いに反して、ヨナはニネベの人々の「救いのしるし」となりました。それが「ヨナのしるし」です。この出来事は、ヨナが期待していたこととは、反対の結果でした。
 
32節「ここに、ヨナにまさるものがある」とあります。
あなたがたが期待しているのとは全く違う、天からのしるし、救いのしるしが私なのだ、とイエス様は言われます。
 ユダヤ人たちは律法を守って救われると考えたからです。しかし、イエス様は救い主を信じる信仰によって救われることを示されたのです。
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」と532節にあります。「ヨナよりもまさった者がいる」とは、主イエスは神の救いを完成された方だ、ということです。エフェソ110節「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」とあります。
私たちは受難節の中を歩んでいますが、神の時が満ち、イエス様は十字架に死んでくださいました。それによって、神の救いの業が完成されました。
 
救いを完成してくださったイエス様は、私たちの近き神です。その神は聖霊として私たちのうちに住んで下さっています。私たちは聖霊の住まいであり続けましょう。聖霊の住まいである私たちはいつも主から喜びをいただいて、生活の場に出て行きましょう。
 
2022年度は、「み言葉の種を蒔きに出て行こう」との目標をもって始めました。今日は22年度最後の聖日ですが、今もこの目標の途上です。3月の役員会で23年度の活動案を協議しました。「み言葉の種を蒔きに出て行こう」Ⅱということで、スタートします。
役員も皆さんお一人お一人も、心を一つにして、主のご愛にいつも感謝して、主のご愛を伝えられる恵みをかみしめながら、新たな年度を主に信頼し、主が私達を更に成長させてくださると期待して前進していきましょう。


2023.03.19
「喜びにあふれて」ルカによる福音書10章21~24節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 1節、イエス様は12弟子に加えて72人を任命され、「ご自分が行くつもりのすべての町や村へ」彼らを遣わされます。福音が全世界に伝えられることが神さまの目的だからです。2節の「働き手が少ない」「足りない」とあるのも、全世界の人に神からの良い知らせが伝えられなければならないからです。
 
イザヤ496節に、神の計画は主の救いが地の果てまで届くことを言っています。「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」これはイエス様の事ですが、この働きを共に担うために弟子たちは招かれました。
遣わされた弟子たちは、野球の先発ピッチャーのようなものです。先発ピッチャーというのはその試合を引き締まった良い試合にするために、最初にマウンドに上がります。ですから先発ピッチャーはとても重要なんです。それ程重要ですから、すごく緊張するわけですね。それで、イエス様は72人を遣わすときに、3節で「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われたんです。72人は二人組になって出かけました。どういうことになるんだろうと、ドキドキしながら出かけたでしょうね。この弟子たちの気持ちは私もとても良く分かります。遣わされたところで、どういう結果を残せるのか緊張を覚えます。しかし、主は宣教の責任を与えられますが、結果を出す事の重荷からは弟子たちを解放しておられます。神様ご自身が収穫の保障をされます。「収穫は多い」と。(リビングバイブル)1コリント15:58「愛する皆さん、このように将来の勝利は確実なのですから、しっかり立って、動揺することなく、いつも、主の働きに熱心に励みなさい。なぜなら、復活は確かであり、主のための働きが決してむだに終わらないことを、あなたがたは知っているからです」。ですから、私たちは忠実に福音を伝え続けましょう。
 
さて、56節は「神の平和があるように」と挨拶する事がクリスチャン同士の合言葉だったんですね。弟子たちを迎える家というのはキリストを迎える集まりです。救い主を迎え入れた集まりです。78節で食事の事が言われていますが、この食事は主の十字架と復活の恵みを覚える、聖餐の食卓となって行きます。
 
17節以下、遣わされた72人が帰ってきました。「あなたのお名前を使うと、悪霊どもでさえいうことを聞きました」と言って、この世のどんな力も、イエス様の力よりも強いものはありません、と、イエス様の力はすごいと喜び勇んで帰って来ました。
「しかし」と20節、たとえ伝道が上手くいかない苦労があったとしても、それとは比べ物にならない「喜び」を教えられます。それは「あなたがたの名が天にしるされていること」です。つまり「神に受け入れられている事、いのちの書に名前が書き込まれている事」です。つまり、天国に名前がある、永遠のいのちが約束されているのです。これは何物にも代えられない喜びです。この喜びには、宣教の苦労を乗り越えさせる力があるのです。
(リビングバイブル)ピリピ32021節にも、次のように記されています。「私たちの本当のふるさとは天にあるのです。そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。私たちは、キリストがそこから迎えに帰ってこられるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。その時、キリストは、あらゆるものを従わせることのできる超自然的な力で、私たちの死ぬべき体を、ご自身と同じ栄光の体に変えてくださるのです。」とあります。これに勝る喜びはありません。
 このことを話されている時、イエス様に喜びが溢れました。聖霊によってとあります。聖霊がイエス様に満ち溢れました。この喜びと言うのは、どんな喜びだったのでしょうか。
 
 21節の「」の中をもう一度読んでみましょう。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを、知恵のある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみこころに適うことでした」。幼子というのは弟子たちのことです。彼らは教養のない人々でした。1コリ12628節にこうあります。「愛する皆さん、自分たちの仲間を見回してごらんなさい。キリストに従うあなたがたの中には、知者や権力者や地位の高い人はほとんどいません。それどころか、神様はこの世では愚かな者、弱いと思われている人々をあえてお選びになりました。神さまはこの世で見下されている者、取るに足りないものを選び、そういう人々を役立てることによって、力を持っている人を無きに等しい者とされたのです。」(リビングバイブル)
弟子たちは、ユダヤ社会で本当に小さな存在でした。その彼らが、今、神の素晴らしい福音を伝えることに用いられた、このことがイエス様の中で大きな喜びとなってあふれたんです。
神さまはこの世で小さい存在と見られている人々によってご自分の計画を進められます。
 
 23節、弟子たちに「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言われます。
3月5日の聖日に鈴木先生が1ヨハネからメッセージしてくださいました。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、手で触れたものを伝えます」とありました。
まさに、弟子たちは今、自分の目で、救い主キリストを見ているのです。救い主を目で見、救い主の声を聴き、救い主のご人格に触れているのです。それは、救いの言葉を預かった預言者ですら、またユダヤの民の王となった人々ですら、できなかったことです。
小さな存在である弟子たちが、救い主の証人とされたのです。この世界を造られた神の支配は、力によってなされるのではなく、小さき弱い者たちによって進められるのです。
先週のWBCの順々決勝の後の監督の言葉が私には印象的でした。大谷選手のプレーを「野球小僧に彼はなった」と表現されました。「世界の大谷」が野球小僧になって、
チームの一員に徹したのです。彼が小さくなることによって、皆を一つにしたのです。
 キリストは使徒パウロにこう言われました。2コリント12:9「わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから」と。キリストの十字架の死は、弱さの最たるものでした。私たちがキリストの一員として働く時、イエス様の内には喜びがあふれています。このことを忘れないで、新しいこの週を、キリストの一員としての働きをさせていただきましょう。


2023.03.12
「弟子の訓練」ルカによる福音書9章57~62節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 受難節第3主日を迎えました。51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とありますように、イエス様は重大な決意をされます。それは、十字架に向かう決意です。
 
 そして、9章で初めてご自分が苦難に会い殺されること、三日目に復活することをお話になります。その箇所を見てみましょう2122節参照。
 
 それで、イエス様は弟子たちの訓練を始められます。1節、「イエスは、12人を呼び集め、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威をお授けに」なり、彼らを宣教へと送り出します。そして3節で「旅には何も持って行ってはならない」と命じておられます。カトリック教会の司祭さんは普段着以外何も持たれないそうです。これはシンプルで理にかなった制度なのでしょう。また、結婚もしないですね。ですから、家族の事に患わされないで専念できますね。しかしイエス様はこの世の事は必要ないと言っておられるのではありません。何も持って行くなとの命令は「主にのみ依り頼め」と言う意味です。6節、「12人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え」ます。
  
 12節から17節に、5千人の人にパンを食べさせる記事があります。12人の手元には5つのパンと2匹の魚のほか何もありませんでした。彼らの目の前には男が5千人、そのほか女と子どもたちがいます。つまり1万人以上の人々がいます。5つのパンと2匹の魚では、足りるはずはありません。しかし、イエス様は何と言われたでしょうか。13節「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」。それで、彼らが思い浮かべたのは、近くの村々に行って、人々が食事をしてくるという事でした。
12人は、自分たちの先祖が荒れ野の40年の旅をした時、天からのマナが与えられたことを聞いていなかったのでしょうか。そんなはずはありません。何度も聞いていました。しかし彼らは、近くの村々にあるパンのこと以外に、思い浮かばなかったのです。荒れ野では60万人以上の人々が、神が与えられたマナを食べました。イエス様はその神の子です。イエス様のパンの出来事は、12人に「イエス様が確かに神の子である」ということをはっきりと分からせる出来事となりました。
 20節、この経験の後主は彼らに尋ねています「では、あなたがたは、わたしをだれと言いますか」。するとペトロが12人を代表して答えます「神からのメシアです」つまり「神の子救い主です」という意味です。5000人の給食の経験をした12人は模範的解答、はなまる回答ができました。
 
 彼らは沢山の経験をする中で、失敗もしているんですね。37節以下、息子が悪霊に取りつかれているお父さんが12人に助けを求めます。12人は悪霊を追い出す力を主から頂いています。しかし、追い出せなかったのです。失敗の理由をマルコ929節でこう伝えています。「この種のものは、祈りによらなければ、決して追い出すことはできない」。これは弟子たちの反省点でした。先生であるイエス様はどうされているでしょうか。ルカ910節「それからイエスは彼らを連れてベトサイダという町へひそかに退かれた。」退くのは祈るためです。そして18節「イエスがひとりで祈っておられた」28節「イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために山に登られた」とあります。
 イエス様はどんな時にも行動する前に、祈っておられます。群集が詰めかけて来る前のほんの僅かな時間でも祈りに当てられます。マザーテレサは祈りの人で知られていますね。
12人は伝道が上手く行くものですから、祈りを少し疎かにしたのでしょう。この失敗もとても大切な訓練となりました。ルカの福音書はイエス様の祈る姿を、特に伝える福音書です。主は祈りの力によって立ち向かわれます。祈りは恐れや、焦りや、失望や未熟さに対して、冷静さと、安定と、立ち向かう力を与えます。私たちの前に立ちはだかるのは、41節「信仰のない、よこしまな時代です」「救い主を迎えない心の時代です」祈りによって主から力をいただかなければ、自分の力で立ち向かうことはできません。12人は祈りの訓練を受けたのです。
 
 さて、9章は「弟子の訓練」と共に「弟子の覚悟」を語ります。
 
28節以下、主イエスの姿が変わったことが伝えられています。29節「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は真っ白に輝いた」。
31節でモーセとエリヤが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話して」います。これはイエス様がすべての人の救い主として、エルサレムで十字架にかかられ、私たちと神との関係を回復するために罰を受けてくださるということです。12人はイエス様が殺されるのを覚悟しなければなりません。
 
 23節「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。自分の十字架とは、この世で起こる苦労のことではありません。この世の苦労は信仰者でなくてもあります。私たちが日々負う十字架は、福音の前進のために負う苦労です。この覚悟をもってついて来なさいと言われます。他の人が救いに与るための労苦を、主と共にして欲しいのです。
 
58節もう一度見てください。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。人々はイエスの奇跡にばかり感心して、イエスを評価しています。しかし、人目を惹く功績の方にではなく、受難の道にある主イエスにしっかり繋がる覚悟を持つよう12人には要請されます。
 
「わたしに従いなさい」と招かれた人が、「お父さんのお葬式が終わるまで待ってください」と答えると、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と言われました。
これは、死の力は、主イエスと共にあるなら消えてなくなると言う意味です。死、それを覆い尽くす喜ばしい知らせが主イエスによって告げられています。1コリ1520節以下(リビングバイブル)「しかし、事実、キリストは死者の中から復活しました。そして、復活が約束されているすべての人の初穂となられたのです。一人の人(アダム)の行為によって、死がこの世に入ってきました。そして、もう一人の人(キリスト)によって死者の復活が入ってきたのです。罪深いアダムによってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるのです」とあります。復活の命の力は、すべての力に勝るのです。
 
62節「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国に相応しくありません。」これは、自分が神に仕えていると考えているその目的が、主イエスの目的と一致しているかを確認せよということです。
 
 弟子たちにとってこの地上の生涯は、主から訓練を受け、弟子としての覚悟が与えられ強められるための日々だったのです。私たちもその後に続きましょう。


2023.03.05
「命の啓示」第一ヨハネの手紙1章1~4節

説教:鈴木龍生 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 

2023.02.26
「輝かしい勝利」ルカによる福音書8章22~25節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 「だれがキリストの愛から引き離すことができましょう。患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」35「これら全ての事に於いて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(新共同訳)ロマ8:37最後の所を新改訳は「圧倒的な勝利者となるのです」口語訳「勝ち得て余りがある」とあります。
 
 今月私たちは、5章からキリスト・イエスと共にあるとは全く新しい命を生きること、6章では新しい命を確かな土台であるキリスト・イエスに据えよ、それは神が与える幸いはこの世が与える幸いとは異なるからです。そして7章で神が与える幸いを生きる道には「つまずき」があるから要注意!だから、私と思いを一つにして欲しいと神は求められました。私たちの歩みは神のホロアーとしての歩みです。
 
 8章でイエス様に新たなホロアーが現れます。それは女性たちです。(23節のマグダラのマリヤとヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナその他大勢の女性です。彼女たちは「自分の財産をもって仕えた」とありますから、自分の恵まれた環境を用いてイエス様に仕えました。マグダラのマリヤとヨハナはキリストの復活の朝に墓に行った女性です。ルカ24:10)彼女たちはその後も主の復活の証人として福音の前進のために12弟子を助け、その生涯を尽くしました。
 
 さて、次に「種を蒔く人」(四つの種)の例えと、「救いの灯火を掲げよう」という例えが続いて行きます。(5節「種を蒔く人が種を蒔きに出かけた」種蒔く人は既に出かけました。もう種がまかれています。)11節に「種は神の言葉です」とあります。創世記1章を見ますと神の言葉によって世界は造られました。旧約聖書は神が人間を導かれる歴史です。アダムから始まりノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、イスラエル民族、と続きます。彼らもいつも良い地であったのではありません。特にイスラエル民族となった後は、岩地やいばらの地のように神の前に素直になれませんでした。それでも、神さまは種を蒔き続けたのです。そして、最後の種としてイエス様が地に蒔かれました。
イエス様は地に落ちてこられました。すなわち人間となって生まれてくださいました。「あなたがたは良い地になれ」と、ご自分の生涯を通してお手本を示されました。そして地上の生涯の最後に一粒の麦となったのです。ヨハネ12:2324「人の子が栄光を受ける時が来ました。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一つのままである。だが、もし死ねば、多くの実を結ぶ」。イエス様の十字架の死によって、全ての人に救いの道が開かれました。でも、このことを「聞いたことの無い方をどうして信じることが出来るでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ロマ10:14)にあります。
アイススケートのフィギアーでは、選手が演技を始める時に、コーチは「行ってらっしゃーい」と選手の背中を押します。そのように、次は皆さんが御言葉の種を蒔きに出て行く番ですよ、と主は私たちの背中を押されます。
 
 22節以下、背中を押された私たちに厳しい現実が立ちふさがって来ます。向こう岸に渡ろうとした弟子たちの船が嵐にあったのです。
嵐と言えば、ナザレン教団の教会員の現状はどうなのかなと思い、今年の年会の資料が届いていますので2021年度の現状を確かめました。69教会で教会員が3449人、礼拝出席平均が1560人でした。10年前は5千人を超えていたと思います。高齢化の波がかなりのスピードで教会にも押し寄せています。本当に厳しい状況になっています。「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。」このような現実です。飯塚教会も例外ではありません。これは教会全体で共有しなければならない現実ですね。
 慌てた弟子たちに「あなたの信仰はどこにあるのか」とイエス様はお叱りになります。
けれども、この事によって弟子たちは、自分の信じるイエス様がどのようなお方なのか気付かされる大切な経験だったと思います。
24節「先生、先生、おぼれて死にそうです」と弟子たちはイエス様に寄りすがります。大の男の、たくましい漁師の弟子達が、まるで小さな子どもがお父さんに助けを求めているようです。漁師としてのプライドも何もかも捨ててイエス様に寄りすがります。
この弟子たちに、私はとても親近感を覚えます。主は必ず最善の結果を与えて下さると信じてはいるのですが、そのことを待つ時間と言うのは、疑っていると言うのではないのですが、やはり涙が出ますし、はらはらしてしまいます。
イエス様は弟子たちをお叱りになりながらも、求めに応じておられます。この姿は教育者イエスですね。主の言葉によって風と波は静まりました。弟子たちは大自然がイエス様の敵ではないことを経験します。そのことよりも、人生の嵐に立ち向かう時、自分たちの信仰が試されていることを経験したのです。イエス様は頼りない信仰ではだめだ、とは言われません。そもそも、私たちの信仰って頼りないのです。ローマカトリック教会では、殉教した司祭は聖人として扱われますが、殉教した人々に勇気を与えられたのは神なのです。神の支えがなければ彼らは殉教できなかったのです。
私たちが人生の嵐を乗り越えようとするとき、イエス様は「おまえの信仰は何処にあるのか」つまり「おまえの信仰を私が支えている!」とエールを送ってくださるのです。
皆さん、「そだねー」という言葉で話題になった、カーリングというスポーツを知っておられると思います。ピンチになった時、一回だけコーチのアドバイスを貰うことが出来ます。コーチのアドバイスは本当に適切です。その解説を聞くと、さすがコーチという感じです。でも、それまでも小さなピンチが幾つもやってきます。選手たちはその度にコーチに聞くことはできません。ですから選手同士でコミュニケーションを確りとって、「そだねー」というのはみんなが状況をちゃんと把握して、どうすべきか確認したという合図です。飯塚教会も役員会任せではなくて、皆さん全員の認識が必要です。選手たちは、それまでのピンチに立ち向かった経験を生かして乗り越えます。小さなピンチを乗り越えた経験が、大きなピンチを迎えた時の力になります。
弟子たちがイエス様と過ごした日々はこれと同じでした。失敗した時に何度もイエス様からお叱りを受けました。でもそれが神を愛する力になって行きました。彼らは育てられたのです。そして、イエス様の十字架の死は最大の試練でした。大好きで、尊敬し、本当に頼りにして来たイエス様です。そのお方を失うことは、弟子たちには耐えがたい不安と悲しみでした。最も悪いことをした人が受ける十字架と言う死に方、これも弟子たちにとってどんなに悔しくみじめな思いだったでしょうか。しかし、日々の信仰の訓練が彼らを育てていました。そして、イエス様が天の父の下に帰られた後の伝道に於いて激しい迫害を受けましたが、厳しい信仰の道を最後まで行くことが出来ました。すなわち彼らは「輝かしい勝利」への道を歩みとおしたのです。
 
「だれがキリストの愛から引き離すことができましょう。患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」35「これら全ての事に於いて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
主と共にある人生の道は輝かしい勝利への道です。このロマ8章の冒頭には「こういうわけで、今は、キリスト・イエスに結ばれている人は、罪の宣告を受けることはありません。なぜなら、命を与える神の霊の力が、罪と死の悪循環から、あなたを解放したからです。」とあるからです。

2023.02.19
「神の知恵」ルカによる福音書7章18~35節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
スポーツ選手は、ランクを上げるために自分の何処を修正すればいいのか、その為に向き合って来た姿勢が見る人に勇気と感動を与えます。今注目されているのはWBCに出場する大リーグの大谷選手です。試合の無いオフシーズンの準備は試合が始まる本番に向けて大切な時です。信仰も同じだなあと思います。信仰の本番はイエス様がもう一度来られる時ですね。この地上の生活はオフシーズンのようなものです。イエス様が来られるその日があることを覚える人生と、そうではない人生には、大きな違いが出ますね。
「主の言葉は神の力」 
イエス様はイスラエルの北の町カファルナウムに来られます。ガリラヤ湖畔の町です。その町のローマ兵百人の部下を持つ百人隊長の、頼りにしている部下が病気で死にそうになります。彼は町の人にとても親切で信頼されていました。それで町の代表が隊長の部下を助けて欲しいとイエスと一緒に町に向かいます。
しかし百人隊長は「ただ、おことばをください。そうすれば、私のしもべは必ず癒されます。」と伝えます。ここには、百人隊長の「イエス様の言葉は神の力」という信仰があります。
「寄り添われる主」
 次にイエス様はカファルナウムから30キロ南下してタボル山の麓にあるナインの町に来られます。町の門に入ると、母と息子の二人暮らしだったその息子が亡くなり、お棺が外に担ぎ出される所でした。町の人たちもこの悲しい出来事に打ちのめされていました。息子が死んだということは、これまで母と子で支えあってきた日々は無くなりました。それに加えて彼女はもう生活できないということです。現代のような女性の健全な仕事場が無かったからです。そんな彼女の深い悲しみと失望に主は寄り添われます。そして、息子を甦らされます。16節、人々はこの出来事を見て「大預言者の現れ」とか「神は心にかけて下さった」と言いました。ここで、イエス様の奇跡が強調されているのではありません。6章21節の言葉が実現しています。「今、泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」。今日の出来事は嘆き悲しむ者に寄り添われる主を伝えています。私たちが嘆き悲しむ、その時にこそ主に信頼せよと伝えています。
「イエス様は救い主」
この出来事がユダヤの全てと周辺一帯に広まります。
洗礼者ヨハネはカファルナウムとナインの町での出来事を聞き「私たちの救い主は、あなたですか。それとも他の方ですか」と尋ねます。3章でイエス様に洗礼を授けた彼が、この質問をするというのはとても不思議です。
「今あなたの周りで起こっている事は、誰が行ったことなのか」とイエス様は逆に質問されます。そして、預言者イザヤが救い主について伝えた内容を示されます。それが22節の「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返る」です。これは今まさにイエス様がなさっている出来事ですね。そして23節「わたしに躓かない者は幸いです」と言われました。
実は洗礼者ヨハネは今、獄中にいます。人の妬みによって牢屋に入れられました。この後、(領主ヘロデ・アンティパスによって斬首)彼には処刑の日が待っています。その試練を前にしている彼に、「最後まで神を信頼せよ」とエールを送られたのです。それで「わたしに躓かない者は幸いです」と言われたのです。「わたしを救い主と信頼する者は幸いです」という意味です。イエスを信じる者には、地上の命が終わっても、永遠の命が備えられているからです。
「救いの業は神の知恵」
 さて、24節以下は大変興味深い内容です。
まず、33.34節に注目して下さい。参照。洗礼者ヨハネは神に近づくために悪いことから遠ざかるように勧めました。次にイエス様は神に近づくなら自由の道が待っていることを示されました。ところが人々(24節、群集)は、どちらの道も受け入れませんでした。それで、31節「では、あなたたちはどういう人なんでしょう。何に似ているでしょう。互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『結婚ごっこして遊ぼうって言ったのに、ちっとも喜んでくれなくて、それで葬式ごっこにしたら、今度はぜんぜん悲しがってくれない』とわめいている」と例えられました。
 人々は、ヨハネのこともイエスさまのことも、遠くから眺めている見物人でした。救いの道への呼びかけに参加しないで、観客席に座り込んでいました。しかし、それではいけないとイエス様は呼びかけられます。ここで言われている見物人は今のホロアーとは違います。ホロアーは選手の事を大変よく知っていて選手たちと気持ちを一つにする人たちです。
 ヨハネとイエス様の呼びかけに答えた人がいます。人々から罪人と見られている人たちです。29節、彼らは神の正しさを認めヨハネから洗礼を受けます。神を信じるとは、神を正しいとすることです。神を正しいとするその人を神さまは正しいとされます。ロマ3:23「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義(正しい者)とされるのです」とあります。
 
 35節「神の知恵の正しいことは、神のすべての子どもたちが証明します」とあります。
「神さまの正しさ」というのは、イエス様を通して行われた十字架と復活による救いの業です。キリストはご自分の死によって私たちと神との壊れた関係を回復してくださり、キリストを信じる者には永遠の命があることをご自分の復活によって証明されました。このようにして、神の方から救いの手が差し伸べられたのです。これが、神の知恵です。人が努力し、修行し、下から登って極めるのではありません。神の方から人へ救いの手が差し伸べられたのです。これは人には考えもよらないやり方です。ですから、「わたしに躓かない者は幸いです」と仰るのです。
さて、神の救いの正しさを証明するのは子どもたちです。すなわち、神の子どもたちです。救いに与った信仰者たちです。ホセア14:10「知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩む」とあります。
 
救いの恵みに与った私たちは、神の知恵、神の正しさを証明するようにと、召されています。
どのようにして証明すればいいのでしょうか。自分の事を証明する必要がある場合、免許証、健康保険証、住民票などを提出します。更に詳しい証明が必要になる時があります。履歴書の提出などの場合です。学歴、職歴、取得している資格(例えば、教員免許、運転免許、英検証明書、公的機関が出す証明書)などです。履歴書には応募理由を詳しく書いて提出することもあります。これらは、自分の事を詳しく証明する物です。
 先ほどのホロアーになる人たちは自分の応援する選手のことを良く調べ、大変詳しく知っています。選手の出身地、何歳で競技を始めたのか、過去にどの大会でどんな成績だったのか、実に良く調べています。同じユニホームを身に着けて応援するというのは、自分がその選手(チーム)と一体になって応援したいと言う現れではないでしょうか。実に熱心ですね。
 イエス様はご自分があなたの信頼に応えうる者である事を詳しく知って欲しいと願っておられます。体験して気づいて欲しいと願っておられます。見物人ではなく、ホロアーのようであって欲しいと求めておられます。あなたが神の知恵、神の正しさを証明するために、もっともっとご自分の事を知って欲しい。気持ちをご自分と一つにして欲しいと願っておられます。そして、人々に、あなたの家族に知人に、証明してほしいと願っておられます。イエス様がもう一度来られる信仰の本番のために、この地上で神の知恵、神の正しさを証して行きましょう。


2023.02.12
「確かな土台」ルカによる福音書6章46~49節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 コヘㇾトの書に「なんと空しいことか、すべては空しい」12:8と、この地上の出来事は全て空しいと言います。そして、結論として「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて」12:13と言い、神と共に歩む人生にこそ確かな土台があると結論します。つまり、神と共に歩む人生には全ての事に意味が生じるのです。その人は神の配慮、神の愛を知るからです。
 
 今朝は、6章全体から人生の「確かな土台」を知りたいと思います。1段落目と2段落目は、安息日の事です。安息日は何のためにあるのか、安息日は誰のためのものか、が問われています。これは、信仰は何のためにあるのかと言い換えることができます。3段落目は12弟子が選ばれ、信仰者として大切なことを教えられます。その内容は20節「貧しい者は幸いです」と始まり、幸いと不幸というテーマで語られます。マタイ福音書では山の上での説教(5〜7章)で有名な箇所ですね。
 
「信仰の落とし穴に注意」
 まず6章の初めでは「信仰の落とし穴に注意」という看板がかかっています。
安息日に麦の穂を摘んで食べるイエスの弟子達を見て、批判が起こります。安息日は神を礼拝する日なので、そのことを大切にするために働いてはいけないと決められていたからです。でも弟子たちは23本の麦を摘んだだけです。それが仕事といえるでしょうか。マルコの同じ箇所で「安息日は人のためのものだ。人が安息日のためにあるのではない」とあります。また別の安息日に、イエス様が手の不自由な人を治されます。その日もまた、批判が起こりました。それに対して9節で「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、相手が喜ぶことを行うことか、無関心でいることか。いのちを救うことか、滅ぼすことか」と言われます。イエス様は、何が神に喜ばれることなのかを、見失っている人の目が開かれることを願われます。
この大切なことを見失っている人たちは、私たちと無関係でしょうか。無関係であれば聖書に記す必要はありませんね。この出来事は「信仰の落とし穴に注意」という看板なんです。「心を燃やして主を愛すること」と「信仰者としての冷静さ」という二つの重りをバランスさせることの大切さを教えてくれると思います。熱心な信仰に、人を盲目にする危険が潜んでいることへの忠告です。
エフェソ1:23「教会はキリストのからだであり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とあります。5節の「人の子は安息日の主です」とは、この事ですね。人生の主人は自分ではなくキリストです。
 
「近くにおられる神」 
 イエス様は宣教の前進のために弟子の中から12人を選んで、13節使徒と名前を付けられます。20節、弟子たちを見つめてとても大切なことを語られます。
「貧しい人々は、幸いです」と始まる、幸いと不幸の段落で語られることは、ご利益とは正反対ですね。貧しさ、空腹、悲しみ、キリストを愛したことによってつらい目に合う人が何故、幸いなのでしょうか。豊で、いつも満腹で、問題の無い人生が幸いなのではないでしょうか。人はそれを求めますが、現実はそうではないですね。理想を追い求めてもそうならない人生。しかし、がっかりすることはありません。望みどおりにならない人生ですが幸いがあります。それは、貧しさ、空腹、悲しみ、問題を抱える人の隣にキリストはいて下さるからです。
 
では何故キリストが隣にいて下さることが幸いなのでしょうか。
以前NHKで『人体』という放送をしていました。それまでの人間科学の知識が覆される内容でした。人類の映像技術が飛躍的に進歩し、人体の仕組みがミクロの世界まで見える化され、より精巧に人体の仕組みを知ることのできるものでした。これまで、人体のメカニズムは脳からすべて指示命令が出ていると考えられていました。ところが、臓器同士で信号が行き来していて、健康バランスを取っているということが分かったのです。何という精巧さでしょうか。その精巧さに圧倒されました。神がどれ程の愛を注いで人を造ってくださったのかということを感じないではおれませんでした。貧しさ、飢え、悲しみ、迫害の中に置かれた時、或いは思い通りに行かない時、人は「全ては空しい」と感じますよね。でも違うのです。
私達をこんなに精巧に造ってくださった神様ですから、貧しさ、飢え、悲しみ、迫害の中にある人に、深く心を寄せておられます。貧しさ、飢え、悲しみ、迫害の中にある時、私たちは最も神の近くに置かれています。順風の時の何倍も神を呼び求めるからです。詩編145:18「まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くおられる」(新改訳)とあります。また、ヨブ記40章で、大きな試練に打ちのめされたヨブに、138億年もの間この宇宙を愛をもって保たれている神にお前は口答えできるのか、と諭されました。神が、直接、言葉をもって、彼の問題と向き合ってくださったのです。私たちの神様はそういうお方です。
 
さて、マタイには「平和をつくる者は幸い」とありますが、ルカにはありません。こんな大切な御言葉が何故ないのかと思いますが、27節以下で平和をつくる者を具体的にどういう人か伝えています。
 35節「敵を愛しなさい。」36節「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」37節「人を裁くな」38節「与えなさい」
このように生きるなら、争いは起こりませんね。新聖歌の318番の3番に「あなたの前にて、むしろをひらき、みたまの油(聖霊による支え)注ぎ給う」とあります。私たちの依り頼む神は、このようなお方です。(詩編23:5)。ですから、やり返す必要はありません。やられた時、主はその人に宴会を用意し、その人の頭に油(聖霊の力)を注いでおられるからです。やり返してしまえば、用意されたこれらは消えてしまいます。ロマ12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。」この主が終わりの日に勝利の冠を持ってあなたを待っておられます。
 
信仰の落とし穴に注意、そして神は近くにおられること、今聞きましたが私たちはすぐ忘れる存在です。以前の教会で良く言われました。「教会の玄関を出ると今日の説教を忘れるんです」と。
皆さんはどうですか?そうならない秘訣を6章の最後で語られています。
47節です「私のもとに来て、わたしのことばを聞きなさい」イエス様のところに戻ってくることが重要です。繰り返し繰り返し戻って来ます。礼拝、祈り会の出席や日々聖書を開き祈ることですね。すると、御言葉によって信仰の歪みが整えられ、謙った人が造り上げられ、御言葉を行う人へと造り上げられていきます。
48節「岩の上に土台を置いて家を建てた人」とは、「神を畏れ、その戒めを守る人」です。キリストの言葉、神の言葉という確かなお方の上に、自分の土台を置いて新しい命を生きる人です。キリストという確かな土台に、しっかり建てられるので、びくともしません。皆さんの命をキリストという確かな土台に据え続けましょう。まだこの確かな土台に据えておられない方は、是非据え治してください。


2023.02.05
「信仰とは従うこと」ルカによる福音書5章1~11節

説教:末吉百合香 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
失望の中の漁師たち
 イエスさまはゲネサレト湖畔に立っておられます。皆さんの聖書の新約時代の地図には、ガリラヤ湖となっています。対岸が見えない大きな湖です。湖畔に立って何を見ておられたのでしょうか。目の前に広がる湖でしょうか。押し寄せてくる大勢の人でしょうか。
イエスさまは、二そうの舟を見ておられました。その舟は陸に上げられ、朝早くからそこに立ててある舟でした。それは大漁の喜びが響いてくるような舟ではありません。
イエスさまはそこにいる漁師たちをじっと見ておられます。どんな漁師たちだったのでしょうか。5節「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」とありますように、前日何も獲れなかった漁師たちの姿でした。彼らはしょんぼりと網を洗っていました。私たちもそんな経験を何度となくするのではないでしょうか。しかし、漁師たちはイエスさまの存在に気付きません。イエスさまはじっと見つめておられるのに、気付きません。
 
 漁師たちよりも先にイエスさまを見つけた人たちがいます。群集です。今日の個所の前のところを見ますと、イエスさまが伝道を始められるとすぐにうわさが広まり、群集に追い回されているのが分かります。1節にあるように、人々はイエスの話される神のみ言葉を聞こうとして来ています。人々がそんなに大騒ぎをしているにも関らず、漁師たちは、網を洗っています。
彼らの失望が、どんなに大きかったかが分かります。また、438節で、シモンのしゅうとめが高熱のときにイエスさまに癒していただいているのですから、真っ先にイエスさまのところに来てもおかしくありません。しかし、イエスさまは彼らがどんなに失望しているのか、その心情を受け止めておられました。
 
イエスは私たちの生活の場に
 イエスさまは、シモンの舟に乗り込まれます。そして、腰を下ろされました。シモンにもう一度舟に戻るようになさったのです。
みなさん、シモンにとって舟とは、どんな意味を持つでしょうか。それは、生活の場です。イエスさまはシモンの生活の場で語られたのです。何を話されたのでしょうか。マルコ6章の5千人に食事を食べさせられた箇所で、「羊飼いのいない羊のような人々を深く哀れんで」人々に教えられたとあります。きっとシモンたちにも、残念だったねー、がっかりするよねー、でもだいじょうぶ、と言葉をかけられたのではないでしょうか。そして4節で「もう一度舟を出して、魚を獲りましょう」と言われます。「舟に戻り、海に戻りなさい。」つまり、「あなたの生活の場に、もう一度戻りなさい。何も獲れなかった同じ生活の場に戻り、もう一度、挑戦してみなさい。」と言われたのです。
失望した場所に戻るのは気が重いですね。戻りたくありません。そこから逃げ出したいですよね。
しかしみなさん、ここに、違うことが一つあります。「あなた一人で戻りなさい」と言われているのではありません。イエスさまが一緒に舟に乗り込まれるのです。そして、「わたしと一緒に魚を獲りましょう」と言われるのです。
この舟というのは、あなたのいつもの生活の場であり、あなた自身です。そこに、イエスさまは乗り込んで、腰を下ろしてくださるのです。どっしりと!そして、「私と一緒に、もう一度挑戦しよう」と言われます。戻っていくのは今までと全く変わらない場所です。でも、今度はイエスさまと一緒です。ここが大切ですね。
 
お言葉どおりに
彼は、このことがどういうことなのか分かりませんでした。イエスさまは何を考えているのだろう、魚なんて獲れない昼間のこんな時間に漁をしようなんて、と思っていました。しかし「お言葉ですから」と、しぶしぶ?イエスの言葉に従いました。すると、網が破れそうになるほどの沢山の魚がとれます。彼は「主よ!」と叫びました。この叫びは、どういう叫びだったのでしょうか。シモンはこのとき、イエスさまが自分の礼拝すべきお方だとはっきり分かたったのです。彼の信仰の目が開かれたのです。彼は「私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と告白します。これは「私は神さまの救いが必要な存在です。あなたこそ、わたしの救い主です」という告白です。そしてもう一つ、主が共におられることの幸いも経験します。彼の中に、清い方への恐れと同時に、救い主が来てくださったという喜びが沸き上がりました。私たちが従うときに分からせてくださるのですね。信仰とは従うことです。
 
 私にもこんな経験があります。私は19歳で洗礼を受けました。すごく期待をして受けました。クリスチャンになると180度変えられると何度も聞いていたからです。ところが、受ける前と受けた後で何の変化もありませんでした。私はとてもがっかりしました。そして私の信仰を足踏みさせているものが一つありました。それは「聖霊の神さまが私と一緒にいてくださる」ということが理解できなかったことです。でも、あやふやのままにしなかったのです。「聖霊の神さまを分からせてください」と祈り続けました。教会に行くこともやめませんでした。4年を過ぎたある日、何か特別なことが起きたわけではないのに、不思議に私の中に喜びが湧き上がってくるという経験を、神さまがさせてくださいました。そのときに、聖霊を分からせてくださった、と信じることが出来ました。それからは、イエスさまが約束してくださっていることは信頼できることで、自分がどんな状況におかれてもイエスさまに従うことが大切なんだと分からせていただきました。聖書の言葉を正しく理解し、それに従うということでした。そして、焦らず諦めず、わからせていただくまで祈ることの大切さを教えられました。
 今朝のペトロも主のお考えが分からなかったのですが、お言葉に従って分るようになりました。
 
宣教の業への参加者として
そんな彼に「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と弟子として招かれます。
 人間をとる漁師になるというのは、宣教の業への参加者になることですね。これは、大変な招きです。しかし、「恐れることはない」とイエスさまは言われます。何故恐れなくていいのでしょうか。イエスさまが一緒だからです。
 漁師たちは、全てを捨ててイエスに従いました。全てを捨てても惜しくない、それ以上の大きな喜びがイエスの中にあります。失望、落胆の中でイエスに出会った時の喜びを知った彼らだったからです。私たちもまた、私たちの内にイエスさまにどっしりと腰を下ろしていただきましょう。そして、イエスさまに従って歩んで行きましょう。問題のある日々です。高齢になると問題に見えることが増えてきますね。しかし、私たちの主は、私たちと同じ人間となって、先頭に立って苦難の道を歩んでくださいました。私たちのためです。地上の歩みは苦労の多い道ですが、しかし、イエスを信じて従う者には喜びを下さいます。宣教には、神からの喜びがセットだからです。
 
 

2023.01.29
「神の支配の中で」ルカによる福音書4章31~43節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 わたしたちの神は、父が子を鍛えるように、わたしたちが将来、神と共に住む時のために、鍛え訓練なさるかたです。だから、人生で色々な苦労や困難に会う時、この事を思い出しましょう。イエスも「あなたがたは世で苦難があるが、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」と言って励ましておられます。今日、私たちはイエスからもう一つ確かな約束を今から聞きます。それは、イエスを信じる人、すなわちイエスと繋がる人は神の支配の中にいる、という約束です。ですから、何がありましても力を落してはなりません。
 
 さて、イエスが神さまからのお話しを伝えるのに、最初にカファルナウムへ行かれました。エルサレムには神殿がありましたが、他の町には必ず会堂があり、礼拝が行われていました。イエスはそこに行ってお話しをされました。神の独り子が神に代わって話すのですから、聞いた人はその内容に非常に驚いただけではなく、予想外の事が起こりました。
一人の男がイエスに向かって大声で叫び出しました。集まった人々は何が起こったのか、最初は分からなかったと思います。「どうしたんだ、どうしたんだ」と、一同がざわめきました。そして分かったんです。この男は汚れた悪霊に取りつかれていて、その悪霊がイエスに叫びました。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。イエスが「黙れ。この人から出て行け」と叱ったら、悪霊はその男を投げ倒して、出て行きました。
 よく似たことがシモンの家に行った日の夜にも起こりました。色々な病気で苦しむ人と、その人を抱えている家族が大勢イエスのもとに来ました。イエスはその一人ひとりに手を置いて癒されました。その時に悪霊「お前は神の子だ」と叫んで、多くの人々から出て行きました。また、シモンのしゅうとめの熱もイエスに叱られて去って行きました。
 
 悪霊が叫んで出て行ったり、熱が去って行ったり、これって何が起こっているのでしょうか。子どもが、道で躓いてこけて、大泣きしています。皆さん、どうしますか?「痛いの痛いの、飛んで行け」。これよくやりますよね。これは小さな声でしても効き目はありません。痛みに支配されていた子どもが反対に「どうしたの?」と不思議がる程に、大声で勢いよく言うと、子どもはいつの間にか痛みの支配から解放される、というからくりです。
 2000年のキリスト教会の歴史の中には、悪霊払いや癒しの集会を開き、キリストの福音ではなくて、指導者のカリスマ性が強調された事がありました。しかし、それは教会の歩むべき道から外れていました。イエスが福音を語ると、それまで支配していた神以外のものが出て行きました。熱や悪霊だけではありません。それはほんの一部です。私たち人間には神以外に支配されているものが沢山ありますね。例えば、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ。聖書はここで伝えたいことは、イエスが超能力者や霊能者であることではなく、イエスによって神の支配が近付き、今まで支配していたものが出て行かざるを得なくなった、ということです。
 イエス・キリストはあなたがこの神の支配の中に入れるようにして下さいました。入りましょう。是非あなたに入って欲しいのです。あなたに入ってもらう為に神はその独り子イエスの命を犠牲にして下さいました。これは和解の為の犠牲です。神との和解無しには、神の支配の中に入れないからです。神は罪を知らないイエスを、私たちに代わって罪とされ、十字架でその罪の処罰を受けて死なれました。バプテスマはこのイエス・キリストの死によって、神と和解し、神の支配の中に入れて頂く、喜びの時です。聖餐式のパンと杯で、神と和解して神の支配の中に私たちを入れて下さったキリストの死を身体で覚えます。
 
イエス・キリストによって神の支配が来ました。それは私たちの目には見えませんが、確かです。飯塚教会の産みの親は誰か知っていますか? 創立50周年記念誌の6ページに記録されています。宣教師のエコール先生です。先生の妻が大阪にもう一つ教会を立てる為に準備された献金が基になって、楠葉台教会が建ちました。私たちは飯塚に来る前の前、2年間牧師をしました。車で教会に着くと、ナビが毎回「大阪府に入りました」と告げます。教会の敷地の右側が大阪と京都の境だったからです。この境は目には見えません。神の支配も同じです。
 
バプテスマを前と後、わたしには変化が見えませんでした。相変わらず風邪を引いて熱を出したりします。涙を流します。悲しみます。苦しみます。痛みを覚えることがあります。時には叫びたくなります。しかし、神の支配の中に入っていることは確かです。私たちは病気が癒されたり、悪霊祓いが為されるのを見なくても信じます。御言葉によって信じます。使徒パウロはこの神の支配をイエス・キリストにおいて示された神の愛の支配だ、と伝えています。ローマ839節。神の支配から私たちを引き離すものは一切ありません。この力ある一言で私たちは十分です。
 
皆さん、イエス・キリストによって示された神の愛の中に入りましょう。イエスには計画があります。皆さんがキリストの弟子、すなわち人間をとる漁師になる事です。漁師は海の中に生きていた魚をとってすぐに舟の水槽の中に入れ、水槽の中で生きる魚とします。神以外のものの支配の中に生きいた人間を、水槽ではなくて、神の愛の支配の中に入れ、その中で生きる人間とする、これが人間をとる漁師です。
 
神は、反抗し続ける人間、すなわち敵対する人間と、平和な関係を結ぶために何をなさったのでしょうか。神は天罰の恐ろしさで抑止することも出来ます。しかし、神は御自分の独り子に、神の身分を捨てさせて、敵対する人間になられ、人間の只中に入って行く方法を取られました。そこにはリスクがあります。しかし神は人間を愛し抜かれました。ここに示された愛とは、相手の立場に立ってものごとを判断する愛です。人間をとる漁師は、この愛で漁をします。だから、皆さん、私たちは祈りましょう。その愛を下さい、と。
 


2023.01.22
「子を訓練される神」ルカによる福音書4章1~10節、申命記8章2~10節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★聖霊によって、誘惑が待っている荒れ野にイエスを導かれた神の真意とは?
 さて、私たちのイエス・キリストがバプテスマを受けた時に、鳩のような目に見える形で天から聖なる霊が降りました。私たちもバプテスマを受けクリスチャンになった時に、目には見えない形ですが聖なる霊を受けます。聖霊は私たちの信仰生活を助け導いてくれます。ところが、聖なる霊はイエスを荒れ野へ連れて行き、40日間悪魔の誘惑を受けさせられました。えっ!神さまはどうしてそんなことをなさるのですか?聖なる霊は私たち信仰者を助け導いてくれるのではないのですか?あーあー、神の思いが分かりません!
 
★禁断の実を結ぶ木と誘惑するヘビを置かれた神の真意とは?
 昔、神は同じようなことをなさっていました。最初の人アダムと、彼のパートナーのエバを造り、二人が幸せに暮らせるようにエデンの園に連れ行った時でした。中央の一番目立つ所に善悪を知る木と言う、食べたら死んでしまう実のなる木を植えられました。それから、それを食べるように誘惑するヘビも、彼らと一緒にいるようにされました。そのうえで神はアダムたちに命令しました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。今日読んだ聖書に出て来た、聖なる霊がイエスを荒れ野へ連れて行って悪魔の誘惑に遭わせられたのと似ていますね。
 とうとう事件が起こりました。エバがヘビに誘惑されて、その実を食べてしまいました。ところが、食べても死にませんでした。それでアダムも食べました。神は嘘をつかれたのでしょうか。違いました。神はアダムとエバの心を見ようとされたのでした。神が探される時にアダムたちは神の前に出て行った正直に謝まるのではなくて隠れていました。
 神はアダムに「取って食べるなと命じておいた木から取って食べたのか」と聞きました。するとアダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えました。その答えには『この女を私のパートナーにしたあなたが悪い』と言う思いが込められていました。
 次に神はエバに言いました。「何と言うことをしたのか」。するとエバは「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えました。この答えには『蛇を造ったあなたが悪い』と言う思いが込められていました。
 神は人と互いに信じ合い、愛し合って、このエデンで幸せな生活を送ろうと計画していたのですが、神を信じて神を愛する心が人には育っていない事が、この誘惑によって明らかになりました。もうエデンでの共同生活はできなくなりましたが、この日から神は人が神を信じ愛する心を持って、神と共に歩めるように、人を養い育てる働きを始められました。神は聖霊によってイエスを、誘惑が待っている荒れ野へ連れて行かれたのは、この神の働きが続いている事を示す為でした。ヘブライ1210節『霊の父は私たちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです』。
★三つの誘惑
 ①この身体を生きる事に対する誘惑: 悪魔はここでイエスに、石をパンに変える奇跡ができるかどうかを試しているのではありません。悪魔は問いかけているのです。イエスよ、お腹がペコペコだろ。人に必要なのは神でも信仰でもない。パンでしょ。食べることでしょ。この問い掛けの反対は、人間に必要なのはパンじゃない、信仰だ、神だ。それである宗教では、信仰のゆえに神のゆえに、禁欲的な食事制限をします。皆さん教会はそんなことをしませんから安心して下さい。イエスは答えられました(4)。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。悪魔さん、あなたの言う通り、人が生きて行くのに必要なのはパンです。だから、わたしは、お祝いの宴会や歓迎の宴会に招かれたら喜んで出席して楽しみます。人はパンを食べて生きる。しかし、それと共に神さまとの親密な関係によって生かされなければならない。パンと神が生きるのに必要なのです。
 わたしの使っている接着剤は接着剤ABの二つのチューブでワンセットになっていて、ABを同量混ぜ合わせて使います。人が生きるのも、それと似ています。パンと神との密接な関係、この二つを混ぜる時に人は生かされます。
だから、神に愛された者として食べたり飲んだり、この身体を動かして生きましょう。
 ②見えない神の非現実性に対する誘惑: 次に悪魔は一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて問いかけました。イエスよ、今見せたものは全部現実のものだ。それをお前に与える、だから目に見えない神なんか捨てて、私を拝め。イエスは答えられました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある」。たとい私たちが神を見たとしても、はたしてそれは神なのでしょうか。目の錯覚なのか、幻覚なのか、はっきりしません。しかし、神の方から言われるのです「わたしはあなたの神」と。わたしの方が目で見えることよりも、わたしの目には見えませんが神の方が「わたしはあなたの神だよ」と言ってくださる方が確かなのです。だから、その神を拝みただ仕える、そちらの方が確かなのです。私たちは見えるものではなくて、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
③宗教的満足への誘惑:
それ程に見えない神を信じるのなら、聖書に「神が天使を遣わしてあなたをしっかり守らせる」と書いてあるから、試しにエルサレムの神殿の屋根の端から飛び降りたらどうだ。巡礼に来た人々はそれを見て、信仰を強くするだろう。宗教的満足に浸るだろう。イエスは答えられました。『そうではない。神を試してはならない。祈りが聞かれても聞かれなくても、願い通りになってもならなくても、いずれの時にも、神は信頼するべきお方である』。
★イエス・キリストは三つの誘惑を受けて、神と共に歩む成熟した人となる為に三つ大切な事を教えて下さいました。
①人はパンだけで生きるのではありません。神に愛された者として神と共に食べたり飲んだり、この身体を動かして生きましょう。
②わたしが見えるものではなくて、見えないけれど神がおっしゃることに目を注ぎましょう。それが一番確か。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
③祈りが聞かれても聞かれなくても、願い通りになってもならなくても、いずれの時にも、神は相変わらず神なのです。だから神に信頼しましょう。
新約聖書のヘブライ人への手紙1210節に、『霊の父は私たちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです』とあります。この一年、神の子として、この父なる神に鍛えていただきましょう。
★おさらい
 ヤコブの手紙1章21節に『心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます』とあります。来月からは百合香牧師がみ言葉を皆さんにお伝えします。期待いたしましょう。一年52回の礼拝で、御言葉の光が私たちの心に植え付けられます。2023年になって既に三つ植え付けられました。
 1/1、老人のシメオンが幼子イエスを抱いて気付きました。『主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます』。私たちのイエス・キリストは、私たちが神さまの圧倒的な愛の中に包まれていることを示してくださいました。だから、私たちもこの一年を安心して進みましょう。
1/8、私たちの目標は、『神と人とに愛された』私たちのイエス・キリストに倣って、『神と人とに』に目を留めて、成熟した人を目指すことです。この一年成熟を目指しましょう。
1/15、バプテスマを受けられた私たちのイエス・キリストは、私たちがバプテスマを受ける時に、神が私たちに対しても『わたしの愛する子』と宣言して下さり、私たちを全く新しい世界、すなわち神の御支配の中に、圧倒的な神の愛の中に入れて下さる、という大きな大きな恵みを受けます。だから洗礼には希望があります。そこから私たちを引き離すものは何一つありません。この一年希望を持って進みましょう。


2023.01.15
「洗礼は希望」ルカによる福音書3章1~22節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
洗礼・入会希望者は牧師までお知らせ下さい、と週報の右下に毎週印刷されています。教会にとって洗礼が非常に重要だからです。花は花瓶に生けます。洗礼の水は洗礼盤に入れます。今日は飯塚教会の洗礼盤を聖餐の食卓の上に置きました。古い教会は石で洗礼盤を造り、それを聖堂に入ってすぐの所に置きました。色々な思いを持って人々は教会に集います。聖堂のドアを開けて、目の前にある洗礼盤を見て、まず洗礼を受けて神から頂いた大きな恵みを思い出すためでした。洗礼は私たちが努力したり、頑張った結果として受けるものではありません。だから洗礼はゴールではなくてスタートです。神があなたも洗礼の恵みを受けなさい、と言って下さるから受けます。ですから、洗礼は恵みです。今日のみ言葉は皆さんに、この洗礼の恵みの大きさを伝えています。
 
 洗礼は「神の言葉が、荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ことによって始まりました。神の言葉が降る事には長い歴史があります。最初はアダムに降りました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。アダムがエデンから出て行った後も、神の言葉は数えきれない人に降りました。例えばカイン、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、士師たち、サムエル、そして沢山の預言者たちに神の言葉が降りました。預言者たちは神からのメッセージを言葉で伝えました。その続きで預言者としてザカリアの子ヨハネにも神の言葉が降りました。ところがヨハネは今までにない方法で神からのメッセージを伝えました。それが洗礼という方法です。漢字を使う日本語や中国語の聖書は『洗礼』と翻訳しましたが、他の国の聖書は殆ど原語のギリシャ語バプテスマをそのまま使っています。バプテスマは足の先から頭の天辺まで水に浸(ひた)すことです。ヨハネは人を水に浸すバプテスマで神からのメッセージを伝えました。どんなメッセージなんでしょうか。
 
そこで、春雨のバプテスマの話しをこれからします。百合香牧師と二人三脚で牧会伝道していますので、私も料理を担当することがあります。皆さん、野菜炒めを食べ終わったら、最後に野菜等から出た美味しい汁が残りますね。そこにはきっと栄養も溶けているでしょう。もったいないですね。私は春雨を最後に入れてその美味しい汁を吸わせています。春雨は1mm位の細長くてカチカチに乾燥してチョット曲げるだけでポキポキと折れる食材です。私は野菜を準備する前に、まず春雨全体を水(お湯)の中に沈めます。これが春雨のバプテスマです。野菜が炒め終わった頃には、あのカチカチでポキポキだった春雨が、半透明の綺麗な素麺の様になっています。それをフライパンの中の炒めた野菜と混ぜて、ひと炒めして出来上がりです。春雨は、美味しい汁を吸って色が変わり、野菜たちと一体になって綺麗な皿に盛られます。
皆さん、袋の中に入って干しシイタケや、だし昆布や、いりこと一緒に棚の中にいた春雨がバプテスマを受けて何が起こったのか分かりますね。春雨が柔らかく変化しましたが、そんな変化は小さなもので、もっと根本的に大きな変化が起こりました。春雨が全く新しい世界の中に入れられました。人のバプテスマも同じです。ヨハネは人を水に浸すバプテスマで神からのメッセージを伝えました。それは、神が私たちを全く新しい世界に入れて下さる、と言う福音です。それに伴って人は徐々に変えられて行くでしょうが、最も重要なことは、全く新しい世界に入れられることです。ではどんな世界なのでしょうか。
 
預言者イザヤはずーと前から、全く新しい世界の始まりを預言していました。彼はそれを道路に例えていました。36節です。神と人を結ぶ道路は、谷に向かう急な下り坂や、山や丘を越える急な上り坂や、曲がりくねった道や、でこぼこ道で、通行止めの状態です。ヨハネはバプテスマを受けようとした人々に、この神と人を結ぶ道が通行止めの状態になっていることを、言葉と体で示しました。つまり、人は神さまの怒りを受けるしかない状態です。「神さまが願っている良い実を結んでいますか」と問われると、私たち自身も答えられない状態です。神さまと私たちの関係が良くありません。ところが、その道が綺麗に真っすぐに通されて、誰でも通れるようになる時が始まる。ヨハネがバプテスマを授けて伝えたかった、神が私たちを入れて下さる、全く新しい世界とは、神と私たちの悪い関係が良い関係になる、そういう世界のことでした。イエスさまは示してくださいました。「この事は本当である」。
 
その為に、イエスさまは私たちと同じ人間になられました。多くの人と共に、イエスさまもヨハネからバプテスマを受けた時のことです。天から神が言われました。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者」。バプテスマを受けるとは、神の子、神に喜ばれる、神との関係が良くなる、ということです。そして、この福音書は人となられたイエスさまのファミリーヒストリーを続けて書いています。イエスさまはヨセフの子、ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、エリはマタトの子。長く続くので、・・・の子は省略して名前だけが続きます。最後はセツの子、そしてセツはアダムの子、アダムは神の子。つまり私たち人間はもともと神の子、神と良い関係だったのです。しかし、今の現実は悪い関係になっています。
 
イエスさまは神との良い関係、今と全く違う新しい世界に私たちを入れて下さいます。そのためにイエスさまは私たちに聖霊と火によってバプテスマを授けられます。聖霊は神の愛を表わし、火は神の裁きを表わす言葉です。教会が授けるバプテスマは、水を使いますが、神の愛と裁きの中に受洗者のつま先から頭の天辺までを沈めて浸します。神の愛と裁きは、イエス・キリストの十字架に現れました。バプテスマによってあなたの全てがキリストの十字架の中に沈められました。
 
春雨は水のバプテスマを受けた後どうなりましたか。全く新しい世界の中に入いりましたね。教会が授けるバプテスマは、キリストの十字架に示された神の愛と裁きによって、あなたを全く新しい世界に、神との関係が良い、神と和解した、人生の中で何が起こりましても神の御支配の中にあるという、全く新しい世界に入れてくださるのです。ここに洗礼のバプテスマの揺るぎない希望があります。あなたはわたしの愛する子!


2023.01.08
「神と人とに」ルカによる福音書2章41~52節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 年末年始に子どもと共に過ごす時間が与えられました。色々話しましたが、親として子どもたちが心配を掛けた思い出話しが長くなりました。私もお正月に実家に帰った時に、父の酔いが回って来ると、五人の子どもが親に心配を掛けた思い出話しが、終わりなく続いた事を思い出します。親は子どものことをいつまでも心配します。
 ですから、迷子になったと思って、イエスを捜しに神殿に戻って来た母マリアが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい、お父さんも私も心配して捜していたのです」と言った気持ち、よ~く分かります。
 しかし、イエスは「お母さん、お父さん、心配を掛けて、ごめんなさい」とはおっしゃいませんでした。反対に「なんで心配して捜したのですか」と言わんばかりの内容で答えました。私はここを読んで、『イエス、ナザレに帰ってからの親子関係を考えたら、ここは取り合えず謝っといた方が良いのでは』、と思いました。ところが聖書は全く違う所に目を留めています。
 今から約2000年前、ユダヤ人の間では12歳から大人の仲間入りをします。赤ちゃん、幼児、子ども、大人。明日は成人の日。大人の事を成人とも言います。イエスも両親と一緒に神殿に行って成人式の様な記念の時を持たれたでしょう。では皆さん、大人の次は?それで終わりなのでしょうか。
 終わりではありません。新約聖書エフェソの信徒への手紙の413節は、キリストの体である教会に繋がる皆さんに伝えています。『皆さんの目指すべき目標は、成熟した人になることです』。これは私たちにとって非常に重要なことです。
 イエス、大人の仲間入りをした日、この重要なことを伝えるのを第一に優先されました。それで、「お母さん、お父さん、心配を掛けて、ごめんなさい」と言われませんでした。でも、51節に「両親に仕えてお暮しになった」とありますから、きっと心配かけたことを謝ったのだと思います。
 49節に注目してください。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。イエスは神殿を自分の父の家だと、両親に言いました。成熟した人には、生みの親と天におられる父がいます。
 それを聞いたマリアとヨセフは、その意味が分かりませんでした。「イエス、おかしなことを言っていないで、さあ、帰るのよ」。「マリア、そんなに怒らないで、無事に見つかったんだから。さあ、一緒に帰ろう」。
皆さん、私たちには生みの親と天の父がおられます。天の父は、イエス・キリストを死人の中から甦らせる事の出来るお方ですから、死後も私たちの親として働かれるお方です。ところで、成熟した人を目指す私たちのライフプランはロングプランになっているでしょうか。
死んだ人に対して「天国で安らかに」とか、「天国で私達を見守って下さい」とかよく言うのを聞きます。しかし、殆どの人はお墓までの事しか考えず、天国へ行ってからのプランを考えていません。天の父は、イエス・キリストを、眠りに就いた人たちの初穂として、死人の中から甦らせて下さって、私たちが死で終わりではない事をはっきりさせて下さいました。死は神のもとに帰ることです。それから神と一緒の時が永遠に続きます。
①成熟した人を目指す私たちには、生みの親と天の父が与えられています。
天の父はキリストを死より復活させ、私たちのライフプランを超ロングに変えられました。
私たちの今の人生は、天国での超ロングな生活の為の準備期間です。
 
 この準備期間を過ごしている皆さんにとって大切な事は一つです。52節にイエスが「神と人とに愛された」とあります。人にだけではなくて「神と人とに」と言う所がポイントです。キリストは家族を愛され、家族に愛されました。と同時に神を愛し、神に愛されました。
 ナザレでの日常生活で、イエスはお父さん、お母さん、妹、弟を見る時に、天の父なる神の事も忘れずに生活しました。これが「神と人とに」です。これが善い準備になります。これがあなたを成熟した人に成長させます。
 ②神は目には見えません。しかし、イエス・キリストを通して神が現されました。そしてキリストが天に帰られた後、残された教会に聖霊の働きと、み言葉を与えて、神の事を現し続けて下さっています。今年もみ言葉に養われ、神と人とに目を留めて成熟を目指しましょう。
ローマ828302ページ神は「全ての事を働かせて益としてくださる」。
マタイ53126ページでイエス様は、地上で苦労する人のことを取り上げて、天での報いの大きさのゆえに喜べ、喜び踊れ、と励まして、将来の良き準備としておられます。(貧しい者・悲しむ者・柔和な者・義に飢え渇く者・あわれみ深い者・聖い者・平和をつくる者・迫害される者)
へブル125節-12441ページでは、地上の苦労は天の父の訓練。
ローマ1415節、1コリント811節は、教会内での私たちの歩みで重要な視点を示しています。その兄弟の為にも天の父はキリストの命をささげられた、という視点です。
お祈りしましょう。


2023.01.01
「安らかに進め」ルカによる福音書2章21~40節

説教:末吉貞雄 師

 
LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★新年のお喜びを申し上げます。2023年が今日から始まります。登山に例えるなら、これから登山口に入るところですね。そこから先はスーパーもコンビニもホームセンターもありません。ですから、入る前に忘れ物が無いか、持ち物の最終チェックが必要です。新年を安らかに安心して進むために、私たちも今から最終のチェックをいたしましょう。さて、何をチェックいたしましょうか。ヨセフとマリアとイエスの聖家族もナザレに帰って、新しい生活を始める前に①割礼と②聖別という二つのチェックを行いました。ここにヒントが。 
 ①割礼。今から約3500年前に、神はアブラハムに「あなたと家族を祝福するから、わたしと一緒に人生を歩もう」と招かれ、彼は信じてそうしました。しかし、その人生は順調ではありませんでしたから、神の約束を疑う時がありました。不安な時がありました。それで神が言われました。「あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる」。「それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」(創世記171013)
★子育てに不安を覚えるマリアとヨセフでしたが、この割礼によって、「心配は要らない。何があっても、わたしが永遠にこの子の神なのだから」という神さまからの確かな約束を頂きました。割礼は男性のプライベートゾーンに消えない傷を印として付けます。痛いから赤ん坊は大声をあげて泣くでしょう。しかし、両親は、この神からの確かな約束を彼も受け取っていることを、生涯思い起こし続ける為にする割礼を、喜んで行いました。
 ★皆さんも、今日、神からの確かな約束を受け取って下さい。私たちは体に傷をつける必要はありません。イエス・キリストを皆さんの心に救い主として迎えてください。そうしたら、イエス・キリストが皆さんの心に刻まれます(2コリント33)。キリストは十字架で苦しんで全く希望の無い死に方で死にましたが、神はその希望の無いキリストを死人の中から甦らされ希望を示されました。「心配は要らない。何があっても、わたしが永遠にあなたの神なのでから」と言う、神の確かな約束を私たちに示すためでした。それどころか、私たちにはそれ以上の約束が与えられています。キリストは言われました。「あなたがたは神に祈る時に、天の父と呼びなさい」と。皆さん、私たちは神の子です。神は我が子の様に、私たちを見守り,養い、育て、諭し、鍛えられます。だから、新年を安らかに進みましょう。コロサイ211-12節、ローマ229節、ヨハネ112節、ガラテヤ326節。 
②聖別。献げる。アブラハムの約200年後、彼の子孫がエジプトで奴隷として苦しめられた時代がありました。彼らの叫びを聞いて、神は力強い御手によってエジプト中の初子を、パロの初子から始まって家畜の初子まで、膨大な数の命を取り上げられました。但し、アブラハムの子孫の初子だけが助かりました。その結果パロは奴隷の解放を許し、神は彼らをエジプトから連れ出し、遠く離れた所へと導かれました。
 ★命の神である神にとって、エジプトで亡くなったその膨大な数の命は心痛める犠牲でもありました。それで神は救われた彼らに対して言われました。「私は膨大な命の犠牲を払って、あなたがたをエジプトの奴隷から買い取った。私はあなた方の神である。あなたがたは私のものである。そのことを決して忘れないために、一つ命令する。あなた方の間で初めて生まれる子はすべて私のものだから聖別、すなわちその命を献げなさい。ただし、人は、その子の命の代わりに他の動物の命を献げなさい (出エジプト記131216)
★聖家族が神殿に行ったのは、この子が元気に育ちますようにと、お願いしに行ったのではありません。悪いものがつきませんようにと、お祓いをしてもらいに行ったのでもありません。また、お守りをもらいに行ったのではありません。神に献げるためでした。定めに従って、その子の命の代わりに山鳩一つがいと家鳩の雛二羽をいけにえとして献げました。両親はこの儀式によって、この子は昔、強いみ手を持って、エジプトの初子を全ち、パロの手からイスラエルを救った、あの神のものである、神に聖別された者であることを確認しました。だからもはや心配は要りません。それよりも、畏れおののきました。なぜなら、この子は神からの大切な預かりものだからです。彼らは安心して家路につきます。
 ★皆さん、皆さんのイエス・キリストは十字架につけられる前の晩に祈られました。「彼らのためにお願いします。・・・彼らはあなたのものだからです」。「彼らの為に、わたしは自分自身をささげて聖別します。彼らも、真理によってささげられた者、聖別された者になるためです」(ヨハネ179節、19)。イエス・キリストを心に受け入れる者は新年を安らかに進みましょう。神によって聖別(特別に扱われている)されているからです。そのために、イエス・キリストは私たちを聖別する為にご自身の命を聖別して献げられました。
 ★さて、神殿には聖家族と正反対の、これから人生を終えようとする二人の老人シメオンとアンナがいました。彼らは人生で、苦労や誤解や迫害や悩みなどを経験して来ましたが、その信仰生活を終えるにあたって、そこに慰めが救いがはっきり見出せていませんでした。信仰が無駄な事だった様に見える現実を彼らは多く見ていたに違いありません。それで、信仰して来て良かったと言う確信を与えられるのを彼らは待ち望んでいました。二人の五感は衰えていました。しかし、霊の感覚は研ぎ澄まされていました。幼子イエスを発見し、救い主キリストであることを見抜き、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます」と詠い、アンナも神を賛美しました。
 ★シメオンの歌は就寝の祈りとして祈られて来た伝統があります。眠りに就く事は単なる休息だけではなくて、いつか永眠する事を思い起こす時でもある、と言う事なのでしょう。そこで救いの確信を握っているかどうかが問われます。シメオンは2932節の歌の解説として3435節でマリアに言った言葉に注目して下さい。これはキリストの十字架を預言しています。人間は神を畏れず神に反抗し、キリストを剣にかける。しかし、神はその人間に対して独り子の命を献げると言う、圧倒的な愛の応答をなさるのでありました。シメオンはそれを霊の目で見せて頂き、安心して先へ進みました。
★皆さん、振り返ると私たちにも二人の老人の様に信仰が揺らぐ色々な出来事がありました。しかし、キリストを通して示された、圧倒的に大きな神の愛が皆さんに注がれています。だから、安らかに進みましょう。「しかし、わたしたちを愛して下さった方によって、わたしたちは、これら全ての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのである。」口語訳聖書ローマ83739
最終チェックは4つありました。
①神が永遠にあなたの神となって下さいます。万一あなたが神の事を忘れても、神はあなたの神であり続けて下さいます。
②神はあなたを我が子とされています。
③あなたは神に聖別されています。特別な存在とされています。
④圧倒的な神の愛と支配の中に、あなたはいます。
 さて、2023年を進んでください。安らかに進んでください。

2022.12.25
「あなたの救い主イエスキリスト」ルカによる福音書2章1~20節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 今からもう2000年以上前のことですが、クリスマスのイエス・キリストの誕生が私たち人間にとって、どんなに大きな喜びであるかを、どのように表したらよいのでしょうか。皆さんメリーゴーランドってご存じですよね。チョット高い舞台の様な高さに上ると、お馬さんが待っています。好きな馬に乗って、奇麗な音楽に合わせて、キラキラ光る色とりどりのライトに当たって回る、すなわちGo Roundします。嫌な事や心配な事を全て忘れて、うつ向いた顔を上げて、しかめっ面はもう止めて、元気を出して楽しく、このメリーゴーランドの上ではチョット騒いでもいい、そんなmerryな時を過ごしましょう。これがメリーゴーランドです。メリークリスマスも同じで、嫌な事心配な事を忘れて、うつ向いた顔を上げて、しかめっ面はもう止めて、元気を出して楽しく、チョット騒いでもいい、今日はキリストの誕生日、その喜びはそれ程に大きいんだから。今年も世界中の色々な場で、メリークリスマスと言われるでしょう。私も皆さんに言います。メリークリスマス!しかし、クリスマスの喜びの本当の大きさは、クリスマスの前と後の事を知らなければ分かりません。
 神は私たちの世界に三度来られます。一度目はキリストが生まれるズーと前、旧約聖書の時代でした。神はこの世界と人を造った時から、一つの願いを持っておられました。その願いとは、神と人が共に歩む事でした。しかし、人は神からどんどん離れて行きました。神は寄り添い続け、一つの行動に移られました。ざっと約4000年程前のことでした。神は、当ても無くさ迷っていたアラム人(265)アブラハムを選び、彼の子孫を、神の民とし、彼等と共に歩み、彼らを祝福の源にする計画を進められました。
 神が助けを求める彼らを、モーセによってエジプトの奴隷状態から脱出させテント生活を始めた時に、神は彼等のテントの只中に、ご自分のテントを造らせ、彼らと共に住み、共に旅をされました。神は彼らを祝福されたので、彼等は土地が与えられ、王を立て、国を興し、神のためにエルサレムに壮大な神殿を建てる程、豊になりました。大きくなりました。幸せをつかみました。
 そしたら、彼らは神が邪魔になって来て、追い出しにかかりました。神は預言者を何回も彼らに遣わして警告しました。しかし、彼等は預言者の言う事に耳を傾けず、とうとう神は神殿から去って行かざるをえなくなりました。神がいなくなると、彼らが持っていた豊さや大きさや幸せがどんどん奪われて行きました。そしてとうとう大きな国に呑み込まれ、世界中にちりじりばらばらになりました。
しかし、神は諦めませんでした。二度目に来られたのが今から約2000年前のクリスマスです。神は次のような思いを持って、クリスマスにイエス・キリストを誕生させられました。
 『今度は私が行くのではなくて、私の愛する独り子イエス・キリストに行かせよう。そうだ、息子には神の身分を捨てさせ、女から赤ん坊として生まれさ、人間の労苦を負う肉体を取らせ、神が人間をどんなに愛しているか、共に歩みたいと、どんなに願っているかを、示そう。きっと歓迎してくれるに違いない。さて、いつ、どこの誰から生まれさせようか』。
 神が選んだのは、ローマ皇帝アウグストォスがローマの皇帝だった時代に、彼が植民地の人口調査の為に住民登録を命じた時で、キリニウスがシリヤの総督であった時に行われた最初の住民登録の時でした。非常に詳しく聖書が伝えているのは、これが作り話ではないからです。場所はユダヤ、ヨセフと婚約中のマリアの子として生まれました。マリアの親戚には祭司のザカリヤがいました。彼らはナザレに住んでいましたが、この住民登録の為に約110キロ離れたヨセフの故郷ベツレヘムまで上り道を歩いて行かなければなりませんでした。途中で体調を壊したらお腹の子どもにも影響があります。
 しかし、皇帝の命令は絶対でした。時間は掛かりましたが何とかベツレヘムの町に到着しました。するとマリアは子を産みそうな状態になっていました。ヨセフは急いで宿を探しました。しかし、どこの宿屋を訪ねても住民登録をしに帰って来た人々で満室でした。
聖書は伝えています。26節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。
 神が折角二度目に来て下さったのに、神の居場所がありませんでした。しかし神は天から怒りを発せられたのではありませんでした。それから約30年後、イエス・キリストが無実なのに十字架刑に処せられ殺された時も同じでした。神は天からじっと黙って見ておられました。神はクリスマスの時、既にこの結果になる事を予想されておられました。この結果は神と人の関係、神とあなたの関係、その現実を表しています。神がその独り子イエス・キリストをご自分の代わりに遣わされたのは、この関係を回復する為でした。
 罪のない神の独り子が十字架につけられて処罰されたのは、全ての人の罪を独り子に背負わせるためでした。キリストは死んで葬られ、神から離れてしまった人間が最後に行きつく所まで突き落とされたのでありました。愛する独り子をここまで否定されたのですから、神の猛烈な怒りが人間に下されても仕方がない状態でした。
死んで三日目に神はそのキリストを死人の中から甦らせました。ああ、神の復讐が始まる。ところが甦ったキリストが和解の手を差し伸べられ、神と人が共に歩み祝福の基とならせて頂く幸いな道を救いの道を開いて下さいました。
神は言われます『あなたの救い主としてイエス・キリストが生まれました』。
人は言うでしょう『神さま、私の家は仏教です。私は無神論者です、信仰心の無 い者です。だから、わたしには無関係』。
しかし、神は言われます『いえ、違います。あなたは人間ですよね。キリストは全ての人間の救い主として生まれたのです。この全ての人間の中にあなたは確かに含まれています』。
昔、迫害されたキリシタンは、キリストが十字架で祈られた祈り、「父よ彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」を祈りました。キリストは彼らの救い主でもあるからそう祈りました。この神さまの愛の大きさ、それがクリスマスの喜びの大きさです。
 さて神はもう一回来られます。その日、天からキリストが来られます。その日には人の目の涙をことごとくぬぐい取られ、死も、悲しみも、嘆きも、労苦も無くなります。その日まで、神は天から神の霊が信じる者と共にいる、と言う方法で導き守って下さいます。聖書の最後にキリストの言葉が記されています(ヨハネ黙示録)。「然り、私はすぐに来る」。そして教会はクリスマスにこのキリストの言葉を思いお越して言います。「アーメン。主イエスよ、来て下さい」。その日まで、この地上での生活を、主を仰ぎ見て、神と共に歩み続けましょう。
 教会の暦は、このクリスマス、降誕祭から新しくなります。
私たち一人ひとりは、今神さまからの愛のメッセージを頂きました。その愛に答えて祈りを捧げましょう。今日までの守りと導きを感謝し、「今日からわたしは、僕は・・・」、と新しい一年に向かっての思いを、神に伝えましょう。暫く祈って下さい。


2022.12.18
「マリアの賛歌」ルカによる福音書1章46~56節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
(主を迎える備え)
 教会とは、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストがもう一度来られるのを迎える、その備えをする、そう言う群れです。
 皆さん、こんな経験したことありませんか。自動車を運転していて、初めて走る片側二車線の道を快適にドライブしていました。その内に左の車線が混み出したので、車線変更をして空いている右車線を走りました。しばらく走って見ると予想外の事に左車線が長く続く渋滞であることに気付きました。後1キロ先の交差点で左に曲がらなくてはなりません。その交差点を左に曲がる車が2キロも渋滞していたのです。割り込もうと思いましたが割り込ませて貰えません。とうとう曲がれずに直進という結果になりました。振り返って見ると、混み出す以前から前の車が1台また1台と左斜線に寄っていたのです。その車は、あの交差点の混雑の事を知っていて、その備えを早目にしていたのです。ある時私も人生の車線変更をする必要を感じ教会に来ました。既に車線変更した沢山の人の列に割り込みさせて頂きました。後のものが先になり先のものが後になりますが、みんな喜んで下さいました。樹木の紅葉と落ち葉の中を歩く時、私達は彼らの着実な備えに目を留めましょう。樹木は冬備えですが、私達はもう一度来られるキリストを迎えるために着実な備えをいたしましょう。
(本当の幸い)
 マリアとエリサベトの対面はミュージカルの様に歌でやり取りしているように見えます。エリサベトは最後に次の言葉をマリアに投げかけました。45節「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」それに答えてマリアは有名な「マリアの讃歌」で答えます。
 47節の「わたしの魂は主をあがめ」あがめとは「大きくする」と言う意味の言葉です。それまでマリアの人生で神の占める大きさはどれくらいだったのか分かりませんが、「わたしは、今回の体験で、自分の人生の中で神が占める大きさを、もっと大きくします」と、まず歌ったのでした。次の行の「喜びたたえます」と言うのも、同じ様な意味です。マリアは「わたしの魂と霊はそのことをします」と歌いました。これは内面だけではなくて、生活の総ての面で神が占める大きさを大きくします、と言うことです。つまり自分を小さくして神を大きくする、と言うことです。38節でマリアは「わたしは主のはしためです。」と信仰告白しました。これは「信じます」と言うよりも「従います」と言う信仰だと聞きました。人生の中で神の占める大きさを大きくし自分を小さくするのは、従う、お任せするという事だと思います。
 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」というエリサベトの歌にマリアは「いいえ、私の信仰は取るに足りないです。幸いなのは私の全てをお任せできる主と出会えたことです。」と答えたのだと思うのです。マリアがこの信仰に導かれた理由を次の48-49節で歌います。「身分の低い主のはしためにも目を留めて下さった」からです、と。マリアは田舎の村の貧しい娘で、本当はこの様な世界中で読まれる聖書に載る女の子ではありません。浜辺にある一粒の砂粒の様なもので、特別に誰の目にも留まらない平凡な存在でした。そんなマリアを神は選び、神の子イエス・キリストの母とされました。「神はわたしに目を留める事などあり得ない」と思っていたマリアは驚きました。彼女の人生は変わります。お金や健康や力や能力や美しさ等を得る事も幸いです。しかし、それはいずれ無くなります。しかし、みなさん「神がこのわたしに目を留めておられる。」これはいつまでも無くならない幸いです。この事をマリアはイエス様を宿して知ったのでした。このマリアと、聖霊が宿られる私たちクリスチャンは共通しています。
 この出来事はマリアの人生にとって一番大きな事でした。彼女の夫ヨセフはイエスが12歳の時エルサレムへ一緒に旅した後、もはや聖書に出て来ません。どうしたのでしょうか。先立たれたとも考えられます。マリアが家族を養うのは本当に大変だった事でしょう。
イエスは長男として家族を養う働き手となってマリアを助けた事でしょう。しかし、そんなイエスが十字架で苦しみ死んで行くのを母として目の当たりにします。人の目には「さいわいな女」とは見えませんね。しかし、復活させられたイエス・キリストと会ってマリアは「どの様な所でも、どの様な時にも、神が目を留めて下さっている、ここに本当の幸いがある」と信じ続けたのです。マリアは教会で大切な歌としてこの讃歌を歌い続けたと思います。それで、こうして、キリストが天に昇られた何十年も後に完成したルカ福音書に載っているのです。
(神の側に立つ幸い)
50節の「主を畏れる者」とは、このマリアの様に人生の中を神に大きく占めていただく者、神に任せ、期待し、信頼し、神に希望を置く者の事です。主を迎える備えをする者のことです。51-55節は身分の逆転の事が歌われています。これは「今に見ていろ」と言う意味ではありません。思い上がる事なく神を畏れ続ける者、主を迎える備えをする者に神は目を留め、その者の側に立って助けて下さると言う歌です。
マリアの人生は人の目には祝福されたとは映らないでしょう。しかし、神が目を留め、マリアの側に立って下さいました。つまり、マリアは神の側に立っていた、と言うことです。それで希望に満ちていました。だから、48節「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。」と歌い続けました。このマリアの讃歌は、2000年間教会で晩祷に歌われ続けて来た伝統があります。一日の労苦に疲れを覚えた時、信仰する故に悩む時、迫害の時、試練の時、この歌は歌われ続けて来ました。
 この様にマリアの讃歌はみなさんに着実に備える必要を伝えています。それは再び天から来られるイエス・キリストを迎える備えです。第一の備えは、人生で神が占める部分を大きくすることです。第二の備えは、神が第一の備えをする者に目を留めて下さっている事を幸いとすることです。神の側に立つ幸いです。今、あなたが立っている所はどこですか。神が立たれるところですか。神だったらどこに立たれるのか考えて行動しましょう。この二つの備えの為に、キリストとの交わり、つまりキリストの身体なる教会と確り繋がって、聖書のみ言葉と聖礼典に養われることは欠かせません。 最初にした人生の車線変更の話しを思い出して下さい。皆さんの前に割り込んでくる人が必ず起こります。その喜びを味わいたいですね。今日確り信仰のハンドルを握り直しましょう。


2022.12.11
「譲って任せよ」ルカによる福音書1章39~45節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★クリスマスの喜びの大きさ
 天使ガブリエルは全ての任務を終えて、天に帰って行きました。さてマリアの年齢は十代半ばと思われます。こんな大きな出来事を自分一人で負いきれませんね。両親や婚約者のヨセフに黙ったままにはできません。皆さんならどうされますか。また、皆さんが親としてこの事を聞かされたら、どうされますか。ここは非常に気になる所ですが、聖書は何も伝えていません。また、もう一つ気になる所があります。今回、神さまによって子どもを産むことになった二人の女性が出会うわけですから、年の差がありますが、きっと話が尽きなかったと思います。ですからマリアは三か月間エリサベツのところに滞在しています。小説家ならこの三か月間の事を色々書くでしょうね。しかし聖書はそうしません。不思議ですね。
 「喜び踊れ」という説教題を読んで、皆さん思いませんでしたか『クリスマスを喜ぶのは分かりますが、先生、クリスマスに踊るんですか?』。エリサベトが聞いたマリアの挨拶は、胎内にいるヨハネにも聞こえました。それを聞いてヨハネが踊りました。そしたらお母さんエリサベツがまるで胎内を見えるかのように、『喜んで踊りました』と言っています。先週、お母さんと胎内にいる赤ちゃんは一体である、と聞きましたね。それがここで起こっています。ヨハネはマリアの声で主の母親が来た、イエスさまがそこに居るマリアの胎内におられることを感じ取ったようです。それで彼は喜び踊りました。その時より約1000年前、ダビデがエルサレムに住んだ時に、神にも住んでいただくために、テントを張り、そこに神の箱が運ばれた日、神が来てくださった事の喜びのあまり、ダビデは裸になって踊りました。
ですから皆さん、神の独り子が私たちと同じ人間になってお生まれになり、私たちのこの大地に来て下さったクリスマスの喜びは、踊る程なんです。皆さん、今年のクリスマス、どう喜びを表現しますか?
★キリストは必ず来られる
さて、マリアは天使ガブリエルから「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている」と聞きましたから、きっとその事を確かめるつもりでエリサベトを訪問しましたのだと思います。ところがそこで予想外の出来事に遭遇しました。マリアがエリサベトに挨拶をした時にその出来事が起きました。44節「あなたの挨拶の声をわたしが耳にした時、胎内の子は喜んでおどりました」。39節の前に「マリア、エリサベトを訪ねる」と題がついていますが、その内容は「イエス・キリスト、ヨハネを訪ねる」です。
 ヨハネの人生には一つの使命が与えられていました。それは救い主イエス・キリストが自分の後から必ず来られる事を告げ知らせ、人々を神に立ち返らせ、キリストを迎える準備をさせることでした。もうすぐ、その人生がスタートします。ヨハネは成人してその使命を遂行している時に、群衆に紛れておられるキリストと出会うのですが、ヨハネには隠されていました。キリストが必ず来られる、この約束は信じるしかありませんでした。ところがお互い母の胎内にいる時でしたが、そのキリストがヨハネを訪問して下さったのですから、キリストは本当に来ておられるという太鼓判を頂いたようなものですから、ヨハネは感激して喜び踊りました。これは15節でガブリエルが告げた『既に、母の胎にいる時から聖霊に満たされている』から起こりました。
 クリスチャンの場合はどうでしょうか。私たちはキリストの教会から伝え聞いています。今から2000年前にキリストは生まれました。成人して天国の話をされましたが十字架につけられ殺されます。しかし、死人の中から甦り、天国への道を一本通して、天に帰られました。その時に天国での住まいの準備が出来たら、必ず迎えに来る、と約束されました。その時、目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もありません。天国はそれだけではありません。新約聖書の黙示録はキリストの言葉を伝えています。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」。最後に全ての事に対して正しい審判が下されます。私たちの心を痛めるような不正がまかり通され様とも、厳しい現実を前にしてどうしようもない時も、主は必ず来て正される、これが天国です。これが最後まで無くならない希望です。
 ヨハネと同じではありませんが、クリスチャンはキリストの教会に集まり、礼拝の恵み、洗礼や聖餐の恵みに与り、聖書の言葉を通してみ言葉の恵みに与り、キリストが必ず来られる約束を頂いています。2000年前のクリスマスの時、キリストは私たちの世界に訪れて下さいました。しかし、そこに居た人々は誰も歓迎しませんでした。喜び踊る人なんかいませんでした。しかし、キリストは必ずもう一度来られるという約束を聞いています。私たちはそれを信じて今を生きる人間です。クリスマスは、もう一度来られるキリストを迎える予行演習です。ですから、もっと大きな喜びをもって去年よりも大きな喜びをもって迎えましょう。
★キリスト再臨までの生活
 エリサベトが最後に言いました「主がおっしゃったことは(これは約束の事ですね。それが)必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。これはマリアに対する言葉でしたが、胎内のヨハネはこれを聞いて思ったでしょうね「ママ、その通りだね」。私たちの人生は、登山隊に例えられます。過去が入ったリュックをそれぞれが背負っています。その重さはどのくらいでしょうか。単独ではありません。登山隊です。だから何とか助け合って登ります。しかし、どうしても必要なものがあります。それは、確かな頂上が見えることです。一番確かな頂上、それはキリストがもう一度必ず来られるという約束のことです。それを信じて登山する、これこそ最後まで残る幸いであり、希望です。これを確り握って下さい。新聖歌81番「諸人声上げ」を午後のコンサートと、25日の礼拝でも歌います。新聖歌に載っている一番古いキャロルです。原歌詩の最後はアルファ・エス・エ・オ「汝はアルファでありオメガ」で終わっています。救い主であり審判者であるアルファでありオメガであるキリストが必ず来られます。それを前提にして今を見、今を生きるのです。エリサベトは皆さんにも声高らかに言います「主の約束が必ず実現すると信じる人は、なんと幸いでしょう」。


2022.12.04
「神の民のいこい」イザヤ書32章15~20節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★キリストの誕生日として、世の中に知れ渡っているクリスマスですが、キリスト教の教祖の誕生日だ、なんて思う人もいるでしょう。教会は正確にクリスマスを伝えなければならないですね。神のひとり子がマリアの胎に宿られた前代未聞の、これから先もあり得ない出来事が約2000年前に起こりました。それを記念する日がクリスマスです。しかし、私たちはこの出来事と今の自分とを重ね合わせる日でもあります。私たちの場合は、洗礼を受けた時に神からの賜物として、聖なる神の霊がこの身体に宿られます。使徒パウロがコリントの教会の信徒にこのことを重ね重ね伝えています。1コリント3166192コリント616参照。ですから、私たちはマリアに私たち自身を重ね合わせます。
★さて、この前代未聞の出来事が起こる前に、マリアに受胎告知がなされます。ダヴィンチが絵にしていますね。それが今日の聖書箇所です。この任務遂行に抜擢されたのが天使長ガブリエルでした。ミカエルと共にその時より約500年前に二人は預言者ダニエルの所に遣わされていました。ここからは私の想像なのですが聞いて下さい。
★「神さま。ガブリエル、まいりました」。神の招きに答えガブリエルはお傍に近づいて、今回の任務を聞きます。彼はその内容を聞いて驚きました。「独り子のイエスさまを人間として地上に生まれさせる。神さま、とうとう、その時がまいりましたか。あなたさまの長い間の念願が叶うのですね。かしこまりました。行ってまいります」。
★まずは祭司ザカリアの所に現れました。いつもの様に天使の決まり文句の言葉「恐れることはない、ザカリア」をもって、任務を果たしました。次に、マリアの所に現れました。一番重要な任務、受胎告知をする時、ガブリエルは天使の決まり文句ではなく「おめでとう」と言ってしまいました。おめでとうなんて言った天使は他にいません。受胎告知することがいかに、緊張と興奮と感動と喜びに満ちていたかが分かります。以上、私の想像でしたが、神の独り子を胎に宿す、という事が後にも先にも無い、どえらい出来事であったことを、今日まず皆さん、知って下さい。
  ★では、皆さんマリアの受胎で何が起こっているのでしょうか。31節「あなたは身ごもって、男の子を産みます」とのお告げに、マリアは34節「どうして、そのようなことがありえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えました。受胎はマリアが考える単なる妊娠ではないので、ガブリエルはもう一度言い直して説明しました。35節「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。言い直してもらっても私たちにはまだピンときませんね。それでこの表現と大変似ていることを、神は以前行なわれておられますので、そのお話をしましょう。
★昔、神は自分が選んだ特別の人々と一緒に住むために、神の家(テント)を造らせました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」様に、そのテントに天から神が降られると、その周りを雲が包みました(出エジプト記40章34-35節参照169ページ)。この様にして神はテントの中に宿られ、彼らと共に旅を続けられました。神が下さった土地に住み国を築いた時、ソロモン王がテントの代わりに神殿を建てました。神は神殿に宿られ彼らと共におられました。しかし、彼らが神から離れ他のものを神とし始めたので、神は神殿から出ざるをえなくなりました。神の居られない彼らのその後は、国の滅亡、神殿の破壊、指導者たちの他国での捕虜生活でした。しかし、神は彼らを見捨てず、異国の地で預言者エゼキエルを立て、神は幻で彼らが神に立ち帰るなら神殿を再建し、そこに神が降り、いと高き方の力が包み、神が再び神殿に宿られる幻を現わされました。しかし、それは実現しませんでした。
★胎内に子を宿すということは、真にその子と母がお腹の中で一つになることですね。妊娠中の母と子の関係が大変密接であること、いわゆる一心同体であることを現代の医学は証明しています。胎内とは、赤ちゃんがお母さんの影響をもろに受ける場所です。そこに宿るとは正に私たち人間と一つになられると言う事です。
★神が私たちと一つになってくださったら鬼に金棒、なんてまず思っちゃいますが、しかし、もう一つ思うことがありますね。こちらの方が気掛かりじゃありませんか。それは、神にどんなにご迷惑をお掛けする事か、ということです。私たちは神を尊ばず、神に逆らい無視し、自分が神になって、我を通して神を端に追いやり、神を悲しませ、苦しめるでしょう。イエスさまが十字架につけられて殺された、それと同じことを私は私と一緒におられる神に対して行なうに違いありません。
★しかし神はそれも分った上で「わたしはわたしの子イエスを人間の子として生まれさせよう、この子にその全ての罪が覆い被さってもいいから、人間と共にいたい一つになりたいのだ」と決断されたのでした。それも特別な人に対してではありません。マリアは祭司でも賢者でも霊能力者でも宗教家でもありません。無名で普通の平凡な娘です。神の子が人間の子としてそのマリアのお腹に宿られたとは、神が無名の普通の平凡な私たち一人一人と一つとなって下さる、そのことが始まった記念日がクリスマスです。私たちはクリスマスに一番何をすべきでしょうか。38節のマリアの言葉に注目してください。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
★マリアの人生は自分の思い通りに行かなくなります。その頃婚約者ヨセフと今後の二人のことについて色々と計画していたに違いありません。今回のことが実現したらヨセフとの関係自体が終わりになるでしょう。これは絶対に納得できないことです。しかし、マリアは全能の神に任せました。任せるとは自分は何もしない無関心でよいということではありません。神に任せるとは、神の僕になることです。具体的には私が主となっている所に神を主として迎えることです。そして、私がへりくだって、主の僕になることです。
★マリアは自らを低くして具体的に自分のお腹の中に主を迎えました。これは頭で主を信じ迎えるのではない事を意味します。心でもない。この身体で迎えるのです。私たちの場合、生活の具体的な場面にキリストを迎える事です。僕となって、その指示に従って、生活しましょう。これが、もう一度天から来られるキリストを迎える備えになります。
★へりくだって自らを低くしましょう。そしたら必ず神が確かに共にいて下さる事を体験します。マリアが最初にそれを体験しました。マリアに倣って自らを低くする者がこの重大事に気付かされます。ですから心の思いの高ぶりは無いか、吟味する事がクリスマスを迎える備えです。へりくだりましょう、神があなたと共にいて下さいます、これは確実な約束です。神の使いガブリエルは今日の皆さんにも伝えます。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとも共におられます。」

2022.11.27
「信じて前へ」ルカによる福音書1章1~25節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★人生は飛行機に例えられます。高度0mの滑走路から離陸したのが誕生日です。そして高度が上がります。穏やかな天候の時は順調に上昇しますが、風や乱れた気流の中の時は上がったり下がったり揺れます。幼児期から少年期と成長し、思春期や青年期に至る、これに当たるでしょう。そして巡航高度約10000mまで上昇して落ち着きます。これが壮年期に当たりますね。シートベルトサインが消えます。客室アテンダントさんの色々なサービスが始まります。途中、チョコチョコ乱気流通過の為に、シートベルト着用サインが出ることもありますが、この快適な空の旅が人生最高の時を表しています。しかし、目的地に近づいたら降下して行きます。熟年期です。
 ★もし、人生を上下方向だけでとらえるなら、飛行機の降下は人生の後退になります。例えば老いることがそれに当たります。今までできたことが出来なくなります。そして高度0m着陸が死です。それで終わりです。しかし、教会に集まる皆さんは、イエス・キリストによって、人生を上下方向だけではなくて、前後方向で捉える人に変えられました。
 ★飛行機の高度が変化する様に、私たちの人生でも上がり下がりがあり、それによって一喜一憂します。しかし、その高度の数値に関係なく、飛行機は出発地から目的地へ着実に前進し続けています。決して後退していません。私たちの人生も同じです。前に進んでいます。
★富岡ぬいさんが作詞した子ども讃美歌の一曲を紹介します。「生まれる前から神様に、守られて来た友達の、誕生日です、おめでとう」。この歌の背後には、『生まれる前から』前に進んでいるという、前後方向の人生観があります。誕生日の歌ですから、死んだ後の事は歌われていませんが、当然死んだ後も前に進むということも、視野に入っています。
★修道院で一日の最後にラテン語で「メメント・モリ(覚えよ死を)」と挨拶を交わす伝統があるそうです。今日一日が終わり、眠りに就くのは明日へ進むためなのですが、いつか最後の日、すなわち死ぬ日が来ます。その現実を忘れないためにこの挨拶をします。そして、その日も眠りに就きます。死を超えてさらに進むためです。死という現実から目をそらしたり、忘れたりして生活している町の人は、修道士たちの生活が非現実的な生活に見えるでしょうが、彼らこそ非常に現実的な生活を送っています。
★この様に上下方向に左右されないで、前後方向に人生を捉えて進む、ここに真の希望があります。神はイエス・キリストを死人の中から甦らせ、眠りに就いた人たちの初穂となさって、この希望を私たちに与えて下さいました。聖書にこんな言葉があります。1コリント1532節「もし、死者が復活しないとしたら『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」。皆さん、神がその独り子イエス・キリストを、クリスマスに人間として誕生させられたのは、私たちが上下方向に左右されない前後方向に人生を捉え、希望を持って前に進み続けるためです。これが福音です。
★今日朗読されたルカ福音書は、キリストの教会に繋げられこの福音と接し、今までは神に敵対し、神と無関係に歩み続けて来た自分から、神を愛する者に変わったテオフィロに、その福音が確実なものであることを伝えています。テオは神、フィロは愛する意味です。私たちもキリストの教会に今繋がり、神を愛する者テオフィロに、変えられました。変えられている所、現在進行中です。また、これからも変えられ続けるでしょう。ですから、テオフィロは私たちでもあります。今日から来年のイースターまでルカ福音書を読んで行きましょう。
 ★さて、最初に登場するのは、当時のユダヤ教の祭司で宗教者で、代々続く宗教者の家柄で、6節で紹介されています様に、神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがありませんでした。ザカリアとは「神は思い起こされる」、エリサベトとは「神は豊かである」という意味だそうです。エリート的、優等生的存在であった彼らでしたが、7節「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子どもがなく、二人とも既に年をとっていた」、とあります。正に降下の一途を辿る人生でした。信仰生活をしていましたが、現実は希望の見えない人生でした。
 ★私は今日最初に、人生を上下方向だけではなくて、前後方向に捉えましょう、とお勧めしましたが、この夫婦同様、私たちの現実は厳しいです。エリサベトが最後に一言口にしました25節の言葉にはその現実が伺われます。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間から私の恥を取り去って下さいました」。彼女は子どもが与えられない事を自分の恥と思う心をズーッと抱え、神はわたしに目を留めて下さっていないのでは、と言う思いに悩まされていた様です。人間の奥には、人生をどうしても上下方向で捉え、神への不信を生み出す根が張っているのですね。その根は自分がいくら頑張ってもどうすることも出来ません。天使ガブリエルのお告げを信じなかったザカリアも、その根底には神への不信を生み出す根が張っていました。エリートであり優等生的存在として、この夫婦は装っていましたが、この様な現実がありました。それでは私たちはどうでしょうか。凡人の現実はなおさらですね。
★しかし、ルカ福音書は神からの福音を語る一番最初に、人間のこの厳しい現実を取り上げ、そこに神が働かれる事を私たちに伝えています。ザカリアもそれを体験し、口が開けて預言しました。178節「あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの道を平和の道に導く」。非常に希望溢れる内容です。彼はこの希望の出所を、高い所から、神の方から来たことを強調しています。
★神はこの夫婦に対して沈黙をし続けられました。しかし、ザカリアが聞いた20節の天使の言葉「時が来れば実現する」に注目して下さい。その沈黙は時が来るまでの沈黙でした。皆さん、沈黙には二つの意味が含まれています。全く目を留めていないか。その反対のじっと目を留めておられるかのどちらかです。私は住宅建設販売を一貫して行う会社で働いていた時に、現地販売事務所の営業マンからこの事を聞きました。神の沈黙は後者の方、じっと私たちに目を留めて下さっています。
★聖餐式の中で新聖歌50番「心を高く上げよう」を歌っていますのは、私たちの厳しい現実に神からの上からの働きを求める歌だからです。皆さん、上下方向のことが気になりますが、神を信じて進むのです。キリストはその先頭に立って確かに進んでくださいました。死を乗り越え、前へ進まれ、私たちはその跡を辿ります。どのような時にも神に信頼して、御前に心を注ぎ出せ、神は我らの避けどころ。心を高く上げて、神の働き守り導きを信じて私たちも進みましょう。


2022.11.20
「ゴールは天国だよ」ヨハネによる福音書3章3節節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
みなさん、チョットこれを見て下さい。
博多駅に電車が停まっています。
みなさん、知っていますか。電車の正面には必ず最後に停まる駅の名前が書いてあります。
チョット大きくしましょう。なんて書いていますか。門司港。
この電車が最後に停まる駅、つまりゴールは門司港駅です。
 
さて、神さまはお母さんのお腹の中でみなさんに、命を与えられ、そして神の守りと導きの中で、みなさんは生まれました。大人の人は詩編の139篇13-18節を読んでください。
神さまから命を与えられ神さまに守られ導かれることは、ちょうど神さまの電車に乗っているようなものです。
お母さんのお腹の中にいる時から、私たち全員は目には見えませんが、神さまの電車に乗り、生まれたようなものです。
その電車が最後に停まる駅、ゴールはどこでしょか。
チョットこれを見て下さい。天国です。私たちのゴールは天国です。
 
でも、誰一人お母さんのお腹の中で、神さまの電車に乗たことは、覚えていません。神さまの電車に乗って生まれたことも分かりません。
それで神さまは困りました。何とかそれに気付いて人生を歩んで欲しい。苦しみ、悲しみ、悩みの中に置かれる時があるでしょう。しかし、私の電車に乗っているのだから心配はいりません。大丈夫です。それに気付いて欲しい。そして言われたんです。『私の愛する独り息子イエス、その事を知らせに、お前がみんなの所に行ってくれないか。神としてではなくて、人間に成って行ってくれないか』。『はい、分かりました』。今から約2000年前にイエスさまは生まれました。それがクリスマスです。
 
イエスさまが大人になった時、ニコデモというおじいさんが、イエスさまの所に来ました。コンコン『イエスさま、わたしは子どもの時から今まで、天国を目指して来たのですが、今もどうしたらいいのか分かりません。教えて下さい』。
イエスさまはニコデモに教えてあげました。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』天国に行くことはできない。新たに生まれるとはどういうことなのでしょうか。私たちは既に生まれた後です。その時には神さまの電車に乗っていることに気付かないで生まれました。そして今に至っています。新たに生まれる時とは、それに気付く時です。
 
イエスさまが、気付かせて下さいます。チョット見て下さい。
イエスさまは言われます『あなたは神さまの電車に乗っています。そのゴールは天国です。わたしは、そのために命を失ってもいいです。喜んであなたのために命をささげます。神さまはそれほどにあなたのことを愛しておられます。あなたに命を与えたのは神さまだからです。あなたは神さまにとって大切な人です』。大人の人は思い出すでしょ。ヨハネ316の聖句を。
 
私は愛されている。私に命を下さったのは神さま。だからこの命は神の守りと導きの中にあります。どんな時にも、どんな所でも、神さまが一緒です。だから大丈夫です。この命は素晴らしい。希望がある。そう信じて神さまの愛を受け取る、それが新たに生まれることです。丁度それは神さまの愛、という目に見えませんが天国行きの切符を受け取るようなものです。みなさんのゴールは天国です。
 
 さて、大人の人にお話しします。今はペーパーレスの時代です。新幹線はE-ticket ヨーロッパの鉄道はOnline-ticketです。車掌は車内で乗客のチケットに印字されているQRコードを読み取りすべての情報を把握します。そこには列車に関する情報だけではなくて、運賃支払額、支払日、決済方法まで記されています。
 
イエスさまの教会に来たら、改めてその切符を確認しましょう。そこには、切符代を支払った名は神です。金額の項に『神に愛する独り子イエスの命』とあります。支払った日は信じた日ではなくて、あなたの誕生日になっています。信じる前から神はあなたのためにチャンと切符を用意しておられたのです。なぜなら、お母さんのお腹に存在した時から神の電車に乗っているのですから。この切符は恵みです。これを先行の恵みといいます。これこそamazing graceです。私たちは神さまの電車に乗っています、運転手はイエス様です。だから何があっても大丈夫、ゴールは天国です。皆さん、子どもたちと共に感謝して希望を持って進みましょう。


2022.11.13
「単なる希望ではない」Ⅰコリント15章3~8節、19~20節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
最後の晩餐をした夜に、イエスがなさった約束を先週聞きました。父の家、すなわち神の家、天国に、私たちの住む場所の用意ができたなら、私たちを天国に迎えるために、わたしは戻って来る。これは再臨、Second Comingの事です。
あと6回目の日曜日、12/25が降誕、First Comingのお祭り、クリスマスです。First Comingの時、イエスが生まれた町ベツレヘム、いやエルサレムを含めたすべての町で、イエスを歓迎する人は一人もいませんでした。歓迎したのはホームレスの羊飼いと外国から来た星占いの人たちでした。皆さん、Second Comingの時、そんなことは絶対にあってはならないですね。ですから、今年もこの季節、イエス・キリストを迎える備えをいたしましょう。来週20日は子どもに天国の話をします。次の週27日はアドベントに入り、First Comingの経緯からお話しします。今日は、イエス迎える準備をする私たちの信仰の拠り所についてお話をします。
 私たちの拠り所、それは、私たちが死んだ後、キリストの再臨、Second Comingの時に私たちも甦って、必ず天国に行って、新しい生活を始めることです。それは単なる希望ではありません。さて、広島で小児科医だったが27歳で僧侶になり、そして再び小児科医に戻り、48歳で洗礼を受け、信徒巡回伝道者として、仏教からキリスト教に導かれた証しを長年行われ、現在86歳になられる藤井圭子さんの「悟りと救い」という本があります。是非皆さんにも読んでいただきたい本で、1コリント1519節「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちは全ての人の中で最も惨めな者です」を引用されて、藤井さんは次のように証しされておられます。
 「ああ、あの虚しさは、私が阿弥陀仏に単なる希望を置いていただけだったからだ。何の実態もない、単なる希望に過ぎなかったからなのだ」と、若かりし日の尼僧時代を振り返り、涙がこぼれそうになりました。そして、今私に与えられている信仰は、昔ある時、と言うような観念の中の単なる希望ではなく、イエス・キリストの十字架と復活と言う、実質実態のある確かな希望であることを知り、次の20節のみ言葉「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と、喜びの声を発しているパウロに負けない位、わたしは大きな喜びに満たされたのです。
 皆さん、私たちクリスチャンに与えられている希望は、単なる人の願望や、観念の中での単なる希望ではなくて、イエス・キリストの十字架と復活という実質実態のある確かな希望である。ここに私たちの信仰の拠り所があります。この拠り所は信仰の世界だけのことではありません。キリスト教の信仰は、今を生きる事と切っても切れないものですから、信仰の拠り所が確りするという事は、生きる拠り所も確りするのですから、人間が作った宗教と言うという世界を乗り越え、今を人間として生きる、つまり共に生きる事に目を向けましょう。
 私の父は、大阪の生野区にある浄土真宗西本願寺派の光明寺という新しいお寺の創建当時から関り、檀家総代をしていました。長男でしたので法事の時は親族が沢山家に集まりました。クリスチャンに成ったら法事はどうしようか、と最初は心配しましたが、信仰の拠り所がしっかりしているなら、心配無用なのです。末吉家の法事は、住職の声が聞こえない程、皆で元気にお経をあげる家でした。兄や叔父さんは民謡を習っていたので良い声なんです。住職も私が牧師であることを知っておられました。しかし、宴席で一度もキリスト教と仏教の宗教批判や対抗のようなことをなさらない方でした。お経をあげた後の宴席を皆が楽しみにして集まっていたものですから。住職もお酒をたしまれるので、長々とお説教はなさいませんでした。末吉家の法事に行ったら早く帰るようと寺の方からというか、奥様から言われていたようです。
 その住職の言葉で忘れられない言葉があります。「お経のことは分からんでいい。法事の一番重要なことは、亡くなった人が一番喜んでくれること、すなわち、こうして親族皆が集まることです。仲が悪く集まれない、これこそ故人が一番悲しむことです」。先祖を大切にするとは、供養よりも今の私たちがどう生きているのか、ですね。そして、何よりも生きている間に大切にすることですね。そんなことを教えられました。
 さて、法事であげるお経のことなんですが、無とか空という漢字が多いです。この二つの字が日本人の心に共鳴するのではないでしょうか。「貞雄くん、何で外国の宗教を信じるんや」と祖母から言われた事があります。仏教も元々は日本に入って来た外国の宗教であるという認識の無い人が多いと思います。藤井さんの先程紹介した本の中で詳しく説明されているのですが、今風に言うなら、日本の仏教は、日本人の古来からの宗教と仏教と時の為政者がコラボして作った宗教のようです。
 仏教は元々、生きている人間が悟ることに目的があり、死後のことは扱っていませんでした。しかし、日本古来の宗教は、死者が土に返るまで、生き残った者に害を加えると言う自然な考えで、宗教的な行事を行い、土に返る頃死者の霊は個性を失い、家や郷土を守る祖霊、氏神へ加えられ、子孫を守ってくれる、そんな宗教観だそうです。なる程と思い当たる事が私たちの周りにありますね。この強い宗教観とコラボして今の日本の仏教が生まれたそうです。ですから、死後の供養が必要になります。旅装束でお棺に入ります。三途の川を渡って冥土へ向かいます。途中迷ってはいけないので、仏壇のお灯明はその足元を照らす為、絶やしてはなりません。そして仏のいる所に行きついて成仏する、そんな仏教となったそうです。以上、私の不十分で、もしかしたら訂正する必要がある、そんな説明ですが、いずれにしましても、死後は私たち人間にとって無であり、空であり、分からいから色々と詮索し、願望する、それが現実です。
 ところが、私たちの救い主イエス・キリストは、クリスマスに人間として生まれ、十字架で死に、復活して、死の壁に実際に突破口を開けられました。今日読んでいただきました1538節でそれが実質実態のある、この星で起こった出来事であることを伝えています。その後、300年程して教会が信条をまとめる時に、歴史的に証明できるローマ帝国の総督ポンテオピラトの名前を使徒信条に加えました。そして21節、キリストは眠りについた人たちの初穂となられたことが伝えられています。ここに揺るがない拠り所があります。イエス・キリストの再臨Second Comingの時、私たちも復活して天国に行って新しい生活を始めます。死後は無でも空でもありません。単なる希望があるのでもありません。神は確かな計画を立てて下さっています。だから私たちは心配ないのです。
 さて、最後に聖句を紹介します。テモテ第一の手紙115節「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」。24-6節「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人の間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身をささげられました」。この「罪人」「全ての人々」には、既に眠りについた私たちの愛する人たちが含まれる、と信じて私たちはその人達のこともこの神様に委ね切りましょう。
皆さんはどこを拠り所にして生きておられますか。イエスは信仰心を極め天国を目指そうと考えていた老人ニコデモに、彼の人生の土台を拠り所をキリストの上に据え代えて、新たに生まれよ、と命じられました。まだ据え代えていない方は今日、考えていただきたいのです。教会を運転手がキリストの乗り合いバスに例えましょう。あなたが合図をするなら、キリストはいつでもどこでも止まって下さいます。そして乗って下さい。


2022.11.06
「全能の父なる神に委ねよ」ヨハネによる福音書14章1~3節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
9/19にエリザベス女王の葬儀がロンドンにあるウェストミンスター教会で行われました。その時にトラス首相が朗読した聖書が、今読まれましたヨハネ福音書14章です。葬儀当日は9節まで朗読されました。柩が礼拝堂の祭壇の前に置かれ、葬儀の冒頭デヴィット・ホイル司祭が「我々は確信を持って、女王を我々の創造者で救い主である神に委ねます」と言われました。キリスト教の葬儀の中心は、故人を天地の造り主全能の父なる神に委ねることです。司祭が最初に宣言されたのが、私にとって非常に印象に残っています。
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。この言葉は十字架につけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐をした時に、イエスが語られた最後の言葉の一つです。大切な言葉です。「心を騒がせるな」、それは澄んだ水とその底に土が溜まっているコップに例えられます。それは安らかな状態です。私たち人間は不安を感じてそのコップをすぐにかき混ぜてしまう者です。すると澄んだ水が濁った水に変化し、それを見て益々不安になります。これが心を騒がせることです。
 先週、私たち牧師は休暇をいただいて、10/13に生まれました孫の桃寧ちゃんの所へ行ってまいりました。お乳を飲んでいる時や、すやすや寝ている時の桃ちゃんの姿を見て、まさに澄んだ水の状態のコップを見ている様でした。私もお乳を飲ませました。百合香牧師から桃ちゃんを受け取りました。首が座っていないので抱くのが非常に難しいですね。桃ちゃんも危険を感じたのでしょうか、真っ赤になってもがき、泣き出しそうになりました。桃ちゃんのコップにも、澄んだ水の底にチャンと土があるのです。澄んでいた水が濁ってしまいました。
 この様な幸いな体験をさせていただいて帰って来たのですが、いきなり北朝鮮のミサイル発射のニュースに接し驚きました。私の下手な抱き方ではなくて、爆発音や悲鳴や泣き声やお母さんの不安の中に置かれたウクライナの赤ちゃんのコップは如何ばかりか、と思わされました。武器は敵の攻撃という不安を取り除くものだと言って、今この地球にどんどん増えていますが、武器は、不安を最も大量生産するものであることを忘れてはなりません。人間は底に土が溜まった水の入ったコップのような者です。人間の問題、それは不安です。
 実はイエス自身も心を騒がせられました。ヨハネ福音書に三回あります。①1133節。愛するラザロが病気で死んだ時、喪に服し家族との別離に悲嘆する姿を見て、心を騒がせられました。②1227節。エルサレムに到着して、ご自分の死期の迫りを感じた時に、心を騒がせられ「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言うしかない状態に陥られました。③1321節。12弟子の一人ユダが裏切ろうとする時に、心を騒がせられました。皆さん、私たちも別離、死、裏切りによって心が騒がせられますね。特に、先に召された方々との別離と、自分もいつかは死ぬという究極の問題に対して、私たちも心が騒ぎますね。神の独り子であったイエスが私たちと同じく心を騒がせられたことは、本当に私たちと同じ人間に成られたことを、人間の問題、不安を担われたことを表しています。
 そして、死ぬ間際、イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神がその独り子お見捨てになるわけがありません。十字架のイエスは、神の子と言う身分を捨てて、私たち人間と同じになっておられるのです。つまり、イエスは十字架につけられる必要がないお方なのですが、私たちに代わって十字架につけられておられるのです。だからイエスの十字架は私たちのための十字架です。先に亡くなられた方々のための十字架です。そして、今ここにおられるあなたのための十字架です。ここが一番大切なところです。
 神はこの十字架のイエスを、葬られてから三日目に、死人の中から甦らせ
、天に帰らせられました。これも私たちのためであり、先に亡くなられた方々のためであり、今ここにおられるあなたのためです。神は私たちを、先に亡くなられた方々を、そして今ここにおられるあなたを、お見捨てになったのではありません。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。これがイエス・キリストの福音です。
 そして、続き2-3節を読んでから、話の続きをいたします。イエスは天地の造り主全能の父なる神の所に私たちのための住まいを準備し、準備完了後もう一度私たちの所に迎えに来られます。そして、天国での生活が始まります。天国では、神、イエス・キリスト、先に召された人々、これから召される人々、皆が共に集い、新しい歩みが始まります。人生は死で終わりません。死後の天国での生活の方が遥かに長いのです。多くの人は死んだら天国に行くと考えておられるのですが、その準備は全くされていません。今、生きている間に神とイエス・キリストを信じる、これが必須の準備です。そして、これは恵みです。信じるとは大人が信仰心を持つことではなくて、幼子のように神に信頼を置いて任せる、委ねることです。だから恵みです。
 死に対する不安という究極の問題に対して、イエス・キリストは安心せよと、約束なさいます。だから、皆さん、確信を持って、この神にあなたのすべてを委ねましょう。神は全能の神であり、その独り子イエス・キリストの命を献げるほどに、私たちを愛して止まない神です。ご自分のことを父と呼んでいい、とおっしゃるお方です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。

2022.10.30
「神の民のいこい」イザヤ書32章15~20節

説教者:鈴木龍生 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 


2022.10.23
「神のもの」第一ペトロ2章6~10節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
私たちは五感を働かせないで生活することは一日たりともありません。主の恵み深さを、主のすばらしさを、日々信仰の五感を働かせて、もっと深く、もっと広く、もっと高く、味わい見たいと願うものであって欲しいと、この手紙は言います。
それが、「神のもの」として新しく生まれさせていただく者の幸いだからです。
「神のもの」とは、私たちが本気で願うならば、神が新しい人に造り変えてくださる、という約束です。ローマ121-2にこうあります。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
主の恵み深さを味わわせていただくならば、1節の「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」そいうものから遠ざかりたくなります。捨て去りたくなるのです。すると、神は私たちを新しい人に造り変えてくださいます。
 
私たちはこの礼拝において、今主のもとにいます。なぜなら、主であるイエス・キリストは尊い、生きた石だからです。イエス・キリストは今も生きて働かれるからです。人間は神から遣わされたイエス・キリストを十字架に付けて捨ててしまいました。しかし、神はそのキリストを復活させ、尊いかなめ石、隅の親石とされたのです。
尊いかなめ石、隅の親石とはどういうことでしょうか。
石造建築をするときに、一番重要なのが土台となる四隅の石です。古い建造物の発掘をする人がどうしても発掘したい物はこの土台となった四隅の石ですね。その建造物にとって最も重要だからです。それは、建物の重さを受け止める支えの石です。つまり、キリストはすべての人のいのちの重さをご自分の身に引き受けられるのです。全ての人の人生の重さを引き受けられるのです。全ての人の悩み、悲しみ、苦しみ、そして人の重大な神への背信という罪を引き受けて下さるのです。
ですから6節、このイエス・キリストを信じる者は、「決して失望することはない」のです。
 
7節の「信じない者にとっては、家を建てる者の捨てた石、つまずきの石、妨げの岩」とありますのはどういうことでしょうか。ユダヤ人たちが神から遣わされたキリストを救い主と信じないことです。彼らは律法を守るという行いによって救われ、それが神の民にとって絶対のことと考えたのです。ローマ932「イスラエルは信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」とあります。
このように、ユダヤ人には律法がキリストを信じる信仰のつまずき、妨げとなりました。では私たちにはどのようなものがつまずき、妨げとなるのでしょうか。思いもよらぬ不幸や病気、仕事の不調などですね。しかし、キリストを信じる力はそれらを乗り越えさせる力があります。1コリント118に「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあります。イエス・キリストは希望と栄光と力を与えることのおできになる「生きた石」なのです。ですから、イエス・キリストを信じる者もまた、キリストの希望と栄光と力に支えられ、これらを乗り越えられるのです。
 
エフェソ219「従って、あなたがたは聖なる民に属する者、神の家族」とあります。
教会は生きた石とされている者の集まりであり、神から生み出された一つの新しい民族です。
それは、どんな民族でしょうか。
9節、を注目してください。「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」とあります。歴史は多くの民族が興り、一つの使命を果たし、歴史の舞台から姿を消したことを私たちに伝えています。しかし、「神のもの」とされた民であるキリスト者はそうではありません。神がご自分のものとしてくださる民です。神が私たちの気づかないところで恩計らってくださっている民です。「神のもの」であるこの民は世の終わりに過ぎ去る民ではなく、もう一度イエス・キリストが来られる新しい時代の始まりと共に完成へと向わされる民なのです。ですから、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れられている民なのです。それが教会です。暗闇の中というのは、キリストを迎えない空しい生活ですね。驚くべき光とは、キリストのことです。空しい生活から希望の光であるキリストが共におられる生活に私たちは入れられたのです。これは、なんという幸いでしょうか。「神のもの」とはこの幸いをいただいている存在なのです。
 
最後に、神のものとされている私たちに、求められるものがあります。それは、「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れられてくださった方の力ある業を伝える」ことです。神の大いなる救いのみ業を証することです。人類が暗闇の中にとどまり続けていてはならないのです。キリストの平和の光の中に移されて行かなければなりません。
「私にはそんなことはとてもできません」と思わないでください。それは、皆さん一人ひとりに経験させてくださった、信仰へと至らせてくださった、救いの証をすることです。あなたの救いの経験の証しは、あなたでなければできません。それは、あなた固有の経験です。他の人があなたの救われたことを証しすることはできません。思い違いをしないでください。説教をしなさい、と言われているのではありません。イエス・キリストを信じて神のものとされている幸いを伝えるようにと、求められているのです。こんな小さな者の証なんて、と思わないでください。皆さんが「神のもの」とされたというのは、神の大いなるみ業だということを忘れないでください。


2022.10.16
「味わい知れ主の恵み」第一ペトロ2章1~5節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
欠かせないもの
 ペトロはイエスの一番弟子でした。彼が弟子になる前はガリラヤ湖の漁師です。無学な彼を主は弟子として選ばれました。しかし、この手紙を読みますと使徒パウロの手紙に引けを取らないのを感じます。パウロはローマの市民権を持ち、ユダヤ教の律法に精通した人物でエリートでした。このことを思うとき、信仰において生まれたばかりの乳飲み子のようなペトロを主は側に置き、彼をどんなに愛し育てられたかを感じます。
 
 さて、1-2節にこうあります。参照
ここは、信仰者にとって最も大切なものは何かを伝えます。それは、「混じりけの無い霊の乳」です。つまり「純粋なみことばの乳」です。乳飲み子の成長に欠かせないのは、新鮮なお乳です。それと同様に信仰者の成長に欠かせないもの、それはみことばです。
 
 マルコ4章に「蒔かれたみことばの種」の話があります。その種から、4060100倍の実を結ぶという約束のみことばです。マルコはそれに続けて26-29節で、その種は土の中で、人が寝ている間に育つ、と「成長する種」の話を続けます。種が育つときに重要なのは、土の中にい続けることです。土の中というのは、神の所にい続けることです。それは教会生活であり、祈りの生活を続けることが重要だということです。継続は力です。この「蒔かれた種」の譬え話しはマタイとルカにもあります。しかし、「成長する種」の話を入れているのは、マルコだけなのです。ここが聖書の面白いところですね。
 
 また、申命記66-9(291)には「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結びつけ、教えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」とあります。
何故、ここまでするのでしょうか。それは、その前の5節に理由があります。「あなたの神、主を愛する」ためです。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛する」ことをみことばが教えてくれるからです。
皆さんはそれぞれに聖書の読み方を持っておられると思います。そこで大切な事は、聖書を読むことが、キリスト者に課せられた務めではないという事です。犯罪人に課せられた労役のようなものではないということです。課せられた務めだからではなく、聖書を楽しく読んで欲しいのです。聖書を読むのは、神をもっと愛したいという思いからするものなのです。皆さん、好きな人が目の前に現れたとき、どうしますか。その人の事を深く知りたいと思いますよね。それと同じです。ですから、聖書を読むのはキリスト者に欠かせないことなのです。
初めに乳飲み子と出てきました。乳飲み子のことで母と乳飲み子の関係を少し調べてみました。母は子に愛情としてお乳を飲ませますね。そして赤ちゃんは母のおっぱいを吸います。赤ちゃんがおっぱいを吸うとお母さんの子宮収縮が早まるのだそうです。ですから、おっぱいを飲ませるというのは一方的な愛の提供ではなく、相互の愛の交わりということなのです。神の創造の業というのは本当にすばらしいですね。このことは、神が神と私たちが相互の愛の関係を結ぶことを非常に強く求められるお方であることを思わされます。
味わう
 そこでペトロは聖書を読み続けられるための秘訣を3節で、「神の恵み深いことを味わう」ことだと言います。彼は漁師でしたから、漁をしたばかりの魚の美味しさをよく知っていたでしょうね。彼は、ガリラヤ湖の漁に関して熟知していました。漁師というのは、魚を捕るだけでなく、魚をさばき、どこの身がどんな味なのかも、よく知っています。暑い日に、あっさりしたものが食べたいときには、この魚のここの身がいいとか、こってりが食べたいときにはあの魚のあの身がいいと知っているわけです。
そして、みことばの味わい方は、「主が恵み深い方であることを味わう」ことが最高の味わい方だ、というのです。
 
先程、福音書の同じ記事を比較して読む面白さをお話しました。それをしたいときには、引照付き聖書が便利です。そういう読み方もあります。
また、私はあるセミナーに参加したときに五感をフル稼働させる聖書の読み方を教えられました。その日は、詩篇23編を何度も何度も繰り返し読むように言われました。そして、その場所は修道院で、小さな山の中に立っていました。みことばを頂いた後、外に出るように言われ、そこで五感をすべて使って来てください、と言われました。「神さま、ここで私に何を感じさせてくださいますか」と尋ねながら、深呼吸をしてみたり、木の葉に近づいて匂ってみたり、聞き耳を立ててみたり、普段してないことはどんなことだろうか、と外の世界に身を置きました。それは丁度体調を崩した後で、殆ど元気になった、そういう時期でした。その時に、心に迫って来たみことばが5(926)の「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」という言葉でした。その時までは、体調を崩した原因に対して私の意識は集中していました。つまりその時の私にとって「敵」ですね。しかし、みことばが私の魂に触れたとき、わたしの意識は、「食事を整えてくださった多くの方々があった」ことの方に向けられたのです。まさしく、神さまは「私の敵の前で、私のために食事をととのえ」ていてくださったのです。神の恵みを味わう感謝なみことば体験でした。
 
イザヤが神さまから預言者として選ばれたとき、イザヤ書6章で(1069)、彼の唇にセラヒィム(神から遣わされた存在)が、祭壇の炭火で触れました。そしてこう言います「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。すると、それまで、預言者として立つ事を拒んでいたイザヤが、「私は誰を遣わそう」と主に問われたときに「ここに、私がおります。わたしを遣わしてください」と答える者に造り変えられました。この炭火のように、みことばは人を主の招きに応える人に造り変える働きもします。そして、あなたのこともキリスト者としてふさわしい人に造り変えて下さるのです。
聖書の読み方は人それぞれでいいのです。一日一章読む方、ディボ-ションガイドを使って読む方、礼拝の「今週のみことば」を毎日読み返すのもいいでしょう。進み具合が問題ではありません。自分に合った洋服を選ぶように、自分に合った読み方でチャレンジしてください。大切な事は、「主が、いつくしみ深い方であることを味わうことです」
み言葉は、霊の乳飲み子から、神に喜ばれる自分自身として成長するために欠かせない栄養素です。


2022.10.09
「神を畏れる生活」第一ペトロ1章13~25節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★恵みを待ち望む
 今朝のみことばの冒頭13節の最後のところに「恵みをひたすら待ち望みなさい」とあります。イエス・キリストの復活を信じる信仰によって新しく生まれ、生き生きとした希望をいただいた者は、神からの恵みをひたすら待ち望む生活へと導かれます。その生活の初めに日曜日の礼拝が位置づけられることは大変重要なことだと思います。礼拝は神の一番近い所にやって来る嬉しい日です。神のところにやってくることを喜びとして集まる、それが礼拝です。
皆さん、次の様なイメージをしてみてください。ある日のことです。子どもたちがイエスさまに抱っこしてもらいたくてやって来ました。その時、弟子たちはこう言いました。「先生は、今大事なお話をしておられる。子どもたちはあっちへ行ってなさい!」するとイエスさまは何とおっしゃったでしょうか。「こどもたちを来るままにしておきなさい。誰でも幼子のようにならなければ神の国を見る事はできない」と言われました。
礼拝はイエスさまと一緒に出掛ける親子遠足のようなものだと思います。幼子にとって親子遠足は大好きなお父さんお母さんと出かける安心で嬉しい行事です。先頭にはイエスさまが、その後ろに、私達が親子でついて行きます。イエスさまは最高の場所に連れて行ってくださるでしょう。そこでイエスさまと語らいます。そしてお弁当(聖餐です)を広げます。(弟子達の時代は毎日聖餐をしました)これは、何と素晴らしい恵みの日ではないでしょうか。ですから、ひたすら待ち望む日になるのです。
さて、ひたすら待ち望む日々の中で「心を引き締め」とあります。もう少し忠実に訳しますと、「心の腰に帯を締め」となります。これは、準備完了ということです。遠足であれば、現地の下見をし、トイレの場所、日陰や雨宿りをする場所があるかどうか、ルートやその場所が安全かどうかというチェックをして備えます。お料理で言えば、下ごしらえでしょうか。音楽家やスポーツ選手なら十分な練習時間です。毎日を無計画にではなく充実して過ごすということです。
そして「身を慎んで」とあります。これは、精神・魂のことです。それが眠っているのではなくて、目覚めている状態です。一般的な言葉で表現するなら「気合を入れて」ということでしょうか。信仰者に置き換えますと「心のチャンネルを神に合わせる」ことです。
お料理なら、作る人は栄養バランスの配慮とおいしいものを食べさせてあげたいとの思いが生まれます。すると食べる人の心を温かくします。音楽家やスポーツマンなら、相手に喜びを与えることが最大の目標ではないでしょうか。このように、どんなに目に見える準備ができていましても、目に見えない部分である精神・魂の状態はそれ以上に重要です。この「身を慎んで」とは、質素な生活というのではなく、目に見えない部分にどれだけこだわるかということです。
つまり「心を引き締め」「身を慎んで」生きるとは、この地上の生活と離れているものではなくて、今お話した具体的な生活と一体のものなのです。ですから、この地上の命を懸命に生きることは、キリストがもう一度来られる時への準備を完了するための歩みなのです。その初めの日に待ち望んで出席する礼拝があるのです。
★聖なる者とされた幸い
次に、1516節は神のところに来るために、聖なる者となれ、と言っています。この「聖」とは、キリストを信じる信仰によって神がその人を神の側に置いてくださった、ということです。修行を積んで、功績を行って聖となるのではありません。ただ、キリストを自分と神の関係を回復してくださる和解の使者と信じただけなのです。ただ、その信仰によって「聖」なる者とされたのです。これは、なんという恵みでしょうか。
では、神の側に置いてくださる以前はどのような者だったのでしょうか。14節に「無知だった」とあります。つまり、正しい生き方を知らない者でした。神を知って生きること、これが聖書の言う正しい生き方です。つまり、聖なる者となれとは、神と共に生きる者となるということなのです。
★神との親密な関係
17節「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」とあります。信仰するとは、神に対して「畏れかしこむ」ひれ伏すという面があります。しかし、ここの「神を畏れる」とは、神を「父」と呼ぶことを許されている幸いな者としての、畏れのことです。つまり、神と新しい関係になることです。神に近づき、親密な関係になることです。
皆さん、鬼ごっこをするときに「鬼ごっこするものこの指とーまれ」と言いますね。人差し指を差し出した人とその指に止まった人は同じことを考えています。どちらも鬼ごっこをしたいのです。「神を畏れる生活」とは、父よと呼ぶほどに神に親しみを感じ、その方が何をお考えになっているのか、何を求められる方なのかを考えて生活することです。ロマ85にこうあります「肉にしたがって歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」「霊」とはもちろん神のことです。ですから、神に従って歩む者は、神の望まれることは何かと考えるはずです。
真の兄弟愛に生きる
 22節「あなたがたは、真理(キリスト)を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」とあります。
ここは、特に教会員同士のことを言っています。教会というところはさまざまな者の集まりです。賜物の多い者少ない者、強い者弱い者、信仰の幼い者成熟している者、世代の違い、国籍の違い、職業も趣味も好みも違います。全く異なる者同士の集まりです。唯一つ、キリストを信じる信仰によって一つになっています。なぜなら23節「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることの無い、生きた言葉によって、あらたに生まれたのです」とあるからです。キリストは朽ちない方です。生きた言葉です。信仰者はそのキリストの霊をいただいて新しく生まれた一人ひとりです。永遠に変わることのない方によって一つにされているのです。ですから、キリストの愛をお互いに実践するひとり一人とされていきます。そこに、団結が生まれます。その力は困難に耐え抜く力となります。私はクリスチャンとなって、本当に幸いだなあと思うことがあります。その一つは、祈られているということです。何処へ行っても、祈っていただけるのですね。このことは、本当に幸いです。
キリストの愛を実践すると聞いたら、ずいぶん難しそうと感じますが、決してそうではありません。祈り合うこと、これはそのことです。教会員同士の愛の祈りによる支えと交わりはサークルという関係にはないものです。
  キリストを迎えない生活は空しい生活です。野の花や草のようです。しかし、キリストを迎え、キリストと共に歩み、日曜日ごとにキリストと親子遠足に出かける生活は、何と幸いな毎日でしょうか。試練や困難がある時、キリストは私たちの周りに真の兄弟姉妹、つまり神の家族を置いてくださって、支えてくださいます。感謝します。


2022.10.02
「生きた希望」第一ペテロの手紙1章1~12節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
今日は聖霊降臨節第十七主日です。弟子たちが聖霊を受けたことによってイエス・キリストを力強く宣べ伝える者とされました。その聖霊の力は教会に確かに働いています。
ですから教会は、イエスが再び来られる時までの間を、私たちの信仰生活の中に聖霊が共に働いてくださる時である、つまり教会が宣教する時であると認識しています。
聖霊が弟子たちと共に働いて、キリストの福音がどのように世界に宣べ伝えられたかは、使徒言行録に書かれていますね。そこには、イエスの弟子であったペトロが、ユダヤ以外の人々に宣教したことは伝えられておりません。
しかし、この手紙のあいさつ文を見ますと、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア」の教会が宛名となっています。ということは、ペトロの弟子が何らかの理由でこの地方に出て行くことになり、宣教が行われ、そこに教会ができたのです。これらの地名が示しているのは広大な小アジアです。つまり、この手紙はあらゆる処のすべての人に読まれることを願って書かれたということです。ですから、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」とは、日本の教会の私たちにもこの手紙を読んで欲しいということです。
さて、教会には教会歴という独自の暦があります。それは、クリスマスを迎える一ヶ月前の待降節(アドベント)から一年が始まります。そしてキリスト誕生、キリストの生涯、キリストの受難、復活、昇天、聖霊降臨、そして聖霊降臨後の教会の時が今です。そして、今のこのときはどこに向っているでしょうか。キリストが再び来られるときに向っています。教会では再臨という言い方をします。再臨の日、または終末という言い方もします。そこに向っているのです。聖霊降臨から約2000年経っているのですから、確実に再臨が近づいているということです。それがいつかは知らされていませんが、確かに近づいているのですから、すべての人に福音が宣べ伝えられるために、今は教会が宣教するときです。
しかし、皆さん私たちは何を宣教するのでしょうか。それを、まず私たちがしっかり握っていなければなりませんね。それで、私はこのペトロの手紙を選びました。512「あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」とあります。教会が宣教すべきもの、それは神からいただいている恵みです。それを今朝もう一度、新たな気持ちで確認したいと思うからです。
 ペトロはまず、35節まで神の恵みに対する賛美をしています。3節で注目していただきたいのは、わたしたちが新たに生まれさせられたことです。ヤコブの手紙118には「真理の言葉によって私たちを生んでくださった」とあります。真理の言葉とはイエス・キリストのことです。つまり、イエス・キリストの復活を信じる信仰によって、私たちは新しく生まれさせられたのです。今では教会はそのことを当たり前のように信じています。しかしこれは、当たり前のように信じられることではないのです。
 福音書の中に、ニコデモという人がイエスのところに神の国のことを尋ねに来ます。その時にイエスは「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と答えられました。イエスの復活を知らないニコデモはそのとき、このことがどうしても分かりませんでした。「お母さんのお腹からもう一度生まれるのですか。そんなことは無理です」と言っています。イエスの復活を知らないのですから、こう考えるのも無理のないことです。しかし、私たちは幸いですね。イエスの弟子たちが復活のイエスとお会いしたことの証し人となって宣べ伝えてくれたことによって、私たちは理屈ではなくイエス・キリストを信じる信仰によって復活を信じられるのです。イエス・キリストを復活させることのできる神は、私たちにも新しい命をお与えになることができると信じることができるのです。ニコデモは後にイエスの遺体をアリマタヤのヨセフと一緒に墓に葬っていますから、きっと復活のイエスに出会い、自分の復活の命を信じて地上の生涯を終えたと思います。
 では、新しい命とはどういうことでしょうか。それは、キリストを信じる者に与えられる天にある遺産のことです。遺産とは、この地上のどんなに優れたものとも比較にならない命です。神が責任を持ってくださる命ですからこれ以上に信頼できる命はありません。一人ひとりの個性と尊厳が、力あるものや国家や運命というものに支配されることのない命です。それが、天に蓄えられた、朽ちず、汚れず、しぼまない財産です。教会はこの天にある遺産の相続人です。神は教会がこの遺産を終わりのときに受け取ることができるように、私たちに与えられている信仰によって守ってくださるのです。私たちにはこのような将来に対する生きた希望が与えられています。この福音が伝えられたゆえに、イエス・キリストへの信仰は全世界へと広がりました。
 しかし、皆さん教会にはこのような素晴らしい希望が与えられているのですが、キリストに従っていこうとするときに、キリストと共に歩んでいこうとするときに、問題が立ちふさがってきます。また、試練に直面します。それは、ここにいらっしゃる皆さんはもうすでに経験されていることでしょう。子どもであっても、そのことを経験しています。なぜなら、周りの社会はキリストにある希望を知らないですし、天にある遺産のことを知らないからです。ですから、そこに私たちの生き方をなかなか理解してもらえないというジレンマが起こります。弟子たちの時代もそうだったのです。6節で「今しばらくの間」といっていますが、これはクリスチャンがこの地上で生きていく間中ということを言っています。これでは私たちは何だか途方にくれてしまいます。また、予期せぬ出来事に遭遇することがあります。このこともまた、私たちを途方にくれさせます。なぜならそれは、神の恵みとは見えないからです。
 聖書はこの試練をどのように言っているでしょうか。試練は神が与えられる試み、テストだといいます。ヨブという人は、神から遣わされたサタンによって、子ども10人とすべての財産を取り上げられ、それだけではなくヨブ自身の全身にできものができ、悲痛の叫びを上げます。ヨブの試練はこの世に起こる不条理でも、ヨブに対する因果応報(罪に対する罰)でもなく、神からの試みだと聖書は言います。神の前に自分を正しいとするヨブに対して、ヨブを神の前に砕かれたものとするための試みだったのです。神はヨブにご自分の偉大さを示され、ヨブが塵に等しいものであること、無きに等しいものであることを示されました。しかし、そんなヨブを神は決して見捨てられない。見捨てるのではなく、ヨブに気付いて欲しかったのです。神に対する絶対の信頼が求められていることを。
 ペトロが7節「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊」いと言っていますのは、まさに、ヨブに与えられた試練のことです。「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」と自分の信仰は正しい、金のような信仰だと思っていたヨブは、神に砕かれ「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし、今この目であなたを仰ぎ見ます」と、これまでの自分が正しいとしていた信仰を「神のことをうわさとして聞いていたようなそんな自分の信仰でした」と告白したのです。
 ヨブは自分の正しい信仰を金にたとえましたが、試練によって精錬された信仰は、金よりはるかに尊いものなのです。私にはヨブのような試練にあった経験がありませんから、このことを皆さんに実感を持ってお話できるものではありません。しかし、ペトロはその体験をしたのです。それで、このことを知って欲しいと書いているのです。試練は私たちの目には、神の恵みには見えません。しかし、それは私たちの信仰を真の信仰とするためのものなのです。
 皆さん、私たちに与えられている神の恵みは、試練に勝るすばらしい恵みです。ですから私たちは試みに会うとき意気消沈してはなりません。途方にくれてはならないのです。生きた希望は、このような状況の下に置かれることによって、その希望の輝きが増すのです。試練という状況の下に置かれるとき、イエスの十字架の輝きが増すのです。なぜなら、この試練を耐え忍ぶなら、終わりの日に準備されている救いを受けることができるからです。天の遺産の相続人とされるからです。新しい命をいただくからです。この生きた希望のゆえに、試練にあっても、喜びがあるからです。
 
そしてそれは、8「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びにみちあふれ」るためなのです。生きた希望によって生きる者とされるためです。
 

022.09.25
「十字架のキリスト」マルコによる福音書15章33~47節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★おはようございます。聖書を通して牧師の口を使って、神が今日も皆さんに語られます。その言葉は、わたしたちの人生と言う道と、わたしたちの歩み方に光当て、正しい方向と、正しい歩み方を照らしてくれます。
 ★イエスが十字架につけられて3時間が経ち、昼の12時になりました。皆さん、お昼の12時、正午頃とはどの様な時でしょうか。サマリヤのシカルと言う町でイエスが旅に疲れて井戸のそばに座っておられたのも正午頃でした。その時、女がひとり水を汲みに来ただけでした。イエスが十字架につけられたゴルゴダの正午も、通りかかる人はいません。イエスを侮辱した祭司長や律法学者たちは、暫くは十字架を眺めていたでしょうが、早々退散して、今はいません。イエスの両側でののしった、十字架上の犯罪人ももはやそんな元気はなくなりました。
★お昼の12時とは、十字架のイエスひとりに注目する時となった、と言うことです。皆さんはイエスのどこに注目しますか。2004年の映画パッションや、フィリピンのクトゥド村で毎年聖金曜日に行われている、実際に十字架の苦痛を実体験する行事は、イエスの十字架の肉体的苦痛に注目しています。しかし、聖書はその苦痛に関して何も伝えていません。聖書が注目しているのは、全地は暗くなり、それが3時まで続いたことです。かつてアモスと言う預言者が神の裁かれる日、終わりの日に起こる現象のことを旧約聖書アモス書89節で伝えています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇にする」。
ですから、イエスは十字架で神の裁きを受けておられるのです。神の愛する独り子が神の裁きを受ける事はあり得ません。しかし、神は確かに裁いておられます。という事は、誰かが受ける裁きをイエスが代わりに受けておられる、という事になります。それは誰なのでしょうか。あなたではありませんか?これが第一のメッセージです。
 ★さて、それはどんな裁きなのでしょうか。もう少し詳しく聖書は語ります。12時から三時間立った時に、イエスが大声で叫びました。言ったのではありません。叫びました。今まで沈黙してこられたイエスが、もう我慢ならなくなりました。それが叫びです。皆さん、イエスは何が我慢ならなかったのでしょうか。十字架と言う刑は苦しんで死ぬ刑ですから、やはり苦しみに耐えられなかったのでしょうか。皆さん、私たちが礼拝で信仰告白する使徒信条では、十字架で苦しみ、となっていません。ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ死んだ、となっています。イエスが我慢ならない事は十字架の苦しみではないのです。
 ★イエスは大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、と叫ばれました。イエスが我慢できなかったのは、神に見捨てられることでした。死が近付いて来るのに神に見捨てられている。これが、イエスが根を上げてしまわれる程に最も苦しかったことでした。これは全ての人が経験することですね。人にとって最も重大問題のこの現実をイエスは実体験し、叫ばれたのでした。
 ★さて、ここで不思議なことがあります。3536節で言われている、イエスの十字架のそばに居合わすことのできる人は39節で登場するローマの百人隊長の部下ではないでしょうか。しかし、聖書はローマ兵と書かないで、イエスの十字架のそばに居合わせた人々、と書いています。この人たちは誰なのでしょうか。その言動から分かることは、イエスの十字架の一番側にいても、彼らの目は塞がれていた、という事ですね。ここに、あなたもイエスの十字架で何が起こっているのか、見えていないのではありませんか?という第二のメッセージがあります。イエスの言葉を思い出します。見えると言い張る所にあなた方の罪は残る。それから、十字架につけられるエルサレムを見上げて向かおうとした時に、非常に象徴的なことが起こりましたね。バルテマイという目の不自由な人が来てイエスに「何をしてほしいのか?」と問われ、「主よ見えるようになることです」と、答えた人がいました。皆さん、イエスのことは分かっている、知っている私たちですが、今日、新たな目でイエスの十字架に注目しましょう。そこで何が起こったのでしょうか?
 ★イエスは再び大声で叫ばれ息を引き取られました。その声の内容はもはや記されていません。きっと同じ叫びだったでしょう。38節、すると神殿である事件が起こり、イエスの十字架で何が起こったのかが明かされます。神殿とは神と人が会う所です。しかし、面と向かって会えません。神社でも神と面と向かえませんね、ご神体は一番奥に隠されています。その理由は人が穢れているからです。それでお祓いをしたり禊をしたりします。しかし、聖書は伝えています。それは穢れではない。人が神と和解できていないからです。人は神に背を向け、神の目から見て悪を行い続けているから、幾ら清めても神の罰は逃れられません。それで神殿で一番重要な所は、神の側と人の側を分けている分厚い垂れ幕でした。年一回、人の代表として大祭司は、必ず人の受ける罰を、動物に身代わりに受けさせ、その流された血を携えて垂れ幕を超えて神の側に入って行きます。
★イエスの十字架によって、この神殿の垂れ幕が上から下まで、まっ二つに裂けて無用になるとは、この様な神殿はもはやいらなくなったと言うことです。つまり、これからはイエスの十字架が神殿の役割を果たします。イエスが十字架で受けられた裁きは、私たち人間が受けるべき神の裁き、罰でした。私たちの代わりにイエスが裁かれたのは、私たちが神と和解して神の家族の交わりに入るためです。
 ★39節、イエスの十字架を一部始終見ていたローマ兵の百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と信仰を告白しました。彼は外国人です。聖書も知りません。イエスと会ったのも初めてです。ただ、イエスの十字架、その息の引き取られ方を見て、彼はすぐにこの信仰を告白しました。彼が考えて悟ってこの信仰告白をしたのではありません。不思議ですね。イエスが福音を伝え始めた開口一番の言葉114節「時は満ちた、神の国は近づいた」を思い出します。神の国が近づいたから、このローマ兵は神に導かれて信仰告白しました。今も、教会で同じことが起こっています。信仰は神からの賜物、恵みです。私たちはこれを幼子のようにただ受け取るだけでいいのです。イエスは十字架で皆さんに代わって神の裁きを受け、神との和解と、神の家族としての交わりに皆さんを招いておられます。今、神がこの私を招いておられる、そう信じるなら、応えましょう。そうでなくても神は、いつまでも招き続け、待っておられます。お祈りしましょう。


2022.09.18
「ユダヤ人の王」マルコによる福音書15章1~32節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★私たちが礼拝の中で、教会が受継いで来た信仰を告白する時に、使徒信条を告白しています。その中に人の名前が入っています。それは「おとめマリア」と「ポンテ・オピラト」です。マリアは名前ですがどこの町にもいる特定できない名前です。しかし、ポンテオ・ピラトは歴史的に特定できる人の名前です。福音書は四つありますが、神はその一つを医者であり、歴史家であり、信仰者でもあったギリシャ人ルカに綴らせました。彼にキリストの出来事を、歴史上の出来事として綴らせるためでした。
★ルカ福音書は伝えています。キリストが生まれた時は、皇帝アウグストゥスの住民登録勅令発布の時で、キリニウスがシリア州の総督でした。約20数年後、キリストに洗礼を授けたバプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼活動を始めた時は、皇帝ティベリウスの治世第十五年で、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督でした。また、当時書かれた歴史書や遺跡からの出土資料から、それまではシリア州の総督がユダヤを担当していたのですが、皇帝が特別にユダヤを直属の州と同等とみなし、総督を置くことになったことがわかります。
NHK2000年から9年間続いた「その時歴史は動いた」という番組がありました。まさに、キリストがポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられるのに、歴史は動きました。歴史を支配する神がそうされました。その後のキリスト教会の歴史を振り返ると、それがひしひしと感じられます。今日はその話しをする時間はありませんので、いつかまたお話ししましょう。さて、今日、朗読された聖書の中に、ピラトという名が9回も出て来ます。そして、教会が正しい信仰を受継ぐために、信仰告白して来た使徒信条の中にも、『ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ』が入っています。ここに私たちに対するメッセージが示されています。
★聖書が伝えているキリストの十字架は、人が考えたり作ったり悟ったりした教えでも、夢物語でも、あるいは個人的に受けたお告げや特別な経験でもなく、歴史的事実です。ですから、皆さん、キリスト教信仰をするということは、何か雲の上の領域、この世の世界から離れた領域に入ることではありません。キリスト教信仰をするとは、キリストが立たれたこの大地に私たちも立ち、キリストが吸われたこの空気を私たちも吸って、神を見上げて、神と共に、日常の営みをこつこつ進め、人生を楽しみ、世の歴史の中に確り立って、生き抜くことです。これが要点①です。
 ★次に要点②ですが、キリストがピラトによって有罪判決を受け、十字架刑に処せられた時、ピラトはキリストの頭上に、「ユダヤ人の王」と書いた罪状書きの札を打ち付けました。マタイ福音書には、イエスの左右に強盗が十字架につけられたとありますから、彼らの罪状書きには「強盗」と書いてあったでしょう。皆さん、ピラトはなぜ「ユダヤ人の王」という不思議な罪状を書いたのでしょうか。
★ピラトに関する情報は少ないですが、彼は真相をあばく鋭い目の持ち主でした。彼は祭司長たちの訴えを聞いて、イエスが無実であり、祭司長たちの妬みの為に訴えられていることにすぐ気付きました。これはイエスに味方すると言うより、ローマ総督としてローマを代表して公正な裁判するという彼の任務を遂行しているだけでした。しかし、先導された群衆の叫びがますます激しくなる状況を前にして、彼は次に抜け目のない判断を下しました。このままでは暴動が起こる。この状況では公正な判決よりこの群衆を鎮めることを優先すべきである。こういう場合は群衆を満足させるしか方法はない。それでピラトは群衆の前でイエスを鞭打ち、十字架につける為に兵士に引き渡しました。時は早朝であり、十字架につけられたのは午前9時でした。約3時間の間に、ピラトは罪状書きの内容を決定しました。
 ★もう一つピラトの人柄が出ているのは「お前がユダヤ人の王なのか」というイエスに対する審問です。日頃は地中海に面するカイサリアにある総督官邸に居た彼は、祭りの度にエルサレムに来ていました。宗教的な共同体であるユダヤ人の監視のためでした。彼はここに赴任する前に、ユダヤのこれまでの情報を得ていたと思います。ローマ帝国の属州の中で統治するのが一番厄介な地域である、と聞いていたに違いありません。特に皇帝が任命したユダヤ人の王は、ローマの後ろ盾が無ければ立ち行かない立場にあるが、ローマからの総督と幾度も対立した経緯がありました。「お前がユダヤ人の王なのか」、というピラトの審問には侮辱の意味が込められていました。ピラトは最後までイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼びました。総督の兵士たちも、イエスに王の格好をさせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱的行為を繰り返しました。その後、彼らが官邸を出発する時に、ピラトが「ユダヤ人の王」と書いた罪状書きを彼らに渡したのなら、きっと彼らは「これはいい」と思ったでしょう。キリストは罪状書きによっても侮辱を受けられました。
 ★さて、ここで私たちはクリスマスに必ず話される、東方の博士の話を思い出しましょう。当時ローマ皇帝からユダヤの王として任命された、ヘロデ王のエルサレムの宮殿に来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と彼らは尋ねました。その時、ヘロデは祭司長と律法学者に調べさせ、預言者ミカがベツレヘムに指導者、牧者が現われると預言している、との報告を受けました。昔、ユダヤ人は神の民イスラエルと呼ばれ、王は神によって選ばれ、民の牧者とも言われていました。神が最初の王を選ぶ時に、反対する預言者サムエルに言われた言葉を聞きましょう。サムエル記上87節~9p,438参照。ここにユダヤ人にとっての王の意味が示されています。
 ★ユダヤ人の王とは本来神ご自身だったのです。神は民の声を聞き、人間の王を立てることを許しました。しかし、サムエル記から列王記、歴代誌、エズラ、ネヘミヤ、エステルと続く、王を立てた神の民の歴史は、神から離れて行く王と民と、それに寄り添う神の歴史が記されています。そして、神はその後、16の預言書を通して、神と民、いや、神とすべての人の和解と新たな計画を進める為に、神はその独り子イエス・キリストがユダヤ人の王として遣わされることを、お示しになっておられました。
★ピラトが侮辱するためにイエスの罪状に「ユダヤ人の王」と書かせて頭上に掲げさせました。沈黙されていた神は、後にその札を、全ての人に対する神との和解と、神の新しい計画が始まった印となさいました。イエスはユダヤ人の王、全ての人の救い主として来てくださいました。
 ★皆さん、私たちも、神に対して反抗する時があります。神に信頼しない、神に依り頼まない時があります。神のことは横に置いて、忘れて、無視する時があります。しかし、
そんな私たちを変えるために、キリストが私たちのために十字架で死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されました。この愛に応えて、神との和解に与かり、神の家族とされ、神の新しい計画に加わるよう、私たちは招かれています。共にお祈りしましょう。


2022.09.11
「ペテロの原点」マルコによる福音書14章53~72節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★おはようございます。今日もこの礼拝で、神との関係をより深くさせていただき、自分自身を新たにしていただいて、希望を持って新しい一週間を歩ませていただきましょう。
 ★『子どもは天からの授かりもの』という、諺と言うのでしょうか、伝えられて来た言葉がありますが、それは『命を大切にする』という、倫理的な教えを伝える言葉で終わってしまっているのが残念です。しかし、子どもを産んだ方々は天から授かるという事を実際に経験なさって、それは単なる教えを伝える言葉ではなくて現実であると、感じたのではないでしょうか。しかし、母親はすぐに24時間待った無しの子育てに突入しますから、授かった命のこと、それを授けて下さった方のことを、それ以上深く追求しないままで人生を前に進めます。そういう方がほとんどですね。
 ★聖書は天から授かった私たちの命について、また天から命を授けたお方からのメッセージを伝えている大切な書です。ですから、子育て中の人も、子育てを終えた人も、これから将来子育てする人も、是非聖書を読んでいただきたいのです。しかし、独りでは読めませんね。だから教会に来て頂きたいのです。聖書を一年間で読む会の準備として、毎月第三日曜に学んでいます。聖書に出て来る、神が人間をお造りになった話は、私たち一人ひとりの命が天から授けられた命であるという現実を伝えています。そして、最初の人アダムとエバが、禁断の実を食べたので、神と共に幸いな生活をしていたエデンから出て行かなければならなくなった話も、私たちの現実を伝えています。神は神が用意している幸いな生活に、私たち人間をもう一度招こうと、エデンを出て行った人間を追い掛け、そして寄り添われました。それも具体的にひとりの人アブラハムを選び、その子孫ユダヤ人と寄り添われ、彼らを神の民として、彼らを通して全ての人を、神が用意している幸いな生活に招こうとされました。それが聖書の内容です。
 ★神は彼らと共に行動するために、彼らの生活の仕方を具体的に指導されました。そのために神は、今日の朗読箇所に出て来る、祭司長や長老や律法学者を、その指導者とされました。最高法院は神と共にする生活のことで、リーダーたちが集まって話し合う最高議会でした。その頂点に立てられていたのが大祭司でした。大祭司の一番の役目は、神が神の民と共に歩めるように、神と人間の間にある障害物、すなわち神への反抗や神への不信頼という、罪を取り除く儀式を、神の指示に従って行う事でした。
★ヘブライ514(.405)に大祭司の務めがまとめて記してあるので、ちょっと読んでみましょう。最後に、この光栄ある務めは、神から召されて受ける、とありましたが、イエスに審問するこの大祭司は、神が召したのではなくてローマ帝国が選んだ大祭司でした。つまり、彼らの目的は、神と人間の間にある障害物、すなわち神への反抗や神への不信頼という、罪を取り除く儀式を、神の指示に従って行い、神と共にする生活を指導する事ではなくて、ローマ帝国と上手に付き合って、大祭司をトップにするユダヤの宗教体制を維持して行く事でした。ですから、彼らを批判するイエスは非常に邪魔な存在だったことが分かりますね。
★最高法院という名前に恥じない裁判でなければなりません。それでイエスを手続きに従って裁こうと、数名がイエスを訴える証言をしましたが、それぞれが食い違っていて、二名以上証言が揃わないと訴えられないという規定のため、裁判は前に進みませんでした。この裁判は初めからイエスに死刑の判決を出すための形だけの裁判でしたのに、事が前に進まないのを見かねて、大祭司が立ち上がりイエスにただ二言だけ尋ね、衣を引き裂くというパフォーマンスを見せて、神冒瀆の罪で死刑、と言う強引なスピード判決を下しました。するとタガが外れたように、ある者がイエスに唾を吐き掛け、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めました。そしたら、その裁判の警備をしていた下役まで、イエスを平手で打ちました。
 ★神は神が用意している幸いな生活に、私たち人間をもう一度招こうと、エデンを出て行って以来、ずっーと人間を追い掛け、寄り添って来られました。その為に一つの民族を選び、彼らを神の民として、具体的に彼らと共に働いて来られましたが、彼らが大きくなって国を築き、富を得るにつれて、神の民としての道から外れ、神に反抗し、神を信頼しなくなり、彼ら自身も神との間に壁を積み上げて行きました。神は沢山の預言者を遣わして、その誤りを指摘しましたが聞く耳がありませんでした。とうとう神は彼らと共にいることが出来なくなりました。しかし、神のお考えは変わりません。そして、神は最後の計画を実行する決断をなさいました。
 ★神と人間の間にある壁、罪を、愛する独り子イエスにその全てを負わせて、神と人間の関係を回復させ、人が神と共に歩む生活をして、神が用意されている幸いを受けることのできる道を拓かせ、ユダヤ人だけではなく、誰もがイエスによってその道を進めるようにする。それが神の最後の計画、救いの計画です。大祭司とイエスの一対一のやり取りは、神の独り子と人間の代表との一対一のやり取りと言っても良いでしょう。そこでイエスはご自分がキリストであることを、すなわち、天に昇り全能の父なる神の右に座り、最後の審判者として世の終わりに来臨する救い主、審判者であることをハッキリ宣言されました。
 ★しかし、大祭司はイエスの宣言を死罪に値するとし、一同は死刑にすべきだと決議しました。そして、その議場でイエスへの侮辱が始まりました。また、その同じ大祭司の屋敷内で、大祭司に仕える女がペトロに、イエスの仲間であることを三度問い詰め、最後までイエスに着いて行こうとしたペトロは「そんな人は知らない」と三度否定して、イエスを見捨てました。後でペトロは後悔して泣きました。オリーブ山で弟子全員が逃げました。しかし、ペトロだけ引き返してイエスの後を追いました。結果、逃げるよりももっと悪い、自分の口で三度正式に否むという、人間の現実が現われました。
 ★神は天から、この日大祭司の家で起こったこれらのことを見られて、どう思われたでしょうか?イエスが沈黙されたように、神も沈黙されていました。今日の聖書は人間の現実を表しています。それは当時の宗教界での最高の場、最高法院の現実であり、最後まで何とかイエスに着いて行こうとした弟子の現実でした。後にペトロは教会の指導者になるのですが、教会はあえてこのペテロの失態を聖書に残しました。イエスに死刑を決議した、あの大祭司の同じ家で、同じ夜に三度イエスを知らないと言い切ったことが、自分の原点なんだ、と教会に言っていたからではないでしょうか。ペトロは弟子の中でリーダー格でしたが、使徒言行録を読むと、彼は教会の長としてエルサレム教会に居続けたのではなくて、教会から出て行って伝道しました。後輩の使徒パウロからの批判を受け止め、パウロがローマへ行った後、聖書には載っていませんが、ペトロは彼の後を追ってローマへ行き、同日に二人が殉教したとの伝承が教会に残っています。
★皆さん、私たちの原点もここではないでしょうか。神に反抗し、神を信頼せず、神との間に大きな壁が横たわる、それが私たちの原点ですね。そして、私たちは神に導かれ、信じました。ローマ58節「しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。まだ罪人であった時にキリストが・・・、ここに私たちの原点があります。この上に、私たちの今があり、これから先の私たちがあります。謙って、篤き思いを持って、信仰の旅を続けましょう。新聖歌102番「主は命を与えませリ、主は血潮を流しませり、その死によりて我は生きぬ、我何を成して主に報いし」を歌いつつ歩みましょう。


2022.09.04
「見えるようにしてください」マルコによる福音書14章43~52節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★おはようございます。今日も朗読されました聖書を通して語られることばを、神の言葉として受け入れ、神との関係を回復させていただきましょう。そして、自分自身を新たにしていただきましょう。そして、希望を持って新しい一週間へと向かわせていただきましょう。
 ★今日の聖書はユダがイエスを、祭司長と律法学者と長老たちが遣わした群衆に、引き渡した場面です。『裏切り者の代名詞』、とインターネット検索したら、そのトップにユダが出てきます。それ程に、ユダと言えば裏切り者の代名詞となっています。しかし、正確に言うと、ユダはイエスを引き渡した人です。その結果として裏切った人と言われるようになりました。その影響を受けたのでしょうか、聖書の翻訳も『引き渡す』という言葉を『裏切る』としてきた経緯があります。マルチン・ルターがその様に訳した影響もあるようです。
 ★わたしがこの様に細かいことに拘るのには理由があります。クリスマスの出来事、すなわち、神が愛する独り子イエスをマリアから生まれさせた事は、神が人間を信頼して、人間の手に愛する独り子を引き渡したという事です。人間は引き受けた神の愛する独り子イエスをどう扱ったのでしょうか。イエス自身がその事を『ブドウ園の主人と農夫たち』というたとえで話されました。マルコ12章です。こんなたとえ話でした。
 ★収穫時期になったので、収穫を受け取るために主人が僕を農夫たちの所へ遣わしましたが、農夫たちはその僕たちに対して袋叩きにしたり、殴ったり、侮辱したり、そしてとうとう殺してしまいました。残ったのは愛する息子一人だけとなりました。そこで主人は『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を遣わしました。そしたら農夫たちは息子を捕まえて殺し、ブドウ園の外にほうり出してしまいました。さて、このブドウ園の主人は、どうするだろうかは明らかですね。
 ★このたとえを話しをした後で、イエスは、最後に一言付け加え、その場でこの話を聞いていた祭司長、律法学者、長老、群衆、そして弟子たちの現実の姿を、それから、ここを聖書を通して聞く全ての人の現実の姿を、鏡に映すように示されました。その一言とは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。見えていないという事ですね。
 ★ユダは有能な弟子でした。だからお金の管理を任されていました。彼はイエスを祭司長に引き渡しました。祭司長はきっとイエスを最高法院に連れて行き、大祭司のもとで裁判にかけるでしょう。しかし、有罪判決が下されるなんて、彼はちっとも考えていなかったようです。マタイ福音書は、イエスに有罪判決が下ったことをユダが知って、引き渡したことを後悔し自殺に至った経緯を伝えています。ユダは『最高法院に立たされても、イエスはいつもの様に、彼らを圧倒され、彼らは返す言葉を失うだろう』と思っていましたから、死刑の判決をイエスが受けられたと聞いて、驚きました。ユダは自分自身の行っている現実が全く見えていませんでした。そして、弟子たちもそうでした。先々週も読みましたね。弟子たちは皆、自分は躓かない、イエスのことを知らないなど決して言わない、イエスが逮捕されることを命を懸けて阻止する、そんな勢いでした。ところが我が身の危険を感じて、イエスを見捨てて逃げ去る自分自身の現実が全く見えていませんでした。この様に、人は見えているつもりなのですが、全く見えていません。
 ★もう10年前ぐらいになりますか、私はオレオレ詐欺の電話を受けた経験があります。低い声の見知らぬ男性からの声でした。「お宅の娘が、わしの車と接触事故を起こした。この落とし前どうしてくれるんや」。「ちょっと娘と代わる」「パパー、助けてー」。「あゆみちゃんか」「うん」「ケガは、大丈夫か」「うん」「それでどんな事故になったんや」「交差点で、出会い頭にぶつかった」。それは確かに娘の声でした。丁度その時は、息子が帰ってて、百合香牧師と三人で話をしていた時でした。息子がオレオレではないかと思い、すぐに娘に連絡を取り、娘が家に居て事故をしていない事を確認しました。「パパ、電話切って」「なんで、あゆみが大変や」「それオレオレや」。急いで受話器を置いて、息子から現状の説明を受け、娘と電話で話してやっとわたしの目が覚めました。自分は見えていると思っていたが、本当の現実が見えていなかった経験をしました。もう一つの例は、電車の運転手です。運転席には沢山の安全ランプがあります。ブレーキ、ドアの開閉、そして、前方に見えるのは信号機のランプです。これらを目で確認するのですが、必ず指差しと声で確認します。見ていると思っていても、現実見えていない。そんなことが起こる可能性があるからです。
 ★さて、イエスは剣と棒を持って捕らえられました。素手で無抵抗のイエスが彼らに問いかけていますね。48-49節です。イエスを捕らえる機会は今までに幾度もありましたが、なぜ今それも剣と棒を持って捕らえに来たのか。その理由を問われました。しかし、捕らえる者も、自分がなぜイエスを捕らえるのか分かっていません。だからイエス自身がその理由を答えられました。本当に人間と言うものは目えていない。今日の聖書はこの事を私たちに示しています。
 ★エルサレムは山の上にあります。最後の上り路に入る時でした。ひたすらエルサレムを目指して進まれる、そんなイエスに向かってバルテマイと言う名の目が見えない男が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、たとえ「うるさい、黙れ」と怒鳴られても、イエスが立ち止まるまで何回も何回も大声で叫び、立ち止まったイエスに駆け寄り告げます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。こんなシーンがあります。10章の終わりです。彼の告げた言葉「目が見えるようになることです」は彼自身の願いですが、これは全ての人の願いではありませんか。そして、イエスは全ての人が見えるようになるためにエルサレムに行かれました。
 ★ヨハネ福音書は、生まれつき目が見えない人がイエスによって見えるようになり、その事件で騒動が起きた話を伝えています。その中でイエスは、ご自分がこの世に来た結果、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われました。それを聞いた律法学者たちがイエスに「我々も見えないということか」と尋ねると、イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなた方は言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と、言われました。
★皆さん、私たちはこれから、私たちの為に十字架にかかって死に、復活して下さったキリストの食卓に与ろうとしています。バルテマイはそのキリストに向かって叫びました。ユダによって祭司長、律法学者、長老たちに引き渡されたキリストに向かって、弟子たち全員に見捨てられたキリストに向かって叫びました「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。そして願いました「先生、目が見えるようになりたいです」。あなたは今、キリストに何と叫びますか?あなたはキリストに何を願いますか?バルテマイの叫びは今私たちに問いかけています。お祈りいたしましょう。

2022.08.28
「立て、さあ行こう」マルコによる福音書14章32~42節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★このマルコ福音書は、イエスの弟子たちに対する最後の言葉を、今日の聖書朗読箇所の最後42節の「立て、行こう」としています。その時弟子たちは全員言っていました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。しかし、彼らは全員躓き、イエスを見捨てて去って行きました。それで彼らは自分に失望し、挫折し、落ち込み、立ち上がれなくなります。それを見据えてイエスはこの言葉「立て、行こう」を最後の言葉となさいました。
 
★「立て」と、日本語に翻訳されていますが、原語はキリストが死人の中から甦った時の「甦る」と同じ言葉が使われています。ですからこれは単に足で立ち上がることではありません。人間が希望を持って立ち上がる、そう言う深―い意味が込められています。ヨハネ福音書にはゲッセマネの話は記されていませんが、最後の晩にイエスは弟子たちに福音を語られ、その中で「さあ立て、ここから出かけよう」と言われました。皆さん、このゲッセマネでの出来事には、私たちの立つべき確りした足場のことが、言い換えるなら、私たちが失望し、挫折し、落ち込み、立ち上がれなくなった時に、信仰へと再び出発させてくれる力が示されています。
 
★さて手皆さん、死が目前に迫ったゲッセマネで、イエスはひどく恐れ、悶え「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われました。それは死の苦しみであり、弟子たちから見捨てられるという悲しみでした。この様に死を前にしての人間のもろく弱い姿を弟子たちに顕わにされました。弟子たちは頼りにしていたイエスがそんな状態になられましたものですから、ちょっと驚いたのではないでしょうか。そしてイエスは大切な時にいつも側におらせられた三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを、その時も一番側に居させ、彼らに目を覚まし続けるよう何度も命じられました。『眠らないでわたしと一緒に居続けてくれ、わたしを孤独にしないでくれ』と言うことでしょう。これも死を前にした私たち人間の現実と同じですね。
 
★また、イエスの祈りに「この杯をわたしから取り除けて下さい」とあります。私たちも受け入れがたい運命という杯を受け取らねばならない時に、それが取り除かれることを心から願いますね。この様に、母マリアから生まれ、肉体を持った人間になられた神の独り子イエスは、死を前にしてこのゲッセマネで、徹底的に私たちと同じ姿を、すなわち、「もう、これで終わり」と言うしかない、死を前にした時の私たちと同じ姿を、現されました。つまり、私たちと同じになって共におられるイエスに私たちが確り立ち上がる事の出来る、頼りになる不動の足場があります。私たちがどんな状況に陥りましょうとも再出発できる、頼りになる力があります。
 ★世の中には千差万別の宗教、信じる対象があり、人はそれに頼ります。仏教の教えは優れたものです。神道の神社は崇高で霊場と言われます。その他の宗教も優れています。人は自分より上にあるものを、さらに上を求め、それに頼ります。下なる人間が考えたり、修行をしたり、体験したりして、上なるものを、頼りに成るもの(これを神とか仏とか真理とか悟りとか色々言われます)を見出します。全ての宗教は下から上へ、と言う方向で追求されています。
 
 ★しかし、イエス・キリストは上から神の方から、下に、私たち人間の所に来られました。これは人間が考えたり悟ったり引き起こしたりしたことではありません。死人の中から甦ったキリストと出会い、天に帰られるまでの40日間で、弟子たちはイエスにおいて神が上から下に確かに降られたとの確信が与えられました。特にイエスが、私たちと同じく子宮の中から肉体を持って生まれ出て、その肉体で死に直面して、悲しみと孤独によって深く恐れ悶えられたゲッセマネでの姿は、神が本当に私たちと同じになられた、その様にして私たちと共におられる、という現実を表しています。これは、古事記の神話に出て来る、天照大神の孫が天から神として地に降りて来られたという天孫降臨と全く違います。神が人間イエスとなって上から下に降りて来られました。それも私たちと同じになられたという事実がこのゲッセマネで現わされました。それは私たちが希望を持って生きて行くためになされました。
 
 ★さてイエスがこの世に公に現れて最初に言われた言葉は「時は満ちた、神の国が近づいた(マルコ115)」でした。そして、今日の聖書1441節でイエスは「その時が来た」と具体的に言われました。イエスを通して神はゲッセマネで、人間に近づくというよりも、さらに近づくと言うか、人間に入られたと言った方がよいかもしれませんね。讃美歌90番「ここも神の御国なれば」は、それを信じる者の歌です。もはやどこででも、ここは神の御国である、神の御支配の中だ、という歌です。「よこしま、しばし時を得とも」、ここは神の御国なり、と歌います。
 
 ★十字架はゲッセマネから始まっています。神との和解の献ものとしてイエスは十字架で命をささげられるのですが、十字架は神が人間の一番奥深くに入って来られた、全く人間の一人になられた言ってもよいのです。だから、この世のいかなる時も所も神の御支配の中にあるのです。ここも神の御国になのです。だから、このイエスによって、皆さんは神が共におられるゆえ、安心して進んでください。それと同時に、皆さん、ここも神の御支配の中だ、神が共におられる、ゆえに畏れをもって進みましょう。
 
★私たちが失望し、挫折し、落ち込み、立ち上がれなくなった時に、信仰へと再び出発させてくれる力、確りと立つ不動の足場、それをイエスはこのゲッセマネで示しておられます。イエスは皆さんにも言われます。立て、さあ行こう、このわたしがいつもついている!


2022.08.21
「完全な解放へ導くキリスト」マルコによる福音書14章27~31節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★「RE」や「リ」が頭に着く言葉が沢山あります。リクリエーション、リラックス、リホーム等・・・。リメイクはご存じでしょうか。昔から「仕立て直し、かけつぎ」と言う看板を掲げて来たお店が最近では、リメイクショップと言われています。ネットで検索して、服のリメイクをする作家のひとりが、ご自分のブログで「リメイクは新しい命を吹き込むようなもので、楽しくてやめられません」と言うような声を載せておられました。皆さん、わたしたちの神さまもこのリメイク作家と同じ思いを持っておられます。クリスチャンになるとは、神にリメイクされ続けられる事です。クリスチャンになるのを躊躇する理由の一つに、今の自分が否定される拒否される、と言う思いに駆られることが挙げられますが、神はそんなことなさいません。
 
★皆さん、リメイクショップでは、あなたが持って来た服を見て、拒否し、「捨てなさい」なんて決して言いませんよね。まず、その服を丁寧に受け取って、どの様な新たな命を吹き入れることが出来るのか、クリエイティブな目でその服を見つめられます。神の場合も同じです。あなたが神の前に来られたら、神はまず、そのままのあなたを受け入れられます。それから次に、十字架であなたの代わりに命を献られた愛する独り子イエスのゆえに、あなたを神の子どもとして受け入れて下さいます。あなたがまじめだから、正しいから、熱心だから、そうするのではありません。洗礼の準備とはこの神の前に立つ準備です。そして洗礼から神のリメイクが始まります。あなたに新しい命が吹き込まれるのです。それを聖書は「新たにされる」「新しく造られる」と言っています。教会は神のみ業を伝えていますが、特にこのリメイクの業を伝える教会として、神は私たちのナザレン教会を立てて下さいました。昔はこれを「きよめの業」と呼んでいました。
 
★今日朗読された聖書箇所は、神がイエスの弟子たちのリメイクに本格的に着手された時のことを伝えています。それは今までイエスに従って来た弟子たちがイエスに躓いて、もう従わなくなることから始まりました。この事は既に預言者ゼカリヤによって記されていました。27節の二重カギカッコで囲んだ所です。神は羊飼いであるイエスを打って、逮捕、裁判、十字架、死へと追いやります。その結果、羊である弟子たちは散らされ、イエスを見捨て、イエスを否定します。これがなぜ折角今まで従って来た弟子たちのリメイクになるのでしょうか?不思議ですね。
 
★ヒントがゼカリヤの続きの預言にあります。13891493ページです。三分の二は死に絶え、三分の一が残り、わたしはその三分の一を火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼が我が名を呼べば、わたしは彼に答えて「彼はわたしの民」と言い、彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。
★皆さん精錬とは、金属の中に含まれている不純物を取り除く作業ですね。火に入れ金属が溶けると共に不純物が現われます。それを取り除いて銀や金は精錬され純度が高められます。ゼカリヤはそれを例として、神が人を精錬される、と預言しました。しかし、神の精錬の目的は人間の純度を高め、浄化する事ではありません。ゼカリヤは最後に神の精錬の結果を次のように表現しています。「彼が我が名を呼べば、わたしは彼に答えて「彼はわたしの民」と言い、彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。これは麗しい関係を表していますね。神の精錬の目的は、神と人間の関係回復にあります。神は人とエデンで共に住めなくなった原因、神を信頼しない心を人から取り除いて、その奴隷にならないように、それから完全に解放して、神との関係を回復される、そう言うことが将来必ず起こる、とゼカリヤは預言しました。
 
★先週、イエスは最後の晩餐の前に非常にキツイ言葉を弟子たちに言われた、と聞きましたね。皆さん覚えていますか。「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」。なぜこんな言葉をおっしゃったのでしょうか。その時イエスは感づいておられました。エデン以来待ち望んで来られた、神と人間の関係が今や実現しようとしていました。ところがこの計画を破壊するのが裏切りです。だからこのようなキツイ言葉が口から出たのではないでしょうか。それ程に重要な時を迎えていました。金属の精錬で不純物が現われるよう、人の精錬ではこの裏切りがまず現われました。ユダはイエスを引き渡しましたが、「たといみんなが躓いても、わたしは躓きません。たといご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、言い切った弟子たちがイエスを見捨てて逃げました。残ったペトロも三度イエスのことを知らないと言って立ち去りました。羊飼いイエスの羊、弟子たち全員が散ってしまいました。
 
★しかし、精錬は続けられ、色々なものが現われます。裏切りの次は武器を使っての無防備なイエスの逮捕、不正な裁判、侮辱、十字架。先週紹介しましたシメオンの言葉通り、これらは皆多くの人の心にある思いの現れでした。そして最後に、そういう思いを起こさせて人間を支配するものが、人間を奴隷にするものが、神と人の関係を破壊するものが、今まで隠れていたものが、姿を見せませんが現れます。聖書はそれを罪といいますが、それが肉体を持つイエスを覆い、死をもたらします。
★神が愛する独り子イエスをマリアから人間として生まれさせたのは、まさにこの時を迎える為でした。この時イエスは叫ばれました「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。罪はイエスの肉体を死に至らせ、三日目には腐敗に向かわせ、もはや手の届かない所、陰府へと連れて行きました。そして罪が人を死に至らせ、いつもしている様に勝利の宣言をした時でした。神は天より力を下し、イエスを覆う罪に致命傷を負わせ、イエスを復活させ、死人の中から引き揚げ、罪に支配されない完全に解放された新しい命に生きる道を開かれました。
★皆さんは全員母の胎から同じく生まれました。イエスも私たちと同じように母の胎より生まれて下さいました。その目的はわたしたちでも歩める、新しい命に生きる道を開くためでした。だから、イエスは28節でこれから散らされる弟子たちに言われました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。これはイエスが私たちを羊飼いの様に先導されるということです。イエスの十字架と復活によって開かれた、新しい命に生きる道を進みましょう。まず、神の前に立って下さい、神はそのあなたをまず喜んで受け入れてくださいます。イエス・キリストの十字架と復活によって開かれた道を進んでください。神のリメイクが始まります。服のリメイク作家と同じように、神も思っておられます。「リメイクは新しい命を吹き込むようなもので、楽しくてやめられません」。私たちの教会は、キリストの教会、神の教会です。教会には色々な楽しみがありますが、このリメイクの楽しみを忘れてはなりません。


2022.08.14
「必ず神の救いがある」マルコによる福音書14章12~26節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ★今年の19日よりマルコ福音書1章から語ってまいりましたこの福音書は、イエスが都エルサレムに向かって行かれることに焦点を当てて綴られました。11章でやっと都エルサレムを目前にしますが、その手前のベタニア村のシモンさんの家に泊まり、そこからエルサレムへ日帰りで何回か通われました。その最初の日と、最後の日にイエスは非常に意味深長なふるまいをなさって、都エルサレムでこれからご自分の身に何が起こるのかをデモンストレーションなさいました。まず最初の日のことからお話ししましょう。11111節を参照ください。その後で、今日の聖書箇所、最後の日のことをお話しします。
 ★イエスはベタニア村に入る前、二人の弟子を次のような指示を与えて使いに出されました。村に入るとすぐにつながれている子ロバを見つけるから、それをほどいて連れて来なさい。もし問われたら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。イエスの言われた通り、二人は子ロバを連れてイエスの所に戻って来ました。不思議でした。イエスはその子ロバに乗ってエルサレムの町に入ろうとすると、多くの人が自分の服や、葉の付いた枝を切って来て、イエスが通る道を作り、そして、後ろから前から「ホサナ、ホサナ(今救いたまえ)」と大声で叫びました。まるで神殿の主を迎えるような光景でした。そして、イエスは神殿の中に入って行かれました。
 ★既に預言者は伝えていました。神が神殿から出て行かれたが、また将来必ず帰って来られる。また、高ぶることなくロバの子に乗ってエルサレムに来られると。エルサレムに来た最初の日、イエスがしたデモンストレーションは、神殿のあるじが帰って来られた、ということでした。それも跡継ぎの独り息子が、若様が代わりに来られたのです。しかし、イエスは侮辱され、その神殿の城壁の外に排斥され、十字架につけて殺されました。この最初のデモンストレーションのことをイエスは12章で、ブドウ園を農夫たちに貸して旅に出たある主人のたとえ話で再び取り上げておられますので、ちょっと読んでみましょう。
 ★収穫の時に成ったので、ブドウ園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちの所に送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くに僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』といって、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ、さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』。そして、息子を捕まえて殺し、ブドウ園の外に放り出してしまった。そしてイエスは旧約聖書の詩編118篇の2223節に書かれていること、『家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった』が今、ご自分に於いて実現しようとしていることを示されました。実はロバの子に乗ってエルサレムに入った時に群衆が『ホサナ・・・』と叫んだ内容は、同じ詩編118篇の25-26節だったのです。不思議ですね。皆さん、イエス・キリストは親石です。あなたの人生と言う石造りの家の親石、すなわち隅の要石、キーストンです。
 ★さて、今日の聖書朗読は、イエスがエルサレムに来られた最後の日の所です。それは最初の日と非常に似た形になっています。ここでもイエスはある指示をして二人の弟子を使いに出されました。都エルサレムに入ったら、水瓶を運んでいる男に出会う。そして、その男が入って行く家の主人に次のように言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています」。すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこに、わたしたちのために過越の食事の準備をしておきなさい。そしたら、イエスの言われた通りだったのです。不思議ですね。そして、過越の食事の中でイエスは、ある特別の行動を通して、これからエルサレムにおいてイエスの身に何が起こるのかをデモンストレーションされました。
 ★さて、その話をする前に、ここで過越の食事のことについて説明します。141節に過越祭と除酵祭とありますように、この祭りはセットで行われ、『必ず神の救いがある』という事を確認するのがこの祭りの目的です。この祭りは一つの体験から始まりました。神がエデンから出て行った人間を救う計画を立て、具体的にアブラハムというひとりの人を選んで、彼の子孫を通して救いの実現に向けて進まれた時に、その子孫がひどい飢饉に遭い難民になりました。神は彼らを導いてエジプト帝国に助けられました。神がエジプトで彼らを祝福されるので彼らの人口がどんどん増えたので、王は彼らの人口増加を恐れ、抹殺計画を立てました。手始めに奴隷として過酷な強制労働で彼らを苦しめ虐待しました。そしてとうとう、彼らに生まれた子が男子なら殺し、女子なら生かすという政策を実行に移しました。このままでは、神の救いの計画の担い手だった彼らが消滅させられ、その計画は途中で終わってしまいます。そこで、神はモーセを立てて、エジプト帝国から彼らを解放して、神の救いが必ずある事を明らかにされました。
 ★それを機に、神は救いの計画のギアを一段上げられました。エジプトから解放されて旅人となった彼らのテントと共に、神はご自分専用のテントを張らせて、彼らと共に旅をして、この旅人の集団を神の民とされ、彼らを通して全ての人に救いをもたらす計画に入られました。その時に神は今回彼らが体験した絶体絶命のエジプトの奴隷からの解放を再現する、過越祭と除酵祭を毎年開いて、『どのような時にも必ず神の救いがある、神に信頼せよ』という約束を子孫に伝え続けるように命じられました。
 ★ここで、彼らがどの様にして解放されたのか、もう少し詳しくお話しします。神はエジプトの全ての家、王の家も民の家も、全て家の初子の命を取り上げる使いを天から下され、王は奴隷だった彼らの解放を認めました。彼らは事前に各家で小羊を料理して食べ、その血を家の入り口の両柱と鴨居とに塗り、天の使いはその家の前を過越したので、彼らの初子の命は助かりました。その経験を再現するために過越祭では各家庭ごとに小羊を料理して食べました。また、奴隷から解放されてエジプトから旅立つのですが、急いでエジプトを離れなければならないので、食料としてのパンは酵母で発酵させる時間の余裕が無いので、酵母を除いた除酵のパンを焼いて出発しました。それで酵母を入れないパンを食べる除酵祭としました。出エジプトした人々の子孫は約1200年間この祭りを毎年守って来ました。イエスもその子孫の一人としてお生まれになりました。各家庭で家族全員集まり、年に一度、小羊料理という贅沢、しかしパンはいつものふわふわパンではありません。子どもたちは不思議に思い「なぜこんな食事をするのですか」と質問します。それに答えて家長がなぜ小羊の贅沢な料理と、美味しくないパンを食べるのかの説明をして、祭りの度に神の救いが必ずあることを家族みんなで思い起こしました。
 ★さて、使いに出された二人の弟子は、小羊の料理と、酵母を入れないパン、そして飲み物のワインを準備して、家族ではないのですがイエス一行の過越しの食事が始まりました。子どもがいたら、食事中「なぜこんな食事をするのですか」という質問から、家長のスピーチが始まりますが、それはありません。しかし、子どもの頃に家族と共にとった食事を思い起こす和やかな食卓だったでしょう。ところが突然イエスが、今過越の食事を共にしている弟子たちの一人の裏切りを予告され、雰囲気は一変しました。弟子たちは心を痛めて「まさかわたしのことでは」と、代わる代わる言い始めました。裏切ろうとしていたのはイスカリオテのユダなのに、なぜ全員がそう言ったのでしょうか。その可能性があるからです。
 ★クリスマスの後、マリアとヨセフがエルサレムの神殿に幼子イエスを連れて来た時に、シメオンというおじいさんが彼らを祝福して、イエスが、多くの人の心にある思いが露にされ、反対を受けるしるしとして定められていることを伝えました。従って来た十二弟子の心にも、イエスを裏切る可能性がありました。皆さん、人には自分の願い通りにならない不自由さ、何かに支配され奴隷状態である面があります。だから弟子たちは代わる代わるに「まさか・・・」と言い始めました。そして、イエスは最後に極めつけの言葉「生まれなかった方が、その者のために良かった」までその時におっしゃいました。神の救いは必ずある、ということを思い起こすはずの過越の食事でしたが、めちゃくちゃ、という感じになったでしょう。しかし、あえてその時をイエスは待っておられたようです。そんな状況の中でイエスはこれからエルサレムにおいて、ご自分イエスの身に何が起こるのかをデモンストレーションされました。
 ★食卓のパンを手に取って、祈りを唱え、それを裂いて弟子に与え、「取りなさい。これはわたしの体である」と言われました。これはご自分の体が裂かれ死ぬことです。それから、杯を取り、祈りを唱え、皆にそのワインを廻し飲ませて言われました。「これは、多くの人の為に流される、わたしの血、契約の血である」。これもご自分が血を流して死ぬことです。飯塚教会の聖餐式は、今皆さんに礼拝前に事前にパンと杯のセットを配っています。そして、司式者の私だけが大きなパンが用意されています。パンを縦に裂くのを皆さんに目立つよう、縦長に焼いてもらっています。本当はその裂いたパンを皆さんに配って、「これは、あなたのために裂かれたイエスの体、取りて食せよ」と言い、もっと色の赤いブドウ汁の入った杯を皆さんに配って「これは、あなたのために流されたイエスの血、取りて飲め」と言いたいところなのです。
 ★過越の食事の時に、体が裂かれ血が流されるのは小羊です。かつて小羊の命が献げられ、エジプトの奴隷からの解放が始まり、エジプトから離れシナイ山に着いて、神の民とされる契約に与り、神と共に歩む旅、信仰の旅が始まりました。
 ★これからエルサレムで、神の独り子イエスの命が多くの人のために献げられます。このパンと杯に与る者に、心を支配して奴隷状態にしているあらゆるものからの解放が始まります。そして神との新しい契約に与ります。『はっきり言っておく、私はもはや皆さんと一緒にこの様に杯から飲めません。死ぬからです。しかし、死んで復活して天の父なる神の右に座り、時至ってこの世が終わり、神の国をわたしがもたらす、その終わりの日には、皆さんと共に、新たな祝宴の杯として頂くのを楽しみにしている』。イエスはそんな思いをこの最後の夜の過越の食事の締めくくりの言葉となさいました。
 ★ユダの裏切りから始まって、他の弟子はイエスを見捨て、ペトロは逃げなかったが三度イエスを否むという、弟子だと言うが、実は罪の奴隷だった彼らでした。皆さん、私たちもこの弟子たちと同じですね。しかし、イエスは最後の夜の過越の食卓で、はっきり宣言なさいます。『たとい、あなたがわたしを裏切っても、それでも、あなたがたには神の救いは必ずある。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、は罪人を招くため、神の家族に招くために来たのである』と。お祈りしましょう。


2022.08.07
「天からの秤」マルコによる福音書14章1~11節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★皆さんは目に見えないものを持って生きています。心でも、価値観でもありません。それは人間のもっと奥深くにあるものです。私はこんな体験をしました。ある教会に入って、聖堂の奥に進む途中、天秤を持った天使の像が壁に飾ってありました。それを眺めている時に、「あなたは今、どんな秤を持って生きていますか」、と問われているような気がいたしました。皆さん、実は人間のあゆみが始まる前に、この秤のことで一つの事件が起こりました。
 
★エデンという所で、人間が神と共に歩み始めた時に、神は食べてはいけない実がなる善悪の知識の木を一番目立つ中央に生えいでさせられました。それには理由がありました。神は人間を神と向き合って、真実に応答し合う、信頼し合う、すなわち愛し合う者に造られたからです。愛は強制しません。また強制もされません。色々な影響や誘惑を受けますが、その中で食べてはいけないと戒めた木の実を人間が食べるか、食べないか、それを選ぶ自由を神は人間に与えられました。食べたら死ぬと神は戒められたが、そんなことはない、目が開け神の様になれる、賢くなれるという誘惑に従って、人間はそれを食べて、自分で善悪を知る、すなわち自分の秤を持って生きて行く道を選びました。しかし思いも寄らない結果となりました。神と共に生活できなくなり、大地も呪われ、エデンから出て行かなければならなくなりました。エデンでの神と人間の生活は始まってすぐ、この様に中断してしまいました。
 
★この様にして私たち人間のあゆみは始まりました。自分の秤で歩み出した人間に色々と問題が起こり、ある時とうとう人間を造ったことを後悔し、この地上から洪水でぬぐい去ろうと思う程に、地上は人間によって悪が蔓延しました。しかし、神は今にも沈みそうなノアの箱舟を見て、思い直し、「こんなことは二度とすまい」と誓い、新たな思いで人間と寄り添って歩み続けてくださいました。神は一人の人アブラハムを選び、その子孫を祝福し、その子孫を神の民として特別に選び、エデンで中断した神と人間が共に生活することを再開されました。神は天からの秤を彼らにモーセや預言者を通して長年示し続けられました。しかし、彼らは天からの秤を受け入れず自分の秤で歩み続けました。そしてとうとう神の方が神殿から出て行かざるを得なくなり、神と共なる生活はまた中断してしまいました。
 
★そこで神は最後の手段を実行に移されました。それは神の愛する独り子イエス・キリストを彼らの子孫の一人の人間として生まれさせ、自ら天からの秤をもって彼らの只中で生きて、神がどんなに人間一人ひとりを愛しているか、祝福しようと願っておられるかを示す事でした。ところがキリストは苦しめられ、捨てられ、十字架につけて殺されます。今日読んでいただいた新約聖書のマルコ福音書14111節には、殺される二日前のことが書いてあります。12節では、時の宗教の指導者たちがイエスを捕らえて殺す計略を立てますが、捕らえる機会がなかなか確定しませんでした。しかし1011節で、彼らに思いも寄らない絶好の機会が与えられます。弟子の一人だったイスカリオテのユダがイエスを引き渡すと申し出たのです。
 
★『イエスさま、シモンの家で食事をしている場合ではありませんよ』、という状況でした。そんな状況であることも知らないで、らい病人シモンはイエス一行を食事に迎えました。弟子たちも知りませんでした。もしかしたらユダはこの時イエスを引き渡す取り引きを祭司長たちから打診され、思案していたのかもしれません。ベタニアのシモンの家はイエスたちの集まる憩いの場所でした。最後の晩餐の前夜、最後の憩いのひと時において、忘れられない思い出となる事件が起こりました。一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った壺を持って来て、それを壊し、イエスの頭に注ぎかけました。同席していた人の何人かが彼女のしたことに対して憤慨し、その無駄遣いの行為を厳しく咎めました。そして、他の誰もがそれに反対しませんでした。
 
 ★イエスの頭に油を注ぐことは無駄使いである。それよりも300デナリオン以上で売って、そのお金を貧しい人に施すべきだ、との判断でした。神の民とされたことを記念する過越しの祭の前日に施しをすることは、神の民に与えられているモーセの律法で勧められています。彼らの言うことは正しいです。しかし律法とは、自分を正当化する為にあるのではありません。神は律法を通して、天からの秤、神がものごとをどう量るのかを示し、人が自分の持っている秤を捨てて、その天からの秤に取り換えるようになる事を、神の御心を追い求める者となることを求めて来られました。ところが、人はなかなか自分の持っている秤と神が示される天の秤を取り換えようとはしません。外でイエス殺害の計略を練る祭司長たちも、その計略に加担しようとするユダ、そして同じ食卓に着く弟子たち、皆、相変わらず自分の秤を手離そうとしません。最後の憩いの食事の席でしたが嫌な雰囲気でした。ところが、その部屋一杯にナルドの香りが広がり雰囲気が一変しました。
 
 ★9節「世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。皆さん、この福音が宣べ伝えられる所とは教会のことです。もちろん、私たちの飯塚ナザレン教会もそこに含まれています。皆さん教会が忘れてはならないこととして語り伝えているのは何でしょうか。聖餐式で私が毎回読んでいる1コリント112326節に答えがあります。26節「あなたがたは、このパンを食べこの杯から飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。
あるいは153節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪の為に死んだこと」、これもヒントになります。
 
 ★この一人の女の行為はイエスの埋葬の準備、すなわちイエスの死を示しています。実は、イエスが埋葬された後、母マリアとサロメとマグダラのマリアが遺体に香油を塗りに墓へ行きますが、神がイエスを死人の中から甦らせ天に帰還させて、神の愛する独り子、神に遣わされたメシアであったことを明らかにされました。それで彼女たちは結局イエスに香油を塗れませんでした。だから、シモンの家でこの女はイエスを葬る時に塗る香油を前もって注いだことになりました。また、それは、イエスが油注がれたメシア、キリストであることも証ししたことになりました。神はこのイエスの死において最も重要なことを私たちに表されました。
 
 ★それは天からの秤です。棒の左右にお皿がつるされている秤を不思議ですが天秤と言いますね。神は一方の皿にあなたを載せられます。そしてもう一方の皿にイエス・キリストを載せられます。そしたら棒は真っすぐバランスを保ちました。あなたの重さは神の愛する独り子イエスと同じ重さです。これが天からの秤です。この女はこの天からの秤で量られる体験をした最初の人です。この女の人がナルドの香油を注いだのは、彼女の秤も変わったからです。この事は世界中の教会が忘れてはならない、語り続けなければならない事です。なぜなら、イエス・キリストの教会で起こることはこの事だからです。
 
★皆さん、私たちはここに集まり、何をするのですか。天からの秤で量られ続けることです。そしたら、私たちの持っている秤も変わって行きます。神がエデンで始めようと計画していた、神と共に生きる道、色々中断した歴史がありましたが、それが始まります。何が起こるのでしょうか。神は人の思いを遥かに超えた計画を皆さん一人一人にお持ちです。期待して神と共に歩んでまいりましょう。
  

2022.07.31
「新たな命の萌芽」マルコによる福音書13章14~36節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
  
 7月に入り蝉が鳴き出しました。蝉は夏の風物詩と言われます。教会の花壇の中に抜け殻をよく見かけます。城陽では羽化の瞬間に出会いました。茶色い殻の中から白っぽい成虫が出てきます。しばらくすると羽に色が着き数時間後に体の色が出てきます。この羽化にはまるで全く新しい命が生まれたような、新たな命の萌芽を感じます。
 
 マルコ1313節までで、イエスの十字架の死と復活と昇天の後、弟子たちは大変な迫害に会いますが、神はその事によってあらゆる民族に救いの福音をもたらすご計画であることを語られました。
 
 今朝の14節以下イエスは、世界の終末へと話を進められます。
19節「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。」とあります。数年前の九州豪雨災害の時、「未だかつて経験の無いような災害の危険があります。厳重に注意をしてください。」と気象庁が発表しました。しかしその発表以前に、既に水位が危険な高さに達していたという報告がされていました。気象庁は膨大なデータを解析しているのですが、安全を確保できる間に危険を知らせることが出来ませんでした。終末とは、それに似ています。
14節に「憎むべき破壊者」とあるのは、終末にはしるしや事前の警告すらない事を言っています。
 
 21から27節の所で、終末には偽メシアや偽預言者の出現、また天の万象の異変が語られます。しかし、重要なのはそのことではありません。それよりも27節の「人の子は、御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」とある、このことが重要なのです。マルコは838節p78で、「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る」とあります。これは、人の子が来られる時は、神の最後の審判の時だと言う事です。ですから、終末とは神の最後の審判の時です。そのとき、人の子はご自分の民を集められるのです。27節が伝えているのは、終末に天の万象や偽預言者の出現に心騒がせなくていい、イエスがご自分の民を集められることに信頼して、平安を得ていなさい、という励ましです。今朝、私たちはこの励ましに注目しましょう。
 
そして、28節「いちじくの木から教えを学びなさい」とあります。私たちはいちじくが葉を付けるともうすぐ夏だと知ります。この例えは、イエスを信じた者に救いの完成が近いことをしめしています。終末は目に見える現象に恐れおののく日ではなく、救いの完成が近い事を喜ぶ日なのです。
イエスに出会う前、この事を知りませんでした。歴史は終末に向かって確実に進んでいます。しかし、それは救いの完成に向かって進んでいるのです。この事を知って生きる者は、新しい命に生かされています。イエスの十字架と復活に救いがあると信じ、終末の救いの完成を見据えて生きる者は、新しい命の萌芽を経験しているのです。
 
終末が何時か?その時何が起こるか?に関心が行きがちですが、それが重要なのではありません。32節にあるように、それは神だけがご存知です。 大切なことは、3335節のことですね。終末がいつ来ても良いように、信仰の目をさまし、注意していることです。つまりキリスト者として忠実である事です。さてそれは具体的にどうする事でしょうか。
 それは10節です。「まず、福音があらゆる民にのべ伝えられなければなりません。」とあります。キリスト者として忠実であるとは、福音をのべ伝えることです。このことが終末に対する最大の備えです。36節「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」とあります。この主人の僕たちの仕事は、福音を伝えることです。眠っていると言うのは、それを怠っている所を見られるということです。
 
蝉の一生は短いと言われていますが、実は地上に出て1か月は生きているそうです。喧しいほどに鳴くのはオスの求愛だそうです。成虫のメスが木の幹に卵を産み、卵から7孵化(ふか)した幼虫は天敵から身を守る為に地中にもぐり、木の根から樹液を吸って成長するそうです。地中に潜っている期間は、短い種類で3年、長い種類で17年だそうです。全種類を平均すると7年になるので、一般的に7年間地中に潜っていると言われているようです。木の根の樹液は、幹の樹液より栄養が薄いそうです。ですから、蝉は成虫になるために随分長い時間地中にいるわけです。幼虫が羽化して完全な成虫になる様子は、救いの完成を連想させます。地中に潜っている期間(幼虫時代)は、他の昆虫と比べると遥かに長いです。その間、幼虫はひたすら樹液を吸って神の時を待ちます。それを怠れば、成虫になる日を迎えることが出来ません。
キリスト者は救いの完成の日を待ち望む者です。それまでの日々は、ひたすらキリスト者として証をする期間です。蝉の幼虫は地中で天敵から身を隠して、ひたすら成虫になる時を待ちますが、私たちは地上で福音をのべ伝えて、救いの完成の日を待ちます。天敵から身を隠すのではなくて、キリストの愛から引き離そうとする天敵と闘いながら、地上で生きます。でも福音をのべ伝えることは特別な事を意味しません。
 
マタイ25:21「忠実な良い僕だ。よくやった。おまえは、少しのものに忠実であったから。」とあります。福音をのべ伝えるとは、日々を忠実に生きると言う事でしょう。
使徒パウロはフィリピ3:13「私自身は既に捕らえたとは思っていません。・・神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」と言っています。また目標を目指して協議をする選手と同じです、とも言っていますね。陸上選手はゴールのテープを目指して走り抜けますね。コースの途中でやめると失格です。キリスト者は救いの完成の日がこの地上のゴールです。私たちは、救いの完成を目指しているのです。キリストを信頼して、ゴールのテープを切るまで忠実に生き抜きましょう。


2022.07.24
「人の目には小さい事」マルコによる福音書12章35~44節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 35節以下でイエスはご自分のことを証されます。
「どうして律法学者たちは『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と、人々がキリストをダビデの子と呼んでいることを取り上げて、ご自分を証しておられます。「ダビデの子」という呼び方には、ローマ帝国からユダヤ民族を解放する人物、ユダヤ社会を、ダビデ王国として再興する人物という意味合いがあります。
また、民衆にとってイエスは病人を癒し、悪霊を追い出す権威を持つ方という意味合いもあったのでしょう。
しかし、イエスは37節まででそれを否定しておられます。「わたしはダビデの子という呼び名にある、ローマ帝国からユダヤ民族を解放するために来たのではない」と。イエスはご自分と出会うひとり一人に、それぞれに固有の関係を結んでくださる方だからです。先週はザアカイと固有の関係をもってくださいましたね。
しかし、そういう主となって下さるために成すべきことがあるのです。それは36節の「敵を足もとに屈服させる」という、最大の使命です。「敵を足もとに屈服させる」とは、どういうことでしょうか。それは、私たちの内にある罪とイエスが戦われるということです。この戦いは、パウロが言っている「罪の結果は死」、私たちを永遠の死に至らせる「死」との戦いです。そのために、キリストは来られたのです。しかしそれは、人の目には分からないことでした。
 
さて、38節から40節までの箇所をちょっと横に置きまして、4144節の箇所に、私たちは目を転じてみましょう。
 
イエスはご自分の戦いの険しさに思いを馳せられたのでしょうか。閉じた目を開けて、顔を上げてご覧になると、そこに献金箱に献金を入れている人たちが見えました。その視界には対照的な姿が入って来ました。金持ちたちと一人の貧しいやもめです。
貧しいやもめはレプトン銅貨を二つ入れました。皆さんのよく御存じのデナリオン銀貨1枚とレプトン銅貨128枚で同額です。1デナリオンは一日の賃金に相当しました。ということは、レプトンは100円ぐらいでしょうか。
 
一日の賃金の128分の二ほどのレプトンを捧げたやもめに、主は目を留められます。当時のユダヤで使われたお金の最小のお金であるレプトン銅貨。それを捧げる女に目を留められるイエス。
 
 神殿の献金箱は全部で13個あったそうです。それはラッパのような形をしていました。多く入れる人の献金は大きな音がしました。その音にやもめの献金はかき消されました。
そんな状況ですから、ユダヤのレプトン二枚は、イエスが目に留められなければ、誰の目にも留まらない出来事でした。
 レプトン二枚の献金は、人の目には小さな事です。この事は私たちに何を示しているのでしょうか。
 
イエスの十字架の死、それは大ローマ帝国の人々からみれば、無名の一人の男の死です。田舎町ナザレの大工ヨセフの息子です。処刑されたゴルゴダの丘は、城壁の外に有ります。レビ記によれば、奉げ物の中で罪を贖うために焼く部位以外は、城壁の外へ持って行きそこで焼くと決められていました。ゴルゴダの丘は城壁の外に有ります。ですから、ゴルゴダの丘での処刑は、捧げ物にもならない、全く見捨てられたものを示しています。イエスの十字架の死、これも人の目には小さな事でした。
 
レプトン二枚を投げ入れる女に、イエスはご自分を重ねておられたのではないでしょうか。
 
さて、英語の聖書は献金と言う言葉を、ギフト、と表現しています。贈り物、或いは、与えるものとも言えます。
44節に「あり余る中から」捧げた人と「乏しい中から」捧げた人と、金持ちとやもめの女を表現します。後者の方を、英語では「必要なものの中から」と言っています。そしてそれは「生活費の全てだった」とあります。シュバイツアーは「彼女は、この行為によって、自分自身および一切の保障を手放し、神の憐みの中に自己をすっかり明け渡した」と言っています。
それで、イエスは「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」と仰たのです。
献金が献身のしるしと言われるのは、神の憐みに依り頼むことを意味しているからです。
 
初めに、38節から40節を横に置きましたが、そこには律法学者たちの見せかけの上辺だけの信仰が示されています。徹底的に捧げた女と対比して、弟子たちに献身を促されます。
 
イエスは神の御子としての栄光を捨て、私たちのギフトとなられ、徹底的にご自分の命を捧げ、与え尽くしてくださいました。何のためでしょうか。
ヨハネ31617節、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とあります。
 レプトン二枚を捧げた女の示すものは、私たちのためにご自分の命さえ惜しまずに捨てて下さった、イエスの愛の姿です。それは人の目には小さな事でした。しかし、神はその出来事を、地上の全てのいのちに救いを与える光り輝く希望とされました。


2022.07.17
「神のものとして生きよう」マルコによる福音書12章13~17節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 イエスのところに、ユダヤ社会の権威者たちの下から数人の者たちが送られてきます。彼らは「皇帝に税金を納めることは律法にかなっているでしょうか。かなっていないでしょうか」と質問します。皇帝というのはローマ皇帝です。戦後、沖縄がアメリカの支配下に置かれていたのと同じように、ユダヤ社会はローマ帝国に支配されていました。ここで言われている税金は人頭税と言って、個人の能力に応じて要求されるものではなく、無職の人にも子どもにも課せられる税金のことです。ですから、ユダヤ人にとっては反感が大きかったのです。パリサイ派はこの立場になります。もう一方のヘロデ派の人がいます。ユダヤを治めるヘロデ王の家来です。相反する立場の人たちが来て、この質問をしたのです。イエスがこの税は「悪税だ」と答えるなら、ローマに対する反逆罪となり、「治めよ」と答えれば民衆を失望させることになります。この質問には、そういう背景があるのです。さて、イエスは何と答えるのでしょうか。
 
 15節「デナリオン銀貨を見せなさい」とイエスはおっしゃいます。デナリオン銀貨というのは、その当時ユダヤで使われていたローマ帝国の通貨です。
イエスが「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われたことは、質問者には思いもよらない、想像を絶することでした。
 
 使徒パウロはこう言っています。ローマ137節「貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」
イエスは持ってきた銀貨を見せて「これは誰の肖像と銘か」と尋ねられます。彼らは「皇帝のものです」と答えます。確かにそこには当時の皇帝ティベリウスの肖像とラテン語で皇帝ティベリウスと名前がはっきりとしるされてあります。そしてイエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、地上のルールと秩序は守るべきものであることを教えられました。質問した彼らは一言も言い返すことができませんでした。
 
 さて、「神のものは神に、返しなさい」、このことをもう少し考えてみたいと思います。
デナリオン銀貨には時の支配者である皇帝の肖像が入っています。これは、この通貨を使うものは、皇帝の支配下にあるということですね。
創世記127節は神が人を造られた時のことを伝えています。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造された。」とあります。
神にかたどってというのは、私たち人間には神の像が入っているということです。神の愛と保護を受ける存在、神と共に生きる存在として造られたのです。それが「神のもの」ということです。17節の「神のものは神に返しなさい」とは、「神のものとして生きよう」と言うことです。目の前にいる彼らに、屁理屈を言っていないで、あなたがたが神を愛していると言うのなら、神のものとして、善と愛を追い求める生活を送りなさい、と言われたのです。
 
 イエスに出会って、神のものとなった人がいます。それはザアカイです。彼は人々から税金を取る徴税人の頭でした。ある日、イエスが自分の街にやって来るというので、ザアカイもイエスに会いたいと考えました。しかし、背の低い彼は群衆の中に入ってしまうとチャンスがないと思い、いちじく桑の木に登ります。イエスはそのことを御見通しで、その木のところに来ると「ザアカイ」と彼の名前を呼び、その日は彼の家に泊まられたのです。イエスとの時間はどんなものだったのでしょうか。ザアカイは人々の嫌う徴税人ですから家族もなく友達もなく、孤独な人でした。希望の無い人生でした。ところが、その夜彼が変わったのです。善と愛を追い求める人に変えられたのです。自分に神のものとしての神のご計画があることを知ったからです。
 
ローマ1136節「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているからです」とあります。全ての人が神のかたちを刻まれて、いのちをいただいています。神のかたちを刻まれているというのは、善と愛を追い求めるためです。しかし、時に人はその道を外すことがあります。ザアカイも人生に失望する経験をしましたね。成りたくてなった訳ではない税金の取り立てという仕事でした。面白くない日々が続き、不当な税金の取り立てはエスカレートし、益々人々の憎しみを買い、不のスパイラルの中に閉じ込められていたのです。キリストは人の罪の身代わりとして、十字架による贖いのためにご自分が来たことを伝えられました。ザアカイの犯した罪の罰を身代わりに受け、キリストが彼を罪から解放すると知ったのです。キリストは彼に神に立ち返り、神のものとして生きるように、彼を導かれ、彼は変えられました。皆さんも、このような経験をしておられますね。罪の形は違うかもしれません。神のことなど全く考えたこともなかったとか、神を無視して生きてきたとか、ですね。しかし、キリストと出会って変えられましたね。
 
使徒パウロは神のものとしての生き方を次のように言っています「誰に対しても、悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うよう心掛けなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
私たちは、どのような状況の中に生きているとしても、この人生(いのち)は神から発し(神に与えられたものであり)、神によって成り(支えられており)、神に至る人生(いのち)なのです。
今朝もう一度、神のものとして生きるよう勧められています。私たちは、神のものにふさわしく善と愛を追い求めていきましょう。キリスト者になってからも、それにふさわしくない日があったかもしれません。今それを告白し許していただいて、癒していただきましょう。そして、今からの時を、神の中に生きていきましょう。私たちは水槽の中を生きる小さな魚です。この水槽は神の愛の水で満たされた水槽です。その水の中を泳ぐ魚です。そこにはいつも世話をする神の大きな愛の手が存在します。この神の愛を今朝もしっかりと受け取って、ここから出ていきましょう。


2022.07.10
「キリストは隅の親石」マルコによる福音書12章1~12節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 私たちは、自分の人生は自分のもの、自分で築き上げたと考えますね。「私の人生、私の自由にして何が悪い」と考えます。しかし、そうでしょうか。自分のものである人生のはずなのに、自分の思い通りにならないのが人生ですね。
 
 私たちの人生は、このぶどう園の農夫の様に主人から貸し与えられたものです。「ある人」と言うのは神様の事です。この主人(ある人)はぶどう園を農夫たちに貸して、旅に出かけました。「旅に出かけた」というのは外国に出かけたという言葉が使われています。神様が外国に出かけるとは、地球以外の星にでも行かれたのでしょうか?かなり長い時間と言う事でしょうね。ですから、農夫は主人からぶどう園を借りている事自体を忘れてしまったのでしょう。
 
 聖書の中ではユダヤ人は特別です。主人は、旅先から彼らにだけは預言者と言う人を送って繋がっていて下さいました。にもかかわらず、預言者の忠告に耳を傾けませんでした。彼らは主人である神を知っていながら、神として崇めませんでした。それどころか、神からの借り物である人生を自分の物としました。
 
 この例えは実際のユダヤ人の歴史を伝えています。歴代下2419-21節では、神から遣わされた僕を殺しました。それでも、神は幾度も僕を遣わしました。ネヘミヤ930-31節。
 
 6節「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」ここはこういう歴史の後で、イエスが最後の使いとして遣わされた事を伝えています。神の最後の情けと憐れみ、それがイエス・キリストです。それなのに、殺してぶどう園の外にほうり出してしまいました。彼らは最後まで自分の都合の良いように行いました。 6節は主人の最後の情けと憐れみです。最後まで農夫たちを信じた主人を現しています。これは愛と言い換えられますね。それでも、農夫たちは自分たちの都合のいいようにします。そのようにして主人の愛を踏みにじります。
 
9節で、イエスは言われます。「このぶどう園の主人はどうするだろうか。戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と。あなたがたこそ、まず自分がこのぶどう園の農夫だと言う事に気付くべきではありませんか、と仰います。
 イエスはユダヤ人の指導者たちを見捨てようとしておられるのではありません。また、ギャフンと言わせたいと思っておられるのでもありません。それどころか、しっかり神に繋がり直しなさい、神の愛に立返りなさい、と願っておられます。このことは既にクリスチャンになっている私たちにも、神に確り繋っていますか、神が求められることに的外れに成っている所はありませんか、自分を吟味することを忘れないようにしましょうと言われているのではないでしょうか。
みなさん、そんなイエスの言葉にもう一度注目して下さい。
10節「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」これは詩篇11822節の言葉です。詩篇118篇は神殿、神の家の歌です。ですから、家を建てる者とは神の家を建てる者の事です。
 
 熊本の地震で熊本城の石垣が崩れたのを見て、大変ショックでした。しかし、角の石が崩れなかったですね。角の石が残ったというのはそこが強いからです。この石によって他の石との力のバランスが取られて組み合わされているからではないでしょうか。石垣の角の部分を「隅石」と呼びます。江戸時代には算木積み(さんぎづみ)という積み方が考えられ角の強度が高められたそうです。「隅石」の強度が増せば、石垣の安定感が増します。熊本城の石垣は「武者帰り」という更に敵の攻めに強い構造にされています。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」捨てられた石とは十字架につけられたキリストのことです。神は私達が捨てたキリストを復活させ、私達の救い主と定め『あなたが捨てた石を隅の親石(あなたの救いの石・希望の石)とした』と宣言されます。
親石とは、要石とも訳せますが、上に乗る建築物に対する重要な石です。つまりキリストは隅の親石です。私たちの人生をこの親石の上に建てると言う事は、最強ということです。
 
 初めに言いましたように、私たちは人生を自分の好きなようにしているようですが、しかし現実は思い通りになっているでしょうか。この世が与える平安は、無病息災、家内安全、商売繁盛という、人生の嵐や困難が無い状態です。しかし、嵐や困難なことが起こればその平安は失われます。それに対して、キリストが与える平安は外面的に嵐や困難が起こっても保たれる平安です。私たちの敵は沢山あります。病気、仕事の問題、家庭の問題、経済の問題、そして最も手ごわいのが私たちの内面にある罪の性質です。隅の石の組み方で石垣の強度が増しましたね。キリストという隅の親石に繋がることは、人生の難問を平安へと導かれるお方に繋がることです。最も手ごわい罪の性質から解放してくださるのもキリストです。 キリストをあなたの人生と言う家の隅の親石に据えて下さい。飯塚教会という神の家の隅の親石もキリストです。キリストによって人生も教会も完成します。キリストによって神としっかり繋がります。
 最後に隅の親石は全ての石と組み合されます。石垣の表面は大きめの石ですが、中は小さな砂利です。神のご計画は、色々な石を組み合わせて成長させ、聖なる宮である教会をまた私たちを形成する事です。詩篇11823節「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議な事である。」キリストを隅の親石としましょう。すると、神のなさる不思議なことが、この教会で、あなたの人生で起こります。


2022.07.03
「神の愛に目覚めよ」マルコによる福音書11章12~25節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 実のなる季節ではないのに、実がついていないのを見て、イエスはその木を呪われています。不思議な箇所ですね。弟子たちは、不思議なことを言われたのでこのことが記憶に残ったのでした。
聖書の中でぶどう、いちじくと言うのは重要なフルーツです。なぜなら、神が愛された存在だからです。それを示している箇所があります。旧約聖書のホセア書です。910節「荒れ野でぶどうを見出すように、わたしはイスラエルを見出した。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖を私は見た」。「荒れ野のぶどう」と「初なりの実」は大変貴重なものです。神はご自分の民を「高価で尊い存在」として見ておられるのです。もう一か所111,4節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼らを呼び出し、我が子とした。わたしは愛のきずなで彼らを導き、身をかがめて食べさせた」
出エジプトした民というのは、神の民として産声をあげたような民です。お乳から離乳食、だんだんと形のあるもの、普通食となりますね。そのように神は40年の荒野の旅路を養われました。彼らを大変愛されたのです。ところが、思春期を迎え何もなかったように、人は忘れ、反抗しますね。それと同じように、イスラエルは、王国となった後、神の恵みを忘れ、神の愛に応えることが出来ませんでした。実を付けていないいちじくの木はこのことを示しています。今私たちは荒野の旅路で養われた神に、同じように養われています。この世界は神が造られました。大地の恵み、海の恵み、空の恵みに生かされていますね。それだけではありません。マタイ44「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とありますように、神の言葉によっても、慰められ、励まされ、癒され、希望が与えられて生きています。そして御言葉の通りに生きて下さったのが神の下から来られたイエス・キリストです。今朝、神の時に目を向けよ、神がイエスをこの地上に送られたこの恵みの時に目を止めよと言われています。
 
イエスは神殿に入り、売り買いしている人々を追い出し、両替人の台や椅子までひっくり返して、17節でこう言われます。「神殿を強盗の巣にしている」と。
これは、神の家で商売することを憤られたのでしょうか。そうでは無いようです。
15節をよく見てみましょう。売り買いしている人々を追い出しておられます。売る側の人だけでなく買う側の人、つまり巡礼に来た人までも追い出しておられます。
イエスは、捧げ物の通貨をイスラエルの通貨に限定することや、捧げ物の規定、日常の便利さのために神殿を使う事、これら全てを否定されます。この、宮清めというイエスの不思議な行動は、何を意味するのでしょうか。
エペソ21415節にこうあります。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」。神殿で捧げ物が売られるのは、年に一度の過越し際の時です。この祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から救い出された神の救いの時を忘れないための礼拝です。しかし今イエスは、自分が来たのだから神殿で行われている祭りは、不要になったと言われます。つまり、クリスマスとイースター、キリストの誕生と十字架と復活をお祝いしましょう、と言われます。
 
ヨハネ福音書では宮清めの記事に続いて、イエスがエルサレム神殿を壊して三日で立て直すとあります。三日で立て直すとは、ご自分の十字架の死と、三日目に復活されることですね。これはイエスの十字架の死によって、人と神との間の敵意が取り除かれ、そこに「平和」と「和解」がもたらされることです。
人が神から離れ、神と人との間に敵意が生まれました。人は神を無視して生きるようになりました。宮清めの行為は、イエスが「平和」と「和解」を神と人との間にもたらすために来た救い主であることを伝えています。このようにイエスは、宮清めの行動を通して、神の愛に目覚めよと示されます。
 
17節はイザヤ書567節の言葉です。56章は神の救いが世界中の人々にももたらされることを言われている箇所です。ここを引用されたというのは、神の宮は「全世界の人々の祈りの家」だという宣言なのです。神と人との間を平和と和解に導くイエスは、全ての人を神の祈りの家に迎えたいのです。つまり、神は全世界の人々を愛しておられるということです。キリスト教の神は、外国の神ではありません。全世界の人々の神なのです。
バチカンのセント・ピーター寺院の中庭に世界中から巡礼の人々がやって来ます。スペインのサグラダ・ファミリアも世界中の人が訪れます。観光目的の人もとても多いですね。だからでしょうか、設計を担当したガウディは巡礼目的ではない人にもキリストの福音を伝えたくて、入り口を三か所設計し、イエスの誕生の場面、受難の場面、栄光の場面としています。現在、誕生と受難のファサードが完成しています。ここに来た全ての人が神に祈りをささげる人となって欲しかったのではないでしょうか。飯塚教会も様々な国籍の方々が祈りを捧げる教会になりたいですね。教会はこの救い主イエスがおられる祈りの家です。礼拝においてイエスの救いと癒しをいただいて、生活の場へと出ていく、祈りの家です。
 
20節、次の日、朝早くいちじくの木の横をイエス一行が通ると、いちじくは根っこまで枯れていました。イエスは、祈りが聞かれることを弟子たちに示されたのです。
そして、神はそのイスラエルを経由して、すべての人の祈りをも聞かれることとされました。
22節「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言いい、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるなら、そのとおりになる。・・祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。すべてを神に期待し、疑わず、ひたすら信頼する祈りの力は絶大です。疑わずというのは、本当に難しいですね。てんかんの子供が弟子たちの祈りで癒されなかったことがありましたね。ひたすら、イエスに信頼するようにと教えられました。
そして祈りは、私たちを愛の行為へと向かわせます。個人的な祈りから、他者をとりなす祈りへと導きます。1コリ132節にこうあります。「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」
初めに、人は神の愛の対象だということをお伝えしましたね。愛の神に押し出されて私たちが祈る時、愛の行為に導かれるのは自然なことではないでしょうか。
 

2022.06.26
「父の願い」マルコによる福音書11章1~11節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 イエス・キリストは、神に代わってエルサレムの町に入り、中央にある神殿に入られました。神はそれを天から感無量な思いを持って見守っておられました。岩淵まことさんの曲に「父の涙」があります。その歌詞に「父が静かに見つめていたのは、愛する独り子の傷ついた姿。十字架からあふれ流れる泉、それは父の涙。十字架からあふれ流れる泉、それはイエスの愛」とあります。父なる神が感無量だったのは、この日に向かっていくイエスだったからです。
 
 神は天地を創造された時から、私達人間を「神と共に」生きるように造られました。神のパートナーとして生きるという事です。神が手を差し伸べられ、その手を人間が握る、そういうパートナーとして歩む人間の歴史がエデンの園で始まりました。ミケランジェロはそれを絵で表現しています(バチカン・システィーナ礼拝堂天井画)。しかし、神が差し伸べられた手を人間が握れないという事件が起きました。これが良く知られているアダムとエバが禁断の実を食べた物語です。この様にして人間の歴史が始まりました。
 
 しかし「神のパートナー」という計画は頓挫したのではなく続行されます。ひとりの人アブラハムを選び、ひとつの民になるまでその子孫を祝福されます。しかし、エジプト帝国下で過酷な奴隷生活にあえぐ中から神はこの民を救い、新しい歩みを始めた彼らと共に、テント生活を40年続け、約束の地に導き、祝福され、国を築く程に豊かにされました。ダビデ王はその豊かさを使ってテントに代わって神の住まいとして、石造りの神殿を建設しました。神は大変喜ばれ、ダビデ王国を益々祝福されました。しかし、ダビデ王の後の王と民たちは、神の差し出される手を振り切り、神のパートナーとして歩まなくなって行きました。神に対する反抗と頑なさに対して、神は幾人もの預言者を遣わされ、幾度も幾度も愛と忍耐を持って正されたのですが、聞く耳はありませんでした。とうとう神ご自身がエルサレムの神殿から出て行かざるを得なくなります。
 
 旧約聖書はこの経緯を伝えています。かつて追い出された神殿に、今、神に代わって神の独り子が入られます。その時、イエスの噂を聞いて集まった人々は、エルサレムまでの通り道に自分の上着や葉の付いた枝を敷いて、叫びました。910節です。「ホサナ(これは「救いたまえ」の意)、主の名によって来られる方に、祝福があるように。われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」これは神がエルサレムの神殿に戻って来られた、という喜びの叫びでした。
 
さて、かつて神を追い出したエルサレムですが、今度はどうするのでしょうか。結果から申しますと、神の独り子をも追い出します。それも町の城壁の外で十字架につけるという方法によってです。神はその様な結果になることをご存知でした。それなのに、イエスをエルサレムに遣わされたのです。なぜでしょうか。何があっても、徹底的に「人間と共に生きる」という強い願いがあったからです。
 ロバの子に乗ってエルサレムに入った事は、それを暗示しています。ロバの子に乗るというのは大人のする事ではありません。子どもがする事です。丁度、大人が三輪車に乗るようなものです。ちょっと恥ずかしい、かっこ悪い事です。神殿の家主、神の息子に相応しいのは大きく立派な白馬です。ロバの子に乗るというのは神の子キリストが自らを低く低くされた、と言うことです。また、ロバは荷物を運ぶ頑強さと、雑食なので飼いやすく、病気に強く、人間に仕える家畜として優れています。ロバに乗るキリストは、ご自分が仕えるために来た事を暗示しています。
 
ピリピ26-8節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。
 神殿から追い出され、町の城壁の外に追い出され、十字架につけられ殺されても、キリストは徹底的に人間と共に生きられました。もはやテントや神殿に住むのではなくて、私達人間と一つになる所まで、徹底的に共に生きる事を選ばれたのです。ここに神の願いが完成するための三つの新たな計画が始まりました。
 
 第一に、神は私達を神から引き離す全てのものから、買い戻されます。私たちは何に買い取られていますか。何かに捕らわれていませんか。嫉妬、コンプレックス、地位や名誉に代表される人の目、また、憎しみ、悲しみ、怒り、・・・。私たちはこれらに買い取られています。私たちを解放するための競りが始まりました。100万、200万、・・・・1000万、5000万、1億・・・と言う風に。最後に神が叫ばれます「私の独り子イエスの命」と。この競りはその後に続くものは誰も何もありません。
 今、あなたは何にとらわれていますか。神はその独り子キリストの命を十字架で捧げ、あなたを買い戻す代金とされました。イエスはその為にエルサレムに入って行かれたのです。神が差し伸べられる手を、拒否し続ける私たちの為に。キリストの十字架に神の私達人間に対する愛が溢れています。
 
 第二に、神は十字架で死んだキリストを、死人の中から復活させて、神の大いなる力を示されました。この復活の力は、もはや何者も死さえも神と人間を切り離せない事の保障です。クリスチャンも苦労があり、病気もしますし、悩みもあり、戦いもあり、最後は死を迎えます。しかし、私達を愛して下さったかたによって、私達は、これらすべての事において勝ち得て余りがあります(ローマ837)。なぜなら神がキリストを死人の中から復活させられた力に、希望が溢れているからです。その神の力がわたしたちを生かしてくださるからです(ローマ811)
 
 第三に、神は復活させたキリストを天に上げられ、その代わりに天から聖なる霊を信じる者に降し、信じる者のからだを神の住まい神殿とされます。これは私たちが神の様になることではありません。これは宝を土の器の中に持っている様なものです。年をとる程色々故障が出てきますし、原因は加齢ですと言われたりします。車なら部品を変えられます、家ならリフォームできます。コンピュータやゲームならリセットして一からやり直せます。しかし、私達のからだはそういう訳には行きません。この身体のどこに祝福がどこに救いがあるのですか、と途方に暮れる私達のからだです。それが、土の器と言う事ですね。ですが使徒パウロは希望があると力説しています。1コリント619-20節「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿です」つまり、聖霊という宝をいただいているのです。だから、あなたのそのからだは精一杯最後まで生きる希望があります。
神はあなたと共に、あなたとでなければ出来ないご計画を実現されます。どんなご計画なのでしょうか。期待しましょう。喜んで神のパートナーとしてこれからも歩ませていただきましょう。
 
最後まで神のパートナーとして歩む者に、天国が用意されています。天国とは、神と共に本格的に生活をするその始まりです。今は神を見る事はできません。天国では神と顔と顔を見合わせます。ですから、この地上の生活はその準備期間です。 神は今日もあなたに手を差し伸べられます。神はイエス・キリストをご自分に代わって遣わされました。イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れて下さい。全ての人が神のパートナーとして歩むこと、それが父なる神の願いです。


2022.06.19
「主よあわれみたまえ」マルコによる福音書10章46~52節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
イエスはエリコに着きました。ルカ福音書はイエスがその町でザアカイという男と出会い、彼を救われた話を伝えています。
 しかし、今日読んで頂きましたマルコ福音書はエリコでは何もなかった様に、イエスの一行がエリコを出発します。そして次は目の前の山の上にあるエルサレムです。そこでは十字架が待っています。さあー、ここからは登りです。きっとイエスは先頭を勢いよく登って行かれたと思います。
 
 その時です。後ろから『ダビデの子のイエスよ、わたしを憐れんで下さい』という叫び声がしました。テマイの子バルテマイです。かつて後ろからイエスの着物の裾を触った女性の様に彼も必死でした。イエスは立ち止って「あの男を呼んで来なさい」と言われました。この出会いに皆さんへのメッセージが隠されています。
 
 この出会いは道端で起こりました。道端とは川の流れに例えると、中央の勢い良く流れている所ではなくて、水際のことです。街道の真ん中を弟子達と、イエスの奇跡を見たり、話を聞いたりした大勢の群集が、ドドッと流れて行きます。
 
 教会生活をしていると、そういう流れに乗っている様な、みんなと一緒に流れているという感じの時がありますね。飯塚教会のいつもの流れに乗っている、そんな安心感、居心地の良さというものがありますね。ところが皆さん、エルサレムに向ってドドッと流れる弟子達と群集の中で、あることが起こります。
「イエスさまは、今そんな水際の事なんかに目を留めている場合ではない」。そんな思いを持って、大勢の人がバルテマイをたしなめ黙らせようとしていました。その時に突然イエスが立ち止られたのです。
 50年たっても100年たっても教会が見過ごしてはならないこと、私たちが立ち止まらなければならないこと、それがここにある、この道端で起こっている。これが今日のメッセージです。
 
 皆さん、何が起こっているのでしょうか。イエスの話も、恵みの御業も見たことの無い、今で言うなら教会に一度も来たことの無い人が、叫び出したのです。「ダビデの子のイエスよ、わたしを憐れんで下さい」。
 
  キリスト教会は礼拝を通して2000年間信仰を伝えて来たと言って良いぐらい礼拝は重要です。しかし、それぞれが聖書を手元に置いて行う礼拝はつい最近まで出来ませんでした。つい最近と言いましても二、三百年ということです。その代わりに建物の形や絵や彫刻、ステンドグラスが聖書の代わりをしていました。目でみたり、手で触ったり、肌で感じたりしたのです。そして耳で聞く聖書として、音楽家にミサ曲を作らせました。ヘンデルとか、バッハとか、モーツアルトのミサ曲は有名です。楽器の演奏と歌で聖書のメッセージを表現します。聖書をミュージカルにした様なものです。
 
その中で必ず歌われる言葉があります。ラテン語で「キリエ、エレイソン」です。「キリエ、エレイソン」は礼拝の最初の方で歌われます。これは今日の説教題の「主よ、あわれみたまえ」という意味です。
 私たちは今礼拝を捧げていますが、ここに私が立てるのは、ただ神のあわれみによってです。この教会の流れの中に私がいるのは、ただ神のあわれみによってです。今日もまず『主よ、私を憐れんで下さい』。「キリエ、エレイソン」そうみんなで歌いたいですね。皆さんこれはバルテマイの叫びから始まりました。
  
  キリストに従って来た群衆が、バルテマイを叱って黙らせようとしました。なんと言う事をするんだ、と思いますね。しかし、これと同じ事を今の私達もしていませんか?と問われている所でもあるのです。私達は神の憐みによって今ある事を忘れていないでしょうか。人間はそれを忘れがちなので毎週のミサで「キリエ、エレイソン」と教会は歌って来たのです。そう歌ってきた教会ですが、その歴史を振り返ると憐みの無い事も行って来た現実があります。歌うだけでは不十分なんですね。聖霊に導いて頂いて造り変えられる必要があるのです。
 
 さて、バルテマイの次はイエスの言葉に注目して下さい。「わたしに何をして欲しいのか」。今日この言葉は皆さんにも語られています。私達はその反対の事「わたしは何をしたらよいのですか」を考えてしまいますね。
 エリコに着く前、17節でイエスはひとりの人と出会っておられましたね。彼はバルテマイと正反対でした。イエスに走り寄り、つまり道端ではなくて道の真ん中で、御前にひざまづいて「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。バルテマイはイエスの後について行きましたが、彼は去って行きました。ショッキングな出来事でした。
 バルテマイと彼を比較してどこが違っていたのでしょうか。彼は素晴らしいものを沢山持っていました。バルテマイは物乞いでした。彼は信仰の事は何でも良く知っていましたね。バルテマイは無学でした。しかし、これらの違いは大した問題ではありません。重要なのは「主よ、このわたしをあわれんで下さい」と言う姿勢です。
 
  最後にもう一度この言葉に注目して下さい。「主よ、あわれんで下さい」とバルテマイが言っているのに、イエスは「わたしに何をして欲しいのか」と聞き返されました。これは「あなたの思い願い、知って欲しいこと、分かって欲しいことは何ですか」と言う質問です。ここには、イエスの慈しみと憐みがありますね。寄り添ってくださる姿があります。彼は答えました「目が見える様になることです」。盲目のままで生きる事がどんなに辛いか、イエスさまこの私の事を分かって下さい、と言う思いがこの言葉の中に凝縮されています。そして、奇跡が起こります。すると彼はイエスに従いました。
 
  皆さん、病気が癒された。障害が除かれた。そう言う奇跡を起こしてもらって御利益を受けた場合、お礼をしたり、その人を支援したり、教祖のごとく持ち上げたりはするかもしれませんが、従うと言う事は無いと思うのです。「私に従って来なさい」とも言われていないのにバルテマイはイエスに従って行ったのです。「ああ、昔、道端でイエスに叫んだ物乞いがいたなあ」で、この出来事は終わらなかったのです。イエスが天に帰られた後、教会によってこの福音書が綴られた時に、教会のメンバーは「テマイの子バルテマイ」と言えば「あっ、あのバルテマイさんね」とみんな知っていた。聖書に名前が載っているということはそういうことです。つまり、彼はずーとイエスに従い続けたのでした。
 
 彼をその様に変えたのは何でしょうか。最後に一か所紹介します。ローマ916節「従って、これは人の意志や努力ではなく、神の憐みによるものです」。『熱心な信者さんですね。立派な信者さんですね』とか言われても、バルテマイは常に自分の信仰の原点を忘れませんでした。主のあわれみを受ける事からすべてが始まります。


2022.06.12
「天国への道」マルコによる福音書10章13~31節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ハヤブサ2が小惑星から持ち帰った物質の中に20種類以上のアミノ酸が含まれていた、というニュースがありました。「生命の根源」にアミノ酸が深く関わっていて、それが地球以外のところで見つかった、ということで注目が集まっています。今朝のテーマの「永遠の命」これは全ての人にとって大変重要な事柄ですね。
 
 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とイエスに尋ねた人がいました。彼は努力家で、優秀で、人からも信頼され、尊敬され、その結果高いポストについて金持ちになりました。彼は、能力や成績や功績、富の所有、つまり人間の資質を重要視する社会の価値観をもろに受けて生きている人間を象徴しています。
 それで彼は、人の努力と優秀さによって天国に入れるかどうかも決まる、という考えのもとで、一生懸命信仰に励んで来ました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」イエスの答えられたこれらの戒めは、誰もが知っていて守っている基本的な戒めです。「先生、私はそういうことはみな、小さい時から守ってきました」とは、もっとハイレベルの行動が必要だと彼が考えていたからです。
 
 彼がイエスに会いに来る前に、人々に連れられた幼い子どもが来ていました。すると、弟子達は子どもたちを叱って追い払おうとしました。弟子達は、何も差し出せない、何の業績も功績もない人を横に追いやる、人間社会を象徴しています。
 さて、二つのイエスの言葉に注目して下さい。15節「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ」。21節「あなたに欠けているものが一つある」。この言葉には共通している事があります。それは、「あなたは神の恵みを忘れていませんか」ということです。「神の恵みに注目せよ!」と警笛を鳴らしておられるのです。
 「欠けているもの」、「子どものように神の国を受け入れる」とは、イエス・キリストの恵みに目を向けよということです。信仰をしているつもりでも、信仰以外から入ろうとしている時があります。それに気付かない時があるのです。私たちは大丈夫でしょうか?弟子達は道を見誤っていました。彼らの目を覚まさせるためにイエスはショッキングな事を語られます。
 
 23-27節までをもう一度読みます。ここで「財産のある者」「金持ち」とは、努力家であり、優秀な人で、信仰も熱心で、神の祝福を受けて、金持ちになっている人の事です。弟子達にとっては羨ましく思う人でした。「この人こそ天国に入る資格がある」と思っていました。ところが、らくだの例えでそれが不可能であるとのイエスの言葉に、驚きのあまり弟子たちの口から「それでは、だれが救われるのだろうか」とイエスに異議申し立ての言葉が飛び出しました。
 すると、イエスは彼らをじっと見つめられました。お怒りになるのではないか、と弟子達は思ったんじゃないでしょうか。ところが27節「人間にはできることではない」と、あなたがたの言う通りだと、ガッテンされたのでした。これにもちょっと驚いたでしょうね。
 しかし、次の言葉「神には出来る」。ここが今朝のキーワードですね。すなわち天国に入るのは、人の能力や努力や功績ではなく、神がなさる恵みの業なのです。
 
 ただ恵みによって、これが天国への道を歩む秘訣です。
 神の前から去って行った人の話しが福音書にもう一つありますね。それはルカによる福音書15章のイエスの譬え話に登場する放蕩息子です。彼は財産を持って立ち去りました。しかし、その財産を放蕩に使い果たして失ってしまいます。彼はそこで初めて神の恵みの大きさに気が付きます。そして、神の下に帰って行きました。彼は言いました。「自分には天国に入る資格は全くない。雇人としてでも結構ですから・・・」と、ただただ恵みに頼るしかないとすがりました。ところが、神は言われたのです。「息子が帰って来た」。
 
 もう一人忘れてはならない人がいます。それはイエスと一緒に十字架につけられた囚人の一人です。彼は自分を救えとは言いませんでした。その反対の自分は救われない者天国などに行けない者ですが、こんな者がいた事を思い出して下さいと、一滴の恵みの注ぎを求めました。すると、イエスは「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われたのです。
 この二人に共通している事に天国への道を歩む秘訣があります。自分は何も持っていない、ただイエス・キリストの恵みによってしか、天国への道を進めない者であるという信仰です。これが、天国への道を進む秘訣です。
 
29節でイエスは家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てる事について語られます。ルカによる福音書はここに妻を加えています。これらは、私たちに必要なものです。小さなものではありません。非常に大きなものです。
 それをイエスの為、福音の為に捨てる者とは誰の事なんでしょうか。30節、捨てたものが100倍になって帰って来ます。そして永遠の命を受ける。先のものが後になり後のものが先になる、この逆転は天国のしるしです。天国への道を歩む者の事を言っているのです。
 なぜ天国の道を歩む者に、イエス・キリストの恵みの為に、一番大切なものを捨てる事を命じられるのでしょうか。イエスは私たちに問われます。「ではイエス・キリストの恵みの大きさはどうなのか。これらのものと較べたらどうなのか。あなたは、キリストの恵みをどう見積もっているのか?イエスの救いの十字架と復活の恵みが、捨てよと言われるもの以上のものとなっているか」と。
 今既に、神の支配の中を歩んでいる。天国への道を歩んでいる。そう信じる皆さん。私達の目に色々な問題と、希望が見えない状態が見えてきますが、それはさなぎと同じです。私たちは次のステップの準備を着実に進めるべきです。落胆してはいけません。今週も主の御後に従って行きましょう。


2022.06.05
「神のおもてなし」マルコによる福音書9章33~37節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 イエスは弟子になったペトロとアンデレからカファルナウムにある一軒家の提供を受けられました。これから始まる忙しい日々の中で、弟子たちの休憩場所、静まりの家とされました。神の家である教会もそれと同じです。前任の教会は山崎という場所にとても近い位置にあります。山崎の合戦で秀吉に茶のおもてなしをした千利休の事を聞きました。それは戦場に急遽造られた草庵で行われました。鎧も兜も刀も脱いで、狭い握り口より、二畳という空間に入ります。戦場とは思えない静まりの時でした。湯の音、茶箋の音、一人のいのちから、対面する一人のいのちへ、静かに一服の茶が出されました。利休はこれから戦に臨む秀吉に、何を語ったのでしょうか。これを最高のおもてなしと考えていました。
 
 教会という神の家で頂くおもてなしも、これとよく似ています。今の自分がまとっている立場とか身分とか責任とか重荷とか、色々なしがらみがあります。その全てを脱いで、幼子の様に、静まって、落ち着いて、ひとりのいのちになれる所、そのいのちを与えた方、すなわち神からの一言を頂く所、その様なおもてなしを頂く所が教会です。
 
 イエスは、33節で十二弟子に尋ねられた様に皆さんにも尋ねられます「人生の道中、どんな事を考えて歩んで来ましたか」と。弟子達は「だれが一番偉いか」と言う事を考えていたそうです。それはどう言うことでしょうか。例えば使いさしのクレパス12色セットのふたを開けると、それぞれ長さが違うクレパスが並んでいます。海の絵を描く時は青を、山の絵を描く時は緑を、人物を描く時は肌色を沢山使います。『よく使われるクレパスは優れていて、あまり使われないのは役に立たない、必要ないクレパスだ』。弟子達はその様に自分を、他人を見ていました。今の世の中でも、仕事の現場でも学校の現場でも家庭でも、そういう人間の見方が増えています。
 
ミレーの作品「落穂拾い」には沢山の種類の色が使われています。近づいて見ると色が重ねて塗られています。「私が一番偉いんだ。私の色があなたのと重なって隠れてちょっとしか見えない。それは困る。わたしが上だよ。私が一番偉いんだ」と色同士が張り合うなら「落穂拾い」と言う作品は生まれません。神様はこの世界という大作のアーティストです。まだ完成していません。皆さん一人ひとりが生まれて、こうして生きているとは、神様の絵具箱に加えられていると言う事です。今、神様が皆さんにまず伝えたい事は、また伝えてもらいたいと願われる事は、これです。『ここに集まったいのちに、無くてよいいのちは一人もいません!』。
 
次に神様が伝えたい事はこれです。『幸せを求めておられる皆さん、アーティストである私に用いられる人が幸せです』。なぜなら『神様の為さる事が時にかなって美しい』からです。神様がみなさんを美しくして下さるのです。その美しさに注目して欲しいのです。「誰が一番偉いか」弟子たちはこれを論じ合っていましたね。この視点から生まれる美しさはビューティーです。神様が創られる美しさはハーモニーです。例えば歌を例にとってその違いをお話しましょう。一人で歌うアイドル歌手はビューティーを目指します。他の歌手より力強い声が必要です。かっこよくなければなりません。魅力的でなければなりません。自分を100%アッピールしないと他の人に負けてしまいます。
 
それと違って大勢集まって歌う合唱、例えば賛美チームはハーモニーを目指します。自分の声をアッピールするのではなくて、他の人の声に合わせます。自己アッピールではなくて、反対に他の人の声をより美しく聞こえる様に自分の声を出すのです。35節「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」。これはイエスが皆さんに神様が目指す美しさ、ハーモニーを目指すよう勧めておられるのです。
 
36節イエスが一人の子供を連れて来て、大人が集まる真中に立たせて、抱き上げて言われました。37節「わたしの名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。誰が一番偉いかと言う視点、ビューティーを目指す弟子達にとって、子どもはうるさい邪魔な存在、役に立たない不用な存在です。しかしイエスはその子どもを御自分と同一視されました。それだけではなくて、ご自分を遣わされた神様とも同一視されました。これは、誰が一番か、誰がビューティーか、仕える事ではなくて、対立や、対抗や、張合いが絶えない、弟子達、また私達に対する強い抗議のデモンストレーションです。
 
では、どうすれば神様に用いられ、ハーモニーと言う美しさが生まれ、幸せになれるのでしょうか。ある日、我が子の幸せを願うヤコブとヨハネのお母さんがイエスに「うちの子をあなたの右と左の座に着かせてやって下さい」とお願いした時、イエスが言われた言葉にヒントがあります。
 
マルコ1045節「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」。イエスがまずあなたに仕えてくださいます。ですから、あなたがまず神のおもてなしを受けて下さい。神のおもてなしは最初に話した千利休の極めたおもてなしと似ています。あなたが担っている全てのものを横に下ろして、幼子のごとく、ひとりのいのちとして神の前に、御言葉の前に立って下さい。イエス・キリストの十字架は、わたしたちが神の前に立つことを、御言葉の前に立つことを可能とする為に、ささげられたいのちです。後はアーティストの神様があなたを用いて美しい作品として下さいます。
神に愛された者が神と人を愛する者に変えられます。神に仕えられたものが神と人に仕える者に変えられます。神のおもてなしを受けた者が、おもてなしをする者に変えられるのです。
 

2022.05.29
「キリストの許に」マルコによる福音書9章14~29節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ギリシャ正教会では、家庭で何か新しく購入した時、司祭さんを呼んで祝福のお祈りをしてもらう習慣があります。以前も聞かれたと思います。この習慣は、自分たちは生活のことごとにおいて、主のもとで生きるということです。それで、今朝は次の御言葉に注目しましょう。19節「その子をわたしのところに連れて来なさい」です。
 
 9章に入ってイエスは高い山に登り、御姿が変わり、モーセとエリヤと語り合い、雲の中から神の声がしました。その場に特別に立ち会ったペトロ・ヤコブ・ヨハネは将来、教会の指導的立場に就く人々ですね。彼らにとってそこはまるで天上にいる心地でした。遠方には山の上の町エルサレムが見えた事でしょう。御業を終えてこの地上を去る日を目指す覚悟をして、イエスはこの山を下りました。この箇所で強調されているのは、何でしょうか。それは、イエスが十字架と復活を通って天を目指される事です。つまり天と地を結ぶ事を目指されます。それで、モーセとエリヤがいるんですね。
 
 下山すると、そこには迷える群集と、論争に終始する律法学者、その対応で忙しくしている弟子たちがいました。ここで注目して欲しいのは、霊を追い出せないで面目を失って落ち込む様子の弟子達です。こういう流れの中での19節のイエスの言葉です。「なんと信仰のない時代なのか。いつまであなた方と共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。」という嘆きの言葉が、イエスの口から飛び出しました。
 
 この嘆きは、どのような思いからだったのでしょうか。同じように言って嘆かれた箇所が、もう一か所あります。それはルカ2425節です。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とあります。復活した身体で一緒に道を歩き、同じ食卓に着き、パンを裂いて手渡されるまでイエスに気付かなかった二人の弟子たちを嘆かれました。(ここには教会の姿が象徴されている様に見えます)
ここでも、復活したイエスの身体の事よりも、イエスが天に帰られた後、天から送って下さるものの事、すなわち天と地が結ばれた事、が強調されています。
 
 霊を追い出すよう願ったが出来なかった結果、期待が外れて落胆する人々、力不足だったと落胆する弟子たち、その様子を律法学者たちは他人事のように見ていました。そういう地上の様子が、これから天を目指すイエスにとって、とても気がかりだったのです。
 
 イエスさまの思いはこうだったのではないでしょうか。「その子をわたしのところに連れて来なさい。あなたはわたしを誰だと思いますか。わたしはこの後十字架と復活を通して天と地を結ぶ者です。汚れた霊でさえ『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないで下さい』と叫んで、わたしの事を知っていていますよ(マルコ57)」。ところが、父親が「もし、おできになるものなら」と言ったものですから「できるものなら、と言うのか。信じる者には(イエスが天と地を結ぶお方と信じて、イエスのもとに連れて来る、イエスのもとに問題を持って来る、つまりイエスにおまかせする者には)、どんなことでもできるのです」。
 キリストが天に昇られた後の教会は、正に変貌の山から下りて来られた時のイエスが見られた状況、そういう中に置かれるからです。
 
28節、家に入って弟子たちがそっとイエスに尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」。人目を避けた背景には、彼らの権威が関係していますね。十二弟子の任命は、悪霊を追い出す権威を持たせるものだったからです(315)。果たしてこの権威は何のために与えられたものでしょうか。イエスの答えは「祈りによらなければ」ということでした。
 
 6節に「弟子たちは非常に恐れていた」、10節には「死者の中から復活するとはどういうことか」と論じあった。またイエスがご自分の身に起こる十字架と復活のことを語られると32節で、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とあります。
弟子たちとイエスの関係は、どうなっているのと思いますね。先週、ペトロはイエスに「あなたはメシアです。救い主です。」と答えましたね。しかし、その信仰はイエスを嘆かせるものでした。「祈りによらなければ」とは、イエスの後について行くために、絶えず必要なのは祈りなのだ、とイエスは示されます。
 
 この祈りとは、熱狂的とか、霊的な雰囲気の祈りという、祈りのノウハウの事ではありません。イエスは祈るために山に登られました。独りで登られました。9章の変貌の山も祈るためだったと思います。しかし、この時は後の教会の指導的立場に就く三人の弟子を連れて行きました。祈りとは何なのかを彼らに教える為です。イエス・キリストによって天と地が結ばれている事に目を開かせて、気付かせ、その確かさを確認する、これが祈りです。
 
 祈りによるとは、イエス・キリストとの親しい交わり、深い交わり、とも言い換えられます。霊を追い出すのは、人間の霊力によってではありません。人間の権威によるのでもありません。天と地を結ばれたイエス・キリストによってそれは為されます。ですから、私たちの為すべきことは、イエス・キリストのもとに行くことです。問題を持って行く事です。あるいは連れて行く事です。今朝は父親が子どもを連れて来ましたね。生活の中の事々をキリストの許に持って行って、どんなことでもおできになるキリストにお任せする、それが祈りであり信じることです。「その子を、わたしのところに連れて来なさい」、私の許に来なさい、私の許に連れて来なさい、と主は求められます。教会に来るとはキリストの許に来る祈りの行為です。キリストの教会は、キリストの十字架と復活によって、天と地が結ばれている事に目覚め、気付き、生きる希望を頂く所です。


2022.05.22
「キリストとは誰なのか」マルコによる福音書8章27~9章7節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ★今から69年前の今日、この場所にキリスト教会が誕生しました。それが私たちの飯塚教会です。今日、キリストは私たちにも二つの質問をされます。第一は「人々はわたしのことを何者だと言っているか」。69年経った今、私たちの教会のことは、確かに地域に知られています。しかし、キリストご自身のことはどれだけ知られているのでしょうか。先週教会総会が終わって、私たちは来年の創立70年に向かって進みますが、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と、問われるキリストのことを心に留めて進みましょう。
 
 ★さてイエスさまは私たちに、もう一つの質問もされます。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だ、と言うのか」。あまりにもストレートな質問だったので、弟子たちの口から言葉が出ませんでした。見かねてペトロが、あなたはメシアです、と答えました。キリストと言う意味です。しかしイエスは「その通りである」とも「いや違う」とも、おっしゃいませんでした。その代わりに、ペトロが答えた、イエスが誰であるかを、誰にも話してはならないと戒められました。なぜそんなことを言われたのでしょうか。
 
 ★マタイ福音書は、ペトロがそう答えられたのは、イエスさまを遣わされた天の神がその答えをペテロに現したからだ、と伝えています。クリスチャンの方はこのことを体験しておられますね。人は自分で信じてキリスト教を選ぶんだ、と思うのですが、そうではない事に気付かされます。イエスも最後の晩に弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。クリスチャン作家の遠藤周作は、自分がクリスチャンになった事を、それまで和服を着ていた者が洋服を着せられた、と例えています。最初は窮屈さや違和感がありましたが、自分の体にピッタリ馴染んでもう脱ぎたくなくなった様なことを書いています。「あなたはキリストです」とペトロは答えましたが、それ口先だけではなくて生き方にまで関わります。イエスはピリポ・カイサリアで、キリストを信じる者の生き方を三つ教えられました。私たちの教会も、イエスはキリストであると信じます。この信仰を持つ私たちは、どのような生活に招かれているのでしょうか。三つの生活が勧められています。
 
 ★第一は、人間の思い、先入観を捨てる生活です。3133節で、イエスはご自分が必ず多くの苦しみを受け、指導者たちから排斥され、殺されることを弟子たちにはっきり話されました。『キリストは、ローマ帝国の支配から解放して、イスラエルの国を復興して下さる』、と言う先入観を持っていた彼らにとって、それは非常にガッカリする内容でした。三日目の復活のこと等耳に入らなかったようです。ペトロがイエスをわきへお連れして、「先生、そんな事を言ったら、もう誰もついて来なくなりますよ」と、いさめたのでしょう。するとイエスは叱られました。風や海や悪霊を叱られたことがありますが、弟子を叱ることは今までにない事でした。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。これは、人の思いはどうでも良い、と言うのではありません。神の思いは人の思いを高く超えている、と預言者イザヤは伝えています。(5589)。私たちは日々の生活の中で、色々経験し、感じ思い考えますが、人知を遥かに超えた神の思い、万事を益となるように働かせて下さる神の思いに信頼を置いて、生活しましょう。旧約聖書の箴言35-6節もこの生活を勧めています。
 
 ★では第二番目に行きましょう。いつもは群衆の方からイエスの所に集って来ました。ところが34節ではイエスが群衆を弟子たちと共に呼び寄せられました。これは今までにない事でした。呼び寄せるとは集めると言うより、招くことです。ここでイエスは改めて弟子のクリスチャンの教会の基本を示しておられます。皆さん私たちの教会の礼拝が「招きの詞」で始まるのもそのためです。キリストの招く声が耳に聞こえるわけではありませんが、教会に行って見よう、と思わされたから皆さんは来ました。不思議です。そして、教会に来て次に起こるのは「私もキリストを信じて、ついて行きたい」と思うことです。これも不思議です。何か得する事があるからでしょうか。いいえ、キリストは言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。
 
 ★殆どの宗教ではご利益を得ることが目的で入信します。しかし、キリストの後について行っても、ご利益は得られません。得るのではなくて捨てるのです。十字架を避けるのではなくて背負います。でも「キリストの後について行こう」という思いが起こされます。それは自分が持っている命に目が開かれるからです。35節以下はその事を伝えています。キリストの後について行く時に、自分の命のためになる、と思っていたことがそうではなく、ためにならないと思っていた事が、命のためになる事に、気付かされます。36節、命は掛け替えのないものですが、より強くその掛け替えのなさに気付かされます。それによって生き方が変わります。
 
 ★更に、38節が伝える、キリストが「父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき」と、91節の「神の国が力にあふれて現れるのを見るとき」は、この私たちの命が、今生きている時だけで終わらず、死んだ後、この世界の終わりの時、審判の時まで関わる命である事を伝えています。ですから、私たちの命は終わりの日の救いが必要な命なのです。ですから、私たちはこの世で生きている間の命のことだけではなくて、終わりの日の事を考えて、この命を生きさせていただきましょう。幸い、キリストがその最後の審判者です。これが第二の教えです。
 
 ★第三は、92節以下、高い山の上でのキリストの衣の白さと、エリヤとモーセが出現し、キリストと三人で話し合われた、と言う弟子たちの経験に秘められています。昔、旧約聖書の時代で、エジプトから解放されて神の民になった人達も同じような経験をしました。その時、彼らはシナイ山の麓に導かれ、選ばれた数名が山に登り、山頂付近でこれから神の民を、良い地まで、導いてくださる神を仰ぎ見ます。今回、高い山に登ってペトロとヤコブとヨハネが高い山で経験したことは、キリストの後について行く人々を、終わりの日まで導いて下さる神との出会いでした。7節その時に雲の中から声がありました。それは天地の造り主全能の父なる神の声です。「これは、わたしの愛する子。これに聞け」。今日、私たちにも、この天からの言葉が与えられています。「これは、わたしの愛する子、これに聞け」。神はエジプトを出た神の民を、昼は雲の柱、夜は火の柱によって約束の地まで導かれたように、御言葉と聖霊で私たちを最後まで導いて下さいます。


2022.05.15
「種を蒔く人」マルコによる福音書4章1~20節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
★皆さんも種蒔きの経験がおありだと思います。種を蒔く時の気持ちを漢字二文字で表すと何でしょうか。ヒントを出しましょう。小学生の時に朝顔の種を蒔きます。芽が出て、双葉が生えて、蔓が伸びて棒に巻きつき、蕾が出来て、花が咲き、その花びらが枯れた後、種ができます。朝顔の一生を観察する目的は、理科の知識を得るだけではありませんね。『あなたの人生も、この朝顔と同じだよ。あなたも花を咲かすのだよ。あなたには、漢字二文字があるんだよ』。答えは『希望』です。キリストが種を蒔く人のお話をしたのも、皆さんに生きる希望を持ってもらうためです。
 ★キリストが言う、種を蒔く人は道端や、石だらけの所や、茨の中にも、種を蒔きます。不思議ですね。実は、この種蒔く人とはキリストご自身のことです。キリストは「神からの言葉、み言葉」という種を私たちの心に蒔きます。
 ★道端とは、全く聞く気のない人です。石だらけの所とは、聞いている振りをしますが、心から聞かない人です。自分に都合が悪くなると聞かなかった事にする人です。茨の中とは、心から聞くが、心配や不安や誘惑に負けて聞いたことを忘れてしまう人です。しかし、キリストは私たちに良い土地に成る為に頑張りなさい、と言っておられるのではありません。
 ★私にも道端と、石だらけの所と、茨に覆われた所があります。先にクリスチャンに成った姉が、「貞雄君、教会に行こう・・・」と誘いました。聞く耳を持たない道端であった私は断りました。しかし、1972年札幌冬季オリンピックで「銀盤の妖精」と言われた、フィギャースケーターのジャネット・リンさんが出る、大阪中之島の公会堂で開かれた伝道会の誘いには応じました。聖書の話を聞きましたが、石だらけの私の心の中には入りませんでした。それよりもジャネット・リンさんの美しさに魅了されて帰って来ました。その後も姉から教会への誘いを受けていましたが、理由をつけて毎回断っていました。とうとう姉は私を誘わなくなりました。
 ★ところが、姉が私の20歳の誕生日のプレゼントに英語対訳の新約聖書をくれました。その表紙に伝道の書(コヘレトの言葉)12章1節の、み言葉「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」、が書いてありました。この言葉がグイグイと私に迫って来る体験をしました。丁度その頃、私は卒業後の長い人生を進むのに、何か私を根底から支えてくれるものがないか、捜していました。そして自分から教会に行くようになり、その年のクリスマスに洗礼を受け、クリスチャンになりました。姉を通してキリストが蒔いた種が芽を出したのです。しかし、クリスチャンになってから、茨に覆われる時もありました。
 ★それで気付きました。皆さん、私たちは、道端も、石だらけの所も、茨に覆われる所も、持っています。しかし、礼拝で祈り会で、また聖書に親しむ中で、キリストにみ言葉の種を蒔いて頂く時に、必ず良い土地に落ちて、芽を出し実を結ぶ時が来る、という希望を頂いて、この人生を歩ませていただけます。今日の中心聖句のマルコ福音書43節がそれを皆さんに伝えています。もう一回読みます。
 ★「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。次は方言で言います、「よく聞きんしゃい。種ば蒔く人が、種ば蒔きに出て行きんしゃった」。次は聖書の原典を読みますと、「よく聞きなさい」の後に「見よ」という、注意を促す言葉が入っています。さて何に注意するのでしょうか?今日、最初にお話ししましたね。小学生に朝顔の種を蒔かせるのは、彼らに希望がある事に気付かせるためだと。種を蒔く人、キリストが今日もまた、種を蒔きに出て行った。誰の所へ行かれたのでしょうか。皆さん一人ひとりの所です。あるいは他の人。まだ教会に来ていない人の所。聖書を読んだことのない人の所です。キリストには全ての人に知らせることがあります。それは「あなたには希望がある」、です。
★耳を傾けない道端や、心を閉ざし頑なな石だらけの所、欲望、誘惑、恐れ、嫉妬に支配されて理想を捨ててしまう、善を捨てて悪をしてしまう、茨が覆う所は、希望を持とうと思うのですが、それがかなわない私たち人間の愚かな現実を表しています。また、キリストを十字架につけてしまう、人間が持っている、キリストや神に対する反感と不信や、神を畏れないで悪を行う現実を表しています。それでもキリストは希望を持って私たちに、み言葉の種を蒔き続けられます。必ず良い地に落ちて実を結ぶという希望が私たちにあるからです。全ての人には希望がある、人から良い評価を得た一部の人ではない、そうでない人にも希望がある。キリストはそれを最後の最後まで言葉と行動で表されたから、十字架につけられ死にました。「人間には希望がある」。キリストはそう言われたが、それは単なる理想であった。キリストを取り巻く全ての人がそう思いました。しかし天の神はそのキリストを死人の中から甦らせて、『キリストは単なる理想を示したのではない、全ての人には本当に希望がある。人間だけではない、この星の全ての生き物に、確かな希望がある』と宣言されました。ですから、私たちはキリストの教会に来てこの希望を確認し、人生を希望を持って進みます。私たちも全ての人には希望がある事を、行動を持って表しましょう。
★さて2022年度の教会目標を「み言葉の種を蒔きに出て行こう①」としました。天に帰られたキリストは今、私たちを通して種を蒔かれます。①としたのは、キリストが蒔かれる種がどんな種なのかを確認する、準備段階の意味です。「聖書は物語る」という本をテキストにして、改めて確認しましょう。来週5/22は創立69周年を迎えます。創立100周年まであと31年あります。31年足すと私も98歳になります。虎は死して皮を留めます。私たちは何を残しますか。それよりも未来に繋がる種を蒔きましょう。み言葉はあなたがたの魂を救うことができます。(ヤコブ121節)。わたしの口から出るわたしの言葉も、空しくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ5511節)。「見よ、種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。希望に満ち溢れてキリストは出て行きました。未来に繋がる種には色々あるでしょう。しかし、み言葉の種蒔きは、私たち教会に託されています。
★最後に、その種は実を結ぶとあります。どんな実でしょうか。ガラテヤ52節に、九つの実が示されています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。この九つの実は人間には希望があることを表す実です。私たち自身種を蒔くだけではなくて、この実も結ばせていただきたいですね。皆さん、実の中には種がいっぱい入っていますよ。「全ての人には希望がある」その事をこの結ぶ実で表したいですね。これも種を蒔くのと同じです。
★一昨日の夜「子どもたちの未来のために今できること」という講演を聞きました。その中で核のない戦争のない持続可能な地球になるのは22世紀か23世紀か分からないが、講演会に集まった人は誰もその時にはいません。その時にいるのは、今生まれた子、保育園、幼稚園、小学校にいる子どもです。と言われました。皆さんの周りにいる子どもに種を蒔いて下さい。皆さんの結ぶ実で「全ての人には希望がある」というメッセージを表して、種を子どもに蒔いて下さい。


2022.05.08
「異国の母親とイエス」マルコによる福音書7章24~30節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ★神さまが目指しておられるのは、全ての人を祝福することです。そのために一つの計画を立てられました。特別に神の民を選び、神が彼らと共に歩む中で、全ての人を祝福する計画です。その民の名はイスラエルです。しかし、イスラエルは神から離れて行きました。そしてユダヤ教と言う独自の宗教を作る道を進みました。神が彼らと共に歩む方法では、もはや計画が実現できません
。それで神は新しい計画を立てられました。
 ★愛する独り子イエス・キリストをイスラエルに遣わして、彼らを神に立ち返えらす計画です。しかし彼らはキリストを退け殺しました。今読まれました聖書のズーッと前、3章6節では、既に当時の宗教的指導者たちが、キリストをどのようにして殺そうかと相談し始めていました。キリストはその事を薄々感じておられましたが、十字架にかかって死ぬ最後まで、イスラエルに遣わされ
た者として、忠実に働かれました。
 ★しかしそんな中、キリストは一度だけティルスという外国に行かれたことがありました。その時、誰にも知られたくないと思っておられた、と24節にあります。お一人でのお忍びでした。自分はイスラエルのために遣わされました。そのためにイスラエルの一員として生まれたのに、彼らは私を受け入れようとしません。そんな悩みを持たれていたのだろうと思います。だからお一人でのお忍びで行って、家の中に閉じこもって、神に祈っておられたのか、気持ちを休めておられたのでしょうか。ところが、「病気を治したり、奇跡を行う、今イスラエルで大評判のキリストが、この町にも来られたぞ」と言う噂が広がりました。そして、一人の母親に出会います。この出会いは神の御計画だったのでは、と私は感じます。
 ★皆さん、今日は母の日です。お母さんに感謝する日ですが、お母さんの思いに注目する日です。この異国の母親はすぐにその噂を聞きつけました。娘は汚れた霊、悪霊に取りつかれていた、とありますから、お母さんは娘さんから目が離せない日々を過ごしておられたと思います。生まれ故郷のシリア・フェニキアではなくてティルスですから、そこには親族がいません。ですから普通
の子育てでも大変です。このままではお母さんの体がもちません。そういう大変な中でも、頭のアンテナをピピッと働かせながら、絶えず娘の救いを第一に考えていました。皆さんのお母さんもそうだったに違いありません。私の場合、牧師になってから母と会った最期の日まで、母は経済的な面を心配してくれたことを思い出します。
 ★娘から悪霊を追い出してくださいと頼む母親にキリストは答えられました。マタイ福音書もこの出会いのことを伝えていますが、ズバリ否定して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか、遣わされていない」と言われています。27節の「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない」は、同じ内容のことを遠回しな表現を使って、キリストは彼女の願いを拒否されまし
た。
 ★ところが母親は同じ遠回しな表現で言い返して来ました。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」。「助けてください。助けてください」と、娘の救いを求める強い感情を吐き出すのではなくて、冷静かつ、巧な言葉を言い返して、母親はキリストを見上げたのではないでしょうか。『イエスさま、何を躊躇なさっているのですか。イスラエルのために遣わされておられることは知っております。しかし、それだけでしょうか。この食卓の下でおこぼれを待つ子犬の様に、神の救いを求める母親がこの世界に無数にいます。あなたはその一人一人の救い主になられるお方ではないのですか』。
 ★聖書には沢山の母親が登場します。カインとアベルの母エバから始まって、箱舟に乗ったセムハムヤぺテの母、ソドムに残る娘家族を思って後ろを振り向いて塩の柱となった母、息子イシュマエルの死を見ていられないと言って泣いた母ハガル、・・・数えきれない母親が登場します。そして、現代の私たちの脳裏にも、戦死した子の遺骨を前にした母、災害で子が行方不明の母、子を拉致された母、ウクライナの母親たち、山梨道志村の山中で行方不明の子どもが今捜索されている母親。・・・・ティルスにお忍びで来られたキリストのもとに、ひれ伏した異国の母親の眼差しは、これらの全ての母親を代表しての眼差しだったのではないかと、私なりに察するのですが、ともかく、この出会いはキリストにとって大きかったと思います。
 ★実はこの後、8章でキリストは弟子たちに「あなたがたは、わたしを何者だというか」と質問し、十字架の苦しみと復活を預言し、9章で高い山に登られ、キリストの姿に変化か起こったことを告げています。そして、エルサレムへと、十字架へと向かわれました。その前のこの出会いは、キリストにとって大きな体験だったに違いありません。イスラエルの救いの為に来たキリストは退
けられ殺されましたが、復活して、今度はイスラエルだけではなくて、全てキリストを信じて助けを求める者を罪の支配から救って、神の支配という平安と祝福の中に入れる、神の新たな計画が進められています。
 ★ギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれだった、この母親はキリストと全く関係のない所にいました。しかし、神はこの母親とキリストを出会わせられました。同様に皆さん、神によって今も、キリストとの出会いが起こっています。全く関係のない人がキリストと出会います。SOS、save our soul. キリストは、その叫びを聞いて今も働かれます。既にキリストと出会い結ばれた皆
さんもその叫びを聞き逃さず、キリストの働きに加わらせて頂きましょう。
 ★この母親の言葉のゆえに、キリストは彼女に宣言されました。「家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。皆さん、私たちも今、キリストの教会に集まり、そして、この後ここを去りますが、キリストは私たちにも言われます「家に帰りなさい」「安心して帰りなさい」「わたしはあなたのために働く」「信じて帰りなさい」。お祈りします。


2022.05.01
「外なる人と内なる人」マルコによる福音書7章1~23節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ★皆さん、私たちは外なる人であり、内なる人でもあります。肉体と精神とか、体と心あるいは魂、霊とか、色々と言われるのもそのためです。この両面を持っているから、他の生き物にはないものを持っています。それが宗教ですね。しかし、「わたしは無宗教です」と言われる方が増えています。殆どの人の理由は、既成宗教から受ける煩わしさ、つまり色々な決まりを守らなければならない、という制限を受けるからではないか、と私は思います。
 ★読まれましたマルコ福音書7章では、まさにその宗教の煩わしい制限のことで、宗教家たちが5節でイエスに質問をしました。イエスはその質問に答えるのではなくて、13節まで、そのような細かい煩わしい決まりを守る事に熱心な宗教家たちの偽善さを非難しました。外側のことばかりで、内側のことはそのままにして善人ぶっていたからです。
 ★その質問の答えは14節で、群衆に伝えられました。この群衆とは、イエスの奇跡や、教えには興味がありましたが、イエスに従うということになると、「うーー、着いて行けるかなー。12弟子を見ても、それぞれ個性の強い人のようだし、一緒にやって行けるかなー、ちょっと煩わしいかなー」、と躊躇する人々のことでした。つまり「わたしは無宗教です」と言う人が増えている現代の日本人と重なる人々です。特にイエスご自身がその様な人々を呼び寄せられました。その様な人々にぜひこの事を伝えたい、そう思われたからでしょう。
 ★15節「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので、人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。チョットなぞなぞの様な言葉ですね。結果、群衆も、イエスに従って来た弟子たちも悟れませんでした。
 ★それで18節「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか」と嘆かれました。つまり、イエスがこれから話すことは、イエスに従うかどうか迷っている人にも、既にイエスに従っている人にも、非常に重要なことである、ということなのです。
 ★皆さん、私たち日本には穢れの文化があります。神道にはそれが色濃く出ています。穢れている場合、神と関われないのです。それで、お祓いをしたり、清水で身体を清めたりします。私は建築に関わる仕事をしていたので、地鎮祭の打ち合わせで神主とよく接する機会がありました。地鎮祭はお祓いをしてけがれを清め、神を呼び、神事を行い、神に帰って頂く内容でした。
 ★イエスが言われる人のけがれも、似ている所があります。人がけがれていると神は人に近づけません。人も神に近づけません。しかし、イエスは人の内側のけがれの事を言われます。アダムとエバが禁断の実を食べた時から、人は内側から悪い思いが出るようになりました。もはや神と顔を合わせられなくなり、エデンから出て行きました。神はそんな人間を見捨てることなく、天からでしたが常に関わるお方でした。ある時から神は、ひとりの人アブラハムを選び特別に関わられ、彼の子孫のエジプトでの苦しみの叫びを聞いて、居ても立ってもいれなくなり、モーセを通して彼らを救い、神専用のテントを張らせて彼らと共に歩む事を決心されました。その時に、けがれた彼らを清める十戒を中心とする律法を与えられました。その内容は人の外側と内側両方を清めるための決まりでした。
 ★今日の聖書に登場する宗教的指導者たちは、その律法以外の言い伝えに重きを置いて、人の内側のけがれをそのままにして、外側だけを整える偽善者となってしまいました。しかし偽善者になる危険は、彼らだけではなくて、イエスに従うことを決めかねている人や、既に従っている人にもあるのです。
 ★18節で、イエスはこの偽善的行為の最たる実例として、宗教が課する食事の制限を取り上げられています。19節、食べ物は口から人の中へ入り、お腹に入り、外に出て行きます。ですから何を食べても飲んでも人を汚すことはできません。人の内側に入らないのです。これは人の外側のことです。ですから皆さん、イエスは何を食べても飲んでもよい、と宣言なさいます。しかし、食べ過ぎ飲み過ぎ偏った食生活をして、神からいただいた体を乱暴に扱ってはなりません。この宣言を信じて食べたり飲んだりを感謝して楽しみましょう。イエスは、日用の糧の祈りを主の祈りの中に入れられたのは、私たちが外なる人としての食べたり飲んだりすることを、宗教上の理由で制限されるべきものという目ではなくて、人間として必須のものという目で、見ておられるということです。感謝していただきましょう。ただし、教会も食事制限する伝統があります。キリストの苦難を覚える為に受難節に肉を絶ったり、祈りに専念する時間を作る為に断食したり、人に躓きを与えないためにはあえて食事制限をします。
 ★さて、外なる人はいつか食べたり飲んだりできなくなります。その時「もう終わりだ、だめだ」と諦めるしかない私たちのために、イエスはベツレヘムの飼い葉桶の中に寝かされ、大工として汗を流し、苦しみを受け、捨てられ、殺され、葬られ、私たちと同じ外なる人を生き抜かれました。神はこのイエスを、衰え死んで行く外なる人の初穂として、死人の中から甦らせて、外なる人に希望があることを、明らかにされました。だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても。
 ★次にイエスが皆さんに一番おっしゃりたいのは20節です。人の内側から出てくる悪い思いが人を汚し、神との間を遮断してしまいます。その原因は、内なる人を支配している罪です。神はこのけがれを無くして神と人の間を繋ぐために、外なる人であり内なる人である人としてイエスを遣わされました。神は私たちの内なる人を、代価を払って買い取って、罪の支配から神の支配に移すために、愛する独り子の命をその代価として献げて下さいました。だから、内なる人は神によって日々新たにされていきます。皆さん、イエスに従って与えられた人生を、希望を持って最後まで生き抜きましょう。お祈りいたします。
 

2022.04.24
「主が共に」マルコによる福音書16章9‐20節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ★飯塚教会は1958年に木造の教会堂を建てた時に、そして、1981年に鉄骨の教会堂に建て替えた時に、それを神に献げる式、献堂式を行いました。教会の献堂式は、建てた教会堂で、これから何が始まるかを表しています。それは神に献げる、と言う行為です。礼拝を献げます。賛美、祈り、献金、聖書朗読、説教、奏楽、生け花、聖餐式のパンと杯、全て献げます。教会で集まるために、時間、移動する労力、を神に献げているのです。教会は2000年以上、神に献げることを第一として来ました。飯塚市役所の隣で、神に献げる場として、私たちの教会は10年、50年、100年、200年、とあり続けるのです。いまここにいらっしゃる全員が眠りについた後も、ということです。サステナブル持続可能な、という言葉が今世界中で使われ出していますが、教会こそ持続可能なかたちに変革して行かなければなりません。私たちは今日の聖書から、その最初の経緯を、キリストと弟子たちとの最後のお別れの場面を通して聞こうとしています。
 ★そのお別れの場面ですが「イエスさま、さようならー。」「みんな、元気でなあー。」という感動の場面ではありませんでした。残された十一人の弟子が、復活のキリストを目撃したマグダラのマリアと二人の弟子の証言を最後まで信じなかったため、彼らの不信仰とかたくなさをとがめ、伝道の命令を伝えて、キリストは天に帰られました。これは良いお別れに見えません。彼らの良いスタートにも見えません。新しい宗教を興して、発展させるためには、まず優れた弟子を養成しなければなりません。しかし、キリストは不信仰でかたくなな心の弟子たちに、15節「全世界に行って、すべての造られたものに福音を伝えなさい。」と派遣を命じ、16-18節でその説明を加えて、天に帰られました。
★「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を伝えよ」。この言葉を私は毎週の礼拝の最後、皆さんに派遣の言葉として伝えてから、祝福の祈りをしています。しかし、私たちは礼拝後、全世界に行くのではありません。そこで会うのは家族や知人や友人です。全ての造られたものに会うのではありません。『イエスさま、話しが大き過ぎませんか』と、思いますよね。弟子たちもそう思ったでしょう。
 ★16節「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。これは厳しい言葉ですね。私たちが伝道をして、もし相手が信じなかったら、その人は滅びの宣告を受ける、そういう責任を、私たちは負い切れるでしょうか。負いきれませんね。
 ★17-18節「悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」。新しい言葉というのは何のことでしょうか。それを横に置いても、私はこれらのしるしを伴う経験を、今までにしたことがありません。と言うことは、私は信じない者なのでしょうか。自信を失いますね。
 ★イエス・キリストはなぜ、この様な言葉を最後に残して、天に上げられ、神の右の座につかれたのでしょうか。20節、弟子たちは出かけて行きました。「よーし、やったるぞー」と意気込んで出かけたのでしょうか。そうじゃないと思います。しかし、至るところで宣教したとあります。不思議ですね、弟子たちに何があったのでしょうか。
 ★今日の説教題は「主が共に」です。20節の後半にある「主は彼らと共に働き」から採りました。不信仰と、心の頑なさの指摘と、自分とはかけ離れた、信じる者に伴うしるし、これらのキリストの最後の言葉は、弟子たちの目を自分自身の現実に向けさせました。
 キリストが話された放蕩息子の譬え話で、放蕩に身を持ち崩した弟が、ある日我に返る場面があります。キリストの最後の言葉を聞いて、弟子たちは我に返えりました。
 ★皆さん、私たちは生まれた時は裸でした。そして、成長する中で色々な自分の考えや、信念を培い、それによって自分を覆って生きています。我に返るとは、その覆いが取り除かれて、神の前にある裸の自分に目を止めさせられることです。弟子たちは、キリストの最後の言葉によって我に返り、自分は罪びとの一人に過ぎない、神の憐れみが必要な者に過ぎないことに、目を止めさせられました。
 ★ですから、「よーし、キリスト教を大きくするために頑張るぞー!」と言って、弟子たちは出かけて行ったのではありません。「主よ、私を用いてください。私を使ってあなたが働いてください。あなたに私を委ねます。献げます。」と言う思いで出かけました。つまり、自分の主導権を主にお譲りして出かけました。そしたら、主は彼らと共に働かれたのでした。この体験をした弟子たちによってスタートした教会は、為すべき第一のことを、献げることといたしました。この伝統を私たちは受け継いでいます。
 ★皆さん、主に用いていただくために自らを主に献げましょう。人の人生は手袋のようなものです。大きい手袋、かわいい手袋、丈夫な手袋、便利な手袋と、色々あります。若い方々はこれからそれを作られます。もう出来上がった人もいます。だいぶ使い古した手袋になった、とうとう指先に穴が開いてしまったと、お思いの人もおられるでしょう。しかし、どんな手袋であるかは、問題ではありません。それを誰にはめてもらうかです。私は親指の先に穴が開いたが、捨てないで人差し指の先も切って、スマホ用にはめ、重宝しました。「どんな手袋も必要です。私の働きは多種多様だから」、と神は言われます。 
★あなたの人生はこの手袋のようなものです。どんな手袋であるかは重要ではありません。誰にはめてもらうかが重要なのです。自分の手袋だから自分がはめる、そう思って来られた方が多いと思います。ここで新約聖書エフェソの信徒への手紙にある祈りを紹介します。「わたしたちの内に働くみ力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることの、おできになる方に教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」。わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることの、おできになる方にはめていただきませんか。
★そのお方は天地の造り主全能の神です。このお方はご自分のことを父と呼べ、と言われ、人の命のために愛する独り子を十字架につけ、死にて葬られ三日目に復活させて、愛と希望を注いでくださった神です。あなたの人生の主導権をこのお方に握っていただきましょう。その機会は、今、生きている今しかありません。旧約聖書の箴言35節はそれを、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け」と説明しています。常に主を覚えて歩く、その為にみ言葉を心に植え付けていただくのです。その心に余裕がなくどうにもならない時に、十字を切ってキリストを覚えた、そんな歴史があったんじゃないでしょうか。皆さん、心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩きましょう。その為にみ言葉を心に植え付けていただきましょう。礼拝に来て、祈り会に来て、自宅でも聖書に親しみましょう。お祈りしましょう。


2022.04.17
「死に勝利せしキリストが先立つ希望」マルコによる福音書15章40‐6章8節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 イースターおめでとうございます。教会に与えられている希望は、順調でない所に与えられる希望です。キリストがそれを皆さんに下さった日、それがイースターです。マルコ福音書は、希望のない所にキリストが希望を下さったことを、皆さんに伝えています。
 
 皆さん、人は共に生きて来た人に、例えば家族や友達に見守られて、最期を迎えたいですね。しかし、キリストは十字架の上でひとり、最期を迎えられました。昨夜まで生活を共にした弟子たちは全員逃げてしまいました。傍にいるのはローマ兵です。彼らはキリストを見守ったのではなくて、槍を持ってキリストが死ぬのを監視していました。40節、かろうじて女性たちがキリストを遠くから見守っていました。それもキリストの十字架という重要な場面の、一番最後に「また、婦人たちも遠くから見守っていた」と、付け足された感じで伝えられています。これらの女性たちのことは、今まで一切語られて来ませんでした。ここに来て初めて、彼女たちが、キリストと弟子たちの食事等のお世話を、ガリラヤにおられた時から、つまり殆ど最初からしていたことが明らかになります。それなのに、キリストが死んだ後に、付け足すように伝えられています。非常に女性が軽視されているのが、気になりますが、もっと重要なことがここに示されています。
 
 思い出してください、5000人の人々にパンと魚を配った時も、女性の人数は数えられていませんでした。約二千年前の話です。性別で人を分ける事自体おかしいのではないか。と、言われている現代と、当然違います。公の人の数を数える時に、女性の数は入りませんでした。男性中心の社会でした。残された彼女たちには、キリストの遺体を引き取る交渉権がありませんでした。埋葬する資格もありません。そのような女性たちだけによって、それも遠くから見守られていたキリスト。このキリストには希望がないと言うことを、この光景は表しています。
 
 キリストを裁いた最高法院に出席していた議員のひとりが、キリストを埋葬しました。彼はキリストの死刑に反対だったが、議場では発言する勇気がありませんでした。しかし、彼は勇気を出してピラトの所へ行きます。この様な人が突然登場します。不思議ですね。日本人的な考えなんでしょうが、私は彼の名が「ヨセフ」であると聞いて、思い出しました。母マリアの夫ヨセフ、キリストを育てた大工の職人の父の名がヨセフだったからです。家族が立ち会えずに葬られる光景は希望がありませんね。
 
 以上のように見ている間、私たちは思い出しますね。津波や地震で、戦火の中にあるウクライナで、一人で亡くなられた方々を思い出しますね。
 
 先程、聖歌隊によって特別賛美された、新聖歌127番の三番の歌詞は「封印 固き」で始まりました。最高法院でキリストを裁いた人たちは、万が一、弟子たちがキリストの遺体を盗んで、『キリストが復活した』と、デマを流してはいけない、ということで墓の入り口を塞いだ石に、さらに封印をして、かつ番兵に見張らせました。キリストに対する希望を徹底的に絶ったのです。マタイ福音書がこのことを書き加えています。このように十字架につけられて死に、葬られたキリストには希望がありませんでした。
 
 しかし、ここで三人の闊達な女性トリオが登場します。ここまで真っ暗闇のような内容だったのですが、希望の光が差す前兆のような、ちょっと和む不思議な三人のように、私は想像します。昔、トリオ漫才をして人気を博しました、小路歌江・花江・敏江の三人姉妹のような、闊達な女性を想像します。早速、ヨセフが埋葬するという情報が彼女たちに届きました。そして三人が動き出します。姉貴分だったと思うマグダラのマリアが口火を開きます。「何やらヨセフさんがイエスさまを引き取り、亜麻布を買いはったようやで。日が暮れて安息日に入る前に、埋葬しなあかんから、とりあえず遺体を布で巻いて、香油を塗らないで葬るつもり見たいやで」。「そんなん、あかん、あかん。イエスさま、かわいそうや!」「あんたらもそう思うか。うちもそう思う。そしたら安息日が明けたら、すぐにお店に行って香油を買って、次の日の早朝に、墓に行って、うちらでイエスさまの体に香油を塗ろ!」「そうしよ、そうしよ」。マグダラのマリアとヨセの母マリアはヨセフの後を追い掛けて、墓の場所を確認に行きました。サロメは、母マリアの傍に残ったのでしょう。
 
 さて皆さん、日の出と共に墓へ向かう彼女たちが、墓の塞いでいる石をどうするのか、話し合います。「今頃、何を言うてんねん」とズッコケるはなしですね。どういうことなのでしょうか?私は想像します。「あっ、そうや、墓の入り口が大きな石で塞がれていたわ」。「えー、それ、はよう言わんかいな」。「ええがな、ええがな、ここまで来たんやから、行こ、行こ、神さまがなんとかしてくれはる」。「そう思うやろ?」。「うん、そう思う」。「うちは、はじめから、うすうすそう思てた」。「ほんまは、うちも、そう思てた」。「なんやみんな、そう思てたんや」。墓に向かいながら、墓を塞いでいる石をどうするか、このズッコケる話が、キリストの復活前にあるのは、意味深長です。
 
 皆さん、希望がない中で「神さまが、なんとかしてくれはる」と、信じて前に進む、この神に期待する、この神にお任せする、どうなるのかわかりませんがそう信じて進む信仰を、あなたも持ってみませんか。幼子のようにならなければ(頼って任せるのでなければ)、神の国(神の働き)を見ることが出来ない、と以前キリストが話しておられましたことが、ここに実現します。神は入り口の非常に大きな石を、脇へころがし、墓の中に天使を待機させ、入って来た彼女たちに、神からのお告げを伝えさせました。神はこの三人の女性を、キリストの復活、キリストが死に打ち勝たれたことの生き証人第一号として、選ばれました。
 
 しかし、三人は震え上がり、正気を失い、逃げ去ります。そして、恐ろしさのあまり、この朝の事を、誰にも何も言いませんでした。折角、神から希望を与えられたのに、これからどうなるんでしょうか。教会はキリスト教は生まれるのでしょうか。最後の最後、また希望が確かでないかたちに戻ります。実は、はじめマルコ福音書は、ここで終わっていました。皆さん、聖書をよくご覧になって下さい。9節から20節まで〔〕で囲われています。実は、このマルコ福音書は神が三人の女性に働かれたが、無駄に終わってしまった、というまことに希望のない形で終わる不思議な書だったのです。しかし、後に教会が誕生し、著者のマルコは使徒言行録でパウロやバルナバと一緒に、教会に与えられた希望を伝える伝道旅行をしています。ですから、その後弟子たちは、彼女たちが天使から命じられたお告げを聞き、希望のない所に与えられる希望を受け取ったのでありました。
 
 皆さん、天使が伝えたお告げの中の、弟子たちとペトロに告げるよう命じられた所に注目してください。7節『あのかたは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』。キリストは死ですべての希望を奪い取られている私たちに希望を与えるために、死に打ち勝って復活してくださいました。しかし、それだけではありませんでした。キリストがあなたがたより先に・・・行かれる、ようになりました。丁度羊に先立って羊飼いが道を進まれるように、キリストは希望のない人に先立つ、羊飼になられました。皆さん、私たちに必要なのは、この先立って下さる方ではありませんか。詩編23編を思い出します。皆さん、たとえ皆さんの現実が、死の陰の谷間の様な希望の無い所であっても、死に打ち勝ったキリストが、皆さんに先立って下さいます。ここに、希望があります。
 
 あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。ガリラヤは、彼女達や弟子たちやペトロの帰って行く所、生活の場です。キリストはいつまでも、この聖堂にいません。聖書の学びの中や、厳粛な祈りの中にいつまでもおられません。キリストは皆さんの生活の場へ先立たれます。そして「そこで、お目にかかる」とあります。しかし、私達はキリストに会うのではなくて、人に会います。お目にかかるとは、この目で見る事だけではありません。キリストの事を、キリストを遣わされた神の事を思い起こす、という形でキリストとお目にかかります。それで教会で一番大切にしているのは、皆さんに、聖書からみ言葉を伝えること、肉体となったみ言葉であるキリストのパンと杯を、皆さんに配って、み言葉を皆さんの心に植え付けることです。
 
 丁度、一年前の復活祭の礼拝で皆さんとお会いし、一年が経ちました。その最初の礼拝の週報の表紙に載せる聖句に、新約聖書ヤコブの手紙1章21節「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます。」を選びました。その聖句の直前に「心に植え付けられた御言葉を受け取りなさい。」とあります。旧約聖書の詩編には「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」(119105)ともあります。キリストは私たちの前に先立たれるから、私たちの歩む道を照らすことができます。私たちの希望は、常に、終わりの日まで、私たちに先立って下さるキリストです。この礼拝を終えて教会のお墓「栄光の家」で祈りの時を持ちます。栄光の家に納骨されている人々は、生前、この希望を持って歩まれた方々です。今日、ご遺族の方々もここにおられます。どうか皆さんも同じ希望を持って歩んでください。お祈りの時といたしましょう。


2022.04.10
「神との隔で無し」マルコによる福音書15章25‐39節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ★先週のはじめ、飯塚は湿度17%で乾燥注意報が出ていました。教会の花壇の花にジョウロで水のシャワーを掛けてあげました。水がスーッと土の中にしみ込んでゆきました。神さまの愛も皆さんの上に注がれています。スーッと皆さんの中にしみ込んでゆきますように。
 ★皆さん、キリストの十字架の周りを取り囲む人々に注目してください。それによって、神の愛が一番明らかにされるからです。最後の晩餐の後、キリストは捕らえられ、最高法院に連れて行かれました。大祭司、祭司長、長老、律法学者たちに囲まれ、戸が閉められ裁きが始まりました。その密室の中で、民衆などの前では決して見せなかったことが行なわれました。無抵抗のキリストに対して彼等は、偽りの証言を堂々として、不当な判決を下しました。その後、唾を吐きかけ、目隠しをして殴って侮辱を加えました。彼らに仕えていた下役までイエスを平手で打ちました。そして、彼らは下役のなすままにさせました。指導者たちの内面にあったものがここに一気に吐き出されました。
 ★夜が明け、彼らは政治的な支配者、ローマ帝国総督ポンテオピラトの下にキリストを連れて行き、裁判にかける様言い寄ります。ピラトは事態を冷静に的確に判断する優秀なローマの役人でした。キリストを取り調べ無実であると判断し、ユダヤ人が訴えたのは彼らの妬みによると見抜きました。無言で無抵抗だったキリストを見て、ピラトは初めキリストを助けようとしました。過ぎ越しの祭りにピラトは群衆の前に出て、人々が願う囚人を一人釈放していたので、キリストの釈放を群衆が求めると思いました。ところが、祭司長たちが群衆を扇動し、囚人バラバを釈放し、キリストを十字架に付ける事を要求させました。
 ★その声が激しさを増して来た時に、ピラトの内面から一つの思いが浮かびました。『待てよ、ここは正義に立つより、扇動させられた群集の機嫌を取る方が得策である』。ピラトは群集のご機嫌を取る為に、バラバのお釈放を宣言し、皆の前でキリストを鞭打ち、十字架刑担当の兵士に引き渡しました。ところが兵士たちは、キリストを外へ引き出す前に、総督官邸内に連れて行きました。エルサレムに駐屯していた部隊の全員を呼び集め、侮辱を加えました。茨の冠は彼らが編んでキリストにかぶらせました。何度も棒で頭をたたき、唾を吐きかけました。従軍中の兵士の心の中にあったストレスと共に、無抵抗な人間を前にした時に人が考える恐ろしい行為も、ここで外に出ています。これが起こるのが戦争です。
 ★今日読んでいただいた聖書は十字架につけられてからの所です。後で通りかかった人々の事をお話ししますが、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。と短く伝えています。その苦痛のゆえに、自制する余裕も無い彼らのののしりとは、彼らの内側にあるものが抑えられず溢れ返った内容だったのでしょう。詳しく綴れない程の非常に恐ろしい人間の姿だったのではないかと思います。
 ★キリストのお宮参りの時に、シメオンという老人が母マリアに近づいて来て、「あなた自身も剣で心を刺しぬかれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と、キリストの将来の事を予言しました。ルカ234-35節。この「多くの人」とは、今まで見て来ました、大祭司や祭司長や長老、律法学者、ピラト、兵士、十字架刑の囚人たちなのですが、それだけでしょうか?というのが今日の聖書の問い掛けなのです。
 ★皆さん、最後に注目して頂きたい人々がいます。キリストが十字架に磔にさられていた時に、たまたまそこを通り掛かった人々が、祭司長や律法学者たちよりも先にキリストをののしります。不思議ですね。
 ★皆さんは日本にいます。今は2022年です。皆さんも十字架のキリストと無関係です。この通り掛かりの人々と同じです。その人々が一番にキリストをののしりました。ちょっと考えさせられませんか?
 ★この時、全ての人の心にある思い、神に対する不信、反抗、すなわち罪が、十字架のキリストを取り囲みました。そして37節、大声を出して息を引き取られます。これも不思議です。皆さん、最後は大声が出ない、出したくないですね。静かに息を引き取りたいですね。私は思います。まるで、誕生して以来、この時が来るのを待っておられたがごとくに、キリストは感極まって大声を出して息を引き取られました。では、何に対して感極まられたのでしょうか。
 ★39節にその答えがあります。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。この幕は神様の部屋と礼拝場所とを隔てる緞帳の様なしっかりした幕です。罪ある人間は神様と直接会えません。そんな事をしたら神様は罪ある人間を罰するしかないからです。それで隔ての幕が必要でした。ところがキリストの命が亡くなった時に、神様が「今からはこの幕はいらない」と言って真っ二つに裂かれました。十字架のキリストを取り囲む皆さんの罪の罰を全てキリストが身代わりに負って下さったからです。
 ★皆さん、私たちは内側からどうしても悪いものが出て来ます。これが私たちの罪と言う現実です。しかし、神はキリストの十字架の死によって、隔ての壁を取り除き、あなたに向かって愛のシャワーを注がれ、言われます。「あなたの罪は赦された。すべてを私に任せなさい。これからはわたしと共に歩みましょう」。この招きに応えましょう。すでに答えてクリスチャンになった人も。新たな思いで応えてください。手を挙げて意思表示しましょう。肉体の手でも、心の手、魂の手でもよろしい、今、神さまに意思表示しましょう。
 
★私は小学校3年の時に一年間書道教室に通いました。私は十歳。堤 春光先生は三十歳後半。先生が私の後ろから覆いかぶさって、筆を握る私の手の上から握って「はい、末吉君、力を抜いて」と教えて下さいました。神様を信じるとはそれとよく似ています。命と言う筆を握るあなたの手の上から神様に握って頂くのです。聖書の言葉に心開いて接する時、神に信頼して祈る時、こうして礼拝で神からのサービスを受ける時は、力を抜いて神に任せましょう。先程の書道教室の体験を思い出してください。これは練習の時ですね。この聖堂のベンチに座った時は力を抜いて下さい。その時は負っている重荷を降ろすのです。この練習が終わって、聖堂を去った後が本番です。人生の書を日々思い切って神の導きを祈って描きましょう。2022年度も、コロナ禍ですが、この練習を、怠りなくいたしましょう。では、皆さん、祈って本番に向かいましょう。


2022.04.03
「五つのパンと二匹の魚」マルコによる福音書6章34~44節

 
 ★先週のはじめ、飯塚は湿度17%で乾燥注意報が出ていました。教会の花壇の花にジョウロで水のシャワーを掛けてあげました。水がスーッと土の中にしみ込んでゆきました。神さまの愛も皆さんの上に注がれています。スーッと皆さんの中にしみ込んでゆきますように。
 ★皆さん、キリストの十字架の周りを取り囲む人々に注目してください。それによって、神の愛が一番明らかにされるからです。最後の晩餐の後、キリストは捕らえられ、最高法院に連れて行かれました。大祭司、祭司長、長老、律法学者たちに囲まれ、戸が閉められ裁きが始まりました。その密室の中で、民衆などの前では決して見せなかったことが行なわれました。無抵抗のキリストに対して彼等は、偽りの証言を堂々として、不当な判決を下しました。その後、唾を吐きかけ、目隠しをして殴って侮辱を加えました。彼らに仕えていた下役までイエスを平手で打ちました。そして、彼らは下役のなすままにさせました。指導者たちの内面にあったものがここに一気に吐き出されました。
 ★夜が明け、彼らは政治的な支配者、ローマ帝国総督ポンテオピラトの下にキリストを連れて行き、裁判にかける様言い寄ります。ピラトは事態を冷静に的確に判断する優秀なローマの役人でした。キリストを取り調べ無実であると判断し、ユダヤ人が訴えたのは彼らの妬みによると見抜きました。無言で無抵抗だったキリストを見て、ピラトは初めキリストを助けようとしました。過ぎ越しの祭りにピラトは群衆の前に出て、人々が願う囚人を一人釈放していたので、キリストの釈放を群衆が求めると思いました。ところが、祭司長たちが群衆を扇動し、囚人バラバを釈放し、キリストを十字架に付ける事を要求させました。
 ★その声が激しさを増して来た時に、ピラトの内面から一つの思いが浮かびました。『待てよ、ここは正義に立つより、扇動させられた群集の機嫌を取る方が得策である』。ピラトは群集のご機嫌を取る為に、バラバのお釈放を宣言し、皆の前でキリストを鞭打ち、十字架刑担当の兵士に引き渡しました。ところが兵士たちは、キリストを外へ引き出す前に、総督官邸内に連れて行きました。エルサレムに駐屯していた部隊の全員を呼び集め、侮辱を加えました。茨の冠は彼らが編んでキリストにかぶらせました。何度も棒で頭をたたき、唾を吐きかけました。従軍中の兵士の心の中にあったストレスと共に、無抵抗な人間を前にした時に人が考える恐ろしい行為も、ここで外に出ています。これが起こるのが戦争です。
 ★今日読んでいただいた聖書は十字架につけられてからの所です。後で通りかかった人々の事をお話ししますが、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。と短く伝えています。その苦痛のゆえに、自制する余裕も無い彼らのののしりとは、彼らの内側にあるものが抑えられず溢れ返った内容だったのでしょう。詳しく綴れない程の非常に恐ろしい人間の姿だったのではないかと思います。
 ★キリストのお宮参りの時に、シメオンという老人が母マリアに近づいて来て、「あなた自身も剣で心を刺しぬかれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と、キリストの将来の事を予言しました。ルカ234-35節。この「多くの人」とは、今まで見て来ました、大祭司や祭司長や長老、律法学者、ピラト、兵士、十字架刑の囚人たちなのですが、それだけでしょうか?というのが今日の聖書の問い掛けなのです。
 ★皆さん、最後に注目して頂きたい人々がいます。キリストが十字架に磔にさられていた時に、たまたまそこを通り掛かった人々が、祭司長や律法学者たちよりも先にキリストをののしります。不思議ですね。
 ★皆さんは日本にいます。今は2022年です。皆さんも十字架のキリストと無関係です。この通り掛かりの人々と同じです。その人々が一番にキリストをののしりました。ちょっと考えさせられませんか?
 ★この時、全ての人の心にある思い、神に対する不信、反抗、すなわち罪が、十字架のキリストを取り囲みました。そして37節、大声を出して息を引き取られます。これも不思議です。皆さん、最後は大声が出ない、出したくないですね。静かに息を引き取りたいですね。私は思います。まるで、誕生して以来、この時が来るのを待っておられたがごとくに、キリストは感極まって大声を出して息を引き取られました。では、何に対して感極まられたのでしょうか。
 ★39節にその答えがあります。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。この幕は神様の部屋と礼拝場所とを隔てる緞帳の様なしっかりした幕です。罪ある人間は神様と直接会えません。そんな事をしたら神様は罪ある人間を罰するしかないからです。それで隔ての幕が必要でした。ところがキリストの命が亡くなった時に、神様が「今からはこの幕はいらない」と言って真っ二つに裂かれました。十字架のキリストを取り囲む皆さんの罪の罰を全てキリストが身代わりに負って下さったからです。
 ★皆さん、私たちは内側からどうしても悪いものが出て来ます。これが私たちの罪と言う現実です。しかし、神はキリストの十字架の死によって、隔ての壁を取り除き、あなたに向かって愛のシャワーを注がれ、言われます。「あなたの罪は赦された。すべてを私に任せなさい。これからはわたしと共に歩みましょう」。この招きに応えましょう。すでに答えてクリスチャンになった人も。新たな思いで応えてください。手を挙げて意思表示しましょう。肉体の手でも、心の手、魂の手でもよろしい、今、神さまに意思表示しましょう。
 
★私は小学校3年の時に一年間書道教室に通いました。私は十歳。堤 春光先生は三十歳後半。先生が私の後ろから覆いかぶさって、筆を握る私の手の上から握って「はい、末吉君、力を抜いて」と教えて下さいました。神様を信じるとはそれとよく似ています。命と言う筆を握るあなたの手の上から神様に握って頂くのです。聖書の言葉に心開いて接する時、神に信頼して祈る時、こうして礼拝で神からのサービスを受ける時は、力を抜いて神に任せましょう。先程の書道教室の体験を思い出してください。これは練習の時ですね。この聖堂のベンチに座った時は力を抜いて下さい。その時は負っている重荷を降ろすのです。この練習が終わって、聖堂を去った後が本番です。人生の書を日々思い切って神の導きを祈って描きましょう。2022年度も、コロナ禍ですが、この練習を、怠りなくいたしましょう。では、皆さん、祈って本番に向かいましょう。

2022年1月~3月

2022.03.27
「世の力からの救い」マルコによる福音書5章21~43節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 「恐れることはない。ただ信じなさい」イエス様は今朝、私たちにこう言われます。
25節と26節をもう一度お読みいたします。短い文章ですが、ここにはひとりの女の苦悩が凝縮されています。彼女は12年間病気で苦しみました。その間多くの医者にかかったとあります。でも、医療保険の無い時代に12年間もお医者さまにかかり続けられたというのですから、彼女にはそれなりの財産があって、恵まれた状況であったと考えられます。彼女は自分に与えられた試練に対して、積極的に考えられる限りのあらゆる手を尽くします。古代バビロニアでは薬草の研究が大変進んでいたそうです。ですから、薬も色々試したでしょう。また彼女は医者だけではなく占いや魔術的なものにも、評判が良いと聞けばどこにでも行きました。しかし、何の希望の光も差し込みません。もう、どん底です。人間の知恵と力のあらゆる手だてを尽くしても改善しなかったのです。
彼女には、人の無力さに対する怒りと悲しみが溢れていました。
 
そんなある日、イエスさまのうわさを聞きます。それは一筋の光のように思えました。彼女は後ろから着物にそっとさわります。何故でしょうか。ここにはこの時代の背景があります。ユダヤの社会では、女性の出血の期間は汚れているとされました。ですから、その間は会堂に行って礼拝をすることはできません。それどころか、人々の中に入っていく事も禁じられていました。出血している者が他の者に触れると汚れると考えられていたからです。つまり、彼女は社会の様々な関係から12年間も締め出されていたのです。しかし、イエスさまが来られると聞いた彼女はそんなことに構っておれません。人々の中に紛れ込んでゆきます。この女のポジティブな様子が想像できますね。彼女は恐れず、信じて、イエスの服に触りました。
28節を注目して下さい。彼女は「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである、とあります。
この12年間、治療のために全財産を費やして、ありとあらゆることをやり尽くしてきた彼女です。その人がイエスの着物にさわることで、きっと直ると信じました。この信頼は、驚くべき態度です。
彼女は人生のどん底に落ちていながら、人生の敗北者でいながら、絶望しませんでした。何故でしょうか。気付かされたことがあったからです。それは、この地上のものには救いがないということです。そんなときに聞いたイエスさまに関するうわさは、彼女の希望の光になりました。この光は、世の力に対する恐れを吹き飛ばしました。そして、イエスの内にある神の力を信じたのです。すると、彼女の信頼したとおりの出来事が起こりました。
 
28節の「いやす」という言葉は、34節の「救う、救い」と同じ言葉が使われています。
つまり、彼女に起こった出来事は、病気の癒しを強調していません。イエスさまは彼女のご自分に対する信頼に答えられたのです。このことを伝えたいのです。彼女には家族がいたでしょう。そこに帰って行くことができます。また様々なこれまで遮断されていた社会との関係が回復されます。つまり、人間性の回復です。イエスの救いは、全人格的救いです。その人を不自由にしている、この世の力からの救いです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」というイエスの宣言は、その人を不自由にしている、この世の力からの救いを言っています。
 
36節で、イエスは会堂長に「恐れることなく、ただ信じなさい」と言われていますが、後ろからそっと触った女の態度は、まさにそういうものでした。皆さん、私たちの態度はどうでしょうか。今朝私たちも、恐れることなく信じる信仰を頂きましょう。
 
 さて、このときイエスさまの横で会堂長ヤイロが、今にも娘が死にそうになって迎えに来た所だという状況でしたね。弟子たちやヤイロは気がきではなかったはずです。しかし、イエスさまにはこの女にもう一つしなければならないことがありました。それは彼女に寄り添う事です。そして、彼女に「あなたは神の救いに与った」と宣言することです。それで、「わたしの服に触れたのはだれか」と大声で叫ばれたのです。
33節を見てください。自分のことを知ろうとしてくださるイエスさまの前に、女はひれ伏し、「すべてをありのまま話した」とあります。彼女は、これまでの深い苦しみ悲しみ失望の思いを打ち明けました。彼女は心の奥深くにある思いを打ち明けました。イエスさまはご自分との深い交わりを彼女に求められたのです。イエスとの人格的交わり、そこに救いがあるからです。病気が治ることが、イエスさまの最終目的ではありません。その人が神の救いに与って、イエスとの深い交わりに入ること、それによってイエスにある平安がその人の支えになること、それが、イエスがこの地上に来られた目的です。このことは、私たちが神の御思いを知るために欠かせないことだからです。
 この12年間患った女とは、まさしく、私たちです。私たちの人生も問題が山積みです。私たちを不自由にしている、この世の力が様々ありますね。
わたしの問題は、この地上の問題は、イエスでも解決できませんと思っていませんか、と今朝主は尋ねられます。旧約聖書にイスラエルの神の民の不信仰に対して、神が嘆いておられる箇所があります。それは、イザヤ502節です。「なぜ、わたしが来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか。わたしの手は短かすぎて贖う事ができず、わたしには救い出す力がないと言うのか」
 
イエスさまは皆さんが神の救いに与って、イエスとの深い交わりに入り、それによってイエスにある平安がその人の支えになって欲しいとお考えです。そして、今朝、皆さんに祝福の宣言をされたいのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。
 
さて、弟子たちの心配が的中し、ヤイロの娘が亡くなった知らせが届きます。でも、イエスさまは「恐れないで、信じていなさい」と仰います。
ヤイロの娘の復活は、先にある主イエスの復活の希望を予告しています。


2022.03.20
「嵐の中の安らぎ」マルコによる福音書1章35~41節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 神の祝福は信仰の成長であり、そこに伝道する希望があることを示す、種まきの例えの秘密を弟子たちに明かされた、その日の夕方のことです。湖での嵐の体験も、弟子たちが教会を建て上げて行くときの希望となりました。
 
 35節の「向こう岸に渡ろう」という言葉には、「もちろんわたしも一緒だよ」という主の思いが含まれています。向こう岸に渡る舟とは、あなたの人生のことです。イエス・キリストに乗っていただいて、あなたはクリスチャンになりました。また、向こう岸に渡る舟とは、伝道する教会のことです。教会はイエス・キリストの教会です。しかし、イエス・キリストが共におられることが忘れられたり、イエス・キリストが共におられることに期待しなくなったりしていないでしょうか。
 
 嵐の中、舟が沈没寸前で、弟子たちが舟の中で忙しくしていた時に、キリストは舳の方で眠っておられました。この光景は、キリストに目を向けていない人間の姿を映し出しているように思えます。38節「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」とあります。私たちもこの弟子たちと同じように、「神さま、こんな事になっているのに、おかまいにならないのですか」と、思う時があります。世界的なコロナの現実や、今起こっているウクライナの戦争。神さま、こんなことになっています、あなたはおかまいにならないのですか、と思いますよね。
 また、眠っておられるキリスト、それは人の目には何の役にも立たないように見えます。眠っておられるキリスト、それは現代私たちが経験していることです。
 
しかし、皆さん「舳」というのは、船尾で舵のある所です。舵は舟の航路を正しく進ませる舟の要となるものです。「まくら」は頭をのせますね。枕は、頭という人間の重要な部分を乗せるものです。つまり、キリストはとても重要なところにおられるのです。嵐というのは、全てが右往左往するしか無い時ですね。しかし、キリストだけは静かに沈黙して、決して動揺なさらないで、舟の舵をしっかり握っておられるのです。そこで、あなたの人生の舵をしっかり握っておられるのです。キリストは舟が沈まないように水を汲みだすことや、他の対処することに手を貸しませんでした。それは、きっと私たちに与えられた役割なのでしょう。眠っておられるキリストは、向こう岸まで乗船者全員を支える方として、どんな嵐にも動ぜずに、一緒に居続けてくださるお方なのです。このキリストに信頼して歩んでいきましょう。
 
 私たちの生活は舟の中で日々忙しくしています。しかし、舳に退く時が必要です。人生という舟の舵を握ってくださっているお方、風を叱りつけ「黙れ、沈まれ」と湖に言われるお方との出会いは、どんなに激しい人生の嵐の中でも、安らぎと癒しと希望と力とを受ける大切な時です。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、言われたのは「向こう岸まであなたと一緒に渡ろう」と言う、最初の約束の言葉をどうして信じないのか、と言うことなのです。
 
 「向こう岸に渡ろう」と、キリストは日々あなたを誘っておられます。キリストをお乗せして、沖へ、向こう岸へ、明日へ、未来へ、漕ぎ出しましょう。そして、日々、舳の方に退いて、わたしたちを根底から支えて下さる救い主キリストとの交わりを持ちましょう。具体的には、礼拝出席、キリストの食卓である聖餐式に与ること、諸集会の出席、そして聖書に親しみ祈る時をもつことですね。
 
人生の舟は、個人としての舟であり、また、共同体としての舟でもあります。
 例えば、家族という舟があります。家族に一人クリスチャンがいるなら、その家族の舟にキリストがおられます。嵐が来て、うろたえる時クリスチャンはその舟でキリストを証しすることになります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とは、そういうことではないでしょうか。
 飯塚教会では、関谷牧師からの引き継ぎで八幡教会での月一回の説教奉仕をしています。1月に私が担当で行きました時に、一人の兄弟からお証を聞きました。彼は、県外のナザレン教会からご両親の介護のために、地元に帰ってこられました。奥さまは教会にはまだ来ておられません。それである日から、彼は毎朝食事の時に中川牧師のメッセージテープを聞くことを始められました。奥さまもやめてほしいと言うようなことはおっしゃらず、黙って一緒に食事をされているそうです。数か月続いたころ、奥様が、「あなたの葬儀を教会でするなら、その時は私も教会に行くわ」というようなことを、ぽつんと、言われたそうです。私は、主が中川先生の語られる御言葉を通して、彼女の心に語りかけてくださっているんだな、と思いました。兄弟が祈りをもって、なさっている行動は、将来の嵐に備えた行動ではないかと思います。
 
 人生に嵐のない人生はありません。小さな嵐、大きな嵐が必ずあります。「イエスは舳の方で枕をして眠っておられた。」この御言葉は、嵐がやってくる前から備えをしておくようにと言っているのではないでしょうか。日ごろから備えをしておくなら、嵐が来た時に、主に全てをお任せでき、主の平安が私たちを支えていることに気づかせてくれます。


2022.03.13
「御言葉のチョコをあなたに」マルコによる福音書4章1~21節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 明日314日は何の日でしょうか。ホワイトデーですね。2月のバレンタインデーも明日のホワイトデーも、愛のしるしとしてチョコをプレゼントしますね。14節に「種をまく人は、神の言葉を蒔くのである」とありますように、イエスが語られる種というのは、御言葉のことです。御言葉の種とはイエスの愛のしるしです。ですから、おいしいチョコを味わうように、神の愛のしるしである御言葉を今朝も味わいたいと思います。
 
 イエスはおびただしい群衆に種の例えを話されました。その後、10節から弟子たちだけになります。11節を注目してください。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてが例えで示される。」とあります。ここでも3章で聞いたように、イエスはご自分の身近にいる人、つまり、ご自分と人生を共に歩む人に心を向けておられるのが分かります。人生をイエスと共に歩む者には、「神の国の秘密が」知らされるのです。
 
 さて、今朝の神の国の秘密とは何でしょうか。それは「御言葉の種」です。蒔かれた種はどこに落ちましたか。道端、石地、いばらの中、良い地、に落ちました。皆さん、ここを読まれるときに、何だか不思議だと思いませんか。種を蒔く人が種を蒔きに行きました。皆さんが種を蒔くとしたら、何処に蒔きますか。道端や石地やいばらの中に蒔くでしょうか。蒔きませんよね。誰でも、良い地にだけ蒔きますよね。でも、この種を蒔く人は本当に気前よく、どこにでも蒔いたのです。道端、石地、いばらの中、そんなところにまで蒔いたのです。
 
 ここで、注目していただきたいのは、種は「どんな土地にも落ちた」ということです。道端に落ち、石地に落ち、いばらの中に落ち、良い土地に落ちました。つまり、どんな土地にも、分け隔てなく、落ちました。「大変な土地は面倒だなあ。良い土地にだけ落ちよう」種はそう思いませんでした。種は境界線を考えません。どこにでも落ちました。種は苦難を承知で冒険の旅に出たのです。この種とは、誰のことでしょうか。神の国から蒔かれた種です。神のところからこの世界に落ちて来たみことばの種です。すなわち、イエス・キリストです。
 
 種がどんなところにも落ちたというのは、大きな希望ですね。私たちがどんなに暗い失望の中に落ちても、そこに、キリストがいてくださいます。道端とは辺境の地でしょうか。或いは孤独でしょうか。石だらけの道は、足が痛くなって前に進めなくなります。前進できなくて立ち止まっているときでしょうか。茨は大変な勢いで覆ってしまいますね。もう身動きが取れません。しかし、そこに、キリストはいてくださいます。人の力ではどうにもならないところに、キリストは落ちてきて、自分に依り頼むように、と言われます。つまり、御言葉に依り頼むようにと言われます。依り頼むなら、キリストは道端や石地や茨の地を、良い土地に耕してくださいます。その時に、私たちもキリストと共に生きるのです。一人では立ち向かえないことにも、キリストの暖かさと愛が、私たちに立ち向かう力をくださいます。
 皆さん、そこには労苦があります。しかし、キリストは言われます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」ヨハネ1633節。
 
そして、確かな約束があります。それは、「実を結ぶ」という約束です。元々、神様は私たちを「良い土」に造られました。創世記はそのことを伝えています。神様は全てのものを造り、それは、極めて良かったのです。人は御言葉を聞いて、受け入れるように造られました。それが、極めて良いということです。神様は人をご自分と共に生きるものとして造られたからです。
 しかし、人は御言葉に従順ではなくなりました。でも、今日の例えをよく聞いてください。無くなったのは何でしたか。種ですね。道端や石地や茨の中に落ちた、種が無くなってしまったのです。これは、土が罰せられたのではないということです。御言葉の種であるキリストが罰を受けてくださったのです。キリストが来てくださった今、不従順な私たちの罪を、キリストが受けてくださった十字架によって赦され、人は「良い地」として神に受け入れられたのです。これは、何という大きな恵みでしょうか。
 
 この恵みを従順に受け入れる者の人生を、神様は30倍、60倍、100倍にも祝福してくださいます。今朝は読みませんでしたが、26節以下の成長する種の例え、30節以下の小さなからし種が、空の鳥の巣をつくれるほど大きく成長する例えも、同じように、神様の祝福の大きさを表しています。30倍、60倍、100倍の祝福とはというのは何でしょうか。それは、地上での成功ということではなくて、私たちの信仰の成長のことではないでしょうか。
御言葉の種であるイエス様は、バレンタインやホワイトデーのチョコのように、私たちへの神の愛のしるしです。今は自分へのご褒美に高級チョコを求めて味わう人が多くなっていますが、私たちは、神の祝福に通じる、神の愛のいっぱい詰まった、キリストという御言葉の広さ深さ高さを、これからも味わい続けていきましょう。
説教要旨
今朝の「種を蒔く人の例え」の主人公は、「種」です。道端、石地、いばらの地、良い地、という土ではありません。神は天から「キリストという御言葉の種」を蒔かれたのです。種は土地を選ばず、全ての土に落ちました。それは希望が無いところに、希望となるためです。この種は、神への不従順、つまり御言葉への不従順という、人の罪に対する罰を代わりに十字架で受けるために落ちてきました。種であるキリストを信じ受け入れる者に、そして神の愛のしるしである御言葉を、おいしいチョコを味わうのと同じように味わう者に、神は祝福し、その人の結ぶ実を30倍、60倍、100倍にもしてくださいます。これは、信仰の成長のことでしょう。ですから、これからも励んで、御言葉を味わい続けていきましょう。


2022.03.06
「主の民の成長」マルコによる福音書3章20~35節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 先週イエスは十二弟子を任命されました。任命というのは、選ぶという事の他に、創造する、建てるという意味がありました。神様の働きをするために新しく創造され、神の教会を建て上げるために選ばれたのです。イエスは選んだ者たちを身近に置いて育てたかったのです。そこには大きな期待があります。この十二弟子の選びを、私たちの事として聞きましたね。私たちもまた、イエスに大変期待されて選ばれたのです。
 
さて十二弟子たちのところには「食事をする暇もない」程に沢山の人達が押し寄せてきました。それで、もう断食状態です。彼らは、イエスの期待を知って何とかお役にたちたいと張り切っています。イエスと一緒にいる彼らは、イエスのしておられることを理解しようと努力しました。218節でイエスと弟子たちが断食しないことが批判されました。断食は信仰深く見せるためではなく、こういうことを言うんだよと言われているようです。
 
しかし、弟子たちと対照的な人たちがいます。イエスの身内である母マリアと兄弟たちです。彼らは、イエスの行動は「気が変になっている」と憤って連れ戻そうとします。また、律法学者と言われる人たちも同じでした。イエスの事を悪霊に取りつかれていると批判したのです。
イエスは何をしておられたでしょうか。病気の人を治し、また生まれつき歩けない人、目の見えない人、手の不自由な人という身体の障碍を取りのぞいてあげたのです。悪霊のすることはこの逆ですね。人を困らせることを悪霊はします。
また、11節で、悪霊がこう言っていますよ。「あなたこそ神の子です」。
これは驚きですね。悪霊でさえも、イエスが神の子であることが分かっています。
にもかかわらず、イエスの家族や律法学者たちは無理解です。
 
家族でありながら何故理解できないのでしょうか。ヒントが31節にあります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち」とあります。彼らは、この時イエスのしておられる神の子としての働きを遠く外から見ているのです。それには確かに理由がありました。イエスの家族は父ヨセフを早く亡くし、長男のイエスは家族を養う立場にありました。でも、イエスは家を出て弟子をつくり、神の子としての働きを始められたからです。家族にしてみれば、自分たちの生活をどう考えているのか、と思いますよね。彼らは、まだイエスの傍にいないのです。物理的にも精神的にもすごく離れていたのです。
 
律法学者は神の言葉である聖書(旧約)を教える立場にあるにもかかわらず、どうしてイエスが理解できないのでしょうか。彼らはイエスが汚れた霊に取りつかれている(30)と批判します。しかし、イエスは28節で人と人との間の罪、神を冒涜する言葉、つまり神と人との不和の関係にある罪、それは赦されると言われます。何故なら、それらを赦すためにご自分が来られたからです。しかし、聖霊を冒涜するものは赦されないと仰います。つまり、イエスを認めないものは赦されないと仰います。その理由は、贖い主であるイエスを認めない者には、他に贖い主となってくださる方がいないからです。だから聖霊を汚すものは赦されないと言われるのです。イエスには聖なる霊が共におられるからです。
28節、「はっきり言っておく」と、律法学者たちに、神の真理を悟りなさいと熱く語られます。
 
 私は、イエスの前にパリサイ人や律法学者が敵対者として出てくるのは、何故なんだろうと思ってきました。この対立関係から聖書は何を伝えたいのかなあ、と思ってきました。
イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と言われましたね。また、十字架の上では「父よ(私を十字架につける)彼らを赦して下さい」と祈られました。
先週、任命の目的はご自分のお選びになった者たちをご自分のお側に置くためでした。そばに置いて、父なる神の意思を知る者となって欲しかったのですね。イエスはパリサイ人や律法学者にも自分の側に来て、父なる神さまの意思を知る者になって欲しいと願われていたのです。
 
 3435節はこのイエスの思いが良く分かる箇所です。「自分の回りにすわっている人たち(自分の側にいる人たちのこと)を見まわして言われた。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。35節のみこころを「行う」という言葉は、先週使われていた「任命」と同じ言葉が使われています。イエスから離れない人は、イエスの働きを共に行う人につくり変えられるのですね。
 
 イエスの家族も、後にイエスに従う者になります。エルサレム教会に最後まで留まったのはイエスの実の兄弟ヤコブでした。親族だからではなく、外に立っている人でもなく、イエスの傍にいる人として行動するようになります。幼子が一つのことに成功した時に、できた、できた、と一緒に喜ぶと、幼子はもっと喜ばせたいと感じます。それと同じように、イエスと共に歩むとき、イエスに倣う者となりたいという思いが与えられ、神の意思に自分の歩むべき道を一致させようと願う者とされていきます。神はご自分の民にこのことを願われています。432節、小さなからし種が大きく成長するという言葉にも「任命」と同じ言葉が使われていました。イエスの側に行くことでスタートした主の民の信仰は、共に歩み続けることで、大きく成長させてくださるのです。イエスと共に歩むというのは、具体的には集会に出ること、聖書を読むこと、賛美すること、祈ること、信仰の友との交わり等ですね。今は本の形の聖書以外にも、聖書アプリとか漫画聖書とか、聞くドラマ聖書とか、みことばを聞く方法は色々ありますので、お一人お一人に適した方法で御言葉に養われて、成長させていただきましょう。
最後にヨハネ155節をお読み下さい。
 
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

2022.02.27
「新しい神の民」マルコによる福音書3章13~19節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 異教の人アブラハムが神に選ばれ、その子イサク、イサクの子ヤコブと神の選びは続き、ヤコブの子孫がエジプトの奴隷の生活から救い出され、12部族として神の民とされました。その後、士師が立てられ、王の時代が続きましたが、神への従順を忘れた民は周辺の大国に侵略され、バビロン帝国の捕囚の民となりました。その後、カナンの地に帰還しますが、ついにユダヤの国はローマの支配下に置かれることになります。神の民は離散し、世界中に散り散りばらばらになります。しかし、神の民の歴史は神の子イエスが人となって来られた時、新しい時代が始まったのです。神の子イエスを生活の中で受け入れるという、イエスにある感謝と喜びという、新しい信仰を頂いたイエスの弟子たちでした。
 
 まずイエスさまは十二人の弟子を任命されます。十二というのは、12部族にちなんだ数です。ですから、彼らは「新しい神の民」として選ばれたのです。彼らはイエスと共に宣教し、初代教会を建て上げて行きます。さて、イエスさまは、どんな思いで十二人を選ばれたのでしょうか。13節を注目して下さい。「これと思う人々を呼び寄せ」とあります。他の訳では「ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せ」(新改訳)「みこころにかなった人たちを呼び」(口語訳)とあります。この人たちを弟子の代表者と考えることもできますが、今朝は、ここを、私たちのこととして受け取りたいと思います。
イエスさまは今朝、皆さんを「これと思う人」「ご自身のお望みになる者」「みこころにかなった人」として、礼拝に招かれているのです。これは、とても嬉しいことですね。
 
 「これと思う」十二人をお呼びになり、彼らを任命されます。この「任命する」と訳されている言葉は、ポイエオーという言葉が使われています。これは、「創造する」とか「建てる」という言葉が使われています。後に教会が誕生して行きますが、彼らはその創始者となりますね。十二人が任命されたのは、後の教会を創造するためであり、建て上げるために、まず彼らが選ばれたのです。つまり、皆さんも、そのことのために選ばれたということです。
 
 また、同じ言葉が432節に使われています。良くご存じの四つの種の例えの箇所です。32節では種が大きく成長する、という意味で使われています。任命されたのは大きく成長することを願われているということです。これは、神様が飯塚教会に期待しておられるということですね。この期待に応えるには、全員の祈りと協力が必要です。思いを一つにすることが必要ですね。私たちは、イエスさまから飯塚教会ならできると望まれて期待されてここに導かれている、このことを確りと自覚して、感謝して歩んで行きたいと思います。
 さて、そのような期待の下お選びになった十二人ですが、その最大の目的は何だったのでしょうか。ここが今日の御言葉のポイントです。
14節、「彼らを自分のそばに置くため」とありますね。
お選びになった最大の理由、それは彼らをご自分の直ぐそばに置くためです。
 
 私の子育ての中でこんなことを思い出します。長男が生まれた時、お祝いに頂いたものにスヌーピーの枕がありました。それは、いつも彼のベットの中にありました。そして、彼はそれが傍にないと眠れない程でした。歩きはじめる頃になると、それを何時もわきに抱きかかえていました。外泊する時にもそのスヌーピーが必ず一緒でした。その枕は彼の安心に繋がっていたのです。
 イエスさまが彼らをそばに置かれた最大の理由は、彼らに安心を与えるためです。また、イエスさまと共に歩む生活を身に付けさせるためです。幼子がスヌーピーの枕がいつも傍らになければならなかったように、イエスさまといつも共にあることが本当に自然なことであり、無くてならない事であり、喜びとなる為に、彼らをそばに置かれたのです。
 
 そして、そばに置かれたことに、もう一つ理由があります。それは、神の愛を深く知るためです。ある年の休暇にスペイン旅行を計画しました。私たちの旅はほとんど教会巡りです。それで出かける前に、バルセロナにある世界遺産のサグラダ・ファミリアの主任建築家となった「ガウディの伝言」という本を読みました。この教会は1882年から建築がはじまり今も建築中です。ガウディの建築は神さまがお造りになった自然界を構造の手本としているのが大きな特徴です。この本の著者の外尾悦郎さんはサグラダ・ファミリアの専任彫刻家として働いておられる方です。サグラダ・ファミリアというのは聖家族という意味で、現在完成しているのが生誕の門です。その中央に「救世主イエスさま」と書かれており、その上に糸杉のモニュメントの上に「白いペリカンの親子」が刻まれています。それで、外尾さんがそのことについて聖トーマスの伝言を紹介しておられます。
「母ペリカンは食べ物がなく、子ペリカンが飢え死にしそうになると、自分のお腹を口ばしで裂いて血を飲ませた。」つまり、このペリカン親子の像は、母と子の愛情のシンボル。それが、生誕の門の非常に重要な場所に置かれている。親子の絆は何よりも強い。犠牲を犠牲と思わせない力がある。それを象徴するペリカンを最も上に置いた。つまり、イエスという存在を生み出したのが神の愛の力であることをガウディは表現したかったのではないか。サグラダ・ファミリアの大きなテーマの一つだ、と書いておられました。 この教会は、主のご愛を、教会堂全体で表現しています。私たちの教会にはそのようなモニュメントはありませんが、私たち自身が主のご愛を表すものとなりましょう。そのために、まず、主のご愛を深く知る者となりましょう。
 
十二人を新しい神の民としてお選びになった神には、彼らに安心を与え、主イエスの十字架と復活に表される神の愛を深く知る者となって欲しいという願いがあります。そのために彼らをそばに置かれました。新しい神の民のスタートは、ここにあります。教会とは神の民の集まりのことです。建物を指すのではありません。その教会を建て上げるときに、このことは基礎となることだからです。私たちも、み側に置いていただいた者の一人として選ばれていることに、深く感謝を捧げたいと思います。神の愛を深く知る者となりましょう。


2022.02.20
「キリストとの新生活」マルコによる福音書2章18~22節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ここに、度々断食し、祈りをしていたヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちと、宴会で食べたり飲んだりしていたイエスの弟子たちがいます。どちらが信仰的かと聞かれれば、断食や祈りに熱心な人の方が信仰的だと答えるのではないでしょうか。しかし、イエスの答えは違っていました。これが今日の話しの筋です。わたしたちの信仰について、この話しは問い掛けています。自分には信仰があると思っている人だけではなくて、信仰がないと思っている人にも今日の話しは聞いて欲しいのです。ないと思っている信仰とは何の事なのかを考えさせられる話しが、今日の話しです。
 
 信仰とは神に近付くことだと思います。そして、神は聖なるお方ですから、俗なることから離れることが神に近付くことだと、まず考えますね。イエスの弟子たちが宴会で食べたり飲んだりしました。これは俗なることです。肉体的な欲求を満たす事は俗なることです。それで神に近付くことと禁欲することが関係してくるわけです。断食もその一つでした。俗なる世界から離れてするものに祈りもあります。信仰しない人の殆どは、俗なる自分には、信仰は関係のないことだ、と考えるのですね。
また、信仰している人は、日常から離れているときの信仰的生活と、日常に戻った俗なる生活という二重生活をすることになります。二重生活という信仰生活は、不自然で窮屈ですね。教会の中でもこういう信仰の捉え方が伺われる時があります。
 
今日の箇所は、前の13節以下の話しと関連しています。そこでは、盛大な宴会にイエスの一行が招待され、飲食を楽しんでいるのを見て、当時の信仰の指導者であったファリサイ派の人々や、その派の律法学者たちが不平を言っています。彼らも俗なるものから離れて神に近付くことが信仰だと捉えていたのです。
信仰者の生活は一つ
「イエスさま、あなたは神のことを語る者だと言いながら、飲んだり食べたりして楽しんでいて良いのですか。断食しなくて良いのですか。」そういう問いに対してイエスが答えられました。19節『結婚式は断食すべきときではなく、喜ぶときです。それと同じで、今は断食すべきときではなくて喜ぶときだから、わたし達は飲んだり食べたりする事を楽しんでいるのです。なぜなら、花婿であるわたしが一緒にいるからです。』と。
 信仰とは人間が神に近付くことです。確かに神はそのことを願っておられます。しかし、そこには問題があります。人間が努力して自分の行動を抑制しても、心の中まで清く出来ません。 聖書も宗教的に厳格でまじめなファリサイ派の人々と律法学者の、愛の無さ、自己中心な心を指摘しています。
それで、神の方から人間に近付いてこられたのです。いいえ、もっと究極的なことが起こりました。神であられた独り子イエス・キリストが人間になられたのです。俗なる人間になられたのです。俗生活の中に一緒におられるのです。これはどういうことでしょうか。聖なる生活と俗なる生活というように二つに分ける必要はないということです。信仰者の生活は一つなのです。
キリストとの新生活
ここを読んである牧師が注目すべき事を言っていますので紹介します。「当時宗教的に実に厳格でまじめな人々が、見ていて腹立たしく思うほどに、主イエスとその弟子たちが、食事を楽しんでいました。これは私どもの信仰に関る大切なことであります。」と。
神の子イエスによって、信仰を新しく捉える時代に入りました。生活の中で神を受け入れるのが信仰なのです。レビの家の食卓に神の子イエスがおられます。そして、イエスと共に食卓を囲んで、みんなで飲食を楽しんでいます。ここに新しいことが始まりました。
 しかし、ちょっと誤解のないようにお話しておかなくてはならない事があります。飲食を楽しむといいましても、色々な目的があります。ただ欲を満たすだけの飲食というのもあります。車のガソリンを満タンにするように、お腹を満タンにするようなものですね。それでは何だか寂しいですね。
もう一つ憂さ晴らしというのがあります。『憂さ晴らし』、憂いを晴らすと書きます。憂いとは嘆き悲しみ悩みのことです。人生には憂いがあります。それを飲食で晴らすのです。殆どの宴会はお酒で憂いを晴らします。最近は酔払えば良いというのではなくて、グルメを満喫して憂さ晴らしをする、というのも増えているそうです。
 
 レビの家での宴会は『憂さ晴らし』でも『欲を満たす』でもありません。嘆き悲しみ悩みは人生に付き物です。それは無くなるものではありません。しかし、讃美歌121番はイエスの事を「人となりて、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし」神の子と表現しています。そのイエスがレビの食卓にはおられるのです。それによってレビの食卓に喜びが生まれました。今まで憂さ晴らしに飲んでいたお酒を、感謝と喜びを持って飲んだのです。出された料理も、感謝と喜びを持っていただきました。ですから、イエスは19節でレビの食卓を婚礼の食卓に例えられたのでした。
 
 信仰とは、人が俗なるものから離れて神に近づくことではありません。生活の中に既におられる神、キリストを受け入れることです。しかし、このキリストを2000年前、人は追い出しました。十字架につけて殺したのです。これこそ断食をして悲しまねばならないことです。しかし、神は追い出されたキリストを死人の中から復活させて、永遠に人と共にいるようにしてくださったのです。このことは今も起っています。キリストは追い出されているのです。しかし、キリストは追い出されても、追い出されても共におられるのです。私たちが受け入れるのを待っておられるのです。
 
 2コリント417節に「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。
 キリストの後について行って、キリストと食事をしたレビ達は、キリストから新しい布、新しいぶどう酒を受け取りました。つまり、新しい信仰を頂きました。彼らは新しくなったのです。すなわち新しい皮袋です。キリストとの新生活が始まりました。私たちも古い信仰を捨てて、新しい信仰をキリストから頂きましょう。キリストはみなさんの食卓に着いておられます。まず、あなたの食卓に回復が必要です。まずキリストを心に迎えましょう。そして、あなたの生活の中にキリストを迎えましょう。これが、キリストを信じるということです。食前の感謝の祈りはこの具体的な一つの例ですね。キリストのおられない所はありません。


2022.02.13
「罪人を招く主」マルコによる福音書2章13~17節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
偽りと言う病気を直す医者イエス
わたしはノートを整理していて分かった事があります。最初のページの字は必ず丁寧に書いてあります。しかし、ページをめくって行くと、だんだん雑になります。そして、とうとう途中で何も書いていないページになります。聖書も新品の時には隅の所が折れないように注意します。開け方も丁寧にします。しかし、時が経てば汚れてきますし、隅が折れたり、破れたりもします。すると、最初の様な丁寧さが無くなってしまうのです。
 人生もよく似ています。 新成人、新婚さん、誰もが感動して、期待して、丁寧に、大切に自分の人生を歩み始めます。しかし、何時までも新品の様にきれいな人生であることは不可能です。振り返るとそうですね。汚れたり、傷ついたり、破れたりします。人生は自分の期待通りのものではありません。それで、自分の人生に対して感動したり、丁寧に扱ったり、大切にしなくなるのです。
アルファイの子レビもそんな人生を歩んでいたのだと思います。取税人という職業は、もうどうにも取り返しがつかない人が生きて行くために就く仕事でした。それは通行人から国に代わって通行税を取り立てる仕事でした。今の税務署と根本的に違うのは、その国が国民の国ではなくて、侵略者の国であるということです。ですから、この仕事は世の中から憎まれる仕事でした。
 レビの友達はみな同じ様な人生を歩んで来た人たちでした。盗人、詐欺師、売春婦などです。しかし、彼らも思っていました。「もう一度新しく人生をやり直せるならやり直したい。感動を持って、期待を持って、丁寧に、大切に人生を歩み始めたい。でも、そんなことはこの世ではありえません。自分達は世の中から落伍者と言うレッテルを既に貼られている。だから、どこへ行っても相手にされない。でも本当はこんな歩みをしたくない。しかし、そんな弱さを、そんな悩みを外に出してはいけないのです。大きな顔をして人々から恐がられていないと、この仕事はできません。
 その日も隣の国に通じる国境の道に設置された収税所にレビは座って通行人の来るのを待っていました。すると近くを通られたキリストが彼に声を掛けられたのです。「わたしに従いなさい。」。1章で、四人の漁師には「人間を捕る漁師にするから、わたしについて来なさい」と言われました。また、金持ちの青年には「天に富を積んでわたしに従いなさい」と言われました。しかし、レビには「わたしに従いなさい」と一言だけでした。今のレビには声を掛けてもらうだけで十分だったのです。わたしに従いなさい、この原語のギリシャ語は「一緒に」と言う言葉と「人生の道」と言う言葉が合わさって出来ています。「わたしと一緒に人生を歩みましょう」この様に言って、自分を本気で相手にしてくれる方と、レビは出会ったのでした。
 恐い顔をして収税所に座っていたレビは、沢山儲けていたでしょう。しかし、その姿は自分が望む姿ではありませんでした。レビにとって今日までの人生は、自分の本当の気持ちを誰にも打ち明けられず、何時も自分に偽って「これでいいんだ」と言い聞かせて、歩んで来た人生でした。レビは偽りの人生から脱出したかったのです。「わたしと一緒にいきましょう」と声を掛けられ、彼は立ち上がってイエスに従いました。そして、彼の多くの仲間もイエスに従いました。
食事の席で彼らはキリストに心の内を話しました。キリストはその一人一人に「偽りの人生と別れて、これからはわたしが一緒だよ。わたしと一緒に残された道を真実に進みましょう」と言って下さいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなくて病人である。」キリストは偽りと言う病気を治す医者なのです。偽りこそ人間の深い悲しい病いなのです。真実でありたい、これが人の一番の願いなのです。
的外れという病気を直すイエス
さて、その様子を見ていた人達がいました。それはファリサイ派の律法学者です。彼らはエリートでした。他人からの良い評価を受けていました。誰からも後ろ指をさされることの無い、落ち度の無い、正しい者である事で自分を満足させていました。ノートに例えるなら、最後まで綺麗に整った字で書き終えられたノートと言えます。しかし、彼らにとっても医者が必要でした。
 彼らは神から与えられた律法に、覚えきれない程の生活の細々とした細則を作って、それを守る事に終始していました。それが神に喜ばれる事だと信じていたのです。ですから、律法を守らない、守れない人々を神の救いから外れている人と考えました。イエスはそんな人たちと交わっていると批判したのです。しかし、彼らは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」ということが、「隣人を自分のように愛する」(マタイ22:37-39)ことだという、律法の精神を見失っていたのです。彼らも的を外して生きていたのです。キリストはそれを治してくださる医者なのです。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」これは「自分は的を外していない」と言い張る正しい者に対する挑戦の言葉でもあります。「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:10)と聖書にあります。
3章の6節では、とうとう彼らはキリストをどのようにして殺そうかと相談し始めます。自分達が信じてその教えを守っていると言う神様から遣わされた神の独り子を殺そうと相談し始める事こそ、的の外れている証拠です。しかし、残念ながら彼らの目は閉ざされてそれが見えませんでした。そして、キリストを十字架に磔にします。彼らもまた罪人の一人なのです。
 
 さて、私たちは今日二とおりの人の有りようを聞きました。私たちはどうなのでしょうか。1ヨハネの手紙110節にこうあります。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽りものとすることであり、神の言葉はわたしたちのうちにありません」。キリストが十字架で命を捨てられたとは、偽り、的外れという私たちの罪を担ってくださったということです。この恵みを今朝も覚えましょう。キリストは今も、私たちを真実な人生へ出発させて下さる方です。そして、今日もみなさんを招いて言われます。「わたしと一緒に行こう、ついて来なさい。」と。偽り、的外れと言う病気を直す事のできる医者であるイエス・キリストに、従って行きましょう。


2022.02.06
「罪を許す権威」マルコによる福音書2章1~12節

説教:末吉百合香 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
【屋根に穴を開けてまで】
  中風と言う病気は一刻を争う急病ではありません。しかし、3.4節の屋根に穴を開けて彼の寝ている床を釣り降ろしたという所を読みますと、何か急病人を運んで来た様に思えます。おびただしい群衆が病気をいやしてもらう為に詰め掛けていました。順番があったはずです。急病人だったら話が解ります。どうして屋根に穴を開けてまで急いでイエスの前に行かなければならなかったのでしょうか。
 ここで癒し以外のことを伝えたかったからだと思います。そうでなければきちんと順番を待って、中風さえ治ればそれでよいですね。病気が治ればそれで問題は解決ですよね。他にどんな問題があるのでしょうか。聖書は私たちにも問い掛けています。
【床にのせたまま】
  床にのせたまま連れて来られたというのですから、全身が動かせない一番ひどい寝たきり状態だった様です。彼にとって、この床が生きる場でした。この床ごとイエス様に彼の現実を見ていただきたかったのです。「イエス様、神はどうして私達にこの現実をお与えになったのですか。」
  皆さん、私達も同じ質問を、人生の中で持ちます。そして、多くの場合その原因は何なのかと言う答を求めます。何か悪いことを自分がしたのか、先祖がしたのか、そのバチが当たったのか。あるいは、方角が悪い、名前が悪い、先祖の供養の仕方が悪い、と言う風にです。
  しかし、つれて来た男たちが求めたのは原因ではありませんでした。詩篇38篇が歌う思いをこの男たちは持っていました。それはこういう思いです。「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ、ご自身でわたしに答えてください。原因ではなくて、神はこの現実をどう思っておられるのか、この病気の本人、その病気を共に担って看病している家族を神はどう思っておられるのか。その答えをズーッと待ち望んで来ました。その答えが一番大切なんです。それが私の人生を根底から支えるんです」、詩篇38篇は詩人のこの信仰をうたっています。
 男たちはこの詩篇を口ずさみながら、神から遣わされた方が来られたならきっと答えていただける、と信じて何年も何年も待っていたのではないでしょうか。待ちに待った今日その方イエス・キリストが来られたと聞いて、待ちきれなかった思いが、屋根に穴を開けさせたのではないでしょうか。自分の人生を根底から支えるお方が来られた、と言う信仰です。5節で、イエスはその彼らの信仰を見て、神に代わって答えられました。「子よ、あなたの罪は赦される。」
【罪の赦しを信じる】
 皆さん、私たちも今日この屋根に穴が開けられた家にいるといたしましょう。その真ん中にイエス・キリストがおられます。群集でイエス・キリストの姿は見えません。入り口の所でしょうか、まだ入り口には達していないでしょうか。しかし、その家に集まって来ました。私たちもイエスの声を聞きましょう。「子よ、あなたの罪は赦される。」
 罪の赦しとは、罪を取り除くという事です。イエス様は言われます「あなたの罪を私が取り除きました」。罪って何でしょうか、またそれをイエス様はどうやって取り除くのでしょうか。       
私が頂いた結婚祝いに綺麗な刺繍の入ったテーブルクロスがありました。とても気に入ったのですが子育てが始まると汚すので、子育てを終えてからと大切に置いておきました。その時が来たので出してみましたら、何と手の染みでしょうかあちこちに薄茶色の染みが出来ていました。皆さんもこんな経験があるのではないでしょうか。罪ある人間の人生は染みのあるテーブルクロスに似ています。その染みは何で洗っても取れません。また、どんなに素晴らしい料理をテーブルに並べ人の気を引いても、その食器で染みを覆っても、染みはそこにあるのです。どんなに素晴らしいテーブルに変えても、そのテーブルは染みのあるテーブルクロスを敷いたテーブルなのです。このテーブルクロスは人にはどうすることもできないものなのです。私達は人生をテーブルの上にものを並べる事と考えます。そこに何を並べるか、何が並んでいるか、平凡な一人の人生か、多くの栄光に輝いた人生か、人はテーブルの上にあるものに注目します。しかし、そのテーブルクロスは染みがついたままです。
  「子よ、あなたの罪は赦される。」と言われるイエス・キリストは、私達の染みのあるテーブルクロスをご自分の真っ白なものと取り代え、ご自分のテーブルに私達の染みのあるテーブルクロスを敷かれます。これによってはじめて罪が取り除かれ赦されるのです。
 9節の「起きて歩け」と言うのは、中風と言う病気と健康とを取り替える事です。しかし、染みのついたテーブルクロスは変わりません。罪はそのままです。「あなたの罪は赦された」と言うのは、テーブルクロスをイエス・キリストの真っ白なものと取り替える事です。どちらが易しいか。これは私達への問いです。「あなたの罪は赦された」と言う方が難しいのです。今朝のみ言葉は「人は人生のテーブルの上に並べるものの事ばかりに気をとられて生きている。しかし、汚れたテーブルクロスの事をちっとも考えない。忘れている。気付いていない。」と、指摘しています。皆さん自分のテーブルクロスの染みに目を向け、キリストの罪の赦しを信じましょう。
【十字架と復活】
 屋根に穴を開けた人たちが問い掛けた「イエス様、神はどうして私達にこの現実をお与えになったのですか。」と言う問いは「神はどうして私達を見捨てられたのですか」という問いでもあります。イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」15:34と叫ばれました。これは、わたしたちの染みの入ったテーブルクロスをご自分のものとされた、という事です。死んで三日の後、神は死人の中からキリストを復活させ「わたしは、決して見捨てたのではない」と答えられました。
 あなたの罪はイエス・キリストによって取り除かれたのです。あなたの人生のテーブルで最も問題なのは汚れたテーブルクロスです。それをキリストが真っ白なものと取り替えて下さったのです。十字架の上で罪のない神の子のいのちが捧げられたことによって、すべての人の罪が取りのぞかれたのです。信じてイエス・キリストの前に行きましょう。この中風の人と同じようにキリストの前に行きましょう。
 そして、キリストのテーブルを見て下さい。そこにはあなたの汚れたテーブルクロスが敷かれています。キリストは神から与えられた権威によって宣言されます。「あなたのテーブルクロスは真っ白です。
汚れは取り除かれました。子よ、あなたの罪は赦された。安心して帰りなさい。」「神はあなたを決して見捨てておられません」。
 
 本来でしたら今朝は聖餐式が行われる予定ですね。しかし、オミクロン株の急増の為行えません。聖餐とはキリストの食卓に着くことです。聖餐式でキリストのテーブルに着く時、覚えましょう。キリストのテーブルクロスと取り替えていただいた恵を。人生というあなたのテーブルに何が置かれようとも、キリストの真っ白のテーブルクロスという恵の上である事を。それは神の子だけが持つ罪を赦す権威を示すテーブルクロスです。その上にわたし達はどんな人生を並べましょうか。罪赦された恵みをこの一年も深く受け止めて、賛美と感謝をもって歩んで行きましょう。

2022.01.30
「キリストの手」マルコによる福音書1章40~45節

説教:末吉貞雄 師

 
 ★キリストは、ユダヤ人の会堂や野外で、神と人の和解の福音を、のべ伝えられると共に、病気や障害を負う人々と会い、癒されました。その評判がガリラヤ中の町に広がった時に、かつて、知らずにキリストに洗礼を授けたヨハネが、その噂を荒れ野で聞いて、弟子をキリストの所へ派遣して尋ねさせました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。するとキリストは、次のように答えられました。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ・・」。
 
 ★ヨハネは、弟子たちの報告を聞いて、約500年前になされたイザヤの預言を思い出したことでしょう。「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が、喜び歌う。3545節」。しかし、聞いた報告には、一つ重要な言葉が加わっていました。それは、重い皮膚病を患っている人が清くなる、という言葉でした。
 
 ★「重い皮膚病」という言葉が、初めて聖書に出てくるのは、モーセがエジプトで苦しんでいる神の民イスラエルの所へ、神から派遣を命じられた時でした。その時、神は断るモーセに対して、彼らの神が確かにモーセに現れ、エジプトに遣わされた事が、本当であると示す、しるしをモーセに見せられました。杖が蛇に、その蛇が元の杖に変わる軌跡と、もう一つは、手が重い皮膚病に、そして元の手に戻る奇跡。そして言われました。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを、聞かないとしても、後のしるしが告げることは、信じる」。皆さん、後のしるしは彼らに告げました。「重い皮膚病を御支配する、あなたがたの神、主である私がこのモーセを遣わす」。
 
 ★神の民は信じて、モーセに従いました。民はエジプトから脱出し、神の山、シナイ山まで導かれ、十戒を中心にした、これから始まる神との生活の心得を教えられ、神と共に進む、信仰の旅に出掛けました。男だけで60万人もの人々の旅を、モーセ一人が指導するのは至難の業でした。民からは、神の憤りを起こさせる不満の声が続々と上がりました。モーセは民と神の間に立って、心身ともに疲弊し、悲鳴を上げました。その時、神は70人の補佐を増やし、続けてモーセを通じて、信仰の旅を導かれました。
 
 ★ところが、エジプトに遣わされる時から、モーセの一番の補佐役に選ばれ、モーセを助け、民の模範となるべきアロンとミリアムが、モーセを非難して、分裂分派が生まれようとした時がありました。これは非常に大きな罪でした。それで神は神の民から、初めて去って行かれました。と同時に、ミリアムが重い皮膚病にかかり、七日間、民の外に締め出されました。民は七日間、重い皮膚病になったミリアムを遠くから眺め、荒れ野の真ん中に取り残され、神が去って行かれたという、事態の深刻さを体験しました。
 
 ★しかし神は七日後に戻られ、旅は再開しました。神が共に歩まれた神の民の歴史は、それ以後約800年続きます。その間、神は憤りを覚えながらも、憐れみの心をもって民に接したことは幾度もありました。しかし、民はそんな神の思いを無視して離れて行き、とうとう、神の都と言われたエルサレムが陥落し、神殿が破壊され、祭司たちが捕虜になって外国へ連れて行かれる窮地に陥ります。その中にいた祭司ブジに、息子エゼキエルがいました。神はそのような中で、彼を預言者に立て、エルサレムの神殿から、神が去られた事を告げました。これで二度目ですね。しかし、神は約70年後に祭司たちが帰り、神殿が再興されるように導かれますが、アレキサンダー大王やローマ帝国という、大国の支配が相次ぎ、去って行かれた神が、戻られる気配は、まだありませんでした。そういう中でイエス・キリストが生まれました。
 
 ★マルコ福音書は、キリストが、けがれた霊や悪い霊を追い出したり、病人、中風の人、手の萎えた人をいやしたり、耳の聞こえない人や、口の利けない人や、目の見えない人の障害を、取り除いたりされたことを、沢山伝えています。その中で、今日読まれました140節以下にある、キリストが手を差し伸べて、触れられると、たちまち重い皮膚病が去ったと言う出来事は、去っておられた神が戻って来られた、それも神に代わって、その愛する独り子が来られた、という決定的なしるしでした。
 
 ★ところが神が、神の民の所に戻って来られたと言うのに、神の民はそのキリストを十字架にかけました。キリストの手は、無理やり伸ばされて、太い釘が打ち込まれました。キリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られ、身体の痛みと、嘲りによる心の痛みをも受け、そして、息を引き取られました。
 
 ★天で見守っておられた神の憤りは、いかばかりか。ところが、神は、墓に葬られて三日たったキリストを、死人の中から甦らせて、師を見捨てて逃げ去り隠れていた、弟子たちの真ん中に立たせて、「あなたがたに平和があるように」と、和解の手を差し伸べさせられました。その手には大きく深い釘の跡がありました。神はキリストの祈りを聞いてくださり、本当に戻って来て下さったのです。キリストは神と人の和解のしるしです。そして、神は、神の民とだけではなくて、皆さん、お一人おひとりとの和解をも、含めてのしるしであることを、公言なさいました。それで教会では、毎週の礼拝の最後、出席者に向かって「全世界に出て行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい」と、派遣の言葉が告げられます。
 
 ★キリストは今から約2000年前に、天に帰られました。しかし、去って行かれたのではありません。代わりに地上には聖なる霊を遣わし、教会を導かれます。キリストは、天に皆さんを迎える準備が整い次第、必ず戻られます。今は、皆さんがキリストに繋がる手、足、目、耳、口となって、キリストのからだなる、教会を形成し、よき働きをさせていただく時です。しっかりと、キリストに繋がりましょう。神との和解をまだ、なさっておられない方は、是非、このキリストによって示された神との和解の招きに、お応えしましょう。
 
★お祈り
天の父なる神様、あなたのみ名をあがめ、賛美します。
コロナ感染防止のため、愛する兄弟姉妹が、相集っての礼拝ではありませんが、それぞれが可能な方法で、お献げしております。
どうか、平常の礼拝が早く再開できるようにしてください。
 
キリストの手を、神と人の和解のしるしとされた父なる神、天に帰られたキリストの後、この地上で私たちのこの手も、同じ働きをする手としてください。
人と人、民族と民族、国と国との和解の実現は、非常に困難ですが、どうか、この私たちの手をそのために用いてください。
最も小さき者のひとりに、気付く目と、仕える手と、してください。
 
感染された方々、感染防止のために働く方々、感染のために仕事に影響を受けている方々、を支えお守り導いてください。
指導者に立てられている人に、正しい判断を下す知恵を与えてください。
高齢者の体調をお支え下さい。
子どもたちを、お守りください。妊婦さんたちをお守りください。
 
イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。


2022.01.23
「新しい命に生きる」マルコによる福音書1章16~20節

説教:末吉貞雄 師

 
 ★「あなたは神と和解できます」これがキリストが宣べ伝えて下さった神から皆さんへの福音です。信仰の出発点は、神と和解させいただくことです。
 ★皆さんの手元にある聖書は、旧約1502ページ、新約480ページ、合せて1982ページです。その最初の10ページで、禁断の実を食べて、エデンから追放され、二度とエデンに戻れなくなった、人の先祖アダムとエバの物語があります。それから、神が人を造ったことを後悔され、大地にいる息のあるもの全てが、洪水によってぬぐい去られ、箱舟の中にいた、ノアの家族と、それぞれの動物のつがいたちが、かろうじて生き残り、世界が再出発できた物語があります。この二つの物語が、これから始まる1982ページにも及ぶ長大な物語の前提のように綴られています。
 ★「神との和解を人は諦めている」これが私たちの一番根底にある問題だからです。この問題がある為にどうしても不安が残ります。その不安を和らげる為に、人は色々な宗教を作って来ました。ですから教会は他宗教の存在を否定しません。人間の現実と受け止めます。また、教会は優越感を持つべきではありません。神と和解して救われるのは、全く神の憐みによる、恵みによる、神主導の出来事だからです。
 ★今日読まれました、キリストが仕事中の漁師4人を最初に弟子とした物語は、彼らの信仰心のあるなしが全く語られていません。神主導です。信仰の出発点、神との和解のために皆さんは何もしなくて良いのです。神が為さる事です。しかし、神は私たちを、ロボット扱いされるのではありません。それで神は招かれます。キリストは神に代わって彼らを招いて言われました「わたしについてきなさい」。彼らは躊躇することなくキリストの後について行きました。
 ★それだけではありません、シモンとアンデレは、網を握っていた手を放して、湖に捨てて、ついて行きました。ヤコブとヨハネは、その日の漁を早く終え舟の中で、父と雇人たちと網の手入れをしていました。その仕事を残して、ついて行きました。漁師のいのちと言われる網を失ったシモンとアンデレの家は、これから先どうやって食べて行くのでしょうか。雇い人もいたヤコブとヨハネの家の漁業は大がかりでした。父ゼべタイは息子たちに跡継ぎとして期待していたでしょう。色々詮索すると、常識では考えられない事がここに書いてあります。しかし、聖書は「そのような詮索をされると誤解を招く恐れがある」と、言うような心配を全くしないで、ここを綴っています。
 ★また、皆さんは早合点して、信仰によってクリスチャンは非常識で良いと思ったりはしないで下さいね。では、どういうことなのでしょうか。聖書はただ、「わたしについて来なさい」とのキリストの招きが、人間にとって、皆さんにとって、あなたにとって、天地がひっくり返る位の、人生最大の出来事であることを、ただそれだけを皆さんに伝えようとしています。
 ★キリストが天に帰られた後、この漁師たちはキリストに代わって「神と和解させていただきなさい」と招く教会を形成して行きました。2コリント519-21「神は、キリストによって、世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。ですから、神が私たちを通して、勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって、神の義を得る事ができたのです。」
 ★さて、神と和解させていただいた後、私たちがすることは一つだけです。キリストの後について行く、キリストのうしろに行くことです。前でも横でも斜めでもなく、真後ろです。そこは列車のように、連結部があるところです。つまりキリストとしっかり繋がる事です。その結果としてキリストが歩まれる道を歩む事になります。皆さんは、羊が羊飼いについて行くように、ついて行くだけで良いのです。羊飼いについて行くのは難しい、と言う羊はいません。なぜなら羊飼いの声を知っているからです。ですから、皆さんも羊飼いキリストの御声である、聖書のみ言葉を心に納め、受け入れて下さい。
 ★さて、招きに応えて、キリストの後について行くだけで良いのです、あとはキリストが事を進められます。「人間をとる漁師にしよう」。これを読んで、教会はちょっと危険な所では、と思う方もおられるのではないでしょうか。原語は単に人間の漁師となっています。それでは何のことか分からないので、人間をとる漁師と翻訳されました。ルカ福音書は原語でも、人間をとる漁師、となっていますので、参考になります。そこで使われている原語は、「生け捕る」です。
 ★それは水族館の魚に似ています。出来るだけ自然のままに、傷付けず、弱らさず、最高の注意を払って、最高の環境に設定した水槽に入れます。キリストは私たちを水槽の中ではなくて、神様の御支配の中、御手の中、神の家族の中、羊飼いイエス・キリストの群れの中、キリストと言う葡萄の木に繋げられた枝々の中、という最高の環境の中に入れて下さいます。教会は、それを新しい命に入ることだ、と伝えてきました。参考に一つ聖句を紹介します。
 ★だれでも、キリストの内にあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものが過ぎ去って、すべてが新しくなりました。2コリント517節。
 ★クリスチャンになったら、今の自分はどうなるのだろうか?と心配しますが、この生け捕りの事を思い出して下さい。人間をとるキリストは絶対に、人をだめにしません。キリストは人を新たに生かします。そして、神はおお喜びなさいます。そして、その人を今度は、神の和解の使者としての働きに、与らせて下さいます。その神のおお喜びに共に与らせて頂きます。これは素晴らしいことです。
 ★既にキリストの招きを受けて、その後について来られている皆さん、あの招きが、どんなに大きな出来事であったか、「あなたの測り方はまだ小さい」と言われています。「わたしの後についてきなさい」今もキリストは招かれます。この招きを今、私も受けている、そう思われる方、心配することなく答えて下さい。神と和解し、その御支配の中に入れていただき、新しい命に生きて下さい。
お祈りしましょう。


2022.01.16
「時は満ちた」マルコによる福音書1章14~15節

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 ★私たちは天に向かって地を歩む中で、色々な生活をして来ました。そして、今、しています。そして、これから先どんな生活になるのかは分かりません。振り返ると、学校生活、就職して職業人としての生活、結婚生活、子育て生活、長期の闘病療養生活・・・色々あります。それぞれの生活に入る前に、私たちは急いで出来るだけの準備をします。しかし、後から考えると、これをしといたら良かったのに、あれをしといたら良かったのに、と、後悔の連続です。大切なのは、日々の営みの中で、コツコツと、準備することですね。天での、父なる神とイエス・キリストとの、生活の準備もコツコツですね。私たちのために何をして下さったのか、まずこの事を知る、そして、それを知った者として相応しい生活を、コツコツ進めましょう。
 ★キリストは、私たちのために、何をして下さったのか?ズバリ、神さまが伝えようとしておられる、福音を、宣べ伝えました。「宣べ伝える」それは宣言する事です。学校の教室でも講演会場でも講師は正面中央に立ちます。ヨーロッパの古い教会では説教壇が礼拝堂の前より後ろへ下がった会衆の横にあります。周り階段を2メートル以上登って説教します。説教が講義でも、講演でもなく、神の福音の宣言だからです。だから、聖堂は教室や講演会場の様な明るさはいりませんでした。大人も子どもも、神の福音の宣言を聞きました。
 ★では、神の福音とは何でしょうか。福音と翻訳されていますが、原語は、良いと、知らせの、この二つの言葉が合わさった形になっています。神が私たちに、良い知らせを宣言したいのです。と言うことは、私たちは、何かが良くない状態だ、と言うことになります。
 ★昨年、飯塚教会に赴任して、4/8木曜の朝10時の集会アパルームで、聖書を第一ページから、コツコツ読み始める事といたしました。今週は19ページになります。皆さん、是非このコツコツに加わって下さい。集会に来れない方は、ネットで、あるいは印刷物を受け取って加わって下さい。宣伝はここまでにいたします。
 ★さて聖書を読み始めてすぐに感じる事は、神と私たちの関係がどうも良くない、と言うことです。神の方は、何とか良くしようと、私たち人間に働きかけてくださるのですが、私たちの方は全く無視し続けました。神は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ、洪水で天の下にある高い山は全て覆われ、水は勢いを増して、更にその上15アンマ(7.7m)に達し、山々を覆い、地上の肉なるもの全ての息を絶されました。最悪の結果となりました。ですから、神の福音とは、「わたしとあなたがたの関係が良くなったぞ」と神がなさった、和解の宣言です。キリストはそれを神に代わって私たちに宣言して下さるお方です。
 ★さて、神の和解の計画は既に大昔から始まっていました。人間としての希望が見いだせないひとりの人アブラムを選び、彼から一つの民族を興し、彼らと共に歩む中で、「わたしはあなた方の神である」「あなたは私たちの神である」という関係を作り、彼らを神と人の和解の印、その目に見える形としての祝福を取り次ぐ者、とする計画を立てられました。神が彼らと共に歩まれたので彼らは神の民と呼ばれました。ところが、彼ら自身が神に背を向け、他の神々に向かって行ったので、神は彼らから離れざるを得ませんでした。神は預言者を遣わし、立ち帰るよう勧めました。しかし、彼らは聞く耳を持たず、とうとう預言者の命を奪いました。そんな事が繰り返されましたが、それでも神は、預言者を、御自分の思いを伝える使者として、遣わし続けられました。
 ★この様に神は神と人の和解の計画に、長い長い時間を積み重ね、惜しみなく手間と暇を、掛けられました。このように、神と人のバトルを通して、増々露わになって行く人間の問題に対して、神は増々その愛を燃やされました。そして、神は神と人との和解の計画に最終決断を下されました。キリストの第一声である「時は満ちた」は、天地創造以来の、神の人に対する愛の充満の限界をも表しています。
 ★第二の声の「神の国は近づいた」は、観念の神ではなくて現実の神が人間に大接近して和解を実現させることです。それも、御自分ではなくて、愛する独り息子のイエスを、人として生まれさせる、と言う究極の形をとられました。一般に宗教の救いとは、神でしょうか、仏でしょうか、真理でしょうか、悟りでしょうか、人間が下から上へ向上して行く行為です。しかし、神がイエス・キリストによって、上から下に、人間の方に近付かれました。神は神と人との和解の実現の為に、かつての預言者の命を奪った、人間の罪深さを承知の上で、むしろ、愛する独り子が苦しみを受け、侮られ、捨てられ、十字架と言う罰を受けても良い、罪の長の死に勝利され、葬られ、陰府に下っても良い、全ての人の罪を代わりに背負わせて良いと決断なさいました。後に神はその無残な姿になった我が子に全ての力を注いで復活させ、罪の長である死を打ち破り、罪からの解放と、復活したキリストの差し伸べた手によって、神と人の和解の道を実現されました。「あなたは神と和解できる」これが良い知らせです。
 ★第三の声は悔い改めと信じる事の勧めです。ユダヤ人からは「神と無関係の人々」と言われ、自分でもそうだと思っていた、ガリラヤの人々に、キリストが一番にこの勧めをしたのは、この喜びの知らせに、無関係な人は一人もいないからです。それを聞いて「わたしも神と関係しているんだ」と、少しでも感じるなら、何でもいいです、神に応答して下さい、それが悔い改めて福音を信じる事の始まりです。皆さん、今日から何か始めて下さい。最後にもう一度、わたしからキリストに代わって皆さんに宣言します。「あなたは神と和解できる」。
お祈りしましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名をあがめ、感謝いたします。
イエス・キリストによって、神と和解できる、この良い知らせを
今一度聞き、悔い改めて信じます。
 
時が満ちるまで、神の愛が人に、繰り返し繰り返し、注ぎ続けられたかに、今日改めて驚いております。
 
また、私たち一人ひとりに取りましても、時の満ちるに及び、神との出会いの時、決心の時、神に向きを変える時を与え、キリストによって神がこの私に接近して下さり、あなたとの交わりに与らせて下さいました、その恵みに感謝いたします。
 
その恵みの応答として、何をお献げしたら良いのでしょうか。この地上にある間、礼拝、賛美、祈り、献金、時間、能力、わたしに与えられたもので精一杯献げ続けさせて下さい。それが天に於いて、あなたとお会いする、良き備えとなりますように。
 
今週も私たちと、愛する家族を守り導いて下さい。オミクロン株のウィルスからお守り下さい。
また、私たちの全ての営みを祝福して下さい。
 
神の福音を宣べ伝える為に、飯塚教会を用いて下さい。その為に教会を整える必要があります。その為に相応しく、より良い教会の組織を考える必要があります。どうか、良き知恵をお与えください。
 
教会に集えない人の上に、神さまの導きをお願いします。
 
病や障碍を負いつつ歩まれる方々を支え助けて下さい。
悲しみの中にある方々を、失望落胆している方々を、そこから立ち上がらせて下さい。
この星の環境が保たれ、子ども達の笑顔を絶やすことのない世界、戦争が必要ない日が、来ますように。その為にも教会を用いて下さい。
キリストの御名によって祈ります。


2022.01.09
「天に向かって地を歩め」マルコによる福音書1章1~13節 

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 2022年はもう既に九日目に入り、皆さんのいつもの生活が動き出しました。新幹線が動き出したら、車掌が入って来て言います。「本日は新幹線の御乗車、誠にありがとうございます。ただ今から皆さまの切符を拝見させて頂きます」、そして一人ひとりの切符を、チェックしますね。皆さんがお母さんのお腹から生まれ出た後、人生という乗り物に乗り、動き出します。目には見えない人生の切符もちゃんと神さまから貰っています。貰っていない人は一人もいません。この場合車掌は来ません。その代わりに聖書はみなさんに言います。「皆さん、ただ今から人生の切符をご欄に成って行き先を確認して下さい」。
 
 朗読された聖書にそのヒントがあります。3節、荒れ野で叫ぶ者の声がする。荒れ野とは人間も動物も植物もない、風の音以外は何も聞こえないシーンとした所です。緑豊かな日本では考えられない所ですが、私たちの身近な所にも、荒れ野があります。例えば病院のベッドの上も、それまで日々の生活に追われていた者にとっては、シーンとした荒れ野です。荒れ野は自分を見つめ、自分の人生の行き先のことを考えさせられる所です。その荒野でヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と主の道を進めと、叫びました。
 
 今日コスモスコモンで午後1時飯塚市の成人式が行われます。子どもが親の手から離れて、一人の大人として責任を持って、自分の人生の道を自分の好きな様に歩み出す、その様な時だと、祝辞されたなら「いいえ、うちの子はもっと前から、親の言う事を聞かないで、自分の好きなように歩んでいますよ」。「いいえ、僕の場合は大学を出たら次はどこだと、もう親が決めています。いつになったら自分の人生を自分の好きな様に歩めるのでしょうか」。なんて色々な声も聞こえますが、全員、自分の人生は自分の好きな様に進む「自分の道」だと思っています。しかしヨハネは、そうじゃない「主の道だ」と叫びます。「主の道」それは主イエス・キリストがおられる所、父なる神がおられる天国へ向う道です。ヨハネは叫びます「私達の人生の行き先は天国だ。しかし今反対に向かっている。180度方向転換が必要だ」。その通りだ、と信じた人はヨルダン川で、罪を告白して、悔い改めの洗礼をヨハネから受けました。
 
 しかし、人間がするこの180度の方向転換というのは、いい加減なもので、また180度回ったら簡単に元に戻れます。方向転換した後が肝腎です。そのままではいけないのです。天国に向かって進まなければなりません。しかし、ヨハネは天国への道とは具体的にどんな道で、どの様にしてその道を作って、真っ直ぐ進めるのか、一切答えませんでした。皆さん、ちょっとヨハネさん無責任の様に思いませんか。しかし、そうじゃありませんでした。わたしの後から必ず来られる私より優れた方イエス・キリストが責任を持って、180度方向転換したあなたの為に、天国への道を作り真っ直ぐに切り開かれます。ヨハネが確信を持って180度の方向転換をするよう叫んだ拠り所は、ただただこのイエス・キリストによっていました。行き先が天国と書かれた、目には見えませんが神さまから頂いている行き先が天国の人生の切符を、ここにいる皆さんが、いえ全ての人が持っています。
 
 皆さん、私達の今の信仰も、このヨハネの立場と似ています。ヨハネは「わたしは、かがんでその方の靴の紐を解く値打もない」と言いましたが、私たちは靴の紐を解く以前に、その靴の裏の泥を取り除く値打もありません。私たちの後から必ず来られるイエス・キリストは、2000年前にこの地から天へまっすぐに道を通したお方です。ですから私たちもひたすら、天国に向けてこの地を歩みましょう。私たちの拠り所は再臨のイエス・キリストです。更にキリストはプラスして再臨の日まで聖霊の助けを約束して下さいました。これは特別です。
 
 キリストが確かな拠り所である事を例えを持って話してみましょう。皆さん吊橋で最も重要なのはワイヤーを大地に固定する所ですね。アンカーレイジといいます。明石大橋のアンカーレイジは70m×40mの広さで高さは30メートルをこえるでしょう。そのコンクリートの塊が地中にドッシリと据えられています。深く掘れないのでこの重さと摩擦力で吊橋を支えます。キリストが真っ直ぐ通された天と地を結ぶ道も、この吊橋と似ています。天の側のアンカーレイジは問題ありません。問題は地の側です。ワイヤーを深く深く据えなければなりません。つまり地面ではなくて、私たち人間の現実の深い深い所まで、ワイヤーを持って行って、絶対に抜けない様にされました。具体的にどうされたかと言いますと。
 
 キリストは方向転換する必要がありませんが、群衆に紛れてヨハネから洗礼を受けました。洗礼を受けても誘惑の多い中にいる私たちと同じように誘惑を受けました。全世界に広がる教会の使徒として田舎の漁師を選びました。汚れた霊に取りつかれた男、多くの病人、婦人病の人、思い皮膚病、中風の人、手や足や耳や目に障碍のある人、徴税人、罪人と呼ばれた人、最後は死刑囚と共に十字架につけられました。当時これらの人は天国へは行けないと言われ、自分でも諦めていた人々でした。十字架の苦しみ、死に、葬られ、そして三日後には陰府と呼ばれていた天国とは正反対の極みにまで低く低く、ワイヤーを持って行かれたのでありました。
 神は、それを確認してキリストを甦らせ天にまで帰らせ、ワイヤーが天と地で確りつながれ、天国の道、橋を完成させられました。この工事は神とキリストの愛の工事でした。ローマ8章35-39節参照。天に向かって地を歩みましょう。
 
 さて、皆さん天に向かうとは、天の父と御子イエス・キリストとに会う事を大前提にして、この地上で、何事についても、対応する、歩むという事ですね。そのために、今日からマルコ福音書を通して毎週、キリストが地上に残された、言葉に耳を傾け、行動に目を注ぎましょう。どう歩めばよいのか教えて頂きましょう。特にキリストがその命を献げられた事に応えて皆さんも献げて下さい。礼拝、賛美、祈り、献金、時間、能力、知恵・・・・色々なものを誠実に献げて下さい。
 
お祈りします
天の父なる神さま、み名をあがめます。
過ぎました一週間の御導きを感謝します。
引続き今日からの一週間の御導きをよろしくお願いします。
天に真っ直ぐ向けて方向を修正いたします。
方向転換だけで終わらず、一歩、この大地を天に向けて一歩、前進いたします。
洗礼者ヨハネのごとく、天からキリストが必ず来られる約束に、拠り所を置いて、天に向かって地上を歩ませて下さい。何がありましても、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
全ての人が天国に向かって進めますように、願います。
この約束、拠り所、確信を、この後のパンと杯を味わい、このからだに刻み付けて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


2022.01.02
「神に導かれて」マタイによる福音書2章1~12節 

説教:末吉貞雄 師

LinkIcon 礼拝メッセージ(Youtube)
 
 東の方からやって来た占星術の学者達は、毎晩、星を見ていました。それが彼らの仕事でした。星の動きを見て、これから何が起こるのかを占います。今ならテレビやインターネットで、一週間分のお天気がわかります。だから台風が三日後には近づくから注意が必要と、分かります。でも2000年以上前のお話ですから、分かりません。それで星を見て占いました。どこの国の王も星占いの学者さんを雇っていました。今読んでもらった聖書に出てくる学者も王に雇われていました。大切な仕事でしたから給料も沢山もらっていました。
 
 イエス・キリストが生まれる頃にこんなことがあったようなのです。いつものように星を見てると、一人が言いました「皆さん、あの星とこの星がだんだん近づいて何だか大きな光になって来ているようです」「なに、どれどれ、ほんとうだ。さっそく占い大辞典で調べてみよう」。東京大学の教授であった歴史学者の弓削 達(とおる)さんによれば、キリストが生まれる前、紀元前7年の春には木星と金星が、夏と秋には魚座の中で木星と土星が度々大接近したそうです。この天体現象は794年に一度起こるそうです。星占いの人が気付いたのはこのことではないかと、言っておられます。
 
当時の殆ど全ての星占い師は、ローマ皇帝アウグストォスの支配が黄金時代に入り、彼がとうとう世界の支配者となった、と占いました。それでそれぞれお仕えしている王に「王様、ローマの皇帝アウグストォスと、もっと仲良くしてください。きっと将来のためになります」と進言していたでしょう。
ところが、彼らだけが、世界を支配する王がユダヤ人の王としてお生まれになった、と占いました。それでその事を王様に報告するのではなくて、「王様、ちょっと長い旅に出てまいります。それで他の星占いの学者を私たちの代わりに雇ってください」と言って、ユダヤの王のお城があるエルサレムに向かいました。約2000キロの長旅です。一日20キロで100日かかります。旅を終えて帰ったら、自分たちの仕事場は無くなっているでしょう。それでも旅立ちました。不思議ですねえー。
 
 皆さん、私達がこうして教会に来ているのも不思議ですねえー。私は牧師をしていますから、あちこちの教会で「あなたは、どのようにして教会に来るようになったのですか」と聞いてきました。一人ひとり違うますが、全員不思議な導きによって教会に来ていました。皆さんとこの星占いの学者は重なります。
 
 当時、ユダヤのお城にはヘロデと言う王がいました。実は、この人はユダヤ人ではなく、ローマ帝国からユダヤ地方の王としての地位を得た人でした。ですから、ユダヤ人の王として生まれた人ではありませんでした。ヘロデ王は自分の努力、世渡りの巧さ、運などでやっと手に入れた王の地位を、守るためにはどんなことでもする、という王でした。彼らはユダヤに着いてから、まずそんな王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と告げに行きました。どうしてヘロデの所に行ったのでしょうか?。大阪のおばちゃん方がこの話を聞いたら『そんなことヘロデ王さんに言うたら、きーわるしはるで、やめとき、やめとき』と言うでしょうね。「無礼者、王がわしじゃ」なんて叱られるかも知れません。しかし、不思義なんですねえー。ヘロデ王は不安を抱き、エルサレム中の人も同様であった。
 
 『人間を救い、神との関係を正しくしてくださる、キリスト、メシア、救い主がユダヤ人の王として生まれる、と言う事は聞いたことがある。聖書に書いてあることなぞ、言い伝えであってこの現実とは関係ない、自分とは関係ない、そんな事は起こらない』と、ヘロデは考えていました。実はエルサレムに住んでいる人々も「キリストの事は知っているが言い伝えであって、今の自分たちの生活にも、自分の人生にも関係ない」という考えでした。
 『しかし、沢山の給料をもらって心配いらない生活を捨てて、2000キロもの命がけの旅をして、この事をわしに告げに来た、と言う事は尋常ではない。もし本当なら、わしの身が危ない』と思ったヘロデの顔は、一瞬不安顔になりました。『いや、待てよ。相手はまだ幼子、今のうちに殺せばいいのだ』、と不安顔から大きな顔になり、キリスト抹殺計画を考えました。
 
 学者達はこれらのようすを見て、キリストは王にもエルサレムの住民にも歓迎されないのは何故なんだろうか?と思うとともに、自分はどうなのかと問われる思いにもなりました。キリストは世界の王ですが、私たち一人ひとりの人生や日々の生活と関わられる主人、私たちの心の王座にお迎えする王なのです。彼らがキリストの所に行くのに、黄金、乳香、没薬の入った宝の箱だけでは不足していました。謙る心が必要だったのです。彼らがそれに気付いた時に、事態に変化が起こりました。9節、東方で見た星が動き出したのです。そして、彼らを先導し幼子のいる場所の真上に止まりました。
 
 皆さん、信仰している私達も先の事は分かりません。しかし、謙ってキリストを人生の主人、心の王座にお迎えして、物事や人の背後に常にキリストを思い起こして謙るなら、神はその人を必ず導いて下さいます。学者達を先導した星の話は、私たちにもその事を約束しています。神は謙る者を導かれる時に喜びにあふれさせてくださいます。星が留まった家に母マリアと共におられる幼子を発見しました。詳しい事は書いていませんが、ちょっと不気味な姿の外国人達の突然の訪問ですから、驚いたでしょうし、歓迎されなかったことは確かです。献げものを携えて世界で最初のキリスト礼拝が彼らによって行われました。私達の今の礼拝と比べると礼拝環境は全く整っていません。しかし、礼拝に無くてはならない一つの事が整っていました。キリストの前での彼らの謙りでした。
 2022年の年、私達も物事と人の背後にキリストを認めて、謙る者とならせていただき、神に導かれてまいりましょう。祈りましょう。
祈り
天の父なる神様、み名をあがめます。過ぎました2021年の導きを思いお越し、心から感謝します。
 
謙って、あなたが遣わされたキリストを私の主人としてお迎えします。どうか新年の私の歩みを、星占いの学者たちのように、導いてください。
 
私達の飯塚教会の群れの大牧者として、キリストをお迎えします。教会の群れを守り、緑の牧場で養い、憩いの水際で安らわせ下さい。
 
私達は間もなくもう一つ年を重ねようとしています。自分の日を正しく数えることを教えて、知恵の心を得させて下さい。
 
病を負う者に癒しの御手を、死を前にする者にあなたが共におられる平安を、新しい命に希望をお与えください。
 
この年末年始、愛する者との挨拶、会話、お便り、全ての交わりを祝福して下さい。
主の御名によって祈ります。アーメン